Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第24章

前頁タイトル次頁
 その日、突然昼過ぎに帰ってきた夫の真二郎が、自宅に客を呼ぶと言い出した。急な来客は珍しいことではなく、いつも通り手伝いの潔子に買い出しを頼もうとしたところで、日々の窮屈な暮らしに辟易していた重美は、その日に限って自らが買い物に出かけることにした。
 夏の暑い日だった。
 自分で言いだしたことだったが、外に出てすぐさま後悔することになった。日傘を差しているものの、照りつける日差しは容赦なく襲いかかり、日光に晒されているわけでもないのに、産毛の先が炎に煽られて丸まっていくような錯覚を起こさせた。
 タクシーを使えばよかったのだろうが、乾いて土埃が舞う歩道を重美は歩きたかった。水路の底には、もともとあった泥がかねてからの高温によって干からび、ひび割れ、いずれ重美の肌にも襲って来るであろう、老いの現実をそこに見つけて目を逸らす。週に一度のエステもいずれ役に立たなくなるのだ。老いは確実に重美を醜く変え、その頃には過去の栄光を引きずり、命令することに慣れた傲慢な夫と、心の深淵に何か恐るべき怪物を住まわせた、とても理解できぬ息子――結婚しているかもしれない――が側にいるのだ。
 すでに決まってしまっているであろう未来を想像しても、暗澹としたものに囚われるだけだ。重美は脳裏から振り払うように、潤いが失われた大地を歩いていた。
 そこでふと気付く。
 歩道には誰の姿も見られない。重美が小さな頃はもっと歩道に子供や大人が溢れていた。通りに水を撒く大人、天井知らずの好奇心に取り憑かれた子供たちが、網を持って走り回っていたり、溝の奥を覗いてみたり、道路をキャンバスにみたてチョークを使って延々と絵を書き連ねていたのだ。小さな反乱軍のように溢れる子供たちを大人は見ぬ振りをしていながらも、歩道に車が入ってきたときには注意を促し、度を過ぎたいたずらを叱り、塀によじ登る子供たちを戒めた。
 そんな光景はもう見られなくなって久しい。子供は塾を遊び場にして、稽古に励む。家にいるときはゲームに夢中になり、外の世界にある小さな虫たちや、子供たちだけが知り得るはずの遊びから興味を失った。
 もっとも、重美がそういう幼少期を送ったとは言い難い。衣服をドロドロにして遊ぶ子供たちに混じることを両親が禁じたからだ。だが、窓から見ているだけで、重美は空想の世界で彼らと一緒に遊ぶことができた。例え、一緒に遊ぶことができなくても、同じ時間を共有できる、無限の想像力が子供にはあるのだ。
 いまはもう、失われてしまったが。
 時代が変わったのだ――。
 いや、自分が年を取ったのだ。
 重美はそう思いながら、結局からと共に遊ぶことなど皆無だった自分には、懐旧する資格などないことにため息をついた。
 淡々とショッピングセンターで必要な物を取りそろえ、夕方には全て自宅に届くよう手配をすると、未だ太陽が支配する世界へと戻った。もっと時間がかかるかと思っていたが、買い物はすぐに終わった。
 その日に限って重美は殺伐とした気持ちになる理由を突き止めることができた。家並みをみなければきっと分からなかったことだ。
 ここは人が少なすぎる。
 重美が移り住んできた頃は、もっと住民がいてショッピングセンターにも活気があった。大きな病院もあったし、娯楽施設も沢山あった。この地を開発した業者は、飽くなき誘致を行い、それに伴って都内から人が大量に移住してきたのだ。
 あれから数年――。
 たった、数年でまるでゴーストタウンになってしまった。
 住民は減り、売り家の看板が立ち並び、利益の上がらなくなった企業は撤退していく。重美がこの地に移り住むことに諸手をあげて賛成したわけではないが、生活するには穏やかな街で珍しく気に入っていた。今ではどうしてこんな廃れたところに住むことに了承したのか分からないほど、過去のにぎやかさは失われている。
 澄んでいたはずの清涼な空気が今は澱み、何かがこの街全体に重くのし掛かっているような気がした。すれ違う人達は視線を下の方へと向け、関わりを避けるように足早に家路を急ぐ。皆何かから逃げたいと思っているようだ。
 何を考えているのかしら……私。
 空は青くまばらに散る雲はいつも通り、公平に大地を照りつける太陽が地域によって変わるわけなどないのだ。だから不安に感じることなどなにもない。いろいろと心労がたたって、何を見ても重美の意識は、それらを暗示する確固たる証拠を探そうとして、ごく普通の景色にまで不審を抱いてしまうだけだ。
 疲れているのだろう。家に帰って一眠りすればいい。淡々と同じ生活することに、少しだけ逃避したかったのだ。他人からすると十分な生活を送っているのだから。
 心持ち気分をもどした重美は、家路に向かってあるいていた。銀杏並木がある歩道を通り過ぎ、薬局の角を曲がって、公園に入った。公園を通り抜けると遠回りになるのだが、あえて帰りはそこを通ることにしたのだ。
 この地に人々を誘致した業者が売り物にしていた公園であることが分かるよう、手入れされた木々は整然と並び、大きな人工池には数々の水鳥が飼われていた。白鳥は畏怖堂々と水面を泳ぎ、カモたちは水際で餌を頬張っている。
 穏やかな光景が広がる中、重美は先程感じた全ての不安が払拭されるような気持ちになっていた。ここに住むのも悪くないのかもしれない。太陽が照りつける中、気持ちよさそうに泳ぐ水鳥の姿を見るのは癒される。緑豊かな木々もささくれだった心を慰めてくれる。ただ、重美が知らなかっただけ。
 もう少し外出してあちこち見てもいいかもしれないわ……。
 くるくると日傘を回しながら、手すりに凭れて重美は人工池で繰り広げられる光景を眺めていた。
 すると突然背後から声が聞こえた。重美は怪訝な顔で振り返ったが、そこには木立があるだけで人の姿は見えない。気のせいだと思うことにして、水面に視線を移した重美だったが、またしばらくすると声が響く。
 やはり誰かが木立の向こうに広がるところにいるのだろう。
 恋人たちが語らうにはまだ時間が早い。子供たちが森の中で遊び回っているのだろうか。
 重美は何の気なしに振り返り、木立の奥へと脚を踏み入れた。低木が身体に触れ、行き先を邪魔するように茂っていた。それをなぎ払うようにして重美は声がする方向へ歩いた。
 小さな声だったものが、徐々にはっきりと聞こえてくる。数名いるのか、なにかを話し合っていた。その声の中に聞き覚えのあるものを耳にして、重美は驚いた。
「――同じ息をしている人間と思いたくないんだよね……」
 自分の息子である勝己の声だった。
 幹の太い木々のおかげで向こう側が見えない。が、声ははっきりと聞き取れる。自分の息子の声を聞き間違える親などいない。紛れもない勝己の声だ。ただ、あんな言葉遣いを誰に向かってぶつけているのか重美は気になった。
「こんなに苛められてまだ学校に来るっていうのが、鬱陶しいよね」
 ――別の少年の声だ。
「何か言ったらどうなんだよ。それとももっと小便をかけてやろうか?」
 また息子の声、その後を追うように呻き声のような懇願の声が響く。
 木々の幹が交互に立っていて、向こう側を窺い知ることができなかった。いや、もし、この場所から移動して向こうを覗いたら重美の存在に気付かれてしまうかもしれないのだ。勝己がなにをしているのか、会話だけで推し量れる状況を重美は想像したくない。誰かが苛められていることだけで充分、重美はショックを受けていたのだ。もっとも、想像するなと己自身に言い聞かせても、無駄だった。
 勝己の笑い声と数名の少年の笑いが聞こえてくる。
 母である重美が止めに入らなければならないのだ。子が間違ったことをすれば、親が子を諭さなければならない。分かっている、そんなことは。なのに、両脚が大地に絡め取られたように動かない。
 母である重美も勝己に対して恐れを抱いていたのだ。止めるなんてとてもできない。いや、ここで重美が彼らを見ていたことをあの勝己が知ったなら、どういった行動を起こすのか、考えただけでも背筋が凍る。
 何を考えているのか分からない勝己だ。ペットを可愛がるという気持ちすらない、人間が持ち合わせている愛おしむ気持ちや、同情心がない息子に、母である重美が何を言えるというのだ。
 世の母親が聞いたら軽蔑されるかもしれないが、重美は息子が怖い。陰で何をやっているのか知っても、口を閉ざすことしかできない母親だっているのだ。いくら注意したいと思いつつも、それを受け止める側が拒否するのが分かっている場合、どうすればいいのだ。しかも勝己の場合、あとで報復を受ける可能性があった。息子が母に報復するなど、他人には理解してもらえないことだろうが、一緒に暮らしている重美が一番よく分かっている。他人がどう思おうと、重美は立ち去ることを選んだ。
 耳にしたことも、そこで行われているであろう事実を忘れることにした。
 これは逃避ではない。
 己の身を守るための行為だ。
 だから、誰に責められることもない。
 いまこの場にいる重美は勝己の母ではなく、一人の人間だった。
 重美は後ろを振り向かず、ただひたすら公園から逃げ出すことだけを考えた。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP