「誘う―IZANAU―」 第26章
目の前が一瞬暗闇に包まれたかと思えば、すぐさま視力は回復した。青年は重美に未来を見せてくれると言ったが、特に何かが変わったわけではなく、いつものリビングが目の前に広がっているだけだ。けれどよく見ると使用人が掃除を怠ったのか、ソファーや床にうっすらと埃が被っていて、部屋も薄暗い。
「ここは……なに?」
間違いなく自分の家なのだが、だらしなく薄汚れている床に壁紙、しっかり閉じられたカーテンに、違和感があった。
「お前の未来だ」
青年はひっそりと窓際に立ち、静かに言う。
「分かったわ。これはマジックね?」
重美は青年の陳腐な芸当に、笑った。けれど青年の表情はピクリとも動かない。まるで感情のない人形に話しかけているようだ。
「後ろを見ろ」
青年の言葉に重美は振り返った。
「ひっ!」
今まで自分が座っていた場所に、老婆と思われる女性が座っていた。老婆はブツブツと聞き取れない言葉を呟いている。深く刻まれた無数の皺、生気のない瞳、ぼさぼさの白髪は、幽鬼と見まがう。どうして自分のうちに見ず知らずの人がいるのか。
「貴方……一体誰なの?」
重美は後退りつつ、それでも老婆から目が離せない。
「お前の未来だ」
青年はあっさりと言った。
「え?」
「長年にわたって蓄積された深い心労が精神を追い詰めた。そこにいるお前の理性は失われている。死ぬまでこの状態で居続けるだろう」
青年の言葉に重美は老婆を見つめた。けれど、どう考えても自分とは思えない。いや、こういう姿になりたくないから、重美は日々エステに通い、若さを保とうとしている。もちろん避けられない老いが重美を憂鬱にさせ、鏡を見るのも嫌になる日がいずれ訪れるに違いない。けれど、これほど醜い老婆になるわけなどない。重美はもっと上品な老人になるのだ。本当の年齢を人に話しても、誰も信じてくれず、年齢より若く見られることで自らのプライドを保てる未来があるはずだ。
「私?いいえ、私はここにいるわ。そう、分かった。これは幻影なのよ。きっと貴方が私に催眠術でもかけたのでしょう?貴方の目的はなに?」
「認めたくないか?未来のお前が何を見つめているのか、分からないのか?」
重美は老婆が視線を向けている方へ顔を向けた。老婆が見ているのは部屋の壁に掛けられた大型のテレビだ。テレビ画面はニュースが映し出されていて、キャスターが真剣な表情で何かを話している。老婆はそれを虚ろな瞳に映していた。
「テレビがなんだと言う……」
画面には警察に連行される男性の姿が映っていた。リプレイと画面に出ているために、過去の映像なのだろう。よく見ると連行されている男の顔が、夫である真二郎の若い頃そっくりだった。重美は頭が混乱してきた。夫が警察に連行されているのだ。いや、それにしては若すぎる。真二郎によく似た男なのかもしれない。
「……夫に似ているけれど……違うわ」
「そう、違う。あれはお前の息子だ」
「何を……言っているの?」
「未来を見せてやると話しただろう?お前の息子は十年後、児童連続殺人犯として逮捕されるのだ。お前は夫に捨てられ、親戚から縁を切られ、世間から疎まれる存在となる。安らぎは得られず、中傷と非難がお前に向けられるだろう。それが勝己を産み落とし、彼の残虐性に気付きながらも放置した、母親に課せられた罪だ。それはお前を苦しめ、精神をも狂わせ、最期は孤独に、死ぬ」
青年はただ、淡々と告げた。 これが未来なの?
私の?
「被疑者は小さな頃、小動物を殺していたのを目撃されていたこともあり、また同級生の苛め、自殺に追い込んだのではないかという疑いも過去に持たれていました。それが事実であれば、どうしてこんなことになる前に、家族が気付かなかったのか。もし、両親が息子の異常さに気付いていれば、この事件は未然に防げたのではないのでしょうか」
キャスターはマイクを持ちながら、勝己の起こした事件について語っていた。そう、真二郎は知らないが、重美は気付いていた。腹を痛めて産んだ子が一体どういう本性を持っているのか。けれど何も言い出せない、息子を問いつめることもできない。けれど、望んでこういう子を産んだわけではないのだ。残虐性を持って生まれてしまった子供を、どうしても矯正できなかった歪んだ性格の責任を、ただ自分が産んでしまったと言うだけで、母である重美が負わなければならないのか。
普通の子供が欲しかった。赤ん坊の試用期間というものがあって、取り替えができるのなら、重美は間違いなくそうしていただろう。けれど、現実では、こんな子供が欲しいと願っても、選ぶことはできない。
「……違うわ。あの子は、こんなことをする子じゃない……」
心の中でどう勝己のことを思っていようと、肯定することなどできない。肯定したところで、重美には何もできないのだから。
「そうやってお前は長年否定してきた。その結果が、これだ。お前には行動を起こす、チャンスが何度もあった。けれど事実から目をそらすことで、お前は何年もの間、母としての責任を放棄し、逃げていたのだ。こういう未来が訪れるのも仕方あるまい」
背筋まで凍えそうな声が響き渡る。
「いいえっ!これは貴方が作り出した幻影よっ!何が未来なの?私に催眠術をかけたのね。どういうつもりなの?」
重美がようやくテレビから顔を背け、青年に向かって怒鳴りつけた。けれど青年は薄ら笑いを浮かべていた。
「紛れもない事実をどれほど見せつけても、やはりお前は永遠に逃げることを選ぶのだな」
「貴方は……何が目的でこんなくだらないショーを私に見せているの?」
「情けから私は未来を見せた。それだけだ」
また冷えた表情に戻った青年だったが、瞳の奥には哀れみが浮かんでいた。
「……情け?ただの嫌がらせでしょう?」
「遠い未来が信じられないのなら、近い未来を見せてやろう。その後、お前がどうするのか、これが最後のチャンスだと思え」
青年が片手を上げると、薄暗い部屋が一気に明るくなる。薄汚れていたカーテンも、床に積もった埃も、そして老婆も消えた。青年は近い未来と言ったが、これは催眠術を解いただけなのだ。だからいつものリビングが目の前に広がっている。
いきなり部屋のドアが開いて、真二郎は腹立たしげに入ってきた。
「重美……玄関から呼んでいたのに、どうして来ないんだ」
「貴方……。い、今……この部屋に妙な青年が……」
重美が駆け寄ると、今までそこにいたはずの真二郎の姿が消えていた。
「これは……どういうことなの?今、確かに夫が……」
重美は窓際を振り返ったが、今度はそこに立っていたはずの青年の姿が、痕跡もなく消えていた。呆然としていると、背後から部屋のドアの開く音が聞こえた。
「重美……玄関から呼んでいたのに、どうして来ないんだ」
「貴方……。い、今……この部屋に妙な青年が……」
「青年?」
真二郎は怪訝な顔で窓際に立つ重美を見つめた。
「……っ!」
青年の言った近い未来をようやく理解した重美は、恐怖のあまり声を失った。