「誘う―IZANAU―」 第29章
勝己は部屋の隅に身体を押しつけ逃げ惑っている。太ももから大量の血が流れ落ちているが、彼の目は重美にまっすぐ向けられていた。
相変わらず勝己は「ママ、やめてよ。ねえ、ママ」と呟いている。
何がママだ。お前の尻ぬぐいをするために私は子どもを産んだわけじゃない。同級生を自殺にまで追い込むほどいじめるような、子どもを望んだわけじゃない。しかも将来犯罪者になる未来しかないお前に、ママと呼ばれるいわれはないのだ。
勝己には平凡でいい、素直で、人に優しくできる子に育って欲しかった。それに反して、人に易々と騙されるようなお人好しにはなってほしくなかった。このあたりは複雑だが、子どもを持った母親はみなそう考えるはず。
特別にこうあってほしいと願ったことなどない。
なのに、我が子の心はすでに修正がきかないくらい、歪んでいた。いまから勝己を正しく育てようとしたところで、無駄だ。幼い頃からすでに密かに自らの残虐性を満足させてきたのだから。
確かに重美はそれに目を瞑ってきた。現実を直視せず、無邪気な子どもの悪ふざけだと思い込もうとした。そんな無責任さの代償を支払う日が訪れたのだ。
やはり殺すしかない――。
重美は再びポケットに突っ込んだ弾丸を手にして、猟銃に弾を込めた。次は失敗するわけにはいかない。
勝己は恐怖からか、失禁してズボンを濡らしていた。火薬の臭いに混じり、ツンと鼻を刺激するアンモニア臭に、重美は思わず微笑する。
怖がるといいい。もっと。
お前の母親がどれほど心を砕いてお前を育ててきたのか、知るがいい。これが我が子に与える最後の愛情だ。
「ママ……助けて……死にたくない……」
お前がいじめ抜いて殺した同級生も、そう言わなかったのだろうか。勝己に懇願し、やめてと頼んだはず。勝己はいじめることをやめなかった。だから同級生は自殺したのだ。
「勝己、お友達のこと、後悔しているの?」
「……え。ママ、何を言ってるの?」
勝己の返事に重美は落胆した。
息子は何も学ばない。この生死が分かれる状況にあっても、自分は助かりたくとも、奪った命のことは息子の心のどこにも存在しないのだ。
「分からなくて当然ね」
重美は息子の顔を打ち抜いた。
真二郎の絶叫がどこからか聞こえてきたが、どうでもよかった。
勝己だった物体は、顔の下半分だけを残した身体となった。それは血の跡を壁に残しながら、ゆっくりと床に崩れ落ちた。周囲には血や灰色の脳の残骸が散らばっている。天才だといわれた勝己だが、こうやって頭の中をみれば、他の誰とも違わない。なのに造りは他の誰とも違ったようだ。
「お前は……息子を……殺したんだ。私の自慢の息子……私の可愛い息子を……!」
真二郎は撃たれた箇所を押さえながら絶叫していた。
彼もいずれ重美に感謝する日がくるはずだ。
「お前と結婚した私が馬鹿だった……私はお前に惚れたから……あんなことにも手を貸したというのに……」
「……あんなこと……」
重美はどちらとも分からない返り血で衣服を茶色に染めたまま、窓際に立っている青年のほうへ、視線を向けた。
青年は笑っていた。
けれど、先ほど見せたような慈愛あるものではなく、恐ろしく冷たい微笑みだった。
重美は一瞬、心の端っこで、もしかして自分は何か間違ったことをしたのだろうかという疑問を抱いた。
青年は口を開かずに、言った。
あれは私のせいじゃない――。
その言葉は重美の脳に直接響いてきた。どういうわけか、重美自身の声で。
あれは私のせいじゃない――。
それを口にしたのはいつのことだったのだろう。遠い昔のことだ。遠い、遠い昔。みんなで旅行に行ったときのことだ。友達と。旅行先を決めたのは重美だ。どうしてもそこへ行きたかった。行くしかなかった。
そうしなければならない理由があったから。
あ・れ・は・わ・た・し・の・せ・い・じゃ・な・い。
「嘘……嘘よ。あなた、何を言ってるの? 何のことか分からないわ」
青年は、微笑をやめた。
ただ、じっと。重美の目を射貫くように見つめてくる。
恐ろしい時間だった。まるで心の奥底まで見透かされているような、そんな視線。彼は重美の過去も現在も未来もすべて知っているのだ。
勝己の未来を見たのだから、重美にも同じことができるはず。なぜそれに気づかなかったのだろうか。
「……いいえ。いいえ。違う……」
重美は窓の側から離れるように、後退した。けれど目は青年と合ったまま、逸らすことができなかった。
怖い。
怖い。
怖い――。
真二郎とはある意味共犯だ。いや、そういしてしまったのは重美自身だ。愛情を利用した。愛情なんてあるとは思っていなかったが、彼は確かに重美を助けてくれた。けれどそれはほんの些細なこと。助けというほどのことではなかった。道ばたで転んだ老人に、手をさしのべる程度のもの。
真二郎がこの状況で引き合いに出すような、そんなことではない。
ただ、結果がそうではなかっただけだが。
「ねえ、あなた。あのときのことだけれど……」
ようやく青年の視線から逃れて振り返り、重美は真二郎へ尋ねた。
彼はうつろな目で浅い息を繰り返し、とても重美と話せる状態ではなかった。彼の目は急速に生命の輝きを失って、肌は白くなっていく。
見ただけでとても話せないことくらい分かるはずだが、重美はそうではなかった。彼から返事がないことに苛立ち、虐げられているような気分になる。
「ねえ、あなたって!」
重美は声を荒げるようにして呼んだ。
真二郎は、ゴボッと喉を鳴らして、口から血を吐いたが、言葉はなかった。重美の感情はますます高ぶっていく。
彼には説明責任がある。あれを思い出させたのだから理由が必要だ。
いや、重美はあのことを考えたことがあっただろうか。もう一度、何が悪かったのか、検証したことがあったのか。
全てを過去のものだと封印した。みなばらばらになった。なのにまた一つの場所に集まっていた。いつの間にか。何かに導かれるように。私達は導かれたのだろうか。ここに。この場所に。
一体、どうして――?
「きゃああああ……奥様……奥様……っ!」
買い物から帰ってきたお手伝いが、リビングでの惨状を目にして、声を上げた。うるさい金切り声だ。いまは静かに考えたいのに、どうして神経を逆なでするような奴らばかりなのだろう。
「黙りなさい!」
重美は、今年二十歳になったばかりのお手伝いの女の心臓をめがけて撃った。パチンコ玉のような弾丸がいっせいに彼女の胸に突き刺さる。彼女はくぐもった悲鳴を上げて、崩れ落ちた。
とりたてて美人でもない。目も小さく、鼻は低い。胸だって小さいし、身長も低い。けれど、重美のもたない張りのあるすべすべの肌をしている。皺もたるみもない、若い伸びやかな身体。
彼女は真二郎の愛人だ。
重美は窓に向き直り、青年の姿を探したが、彼はもういなかった。まるで空気に解けるかのように姿を消していた。
重美は落胆した。
彼に褒めてもらえるのだとばかり思っていたからだ。
これで、重美の役目は終わった。
問題の息子はこの世から抹殺した。もう誰も彼に傷つけられることもない。子どもを失った親が泣くこともない。原因を排除したからだ。
真二郎もおそらく助からないだろう。が、よかった。
重美は実家に帰ることができる。
あの優しい両親の待つ、何も心配をすることのない、あの暖かな場所へ戻るのだ。
不意に客の訪れるベルが鳴った。
その甲高い音に、重美は我に返った。
私……何をしているの――?
リビングはまさしく血の海だった。
息子の勝己は顔の半分を失って無残な姿をさらしている。真二郎はまだ息があったが、吹き出る血に、重美は駆け寄ることも恐ろしく、できなかった。彼の愛人は、買い物袋を持ったまま、目を見開いた表情で倒れ、周囲を血に染めていた。まるで血の中に浮かんでいるようにも見える。
「ねえ……何があったの?」
誰の返事もない。
手にぬるりとした感触を感じ、視線を下ろす。自分の手には猟銃が握られていた。こんなものをどうして手にしているのだろう。
重美は猟銃から手を離し、ソファに放り投げた。
手が血でぬるぬるする。服が血で染まっている。ありえない。非現実的だ。そうなのだ。重美は夢を見ているのだと思った。
これは全て夢なのだと。
「目覚めて……早く……」
重美は何度も目を固く閉じては、開いた。それを繰り返した。
「これは夢。これは夢。これは夢でなくてはならないの」
重美は必死にそう言い続けた。言い続けることで願いが叶うのだと、信じるしかなかったのだ。
「これは……夢……」
確かめるたびに床は血に染まっていく。鼻を覆いたくなるような臭いも漂い始めて、重美は口元を覆って、三人が倒れている中心で立ち尽くしていた。逃げ場がない。いや、どこへ逃げたらいいのだ。
ここが我が家。ここが逃げ場だ。
「誰か……夢だって……言って……」
遠くからパトカーの音が聞こえてくる。
重美はようやく悟った。
これは現実なのだと――。