「誘う―IZANAU―」 第6章
「そろそろ出た方がいいんじゃないか?」
田所は交番事務所にある時計を見て尚貴に言った。
「あ……そうですね。でもこれだけ書いてから……」
尚貴は、事務所の机に猫背になりながら巡回日誌を書いていた。これさえ無ければな……と尚貴は思った。
巡回日誌や報告書は、とにかく制約が多く、時間がかかる。交番勤めの警官は、これに一日費やしていると言っても過言ではない。笑えない話だが、昭和から平成に代わった年など、平成元年が正式であるため、間違って平成一年と書いた巡査の報告書を受け付けてもらえなかったそうである。
警官も所詮制約だらけの公務員なのだ。
「年に2回の訪問調査よりましだろう」
田所は慰めにならない事を言って笑った。
「思い出させないで下さいよ。あれが一番嫌なんですから」
交番や派出所には鍵のかかるキャビネットがあり、管轄住民の家族構成、住所、氏名、年齢やその職業、犯罪歴、補導歴など細部に及び網羅されている。その作成に対して補足、追加するために年二回、各家庭に訪問調査に出かけるのであった。尚貴は、それがどうにも好きになれなかった。ある時は訪問販売に間違われ、ある時は庭に放し飼いにされていた大型犬にかまれそうになり、その上、やっと戸口を開いてくれた住民の中には、プライバシーの侵害だ!などと叫ぶ人もいた。
そういう人に限って、いざ犯罪に巻き込まれる様な事になれば、警察さまさまなんだよな……尚貴はそう思った。
そこへパトカーのサイレンの音と共に、キィィと車の止まる音がした。
尚貴と田所は一瞬緊張して交番から飛び出したが、覆面パトカーから降りてきたのは西脇であった。
「良かった。間に合いましたね。鳥島さんが出かける前に捕まえようと、県警から飛ばしてきたんですよ」
「それだけの為に、まさか……サイレンを鳴らしてきたんですか?」
尚貴は言った。
半ばあっけにとられている二人を見て西脇は当然だというように言った。
「市内が込んでましてね。仕方なかったんですよ」
「はあ……そうなんですか……」
田所はとりあえずそう言った。
「田所さん。こちら県警の西脇刑事です」
尚貴はそう言って西脇を紹介した。
「初めてお目にかかります。名塩警部と、コンビを組んでおります西脇です。この度は、御無理を言いまして申し訳ございませんでした。警部もそう言って宜しくと申しておりました」
そういうと西脇は軽く頭を下げた。
「いえそんな……鳥島の方が、邪魔をしていなければいいのですが……何分、まだ新米ですので……」
田所は自分よりも年下である西脇に、恐縮するように言った。
「いえそんな事は……」
と言って、西脇は時計を見た。
「済みません。ゆっくりお話をしたいのですが、時間の方がちょっと……」
西脇が急いでいる様子を素早く察知して、田所は尚貴に言った。
「さあ、鳥島君。せっかく迎えにきて下さったのだから、早くしないと……」
「あっ、はい」
尚貴は急いで交番に戻り、例の電話の録音テープと田中裕喜のノートを持って表に出た。
「じゃ、助手席に乗って下さい」
そう言った西脇は、既に運転席に座って、左手で助手席の戸を開けていた。
「田所さん。済みませんが、後、宜しくお願いします」
そう言いながら尚貴は車に乗り込んだ。
車が発進すると同時にけたたましくサイレンが鳴り、尚貴は別に犯罪を犯した訳でもないのに、連行される犯人のような居心地悪さを感じた。
「サイレン……気になりますか?」
西脇は、少し愉快そうに言った。
「いえ……そういう訳じゃないのですか……これが昼間で、自分が制服を着ていなかったら、外から見ると、犯罪者に見えるんじゃないかと思いまして……」
尚貴はそういうと、少し緊張した笑みを見せた。
前を走る乗用車はサイレンの音を聞くと、綺麗に分かれて道を譲る。それらの車は必ずと言っていい程、覆面車の中を覗き込んでいるのかスピードを落とす。
「鳥島さんが私服で乗っていたら犯罪者と言うより、補導された少年に見えるでしょうね」
「そうでしょうか、自分はそんなに子供っぽく見えますか?」
尚貴は、バックミラーで自分の顔を見ながら頬を撫でた。
警官というのは大抵一年の警察学校と九ヶ月の研修生活で、どんなに頼りなさそうに見える人間でも、学校での厳しいカリキュラムの所為で、それなりに引き締まった顔つきになるらしい。尚貴の同期達もそれに違わず、皆、精悍な顔つきになった。それが尚貴だけは卒業まで、子供っぽくあどけない雰囲気が抜けず、それが教官の目に付くのか「なよなよするな!」と言われたり「しゃきっとしろ!」と怒鳴られることもしばしばあった。
尚貴自身は、一生懸命授業も受けた。余り得意ではない柔道もがんばっていたつもりであったが、尚貴の持つその雰囲気の所為で損をすることが多々あった。しかし、教官によっては、尚貴ががんばっているのを見て、可愛がってくれた人もいたことは確かだ。同期には、そんな尚貴が弟のように思えるのか、同い年にもかかわらず妙に可愛がられた。
尚貴は急に我に返り、電話の件を話さなければならない事を思い出した。どうしてか西脇と話をすると、ほのぼのしてしまうのだ。だが話の内容を切り替えるきっかけを見つけられなかった。
「自分はどうしてか、年齢相応に人から見られないので、これでも悩んでいるんです」
「心配しなくても経験を積めば、嫌でも警官らしい顔つきになりますよ」
「なら、いいんですが……」
次に答えた尚貴の言葉に感情は無く、機械的に響いた。
西脇は、そんな尚貴を横目でちらりと見た。
尚貴は相変わらず前の車が道を譲るのを、怒ったような表情で見つめていた。どう話を切り替えるかまだ考えているのだ。だが、せっかく和やかに話をしているこのムードを壊したくもなかった。着いてからでもいいかと思いながら、早く言いたくて仕方ないという気持ちもあったのだ。
尚貴は、ちらりと西脇に目線を向けた。それに気付いた西脇は、尚貴に言った。
「ところで、大綱ビルの社長が自殺したのですが、聞きましたか?」
「あっ、はい」
西脇が話題を変えたので尚貴は驚いたが、助かったという気持ちの方が強かった。
「詳しいことは後で警部と合流してから話しますが、鳥島さんは今後、例の自殺した田中裕喜君をいじめていた4人の身辺に注意して下さい」
そう言った西脇の声は真剣であった。
「えっ、あ……それは……どういう事ですか?誰かが裕喜君の敵を取ろうとしているのですか?」
大綱ビルの社長の自殺のことを話していたのに、今度は田中裕喜の話に変わったので、尚貴は戸惑いを隠せなかった。
「誰かが危害を加えようとして、脅迫状を送ってきたり、挙動不審の人間が、家までつけてきたりすれば、警察側も対処のしようがあります。しかしそんなことは一切無く、危険であるという以外漠然としていて、それを証明するのは困難なのです」
西脇は困惑した様子で言った。
「あの……自分は理解力がありませんのでお聞きしたいのですが……大綱ビルの社長と田中裕喜君をいじめていた4人組がどう関係してくるのでしょうか?」
それに対する西脇の答えは予想できないものであった。
「そのいじめていた4人も、いずれ全員、自殺するでしょう」
「!」
2人を乗せた車は、警察署に到着した。
尚貴は西脇がいつの間にかサイレンを止めていた事に気付かなかった。更に、西脇が降りるように声をかけるまで、到着したことすら分からなかったのである。
「びっくりしたようですね。ですが、これからお話しすることはもっと信じられないと思います。でも、そういう事だ。だからそれに対してどう対策をたてるのか……と、納得してもらうしかどうしようもないことです」
西脇が何となく悲しそうに笑うのを見て、尚貴は不安に駆られた。まるで結果が分かっているのに手の打ちようが無く、それでも何とかくい止めなければいけない……それも失敗に終わると分かっていても……そんなニュアンスが西脇の笑いにあった。
西脇は、車の後ろの席から分厚く膨れたA3封筒を五つかかえると、車から降りた。
「西脇さん。自分にも荷物を持たせて下さい。それじゃあ前が見えずに転んでしまいます」
五つもの封筒をかかえた西脇は既に上半身、顔や頭が見えず、かろうじて封筒の隙間から尚貴の心配そうな顔を見ると嬉しそうに言った。
「ありがとうございます。助かりますよ。じゃ二つ程持って頂けますか?鳥島さんも何かお持ちのようですし……」
尚貴は封筒を二つと西脇が言っていたのを無視し、サッと三つ取ると、自分の荷物と共に、二つずつ小脇に抱えた。
「済みません。三つも持って頂いて……ところで鳥島さんは、何をお持ちになったのですか?」
西脇は興味深げに、尚貴が持ってきた封筒を眺めた。
「あの……例の男から電話があったんです。逆探知には失敗しましたが、録音は出来ましたのでテープを持ってきました。それと、自殺した田中裕喜君の日記のようなものに、例の男を指している様な箇所がありましたので、そのノートも裕喜君の母親から借りてきました」
やっと、その事が言えたので尚貴はホッとした。
「ええっ!本当ですか?すごい収穫じゃないですか」
西脇は嬉しそうに言ったが、何かに気付いたのか、急に眉間にしわが寄った。
「まさか……また、誰かが……」
西脇はその電話が、またもや自殺した人間のことを知らせる内容だと思ったのであった。
「ち……違います。お聞きになれば分かっていただけるかと思いますが、相手の男は退屈しのぎにかけてきたようでした」
そう言った尚貴の顔がどことなく不機嫌であったので、西脇は気になったが、きっと例の男が不愉快なことを言ったのだろうと納得した。
「そうですか。良かった」
ホオッと息をついた西脇は、本当に安堵しているように尚貴には見えた。
(でも、おやじさんと同じようにあのテープを聴けば、誤解するんだろうな……)
尚貴はそう考えると気が重くなった。