「誘う―IZANAU―」 第4章
それから三十分程雑談し、尚貴は裕喜の死の前日までのノートを借り受けると礼を述べ、裕喜の家を後にしようとした。すると玄関の外が騒がしい事に気付いた。
(まだ報道陣がウロウロしているのか……全くしつこい連中だ)
尚貴は腹立ちを隠せない様子でドアを開けた。佳子は怯えた様子でそんな尚貴を窺っている。
「あんた達!いい加減にしないと、騒音妨害も加えて本当に連行しますよ!」
尚貴がそう言ったと同時に目に入ったのは、報道陣が別のカモに群がっている姿だった。
「お子さんが同級生を死に追いやった事についてどう考えておられるんですか?」
「どういう責任を取るつもりですか?」
「それはこれからこちらのご両親と相談いたしまして……」
「子供さんがそういういじめをしていたことには気付かなかったのですか?」
「全く、存じませんでした」
「知らなかったと言って済むことではないですよね」
報道陣が、四十代後半に見える男性に向かって、口々に好き勝手なことをまくしたてている。佳子は、先程まで柱の陰で隠れるように様子を見ていたのだが、その男性を見つけると、急に家の奥に走り去って行った。
尚貴は突然の来訪者が報道陣の質問で、裕喜をいじめていた子供のうちの誰かの父親だと気付いた。心のどこかでいい気味だと思いながら、とにかくこの蜂の巣をつついたような現状を何とかしなければならないと、その群に割って入ろうとした……が。
「やめなさ……」
尚貴がそう言ったと同時に、冷たい水が尚貴の頬をかすめた。
「鳥島さん、もう少し脇によけて下さい!でないと水がかかりますよ!」
「えっ?」
そう言って振り向いた尚貴が見たものは、佳子が台所から引いてきたホースをもって戸口に立っている姿であった。
佳子はホースの口を指で平らに押さえ、そこからは勢いよく水がでていた。その水の行方は迷わず報道陣と、その訪ねてきた男性を直撃した。
尚貴はその光景を見てどう納めていいのか、困った。
「ちょっと!何するんですか!」
報道陣の一人が叫ぶ。
「この人殺し!今更、何を言おうとあの子は帰ってこないわ!あんたの息子が裕喜に何をしたのか分かってるの!どの面提げてここに来たのよ」
佳子は報道陣など眼中になく、ただ目の前にいる男性に向かってさらに水を浴びせかける。その男性といえば佳子を確認すると、頭 を垂れたまま地面に土下座をした。報道陣の一団はその光景にあっけにとられ、言葉を失った様に後ずさった。しかしその中で、伶香だけがカメラで写真を撮っている。それを見た尚貴は、そのカメラを取り上げ、フイルムを引き出した。
「やめて!」
「いい加減にしろ!」
とにかく腹が立って仕方がなかった。握りしめた拳は小刻みに震えている。どうしてこんな状況をカメラに撮ることが出来るのかが尚貴には理解ができないのだ。これは良識のある人としての行為とは到底思えない。
「報道陣は帰って下さい。これ以上の忠告はもうしません。ですがまだここで騒ぐのでしたら、所轄からパトカーを呼んで連行します。いいですか、脅しじゃありません。本気です」
尚貴の言葉は穏やかではあったが、その目は怒りを押し殺すことなく、報道陣に向けて真っ直ぐ向けられていた。それを見た報道陣は、ようやく1人、また1人と帰って行く。しかしフイルムを取られた伶香だけは、バックから自分の名刺を差しだしてこう言った。
「大東新聞社の芹町伶香よ。フイルムは後で弁償していただくわ。連絡をちょうだい」
凛とした伶香の声は、それが当然だという様な響きを持っている。しかし、尚貴がいつまで経っても伶香の差し出した名刺を取ろうとしないので、勝手に尚貴の胸のポケットに突っ込むと、何事もなかった様に去っていった。
気の強そうな女……そう考えているのもつかの間、すすり泣きが聞こえてきた。佳子は、戸口に座り込んで泣いていたのだ。その手から離れたホースは所在無げに、くるくると、水をまき散らしながらのたうち廻っている。目の前にいる訪問者の男性も当然ずぶぬれになり、しかもまだうずくまっていた。
この状況に困り果てた尚貴は気を取り戻そうと、ぐるっと空を仰いだ。その空の蒼さは、雲一つない久しぶりの快晴だった。
県警に戻った西脇は、上司に簡単に状況を報告し資料室に向かった。
資料室にはコンピュータが五台並んでおり警視庁のホストコンピュータに繋がっているのだ。それらは全国の警察署から、事件や犯罪の情報を探索出来るようになっていた。
新聞情報も専門のデータバンクとリンクし、事件の調書と関連する新聞情報も同時に探索できる様になっていた。現在はICPO(国際刑事警察機構)にもホストの方は繋がるようになっており、国際犯罪の情報も探索できるようになった。
「さて、ちょっとがんばってみましょうか」
西脇は腕まくりすると、キーをたたき、探索項目を埋めていく作業に入った。
項目は、日にちの指定もしくは期間、年齢、性別、事件発生場所、管轄別、事件の種類(窃盗・傷害・殺人他)など細かく分かれ(各重複可)、その項目ごとに指定したり、番号で選んでリターンするとそれに適合する情報が探索され画面に出る。それをさらに分類したり、より分けたりすることで、望みの資料が出来る。
「年齢対象は二十歳以下、性別はブランクですね。事件発生場所・管轄別ブランク、事件の種類は自殺」
西脇はとりあえずそれで探索したが、膨大な件数が出た。日付の指定をブランクにしている所為である。
西脇は数を減らす為に更に項目を追加した。自殺だが協力者がいる(可能性が有る)がその人物の特定は出来ず・大量の出血・現場検証で説明できない事が多数有る。この3つの条件を一つでもクリアーするものを、自殺者の資料から探索した。
探索結果 14件
1982年※1件
1983年 0件
1984年 2件
1985年 0件
1986年 0件
1987年 0件
1988年 1件
1989年 1件
1990年 1件
1991年 2件
1992年 0件
1993年 1件
1994年 1件
1995年 0件
1996年 2件
1997年 2件
「1982年、ということは十六年前からこういう事件が起こっていると言うことですか」
次に、その事件の調査書内容と関連する当時の新聞の情報も併せてプリントアウトすることにした。
「これに全て目を通す作業も、結構大変でしょうね」
そういうと西脇は、プリンターから吐き出され、見る見るうちに積まれていく用紙を見て一人苦笑する。
「あれ」
西脇はリストの中の一番最初のものには米印が付いているのに気付いた。
「どうしてだろう」
不審に思いプリントアウトされた一番下の書類を何枚か、西脇は手に取った。
※松岡町キャンプ場テント炎上事件(福井県)
発生期日 1982年 10月20日
発生時間 20:00頃
発生現場 松岡町キャンプ場
担当管轄 松岡署
10月20日松岡町キャンプ場にてテントが炎上するという事件が発生。その火を巡回中の警官(河原 明巡査)が発見し駆けつけ、既に消火活動をしていた一般市民と協力して炎の鎮火に努めた。すぐ横に隣接するテントには、火の粉がかなり飛んでいたにも関わらず、不思議に飛び火せず無事であったが、何が燃えているのか、火はなかなかその勢いを弱めることなく発見より四時間かかってやっと鎮火するという事件が起こった。
火の発生元のテントにいた男性二人(浦田義雄二十歳・多田雅夫十九歳)はすぐに救出されたが重度の火傷を負い近くの病院にすぐ運ばれた。しかし消火作業中、その炎の中に、全身打撲による内臓破裂と出血多量で意識不明で倒れている少年を発見。信じられないことだが炎の中にいたにも係わらず、火傷は一切負っていなかった。すぐさま近くの病院で緊急手術と輸血をおこなった。
少年が手術の間、身元が調べられ、埼玉県蕨市に住む光井良太君6歳と判明。光井一家は自家用車で福井に旅行に来ており、キャンプ場でテントが炎上した日に、そこから三キロ離れた165号線で事故を起こしていた。それにより光井康夫(三十二歳)妻、京子(三十歳)いずれも死亡していた事が分かった。
そちらの事故(永平寺署管轄)は光井康夫の運転ミスによる事故死として処理をされていたが、一緒に自動車に乗っていた少年が行方不明で捜査中であった。(事故前、山に山菜を取りに来ていた地元の人間が、三人仲良く車から降りて景色を眺めているのを、目撃している)その少年が、どうして一人だけ三キロも離れたキャンプ場で発見されたのかが問題になった。医師は光井良太君がこのような怪我を負って、この車の事故現場から三キロも歩く事は不可能だと断言。しかし捜査の結果、交通事故現場から百メートル下の川岸に少年の血痕を発見、そこからキャンプ場迄、足跡らしきものが見つかり(血痕もやはり見つかっている)それらは少年の血液型、靴跡と一致した。
数々の不明な点を明らかにするため、少年の回復を祈ったが、手術の最中に息を引き取った。後は浦田義雄、多田雅夫に事情聴取をするしか無かったが、多田雅夫は、広範囲の火傷でショック状態に陥っており、比較的軽い火傷を負った浦田義雄の方は、記憶の混乱を起こしているのか口々に「幽霊がでた」だの「殺される」だの意味不明の言葉を繰り返し、彼からの事情聴取が出来る様になったのはそれから三週間後であった。
以下は聴取内容(福井総合病院)
「何を燃やせばあんな火事になるんだね?」
「幽霊が出たんだ。そいつが火を……」
「幽霊が火事を起こしたなんて、いい加減なことを言うんじゃない!」
「本当なんだ!信じてくれよ!」
「質問を変えよう。君たちのテントにいた少年。光井良太君と言うんだが、知ってるか?」
無言。
「少年の乗った乗用車は、そのキャンプ場から三キロ離れた所で事故を起こしていてね、両親は死亡しているんだが、本当ならそこにいるはずの少年がどうして君らのテントにいたんだね?」
「そいつが幽霊なんだ!本当だよ刑事さん。あいつが……」
「君らのテントから、少年の父親のカードや名刺の入った財布が見つかっているんだが、それはどうしてなんだろうね?」
「それは……」
「なぁ、君らはキャンプ場をあちこちで荒らし回っている常習犯なのは、こちらも分かっているんだがね」
無言
「こういう事だろう。君らはキャンプ場に向かう途中、光井一家の自動車事故を目撃した。最初は少しばかりの良心で様子を見に行ったが、一家が死亡している事が分かった。そうなれば助けようもない。まあ、生きていたとしてもお前らが通報するとは思えんが、そこまで人でなしじゃないという事にしておこう。それで、二人のうちどちらかが言い出した。どうせ死んでるんだから金目の物でも頂いていこうってな。その証拠に誰かが車内や、光井一家の懐を物色した跡があった。ついでに言っとくが、お前らの指紋も見つかっている。そうして目的の財布を見つけ、さっさと退散しようとしたが、運の悪いことに少年が生きていて、お前らの行動を目撃し、騒ぎ出した。それに慌てて、少年を自分達の車に乗せ、どうにかしようとしたんじゃないのか?」
「刑事さん。本当の事を話して信じてくれますか」
「当たり前だ。本当の話をしなければ、光井一家殺人の容疑だってかかって来るかもしれんぞ。事故で亡くなっていたのではなく、まだ息があったのにも関わらず金目の物を奪うために息の根を止めたとか……な」
(司法解剖の結果、光井夫妻は事故発生時に外れたバンパーの先端で、首を切り落とされており、それが直接の死亡原因だと分かっていたが、あえて容疑者には知らない振りをした)
「そんな!無茶苦茶だ。いくら何でも殺すなんて……」
「では、嘘をつかずに話してみろ」
「確かに俺達、キャンプ場に行こうとしてたんだ。そしたらすごい音がしたんで車を急がせて見に行った。すると対向車線側のガードレールが折れ曲がっていて、一部無くなってた。それで俺達事故だって気付いてその現場まで見に行ったんだ。最初はただの興味本位でしかなくて、ほらっ刑事さん野次馬と同じだよ。そん時は金を取ろうなんてこれっぽっちも考えなかった」
「それで現場はどういう状況だったんだ?」
「あんなの初めて見たよ。車の屋根が吹っ飛んでいて、中はめちゃくちゃ、それに血がたくさんシートにはりついてて、その上前の席にいた人間の首が無かった。だから俺達は殺してなんかないんだ。最初から死んでたんだからな」
「それで、少年は何処にいた?」
(ここで、浦田は真っ青になって黙り込んだ。水を欲しがるので看護婦を呼ぶ)
「俺は警察に連絡しようとしたんだ。でも雅夫が反対して……」
「多田雅夫が?お前、自分に都合のいいように証言しているんじゃないのか?」
「俺じゃない!雅夫だ。本当だよ。あいつが金目の物を探し出して自分の懐に入れたんだ。あいつ、血だらけのシートに手を突っ込んだり、死体のポケット探ったり、全く信じられないよ」
「それで、話は戻るが少年は何処にいたんだ?」
「子供……がいるなんて、気付かなかった。そこから退散しようとしたら、ひしゃげた車の後ろから叫び声が聞こえたんで見に行ったら、2つの生首を抱えた子供が、血塗れになって、じっとこっちを見ていたんだ。俺……怖くなった。その姿が心底怖くて腰を抜かしてしまった。でも雅夫は違った。あいつは……」
「多田雅夫が連れていこうと言ったのか?」
「違う!あいつは子供を掴んで、下に……その……そこから下の藪に向かって放り投げたんだ!」
「何ということを……」
「俺、止める暇が無くてあっという間だったんだ。止めたかったのに……あいつ……」
「じゃ何でその子供がお前らのテントから、発見されたんだ?」
「聞きたいのはこっちだよ刑事さん。キャンプ場について、テントを張って何となく二人とも事故のことが引っかかって話もしなかったよ。無言で、ただじっと横になってたんだ。それから……十時前だと思う。ずるっ、ずるっ、ってなんか引きずるような音が外でして二人ともなんだろうって、テントの外を見たら」
「見たら?」
「だからその子供がいたんだよ!それも、ものすごい形相で睨んでるんだ。俺達幽霊だと思った。だってそうだろ。どう考えてもあんな怪我で俺達の所まで来られるわけないじゃないか!俺達二人ともパニックになったよ。雅夫は何度も許してくれって叫んでた。逃げようとしたら急に火がパッとついて、火の気なんかないし、燃えるような物もないのに着ているシャツから火がでたんだ。あの子供の幽霊が俺達に復讐に来たんだ、きっとそうさ。そうだろ刑事さん」
(この後、浦田は発作を起こし、続行不可能となる。日を改め再度事情聴取を行なおうとしたが、その日の晩シーツを引きちぎり、首吊り自殺を図り死亡。今後は多田雅夫が回復するのを待つこととなる。私見ではあるが、浦田が嘘をついているとは思えず、真実を話している様に思われる。尚、疑問が残る部分を多田雅夫の調書で補足出来れば全ての謎は明らかになるのではないかと思う)
追記1
その後、やや体の状態が安定した多田は精神に異常を来していることが分かり、精神病院に収容された。医者は一時的であろうと診断している。……が、確証はない。聴取は多田の精神が安定するまで延期されることになった。
追記2
多田は完全に人格後退現象を起こしており、治癒には相当の年月を必要とする。……との診断。この時点で捜査は一時中断。今後の経過を見て再開をする。
「ふーん。米印は捜査が完了していない所為ですか……」
それにしても、と西脇は思った。こんなに不思議な事件が十四件も起こっていたなんて信じられなかったのだ。
全てのプリントアウトが済み、その束を掴んだ西脇はずっしりとした紙の重みを感じながら、小さくため息をついた。
「これを全て読み終えたとき、私はきっとUFOの存在すら信じるようになるんでしょうね」
うす暗い資料室の上部にある、磨りガラス状になっている小さな明かり取りの窓を西脇は眺めた。外は快晴を示す明るい光を資料室に注いでいる。その光をまぶしそうに、西脇は目を細め、しばらく微動だにしなかった。
交番に戻った尚貴がまずした事といえば、バスタオルを探すことであった。交番にはタオルは常備しているが、バスタオルは無かったからだ。頼みの田所は巡回中であった。
あの騒動のあと、尚貴は佳子をなだめ、家に帰してから、今度はずぶ濡れになった男性……池田和夫を交番まで連れ帰ったのであった。
「こういう小さいタオルしかないんですが……」
尚貴は申し訳なさそうに池田に言って、あるだけのタオルを差し出した。池田は無言でそれを受け取り、のろのろと体を拭きだした。
尚貴は池田に対して、どういう言葉をかければ良いのか、当たり障りのない適当な言葉が出てこず、宿直室にあるやかんに水を入れ、とりあえずお茶を入れる準備をして時間を稼ごうとした。
宿直室と事務所を隔てる扉の隙間から、げっそり憔悴した池田の顔が見える。目は充血し、その下にはコンテで描いたようなくまが出来ていた。
体は大きく、胸を張って歩けばさぞかし貫禄があるだろう。しかし今は背を丸め、まるで、見えない何かに隠れようとしている様にさえ見える。
尚貴はしばらく前、池田に対しほんの一瞬、いい気味だと思った事を後悔した。
いい大人が、あんなに沢山の報道陣の前で、拒絶され、非難を受け、水をかけられたのだ。それでも反論せず土下座する事が、どんなに辛い事か推し量ることは出来ないが、よほどの覚悟がなければ出来ないだろう。
火にかけたやかんが、しゅんしゅんと湯気を立て始めると尚貴は火を止め、やかんの取っ手を持ち、既に茶の葉を入れた急須に湯を注いだ。
するとふわりと茶の葉の香りが立ちこめ、場の雰囲気を若干和ませる。
「良かったらどうぞ。体が温まりますよ」
……と、言ったものの季節は既に十月末、こんなにずぶ濡れだと随分冷えるに違いない。服を乾かさないと風邪をひいてしまう。尚貴はそう考えると、少し早いが宿直室の押入からヒーターを持ち出し、コンセントを繋いだ。灯油は去年入れた分がまだ入っており、まあ腐るものでもないだろうから充分その役目を果たしてくれるだろうと尚貴は期待した。
果たして、ヒーターは低い音をたてて温風を送り出した。一年ぶりとあって、最初のうち暫くは油臭い匂いが事務所に充満したが、このくらいなら耐えられる。
「スーツの上着とズボン、私が近くのランドリーで乾燥機にかけてきます。ジャージしかないんですが、履き替えて頂けますか?」
「いえ、かまわんで下さい」
「風邪……ひきますよ……」
尚貴は池田の横に立ち、出来るだけ優しく声をかける。しかし返事は返ってこない。仕方がないので、ヒーターの向きを池田に当たるように変えてみたり、既に使ったタオルを絞りに宿直室に行ったりせわしなく動き回った。その間尚貴は、何でもいいから話題を探そうと、頭の中で必死に言葉を探したが、これと言った話題を見つけられないでいた。
池田は、そんな尚貴の姿をぼんやりと眺めていた。すると目の前に白い湯気が立ち昇っているのに気付き、ゆっくり視線を落とすと、尚貴が入れたお茶がなみなみと、湯呑みに注がれている。
(息子にお茶なんぞ入れてもらった事など無かったな)
机から湯呑みを取り、お茶をひと飲みすると、体がじんと暖まってくるのが感じられた。湯呑みから伝わるお茶の熱さも、今の池田にはささやかな慰めだ。
(ここのお巡りさんは随分若いな。うちの息子とあまり年齢が変わらないような気がする)
「お巡りさんは、お歳いくつです?」
「えっ、あ、はい二十二になります」
尚貴は突然の質問で驚き、手に持っていた雑巾を下に落とした。尚貴はロッカーを拭いていたのだ。その姿が妙にあどけなくて、池田は張りつめていた心がフッと和んだ。
「二十二歳ですか……もっとお若く見えたので、いや失礼」
「よく言われます。そんなに幼く見えるでしょうか?」
そう言って少し笑みを見せる尚貴は、更に童顔になる。
「と言うことは、高卒でお巡りさんに?」
「ええ。そんなに裕福な家庭では無かったものですから、大学に行く余裕は無くて……今時こんな話も少ないでしょうけど」
「いや、なんの目的もなく大学に行くより、立派な警官になる方がいい」
池田はうんうんと一人頷いた。
「立派かどうか分かりませんが……」
尚貴がそういうと池田は、いやいやという風に手を振って見せた。
「そうするとご両親もまだお若いんでしょうな」
「いえそれがお話しするのは恥ずかしい事なんですが、父が四十、母が三十五の時の子供なんですよ」
「何をおっしゃるんですか。恥ずかしい事ではありませんよ」
「ずっと子宝に恵まれなかったらしくて、やっと出来た子供だったそうです」
「そうですか、きっと大切に育てられたんでしょうな。ところで、実家はどちらで?」
「奈良の吉野です」
「ほぉ、随分遠い所ですな。あの辺は桜の名所でしたな」
「ええ、私の父がやはり桜の山を持っていたそうです。覚えてはいないのですが、よく家族3人で花見に行ったそうです」
「貴方のお父さんは、山を持っていらっしゃるのですか?」
池田は驚いた表情を見せた。
「それが、私が小さい頃に大病をして、その治療に莫大なお金が必要になりまして……山に限らず、畑や田んぼも全て売ってしまったそうです」
池田はそれを聞いて言葉に詰まる。
「この命を救ってくれて……その上、その事に恩を着せるわけでなく、高校迄出してくれた両親に感謝してるんです」
「ご両親に感謝しておられる……それは素晴らしい事ですな」
自分の息子がこんな風に感謝してくれたらどんなに嬉しいだろう。
「口だけですよ、中学の頃は貧乏な自分の家が大嫌いで、よく喧嘩になりました。言っても仕方ない事だと分かっていても、何て言いますか……反抗期だったのでしょうが、今思うと恥ずかしい思い出です。今は社会人として働いていますが、仕送りだってほんとに僅かですし、情けない息子です」
「情けないのは、私の息子ですよ」
尚貴は不味いことを言ってしまった……と後悔したが遅かった。
「あ、いえそんな事は……」
「いいんです。本当のことですから」
そう言って池田は、ぬるくなった残りのお茶をぐっと飲み干すと、心の中のものを一気に吐き出した。
「息子は……純一と言うのですが、裕喜君とは幼なじみだったんですよ。小さい頃から何処へ行くのも一緒で、本当に仲が良くて……だからその息子がいじめを……それも裕喜君に酷い事をしていたなんて、最初信じられませんでした。あの事件で刑事さんが家に来られて血文字の事を聞き、初めて知ったんです。それから息子を問いつめました。事実はどうなんだ……と。十年ぶりに息子の顔を殴りました。すると重い口を開きまして、淡々と話すんですよ……裕喜君にどんな事をしてきたかを……。それを聞いて情けなかった。本当に情けなかった」
池田の目は潤んでいた。
「私はこう言ってやりました。お前にとって裕喜君は親友だったはずだと。それなのにどうして他の連中からかばってやらなかったのか……と。そういうと息子はこう言いました。そんな事をすれば自分が今度いじめられていたと、それがなんだと言うんでしょうか、今度はこう言いました。自分を守る為ならお前は親友を犠牲にするのか?そうか。強盗が入って、両親の命と引き替えに自分を助けてやると条件が出されたらお前は迷うことなく、わしらを突き出すような息子に成り下がってしまったんだな。そう言ってやりました」
「それは……」
「いえ、分かっているんです。強盗の話を持ち出すのは場違いだと、ですがそういう例えでも言わなければ息子には理解できないだろうと思って言ったんです。どうしようもない馬鹿息子ですから」
吐き捨てるように池田は言う。
「そしてこうも言いました。だが、わしらはそうやってお前に強盗に突き出されたとしても、恨むことなく、自分から身を投げ出すだろう。これが血の繋がった者の愛情だ。それに対してお前は受け取るだけでいい。だが裕喜君の場合は違う。同等の立場だ、同等で親友ならば、かばい合うものじゃないのか?どうしていじめなんかに屈するんだ、何故戦おうとせずいじめに荷担する?こんな事になる前にどうして一言相談しなかったんだ、そう言って、息子を何度も何度も殴りましたよ。それでも憎み切れませんでした。そんな心の弱い人間に育てた両親にも罪があるのだと充分解っていましたから……」
尚貴は、ただ池田の話に耳を傾ける事しか出来ない。
「お巡りさんにこんな話をして申し訳ない。忘れて下さい」
池田は立ち上がると、交番を出て行こうとした。その去ろうとする池田の背中に向かって尚貴は言った。
「あの……こんな事言える立場ではありませんが」
池田はこちらを振り向かず、足を止める。
「私も、貴方も、人間誰しも駄目だと解っていても目をつむってしまう事は沢山あります。それに否応なく協力せざるを得ない事もあると思います。本当ならば要領のいい奴だ……で、済んでしまうことが、たまたま今回、最悪な結果が出てしまった。その事については非常に残念ですが、貴方の息子さんだけが悪いとは決して思いません。なにより息子さんはこれから一生、裕喜君の死を十字架として背負うことでしょう。だから私がお父さんに望むのは、貴方の息子さんがその重みに耐えられる様に、何も言わずに一緒に背負ってやって欲しいと思います。それが息子さんへの両親の愛情だと私は思います」
尚貴は無我夢中で言った。それを聞いた池田は、尚貴に背中を向けていたので表情は分からない。生意気なことを言って気分を害したかな、と尚貴は思ったが池田は、
「ありがとうございます。何とか……がんばりますよ」
と、震えるような声で言った。
「お茶……美味しかったですよ。また、飲みに伺います」
「いつでも来て下さい。ごちそうします」
尚貴は、大きな声で答えた。池田は少しこちらを向いて軽くお辞儀をすると、枯れ葉が舞う中を去って行く。その姿を尚貴は見えなくなるまで見送ると、複雑な気持ちで事務所にある椅子を引いて座った。
最初は裕喜をいじめて死に追いやった生徒に怒りを感じていたが、池田と話をしてやり切れない思いに苛まれた。何が悪いのか、いじめた生徒?気付かなかった学校?両親?それとも社会?当事者や関係者ならそれぞれの立場で、誰かに、何かに怒りをぶつけることも出来るが、第三者の尚貴にとってどちらの意見も理解でき、どうしようもなく心が締め付けられるのだ。
きっと血文字に書かれていた他の生徒も、何らかの事情があるに違いない。中には面白かったから、別に悪い事だと思わなかった。そういう答えが返ってきたとしても、きっとその子らが、何故そういう考えを持ってしまったのかを深く知れば、またやり切れなくなるのだろう。尚貴はそう思い、深いため息をついた。