「誘う―IZANAU―」 第28章
「……お前は母親のくせに何を血迷ったことを言ってるんだ……」
真二郎は、汚らわしいものでも見るような目を重美に向けた。重美はまるで理解しようとしない真二郎に、苛立ちと、怒りから拳が震えた。
「貴方は何も分かっていない……いいえ、聞こうとしないのよ」
真二郎は重美の言うことに、耳を傾けたことがない。いつだって自分が決め、重美に押しつける。何か疑問を口にしようものなら、無学な人間を見下すような視線を向けるのだ。それがどれほど不愉快なものであるのか、傲岸な真二郎は気付かない。
重美は絶えずその視線に晒されてきた。
今まで重美は、真二郎の向けるその視線で、自分自身がつまらない存在だと萎縮してしまい、言葉を飲み込んできた。だがもう、その必要はないのだ。
重美は決してつまらない存在ではない。重美だけが未来を知っている。悪夢としかいいようのない、未来だが。
けれど、恐るべき未来はまだ訪れていない。犯罪者となる息子。悪魔のような息子を生んだ罪を負わされ、人々の非難によって重美は狂い、今とは別人のように老いる、おぞましい未来。
今ならその未来を、重美の手によって変えることができる。
「……疲れているんだろう。落ち着きなさい」
怒鳴ってもおかしくない状況なのだが、重美がいつもとは様子が違うことに恐れを抱いたのか、真二郎は抑えた声でそう言い、重美をソファに座らせた。
「私は疲れてなんかないのよ……」
「いいから、すぐに医者を呼ぶ。診察してもらった方がいいだろう」
真二郎は重美の言葉を聞くことなく背を向けると、携帯を取りだして、どこかへと電話を掛けた。
気でも狂ったと思われているのだろうか。
重美はソファから腰を上げると、リビングの端にある棚に近づいた。厳重にロックされたポリカーボネート製の扉向こうにあるのは、猟銃だ。重美は迷うことなく電子ロック解除し、猟銃を手に取ると、引き出しから弾を取りだす。
「ああ……そうだ。悪いがしばらくそっちの病院で面倒見てやって……」
真二郎は背後でガタゴトと音を立てている重美に気付いて、携帯を耳に当てたまま振り返った。
「……私は……自分が見た未来がやってくるのを、大人しく待ってなんかいられないの……。いやよ……あんな息子の母として責任を負わされるのは……嫌」
猟銃を真二郎に向け、重美は呟く。
「おい……銃を下ろしなさい。お前は今、混乱しているんだよ……。落ち着けば、自分が馬鹿なことをしていると、分かる」
真二郎はやけににやけた表情で、両手を上下に振って、銃を下ろせと仕草で伝えてくる。けれど、真二郎という呪縛から逃れた重美にとって、そんな言葉など無意味なものでしかない。
「あなた……離婚してちょうだい。もう、嫌なのよ……」
「……分かった。分かったから、銃を下ろすんだ」
「本当に離婚してくれるの?」
重美は銃を真二郎に向けたまま、距離を縮めた。
「ああ……ああ、お前が望むなら、そうするよ。だから、落ち着くんだ……」
真二郎は額に汗を浮かせ、ひどく動揺している。傲慢で、身勝手な男が、銃を向けられただけで、女中としか思っていなかった重美に対し、これほどまでに従順になるのだ。なんと情けない男なのだろう。
真二郎には確固たる理念もなければ、本当の意味での頑固さはないのだ。だから、自らの命が危険に晒されると、突然、理解ある夫に変身できるのだろう。
吐き気がするような男だ。
どうしてこんな男と結婚したのだろうか。
妻を妻とも思わない夫に虐げられる生活を、なぜ自ら選んでしまったのか。
チラリと窓際に立っている青年に視線を向けた。
青年はただひっそりと立って、重美の行動を見守っている。恐ろしく整った顔に浮かぶ、微笑。重美の行動は間違っていない。あの青年だけは重美を理解し、実行に移した行為を後押ししてくれている。
「重美……銃を下ろしなさい……」
同じセリフばかり口にする真二郎に、重美はうんざりしそうだった。
目障りな男……。
権力に弱いくせに、弱者には偉そうに振る舞う、最低な男。
存在自体が許せない。
「ねえ、どうして……私と結婚したの?」
「……お前を愛しているからに決まっているだろう?」
向けられた銃から逃れようとして、真二郎はジリジリと後退っている。それを追いかけるように重美は距離を縮めた。
「愛しているから……?そんなの嘘よ。あなたにとって妻はただの女中でしょう?それとも、世間体のための飾りかしら」
「……重美……お前がそんなふうに心を病んでしまったのは、私の所為なんだな……すまない……」
上擦った声には、僅かの後悔も滲んでいない。ただ、どうにかしてこの場から逃れたいという、焦りばかりが伝わってくる。
本当に、どうしようもない男なのだ。
「心なんて病んでないわ……本当のことを知っただけ……」
「銃を夫に向けていることが異常だと思わないのか?」
「……あなたを殺そうなんて思ってないわ……」
真二郎の額から鼻筋を通り、首元に銃口を移動させる。真っ青になった真二郎は壁に背を貼り付けたまま、ズルズルと床に座り込んだ。
「重美……」
「どうせ、あなたは私を捨てるのよ。遠くない、未来……に。あなたから捨てられるなんて、まっぴらよ。だから私から捨ててやるの。あなたも……息子も……私の人生にはもう必要ない」
「……そうか、分かった。お前が銃を下ろしてくれたら、すぐに役所に行って離婚届をもらってきてやる。望むなら今日にでもはんこをついてやろう。それでいいか?」
「ええ、そうね……でも……一番の問題が残ってるの……」
「……ママ……何してるの?」
リビングに入ってきた息子の勝己が、目を見開いて重美や真二郎を見つめた。重美は唇を歪ませて微笑しながら、真二郎に向けていた銃を、勝己に向けた。
「あれは……私の息子じゃない。ただの犯罪者よ」
「ママ?どうしたんだよっ!パパっ!ママが変だよっ!」
銃口から逃げようとした勝己に、重美は迷うことなく引き金を引いた。
甲高い金属音が部屋中に満ち、鼓膜を破りそうな音が響く。
「重美っ!」
「うわあああ――――――っ!」
せっかく重美が勝己の心臓を狙い撃ったのに、真二郎の手が銃口を掴んだため弾がそれ、太ももに当たった。重美は真二郎を払いのけるように銃口を降り、腹を撃つ。
「ぎゃああっ!」
真二郎は悶絶しながら、床を転がっている。重美にはもう、真二郎を夫とは思えなかった。
ただの、物体だ。
「重美っ!やめろっ!お前は自分の息子を殺そうとしてるんだぞっ!」
「ええ……そうよ」
「重……ぐはっ!」
脚に絡みつく夫という物体にもう一発、食らわせた。ヒイヒイと喉の奥から声を出し、真二郎は手足をばたつかせて、喘いでいる。その姿は、陸に放り投げられた鯉のようだ。
邪魔をする人間はすべて排除する。
将来、子供達を餌食にする悪魔として成長する息子を、母として始末することに何の問題があるというのだ。
もし、勝己が素直で可愛い息子だったら、あの未来は信じなかっただろう。だが、勝己は同級生を苛めることに悦びを感じ、また、小さな生き物を殺している。このまま育てば、先程目にした未来が、重美を苦しめることになるのだ。
今、始末しなければ……。
すでに同級生の一人を苛め殺しているのだ。
これから先、何人殺すのか、分かったものではない。
警察に掴まるまで、母として放置していいわけなど無いのだ。
息子の凶行を今ならとめられるのだから。
「ママッ!ママっ!どうして、なんでだよっ!」
勝己は太ももを押さえて、絶叫を上げている。流れ出る血は床を染め、ネットリとした光沢を放っていた。
「あなたは……将来、殺人を犯すのよ……。いいえ、もう、同級生を一人、殺したわね。お母さんはそんなあなたを産んだ責任を取ろうとしているだけなの。すべてを白紙にして、もう一度人生をやり直すために、あなたの存在が邪魔なのよ……」
今まで、母に対しても尊敬の念など見せず、いつだって見下した目つきを向けていた息子が、今、初めて母親の怒りに、怯え逃げまどっている。
「……はは……あはは……。私が怖いのね。はははは……」
重美は確かに快感を感じていた。