「誘う―IZANAU―」 第14章
アパートに着くと、西脇が待っていた。
「西脇さん……どうしたのですか?」
「やっぱり忘れてましたね。今日は土曜日ですよ」
「あ……そう言えば……」
尚貴は催眠術を使って過去に戻ってみることを西脇と約束していたのだ。
「少し早めに伺ったのですよ。鳥島さんの様子も気になりましたのでね」
「お気を使わせて済みません……だいぶ落ち着きました」
そう言って尚貴は笑みを向けた。
「それは良かった」
「それで……その……西脇さんの懇意にしている先生とは今すぐ会わなければなりませんか?」
「いえ……まだ時間はありますが……何か予定でも入れておられましたか?」
「今日はまだ何も食べてないんです……それで買い物に……」
「食事はちゃんと摂らないと駄目ですよ鳥島さん」
「はい。あ、とりあえず狭いですがお茶でも入れますので上がって下さい」
「ではお言葉に甘えます」
西脇はそう言って、尚貴の後に続いて部屋へと入った。
「意外にこぎれいにしているのですね」
西脇は部屋を見回しながらそう言った。
「見えないところに隠しているんです」
本当の事であった。
「あ、良かったら西脇さんの分も作りましょうか?」
「いえ、私は食べてきましたので、鳥島さんは気にしないでお腹一杯食べて下さい」
「そんな大したものは買って無かったので……そう言っていただいて助かりました」
インスタントものしか買っておらずこれで私もと言われたらどうしようかと真剣に尚貴は悩んでいたのだ。
湯を注ぐだけで出来るラーメンと、菓子パンを二つ袋から取り出し、後はまとめて冷蔵庫に無造作につっこんだ。保温の利くポットなどないので、小さなやかんを取り出し水を入れ火に掛けた。ちらっと振り返ると西脇はまだ興味深そうに部屋を見回していた。一Kの部屋であるから一巡すれば分かるはずなのであろうが、西脇はきょろきょろと目をあちこちに向けていた。
「西脇さーん……あんまりじろじろ見ないで下さいよ……何も変なもの隠してませんから……」
すると西脇は苦笑した顔をして「あ、どうも済みません」と言って頭をかいた。
「いえ……実にシンプルな部屋だとおもいましてね」
確かにほとんど飾りはない部屋だ。ポスターを貼ることもなく、洋服も押入にハンガーを掛けてつっていた。オーディオもない。あるのは小さな冷蔵庫とその上にのせたテレビだけであった。シンプルと言うより無機質に感じられた。尚貴自身も分かっていたが、後の掃除や整理がめんどくさく、気がつくとこんな部屋になっていた。
「めんどくさくて……何か置くと出っ張りが出来て掃除に邪魔ですよね……。植木なんかは枯らしてしまうし……タンスを買うほど服もないです。それに昔から何にもない方が落ち着くんです」
「意外ですね……」
不思議と西脇は難しい顔をして言った。
「うーん……そうですか?」
「若い男の子は可愛い女の子のポスター位は貼るのではないかと……」
「やだな……そんなの貼りませんよ……からかわないで下さいよ」
「いえ……からかっているつもりは……もしかして、自宅の部屋もこんな感じですか?」
「そうですけど……お金に縁のない家でしたから、両親から買ってもらえませんでしたし、お小遣いもほとんどなかったので、部屋に何か置くものとか買えなかったのでこの部屋とあんまり変わらないですね。アルバイトでもすれば色々買ったと思うんですが、それが禁止の高校に行きましたから……卒業してすぐに警察学校に入りましたし……」
「普通オーディオとかCDとか欲しいでしょう」
「興味あんまりないんですよ……何か年寄りくさいですね……」
尚貴は笑うしかなかった。話している間に湯が沸いたので火から下ろし、尚貴はカップラーメンに湯を注いだ。それを西脇が座っている所まで運ぶと、小さな机にのせた。
「いつもそんな食生活ですか?」
「え……まぁ……自炊は得意じゃないので……。あとは時々田所さんのおうちに招待されて夕食をご馳走になったりしてます」
「鳥島さんは早くお嫁さんもらわないと駄目ですね……」
ようやく笑みを見せて西脇は言った。
「まだ早すぎますよ。えっと……食べますね」
そう言って尚貴はバリバリと菓子パンの袋を開けた。そんな様子を西脇は微笑ましそうに見ていた。しかし見られていると喉が詰まりそうになる。それに気付いたのか、急に西脇はゴロンと横になった。
「気にしないで食べていて下さいね。私もずっと立ちっぱなしで……少し横になってます」
「……あの……純一君のお母さんの事ですが……」
尚貴は西脇に伺うように聞いた。
「心神喪失状態で、入院されています。面会謝絶だそうです」
そういうと西脇は目を閉じた。
「そうですか……」
一家の大黒柱を失い、涙の乾く間もなく一人息子を失ったのだ。その悲しみは深く出口のない暗闇にたった一人で佇んでいるようなものであろう。
「……」
「鳥島さん?」
黙り込んでしまった尚貴に上半身だけを起こした西脇は声を掛けた。
「先ほど……コンビニに買い物に行ったのですが、そこで長野彰に会いました」
尚貴は先ほど彰と交わした話を西脇にした。ただ、家庭内暴力のことは話さなかった。憶測で話せることではないからであった。
「自分には理解できませんでした。そういうと理解できると言われたら殴っていたと彰に言われました」
尚貴はため息をついた。
「殺伐としていますね……本当に……。子供達は何を求めて何処に行くのか……私には分かりません。何とかしてあげたいと言ってもどうにもならない。今の子供達は満たされているはずなのに何故かおぼれる寸前のようにもがいているように感じられます。その理由は複雑で、大人になってしまった私にはたぶん理解できないのでしょう」
暫くして尚貴が食べ終わると、西脇は立ち上がってにっこりと笑顔を見せた。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「え、あ、はい」
やはり気の乗らない尚貴はゆるゆると立ち上がった。
「報告書を提出しろと言われましてもね……」
名塩は苛々と先ほどから同じ台詞を繰り返していた。電話を取る為にいる婦人警官を除き、捜査本部にしている部屋には名塩しかいなかった。本来ならば外に出ているはずが、資料を取りに戻ったところで捕まったのだ。他の署員は聞き込みで走り回っていた。
「だが既にマスコミには自殺という発表をしている。それなのに県警一課の人間がそこに留まるという訳にはいかないだろう。余計な詮索をされる恐れがある」
裕喜の自殺から始まり、ビルの中で自殺をした少女、純一の死。その件に関して報告書を出せと上司からの電話であった。名塩にしてもさっさとけりを付けたかった。
「確かに自殺として処理しておりますが……」
名塩は係長にそう言った。
「どういう状況かは聞いている。私も部長にも理解できないがな。外部には洩らせないが、実際の所その事件は早く封印してしまいたいのだよ。今回一連の死がマスコミにこれ以上ばれるとどうなるか……」
ゴシップ雑誌から新聞までにぎわす格好の事件になるだろう。だからといって警察がマスコミに気を使うのも腹立たしいことであった。名塩は係長に悪態をつきそうになったが、その気持ちが分からないわけではない。自殺を手伝った人物は名塩には見えない青年である。そんな青年のことを表沙汰には出来ない。その上、異常な死の現場。自然の法則をまるで無視したかのような血と肉の乱舞。納得出来るような説明を誰も思いつかない。自殺として片づけることしか出来ないことは分かっていた。だが名塩は、はっきりと自分で納得するまでは戻るつもりは無かったのである。
「まだ続く恐れが有ります」
「なんだと?」
電話向こうの係長は、裏返ったような声でさけんだ。
「……私も滅入ってますよ」
「実は圧力が、かかっている……本部長から早く切り上げろと言うような事を言われたのだよ」
「小川真二郎ですか?」
元文部大臣の小川が手を回したのであろう。
「想像にまかせるよ……」
力無く係長は言った。
名塩は責める気もなかった。係長も上から釘を刺されているのだ。
「そう言えば……大綱物産の社長がたまたま出身が都内で有ったため、本庁から誰かが派遣されると聞きましたが……」
「ああ、今回の池田純一の現場写真を見たせいか、その話は消えたよ……関わらない方が良いとでも思ったようだ……まさにその通りだがね」
「……」
「忘れるんだよ名塩くん……西脇くんにも伝えてくれ。あれは自殺だ……今までもこれからも……」
そう言って係長は電話を切った。
逃げられる奴はいい……名塩は呟いた。
何の因果か関わってしまったのだ。モヤモヤとしたものが晴れるまで抜け出せなくなっていたのだ。
「参った……」
名塩はホワイトボードに無造作に貼られた現場写真を眺めながら、もう一度ため息をついた。
それにしても……と名塩は思った。西脇が探索したデータは全て不可解な事件であったが、一件一件にかなり間が空いており、同じ地域での事件は起こっていない。警察側はたいてい自殺、もしくは事故として片づけていた。何処の担当署でも目立たぬように書庫の奥に書類を追いやり、関わった人間は忘れようとしただろう。だから目立つことなく表沙汰にはならなかった。
名塩は考え込むと何度も足を組み替える癖があった。組み替えるたびに靴先が床に当たってコツコツと音を立てていた。その音ががら空きの部屋に響いていた。
「名塩警部、お茶でも入れましょうか?」
見かねた婦警がそう言ったが、名塩は手を振って断った。
今一番不思議なのは、何故、今、これほど立て続けに事件が起こっているのかであった。他によく似た過去の事件は立て続けに起こることは無かったのだ。
時間がない……尚貴から聞いた青年の言葉が気になった。何の時間がないのか?青年が何者かも分からない名塩にはささやかな予想すらすることが出来なかった。
不思議な事件はいくらでもある。だが不思議としてしまうのは、何かを見落としているか、情報が少ないからだ。ピースがそろえばパズルは必ず解けるのだ。結局、不思議な事件というのは無きに等しい。しかし今起こっている事件は違った。完全に常識の範囲を超えていた。何か得体の知れない力が働いている。それが何かは名塩にも分からなかった。それでも関わってしまったのなら、行き着くところまで行ってみたいのだ。好奇心ではない。理解できないからこそ納得できるような理由を探しているのだ。
そこに電話が鳴った。ちらりと視線を向けると婦警が取っていた。
「警部、長野彰が殺されました」
にわかに信じられない名塩は言葉を継げなかった。
最初不安そうにしていた尚貴であったが、今は背もたれのある椅子に身体を任せて眠っていた。
「随分素直な人のようですね」
西脇の方を向いた丸顔の紺原は言った。
紺原は今年四十になる精神科医であった。背が低く体つきがやや丸々としているので、一見すると精神科医に見えない。目尻と眉じりがやや下がっているせいか、腹を立てていてもそんな風には見えなかった。精神科医というより中華の料理人だった。だが見た目はほのぼのとした風貌であったが、精神科医として優秀な人物であった。
「本当にかかっているのですか?」
何となく信じられないのか西脇は紺原にそう言った。
「大丈夫ですよ。で、何を伺います?」
「彼は夢を見るのですがその内容を覚えていないのです。つい、一週間ほど前に見た夢です。それがどんな夢か知りたいのですが、出来ますか?」
紺原は頷いた。
「鳥島さん。いいですか?今貴方はとても気分がいいところにいます。そして貴方を傷つける事は誰にも出来ないところで貴方はくつろいでいます。今どんな気分ですか?」
そういうと、尚貴は小さな声で「とても気分がいい」と答えた。
「さあ、貴方の中の時間がどんどん戻っていきます。今は何をしていますか?」
「家で……謹慎しています」
「その前の日はどうしていましたか?」
「何も……ただぼんやりしています。今日から謹慎です」
尚貴は表情を変えずに淡々と答えた。
「警察署で私たちの前で倒れて意識不明になったのです。それから病院に運ばれまして……その時ベッドで見た夢を聞いて下さい」
西脇は慌てていった。
「鳥島さん。少し前警察署で意識を失いましたね」
そういうと尚貴の表情が少し曇った。
「失いましたね」
「はい……あいつを追いだしたかったから……」
尚貴がそういうと紺原は西脇の方に視線を向けた。
「あいつとは誰ですか?知り合いですか?」
そう聞くと尚貴の眉間にしわが寄った。
「知らない……人です……」
とぎれとぎれの返事であった。
「どうします?その人物をもう少し掘り下げますか?」
紺原はそう西脇に言った。
「いえ、先に夢の方を聞いて下さい」
「貴方はそのとき病院に運ばれて今、ベッドで眠っています。そしていつの間にか夢を見ています。そう、今、貴方は夢の中にいます。何が見えますか?」
言葉は返ってこず、尚貴の顔から血の気が引きだした。手が小刻みに震え出すのを西脇は見逃さなかった。
「貴方は夢の中にいますが、それは意識だけで身体は別の安全な所に隠れています。いいですか?貴方を傷つけることは誰にも出来ないのです。安心して深呼吸して下さい」
尚貴は深呼吸を何度かした。
「何が見えますか?」
「お父さんと……お母さんの心配した顔……」
「そこは何処ですか?」
「白い……部屋……真っ白な……カーテンが……揺れてる……白衣を着た人が横に……」
尚貴が小さい頃病院に入院していたことを夢に見ていたのだろうか?西脇はじっと尚貴の言葉に耳を傾けていた。
「……いる」
「そこは病院だね。どうしてそこにいるのか分かりますか?」
「分からない……でも……身体が痛い……」
尚貴はそう言って何かから身を守るように身体を丸めた。
「痛い……お父さん……お母さん……痛いよ……助けて……」
幼少時に戻っているのか、小さな子供が使う言葉になっていた。
「痛くない……大丈夫……君は既に済んだことを見ているんだよ。過去のことだから痛みはしないんだ……まだ痛いかな?」
「うわああああ……痛いよう……」
突然叫びだした尚貴は苦痛で顔をしかめ、椅子から身体を起こそうとした。それを紺原が素早く押さえつけ、何度も何度も痛みを感じる肉体はここにはないと言った。すると尚貴は、呻きながら暫く身体を丸めていたが、さらに何度か紺原が説得するように言うと身体を伸ばして椅子に深く沈んだ。
「彼は小さい頃病院に入院していたのですか?」
額にうっすらと汗を滲ませた紺原が西脇に言った。
「ええ、大変な病気だったようです。六、七歳頃と聞いています」
「それの痛みは何らかの形でトラウマになっているようですね……」
紺原がそう言って尚貴に視線を戻そうとしたとき、つぶやきが聞こえた。
「……暗い……ここは……どこなんだろう……」
西脇は瞬きもせずに尚貴に注目していた。外ではかなり風が出ているのか、窓がカタカタと揺れていた。
「紺原さん……今は何処にいるのか聞いて下さい」
鼓動が早くなるのを押さえながら西脇は言った。
「鳥島さん。今何が見えますか?」
「暗い……何も見えない……」
「ぐるりと見回して下さい」
すると閉じられた瞼の下で瞳が動くのが分かった。記憶の中で見回しているのだろう。
「何も……ない……ただ真っ暗です……」
ごうっと窓の外から荒れ狂った風が鳴った。それに気がついた紺原は「窓は閉まっていますので大丈夫です」と、西脇に言った。それに頷いて尚貴の方に視線を戻した。
「少し歩いてみましょう。歩けますか?」
「歩く……」
「そうです。歩いてみましょう。何かがあるかもしれません」
「ある……く……」
「どうしました?」
「足が……ない……」
小刻みに震えながら尚貴はそう言った。顔が苦痛に歪んでいる。
「足がないのですか?」
「足も……手も……何も……ない……怖い……」
「怖くもないし、痛くもありませんよ。大丈夫」
ガタガタと震えだした尚貴に紺原は宥めるように言った。しかし尚貴の震えは止まらなかった。
「ここから出してくれっ……あああああっ……」
手足をバタつかせ、何かを払うような仕草をする尚貴を紺原と西脇で押さえこんだ。いくら紺原が宥めようとしても全く尚貴は落ち着かなかった。
「西脇さん、これ以上は無理です。彼を起こします。よろしいですね」
「もう少し……もう少しだけ聞いて下さい。お願いします」
西脇はそう紺原に言った。
「駄目です。この状態は彼の心にとても負担をかけています。これ以上は医者として認められません」
益々尚貴の暴れ方は尋常ではなくなってきた。
「鳥島さん!貴方の他に誰かいませんか?その暗闇の中に誰か見あたりませんか?」
大声で西脇は尚貴に言った。
「西脇さん止めなさい!」
紺原が尚貴を目覚めさせようとした瞬間、尚貴の動きは止まった。先ほどまでものすごい力で手足を振り回していたが、今はぐったりとしていた。外から聞こえる風の音も止み、何が急に起こったか分からない二人は顔を見合わせ、そして床にぐったりとしている尚貴に視線を落とした。
「鳥……島さん」
西脇は膝をついて尚貴の頭を抱えた。よく見ると尚貴はうっすらと瞳を開けていた。その瞳は涙で潤んでいた。
「……ちゃ……ん……」
尚貴は何処か遠くを見ながら何かを呟いた。
「催眠が解けたのですか?」
「いえ、自力では解けません」
「では……」
「まだ彼は夢の中にいます……」
すっと尚貴の両手が差し出された。
「お・に・い・ちゃ・ん……」
「えっ……」
二人は同時に尚貴が手をさしのべた方向を見た。その瞬間、窓のガラスが耳をつんざくような音と共に一斉に砕け散った。砕けたガラスの破片はそこら中飛び散り、外から吹き込む風が、書類やポスターを部屋中で踊らせた。
「なっ……一体何がどうなっているんだ」
紺原は訳が分からず、室内を飛び回る書類を払いのけながら壁際に後ずさっていた。西脇はじっと尚貴が手をさしのべている方向から視線を外さず微動だにしなかった。
部屋を駆け回る風の勢いは納まることなく、くだけたガラスさえも踊らせていた。その破片は西脇と紺原の手や頬を傷つけたが尚貴を傷つけることはなかった。
来る……
西脇は鼓動が早まった。体中の産毛が逆立つようなピリピリとした感覚を背に西脇は感じていた。暫くすると目の前の景色が一瞬ぶれたように歪んだ。その景色が元に戻ったとき、青年はそこに立っていた。それと同時に風が止み、空中を飛び跳ねていたあらゆる物が床に音も立てずに落ちた。
「……」
西脇は青年の姿に釘付けになった。初めてはっきりと姿を見たからであった。
身体をすっぽりと包む黒のコートは痩身の身体を引き立て、肌は彫刻のように白い。形の良い眉はすっきりと流れ、瞳は白目が少なく睫毛が長い。肩まである黒髪は月光に反射して光沢を放っていた。
なんて綺麗な顔立ちをしているんだろう……西脇は思わずそう口に出してしまいそうになった。
青年は尚貴を見、次に紺原を見、最後に西脇に視線を向けた。その動作に付き添うように漆黒の髪がサラサラと揺れた。
「何をしている……」
そう言った青年の瞳は真紅に燃えていた。
風の音は鳴りやみそうに無かった。窓の桟はガタガタと音を立てていた。木々がゆらりゆらりと揺れている。家の外にある街灯が付いたり消えたりしていた。
「……」
彰は机に向かったものの何も手に付かずにぼんやりと窓の外を見つめていた。机に無造作に広げた参考書は頬杖を付くための座布団のようになっている。
何も手に付かないのだ。その理由が彰には分からなかった。
無意識に手で身体を撫でると、殴られた痕に触れたのか痛みが走った。先ほど会社から帰ってきた父親にしこたま殴られたのだった。何故父親が自分を殴るのかが理解できなかった。
彰には物心付いたときから殴られていた記憶があった。父親はしつけだと言う。小さい頃は何か自分が悪いことをしたのだと納得していたが、悪いことなど無くても殴ることに今は気が付いていた。そんな父親を母親の隆子は一度も止めてくれたことはなかった。
もしかすると血が繋がっていないからかもしれないと考えたこともあった。それを隆子に言って隆子を泣かせたことがある。彰は泣き出した母親に謝ることしかできなかった。だが何故謝らなければならないのだろうか?かばってくれるわけでもなく、いつもめそめそと泣き崩れる隆子にその時、何故謝ったのか分からない。
彰が父親の重雄に殴られ始めると、隆子は柱の陰や戸の陰に身を隠す。全く見えないところに隠れてくれるのならいいが、柱の陰からこちらの様子を伺い、泣いているだけであった。今はただうっとうしい母親でしかなかった。
父親は何故自分を憎むのだろうか?殴られるのが嫌でいい子になろうとした。その通りにしてきのだ。言うことに反抗もせず、勉強も頑張って来た。本当は勉強などしたくなかった。ただ小学六年生の時、全教科を百点とったことがあった。そのとき父親は初めて、いつも殴る手で彰の頭を撫でたのだ。テストで良い点を取れば殴られることはないのだと思ったのが間違いだったのかもしれなかった。
それからはただ良い点を取ることだけに執着したが、何時だって満点を取ることなど出来ないのだ。学年が上がるごとにテストは難しくなってきた。殴られた身体はいつも痛みを感じており、集中など出来るはずがなかった。悪くはないのだろうが、自分が思うように点は取れない。
誰も彼もが裕喜は可哀相だ、理不尽だと言って彰達を責めた。死んだ人間が一番得をするのだ。昼間に会った警官も裕喜や純一の味方だ。純一も彰達と一緒に虐めに参加していたにも関わらず、死んだことで味方が出来たのだ。だが彰には誰も味方はいないのだ。両親すら味方ではなかった。
人のことなど考えられなかった。自分の事だけで精一杯なのだ。虐めがなんだというのだろうか?後悔どころか、反省すらするつもりも彰には無かった。
殴られた腕や背中がシクシクと痛む。傷は治りきるまでに、また新しい傷がつけられる為、身体はいつも青あざで一杯であった。そんな身体を見られたくはなかった彰はいつも体育の授業の日はトイレで服を着替えていた。
この痛みは父親が生きている間ずっと続くのだ。そう考えると彰はぞっとした。いつか自分は殺されるかもしれないと恐怖感もあった。いや、重雄にとっては彰という存在は捨てがたいものだ。生殺しのように一生痛めつけられるのだろう。
ガタガタと相変わらず窓は音を立てていた。吸い込まれそうな闇が外に広がっていた。
何処かに逃げ出したいが逃げる場所はない。尚貴には自分の居場所があるように言ったが、実際彰には何処にも無かった。学校にもない。本来なら庇護されるべき家族というものも崩壊していた。
ガチャっと急に部屋の扉を開けられた彰は驚いて振り向いた。そこには父親の重雄が立っていた。
「……なに……」
「ちゃんと勉強してるか?」
中肉中背の父親は、にこりと笑みを見せてそう聞いた。会社では仏の重さんと呼ばれていた。それを彰が知ったとき愕然としたのであった。
「してるよ……」
「本当か?」
重雄は彰の側に立ち、後ろから机を覗き込むように身を乗り出した。距離が近くなると重雄の身体から酸っぱい臭いがした。彰はその老人特有の臭いが好きになれなかった。
「本当だって……集中できないんだから、一人に……」
そう彰が言ったところで重雄の手が胸ぐらを掴んだ。
「それが親に対して言う言葉か?ええっ?」
普通の会話しかしていないはずなのに重雄はいつもそう言っては彰につっかかった。
「何も……言ってないじゃないか」
「気にいらんな。誰のお陰でここまで大きくなったと思っているんだ?」
彰を床にたたきつけるように離し、重雄は言った。
「……」
彰は口を閉ざした。何を言っても重雄の耳には入らないのだ。どんな言葉も反抗的だと取るのだ。こうなると、ただ終わるのをじっと待つだけなのだ。
「お前がろくでもないことをした所為で、わしは左遷されたんだぞ!」
勝手に何処にでも行ってくれと彰は思ったが何も言わなかった。ただ身体を丸めてうずくまるしかなかった。
「分かっているのか?」
そう言って重雄は床にうずくまっている彰を何度も蹴った。その度に痛みが身体を走った。目線を少しあげると、戸口に隆子の足がちらりと見えた。また戸の透き間から覗いて泣いているのだろうか?
どうしていつも見ているだけなのだろう。自分の子供がこんな目にあって何も感じないのだろうか?それともかばえば、今度は自分に重雄の暴力が向けられる事が怖いのだろうか?たぶんそうなのだろう。
お母さん……
じっと佇んで涙ぐむだけの母親……
どうして助けてくれないんだ……
チラチラと見える隆子の両足が、潤んだ瞳に滲んだ。
どうして俺がこんな目に合わなければならないんだ……
彰の心に怒りが涌いてきた。
畜生……畜生……っ!
今までずっと押し殺してきた怒りが、後から後から溢れるように心に涌いてきた。
「友達を陰で苛めるような息子をもった覚えはない」
「うるせー!」
立ち上がると彰は反対に重雄を殴りつけた。そんな反撃に出られると思わなかった重雄はよろめきながら壁に当たり、その場に座り込む形で倒れた。
「彰……」
「……んだよ……あんたそれでも父親か?おもしれーか?俺を殴りつけて楽しーか?」
座り込んだ父親の前に仁王立ちで彰は怒鳴るように言った。すると重雄は怯えた目を一瞬彰に向けた。それを彰は見逃しはしなかった。
よくよく見比べてみると、重雄より彰のほうが背が高かった。力もそうであった。
彰は初めて自分がもう小さな子供ではないことを知った。それが分かるとあんなに恐ろしいと思った父親がただの小男に見えた。
「はは……ははは……俺……ばっかみたいだな……。あんたに怯える必要はもう無かったんだ……」
彰の変わり様に重雄は目を見開いて、今の状況を必死に把握しようとしていた。
「お前は……父親に……」
「すごんだって怖かねーぜ……」
怯える必要が無くなった彰は不敵に言った。
「この……!」
重雄が立ち上がって彰に向かって拳を振り上げ走り出したが、彰は難なく父親をかわした。不意にかわされた重雄はバランスを崩し、床に倒れ込んだ。
「へへへ……情けねぇ……こんな奴に俺は今まで……」
不意に彰の瞳は潤んだ。何とも言えない空虚さを感じていた。
「やめ……やめなさい……あ……貴方の……お父さんなのよ……」
いつも泣いていた隆子が彰を止めようとした。彰は驚きで言葉を継げなかった。
「お……お父さんに……謝りなさい……」
震えながら隆子は言った。
「なんで?なんでだよ……俺が殴られてた時は、庇ってくれたことなんか無かったじゃないか……それなのに、父さんは庇うのか?じゃ、俺が殴られるのは構わないって言うのか?あんたの息子だぜっ!」
彰はショックで半泣きの顔で隆子にそう言った。だが隆子はまるで赤の他人を見るような瞳を彰に返してくるだけであった。
「そうか……」
彰は言った。
「あんたは親父に逆らって嫌われるのが嫌なんだ……」
皮肉な笑いを口元に浮かべた彰はそう言った。
「彰……」
隆子は困惑した顔で彰を見返していた。
「知らないと思ってるのかよ」
彰は重雄と隆子を交互に見た。
「あんたらがいい年して頻繁に乳繰り合ってるの分かってんだぜ。聞こえないとでも思ってるのかよ」
「なっ……何を言い出すんだ……」
重雄は急に顔を充血させたように赤くして言った。
「母さんは違う意味で泣かされてんだ。ははっ……だから親父に嫌われて冷たくされるのが怖いんだろ。息子よりもセックスが大事なんだ」
「彰!」
隆子の平手が彰の頬を打った。頬は見る見る赤くなった。しかし彰は一向に堪えなかった。平手より酷い仕打ちはいくらでもあったのだ。重雄ならいざ知らず、隆子の平手は蚊に刺されたくらいにしか感じなかった。それよりも、隆子が本当に怒っている姿など見たことがなかった彰はそちらの方がショックだった。
たしかに自分で言ったことであったがそれが肯定されたことが悲しかった。彰は今まで感じたことのない怒りが沸々とわき上がってくるのが分かった。
「図星かよ……」
握りしめた拳が震えた。心の何処かで否定してくれるだろうと密かに思っていたからかもしれなかった。
「……何で……俺を生んだんだ……親父のおもちゃだけの為に生んだのか?それとも世間体の為か?老後のためか?どうなんだよ!」
隆子に掴みかかって彰は言った。隆子は目線を逸らせ口を引き結んだままであった。
そのとき重雄は手に冷ややかな感触を捉えていた。呆然としながらもその手の先に当たる物を見ると金属バットであった。ベッドのしたに彰が押し込んでいたのが、いつの間にか転がり出ていた。
重雄は無意識のうちにそのバットを掴んでいた。冷たい感触がじわりと掌に広がった。
このままでは彰に殺される……重雄は彰の剣幕に怯えと怒りを感じていた。そして知られたくなかった夫婦の事に口を出したのだ。今までのようなしつけでは駄目だと心底重雄は思った。
徹底的に誰がこの家で偉い存在なのかを分からせないと駄目なのだ。息子が父親に反抗するなどもってのほかだった。
「彰!」
重雄の叫びのような声に彰は振り返った。次の瞬間何が起こったのか分からなかった。額に熱のような強烈な痛みを感じ、そのまま意識が遠のいた。
自分の身に何が起こったかを判断する間もなく、彰は深い闇に落ちていった。