「誘う―IZANAU―」 第8章
「何やってたんだ?停電にびっくりして泣いてるかと思ったぞ」
名塩はそう言ってからかったが、尚貴は薄ぼんやりと焦点の合わない瞳を彷徨わせているだけであった。
妙だと感じた名塩は席を立ち、入り口で立っている尚貴に近づこうとした。
「警部……」
それを制止したのは西脇であった。
西脇には尚貴の姿が、ぼんやりとした人の影と二重写しに見えたのであった。
「何者ですか?」
「私の姿が見える普通の人間もいるのか……」
感心して言った声は尚貴のものではなかった。
「その声……テープの男の声じゃないか!一体どういう事なんだ」
名塩は西脇に叫んだ。
「分かりません。ですがよく見ると、鳥島さんが人の形をした黒い影と重なって、ぶれて見えるんです」
西脇は尚貴に視線が釘付けになったまま、名塩にそう答えた。
名塩は驚いて尚貴を見た。しかし、名塩に見えるのは、半開きになった眠たげな目を向け、直立している尚貴の姿でしかなかった。
「余りこの状態を保つのは、尚貴に負担がかかってしまう。だから用件だけ言う。よく聞いて欲しい。私は、君達に忠告しに来た」
テープと同じ声が会議室に響いた。だがその声は、否とは言わせない強い口調であった。
「何を忠告しに来たんだ」
名塩はそう聞いた。
「今、君達がしている事は、全く労力の無駄だと言いたい。君達が何をしようが結果は揺るがない」
きっぱりと言い切る。
「それはどういう事なんですか?貴方が邪魔をすると言ってるのですか!」
西脇には珍しく、きつい口調であった。
「邪魔などしないし、私が手をかけるわけでもない。なるべくしてなる事だ。君達がやろうとしている事は、例えて言えば……そうだな、自然の摂理を曲げようとしているような愚か者だ」
その声は二人を蔑む響きを持っていた。
「一体お前は何者なんだ?幽霊のたぐいか、生き霊か?」
名塩がそういうと青年の甲高い笑いが響いた。
「私が幽霊?生き霊?そんなものと一緒にしないで欲しいな。私はもっと高尚な存在なんだ」
尚貴の身体を借りた青年はそういうと、クッと低い笑い声を洩らした。
「高尚だと?笑わせるな、自殺志願の少年少女を、あんな見るも無惨な姿で死に至らしめる貴様の何処が高尚だと言うんだ!」
名塩は、怒りを顕にした表情で叫ぶように言った。
「その言い方では、私が少年少女を殺しているみたいに聞こえるが?」
さも不満げに、しかし穏やかに青年は言った。
「人間の手であんな現場状況は作れないからな。そうすると人間にはない何か別な力が働いたとしか考えられんだろう」
(そう。貴様のように訳の分からん存在の事だ)
名塩はそう思いながら、見えない相手に向かって言った。
「誤解しないで欲しい。私は、死ぬことを免れない子供達の魂が、この世で迷わない様、少しだけ力を貸しているだけだ」
名塩に怒鳴られるように言葉を発せられても、青年の声は荒立てることも無く、穏やかに淡々と語りかける。その口調が名塩の癇に障った。
「死ぬことを免れないだと?違う、そうじゃない。お前はそう思う事で、自分の行為を正当化しようとしている只の偽善者だ!」
「偽善者ならばこの世の中に、溢れているだろう。先ず元凶は子を育てる両親だ」
「何を言いたいのです?」
西脇は言った。
「まあ聞きたまえ。両親は真っ直ぐで、優しく思いやりのある子供に育って欲しいと願い、人と争う事や嘘をつかない事、泣いている人がいれば優しくしてやる事を教える。更に、社会の常識として、赤信号を渡ってはいけない等、様々な事を教える。しかしだ、子は大きくなるにつれてそれらが真っ赤な嘘だと知る。真っ直ぐであればある程、利用されるか煙たがられ、ついてもいい嘘も在る事を知り、友人と争わないと受験戦争に負け、赤信号であっても車が来ない時は渡ってよいことを知る。それを自然に取り込める子供はいい。出来ない子供も少数であるが出てくる。では何故、両親は最初から、この社会で生きる本当の術を教えない?そう思わないか?」
青年は言葉を一旦そこで切り、自分の問いかけに名塩と西脇から返答がないのを確認すると言葉を続けた。
「矛盾から始まった人生の最初を、取り戻す事が誰にでも出来る訳がない。それでも世の中を要領よく渡るには、例え自分が今、白い色をしていたとしても、周りが黒ければ外面だけを黒く変えることが出来なくてはいけない。出来ない子供の中には、その事を何とも感じない子もいる。自らの力で強く生きる事が出来る子もいる。しかしそれは、同じ環境に育ち、同じ両親に育てられても、更に双子なのに性格が違う……という生まれたときから持つ、個体としての性格の為だ。だからある子が、理不尽な事や行いに対し負ける事なく強く生きる事が出来たからといって、誰もが出来るとは限らない。そして、その矛盾に順応することが出来ない子達が、ふるいにかけられ淘汰されていく」
青年は静かにそう語り、2人に視線を向けた。名塩と西脇は、何も言えずこの青年の話を聞いていた。
「それをおかしいと思わないか?それなのに偽善者は私だと言うのか?」
青年はそう言って更に言葉を続けた。
「淘汰される子供も色々だ。静かに死を受け入れる子、病気で亡くなる子、事故に遭って亡くなる子、それを運命というのだろう。確かに短い一生を選ぶ魂も存在する。しかしこの世に対して、怒り、恨み、悲しみ、絶望を抱え、死しか選択を許されなかった子供はそれら負のエネルギーを抱えたまま死に向かう。それは魂の放浪を招く。安らげる筈の死の世界に逝けないのだよ。こんな事が許されていいのか?だから私は、私を喚んだその子らに力を貸してやるのさ。全ての負のエネルギーをこの世界に捨て、安らかに死の世界に逝けるように……」
その青年の言葉には、悲しみの様なものを西脇は感じ取った。
「何故、力を貸すのですか?どうして止めようとしないのです」
西脇はそう言った。
「尚貴と同じ様な事を言う」
青年は苦笑しているようであった。
「本当に死を決意した人間に出会えば分かる。それを止めようとして失敗し、自分自身の無力さに絶望するより、魂の解放に力を貸してやる方が、ずっと意義のある事だと思わないか?」
「無惨な死が、意義のある事だと本当に思っているのか?」
名塩はそう問いかけたが、声に迫力は無かった。
「死に逝く者にとって、肉体は只の入れ物にすぎない。大切なのは魂の解放だ。君達から見れば、無惨だと感じるかもしれんが、死に逝く当人はそうすることによって、負のエネルギーを発散するんだ。それを止める権利は誰にもない」
青年は当然の様に言った。
(警部も西脇さんもどうしてもっと強く反論しないんだ!二人とも忘れている。こいつは自殺者の周りの人間も、何らかの方法で自殺させているんだぞ!)
尚貴には意識があった。この三人の会話を一つ残らず聞いていた。目も、耳も、正常に尚貴の支配下にあった。但し、身体の自由と口を除いて……。
尚貴は、必死に意識を集中した。
(出て行け!身体を返せ!)
尚貴は頭が割れそうなのを堪えて、繰り返す。
「出て行けって言ってんだよ!」
尚貴はやっと自分の声で叫ぶと、その場に倒れた。
「鳥島!」
「鳥島さん!」
名塩と西脇は、その声で我に返り、床にぐったりと横たわっている尚貴に向かって、走り寄った。
尚貴を抱え起こした名塩は、西脇に叫んだ。
「救急車を頼む!俺は人工呼吸をする。早く呼べ!」
言われるよりも先に西脇は、会議室内にある電話の受話器を取っていた。
抱え起こされた尚貴の呼吸はその機能を放棄していた。
その日、池田和夫は十一時頃、会社から帰宅した。
降りしきる雨で、コートはびしょ濡れになり、和夫はその日の朝、傘を持って出なかった事を後悔しながら、玄関口で妻の芳美を呼んだ。
「済まないな……」
和夫はそう言い、濡れたタオルと脱いだ靴下を芳美に渡した。
「お風呂……暖まってますよ」
芳美はそう言い和夫にスリッパを差し出した。
「ところで純一の奴、今日も学校を休んだのか?」
芳美は和夫の言葉を受けて、首を縦に振った。
「そうか……」
和夫は風呂を後回しにし、濡れた服を着替えると、無言で純一の部屋に向かった。
田中裕喜の死後、和夫は純一と面と向かい、話す機会がなかった。機会がないというより、自ら避けていたのかもしれない。しかし和夫は、あの事件後から今日の日までずっと、これからの純一の事をどうしてやれば良いのかと、そればかり考え続けていた。
そして今日、一番最良だという考えがようやくまとまった。和夫はそれを純一に話すつもりであった。
純一の部屋の入り口に着くと、和夫は戸を軽くノックした。
「入っても良いか?父さん話があるんだ」
純一からの返答はなかった。もう何年も入った事が無かったので、少し躊躇したが、和夫はそっと部屋に入った。
六畳の部屋は意外に片付いてた。しかし机の上には教科書や参考書、ノートなどが積まれ、鞄は椅子の上に置かれていた。
壁には和夫の知らない外国の映画俳優が、こちらを向いて銃を持ち、挑むような目でポーズを取っているポスターが貼られていた。
書棚の上には、純一が小さい頃、和夫と一緒に奮闘し、やっと完成させたプラモデルの帆船が埃を被らずに乗っていた。
(大切にしてくれていたのか……)
それを見た和夫は、胸が一杯になった。
純一は小さい頃、捨てられていた子犬など家に連れ帰ってきては、面倒を見ていた。自分達の誕生日に松ぼっくりを拾い、似顔絵と一緒にプレゼントをしてくれた。それから……。
和夫は様々な事を思い出し、純一のことをこう思った。
(あんなに純一は優しい子だったんだ。今だってそうに決まっている。そうなんだ……純一は優しい反面、気が弱く強さが無かった。だけどまだ……大丈夫。純一は若い。やり直しは出来る。付き合っていた友達が悪かったのだ……)
その純一はベッドに布団を被り丸まっていた。
「起きているのか?」
和夫は優しく問いかけた。
「うん……」
すると、弱々しい声が返ってきた。
「父さんな、色々考えたんだ。お前のこと……」
和夫はそう言ってベッドに向かい、床に腰を降ろした。
「お前は大変な罪を犯した。もしかすると裁判になるかもしれない」
そういうと純一が、布団の中で身体を強張らせるのが和夫には分かった。
「罪の償いはしなければならないだろう。問題はそれから……いや、これからなんだよ。私はお前を責める事は出来ない。お前は優しい子だ、それは父さんと母さんが一番知っている。だけどお前には、いじめを止める強さがなかった」
和夫はそういうと言葉を切り、いきなり話題を変えた。
「うちの会社にな、こういう社員がいる。二つの事をな、同時に出来ないんだ。一つの事をやっている間に、もう一つの事を忘れてしまうんだと。本人も分かっているがどうしようもないらしい。その社員を見ていて思ったんだ。分かっていても出来ない事があるってな、お前と同じだと思わないか?駄目だ、止めなければ……と思いながら、もしそうして今度、自分がいじめられる事を恐れ、強くなれなかった。そう……お前は強くなれないんだ」
「そんな事、今更言われなくても分かってるよ!」
そこで純一は布団をめくり、顔を出した。その顔は涙でくしゃくしゃになっていた。
「聞きなさい。今は強くならなくていい。だが、またそんな事に出くわして、いじめなんかに荷担する事になったら、必ず父さんに言って欲しい。約束してくれるか?」
「父さんに言ったって、どうにもならないんだよ!」
純一の声は泣きすぎて、掠れていた。
「いや……父さんにだって力になれる」
「どうやって力になるって言うんだよ……」
「家族全員で逃げるんだ……」
純一は、自分の父親が何を言わんとしているのか分からなかった。
「逃げるって……?」
「文字通りだ。転校するんだよ。不本意かもしれんが、お前がまた、誰かを傷つける事になる位なら、誰に弱虫と言われようが逃げ出す方がいい。何よりお前は、当分苦しい毎日が続くだろうが、生きて行かなければならないんだ。そしてお前が一生を終えた時、あの世で裕喜君に詫び、許しを請う為に、今度こそ自分にも、他人にも恥じない人生を送らなければならない。だけどそれには、自分自身がしてはいけないと思う行為に対し、敢然と立ち向かう強さがなければ駄目だ。だが、お前自身が自覚しなければ、人に言われて強さは生まれない。だからお前が強くなれるまで……お前に戦う勇気が生まれるまで……その中でお前が、もう逃げ出すのは嫌だ。逃げる位なら戦ってやるぞ。と、いう気持ちが芽生えるまで、父さんと母さんは、お前を連れて日本中逃げ回ってやる!」
和夫はきっぱりとそう言った。
「でも……父さん会社が……」
「その都度、転勤届を出すさ。それが駄目なら会社を辞める」
和夫は断固として言い切った。
「でも……」
純一はその言葉が嘘でない事が分かった。しかしそれに対し、自分がどう答えていいか分からなかった。
「そうやって全国を転校しているうちに、お前にあった学校も見つかるはずだ。そうだろう?」
和夫はそう言って笑った。
「家族は一心同体だ。父さん達に気を使う事はないんだよ。それにな、父さん達のこれからの人生より、お前の人生の方が長い。だからお前が、幸せに生きる事の出来る所を見つけてやりたいんだ。その場所こそが、家族仲良く暮らせる所だと思う」
和夫はそう純一に力強く言った。
「父さん……」
純一の目には、今までとは違う涙が溢れていた。
「父さんな、夕飯これからなんだ。1人じゃ味気ないから付き合ってくれないか?」
和夫は、自分が話したい事を全て言い終えると、急に照れくさくなって、「父さんの話はそれだけだ……」と、やや小さな声で言い、そそくさと純一の部屋を出た。しかし、部屋の外からもう一度、純一に言葉をかけた。
「早く来るんだぞ」
その言葉を純一は、自分の嗚咽とともに聞いた。
純一は和夫が会社人間だと思っていた。小さい頃、遊んでもらった記憶も殆ど忘れかけていたが、一つだけ鮮明に思い出した事があった。
純一の純は、誰よりも純粋であって欲しいと思って付けた名前なんだ。は……そうだなお前がどんな事でも良いから、それは勉強ではなくて、たった一つでもいい、自分のしたい事で一番になって欲しいという願いを込めたんだ。
それは夏祭りの帰り、純一を肩車し、和夫が教えてくれた事であった。
純一の手には、和夫が息子の為にすくってくれた金魚が、小さい袋に入り揺れ、それに提灯の灯が反射してキラキラと輝いていた。それをずっと見ていたくて、このまま提灯の列が続けばいいのに……と純一は思いながら、家路についた。
純一はそれを思い出して、止めどもなく涙が流れ出した。
涙が止まらない為、暫く部屋を出ることが出来なかった。
田中裕喜が通っていた、そして池田純一、小川勝己、長野彰、岡林賢が通う私立慶愛高等学校は、有名大学の合格率が高い。しかしやはり、入学試験の難しさは、他の学校に較べて抜きんでており、しかも両親の収入も入学選考の対象になり、学力と共に、高い生活水準も要求される。そして、たとえ入学しても、テストで学校側が決めた最低ラインを一回でも取ると、一ヶ月間、毎日放課後二時間の補習コース行きになる。
この学校の男子生徒は皆、一様に黒っぽい学生服を着、髪型の長さは制服の襟より上、前は眉毛よりやや上、横は耳に掛からないように切り、靴下は白、シャツも白、上履きは後ろを踏まぬようきちんと履く。女子生徒もそれに違わず、髪型のみ、肩まで長さは許されていたが、その場合は黒のゴムひもで二つに括る。それ以外は、男子生徒と同様の規則であった。
とにかく全てに関して細かく決められており、必ず守るように義務付けられていた。その所為か、ここの生徒に対する住民の印象は、背の高い低いを別にすると、礼儀正しいが個人の見分けが付かない。と、いうものであった。
長野彰は、教室の外を眺めていた。彰の席は窓際にあり、その後ろには賢の席があり、後ろからせわしなく、参考書を繰る音が聞こえている。
長野彰と、岡林賢は同じクラスであった。その1年5組の教室は自習の為、教師が居ないにもかかわらず騒ぐ生徒も皆無で、時折ひそひそと小さな声が交わされる程度で、それぞれ自習に励んでいた。
彰は、窓から視線を外し、後ろの席に座っている賢に小声で話しかけた。
「聞いたか?純一の奴、学校辞めるんだってよ」
彰は、心の中では動揺していたが、それを悟られないように賢に言った。
「知ってるよ、さっきあいつのおやじが、学校に来てたの見たよ」
賢は、彰の方も見ず、参考書を見ながら彰に答えた。
「ふうん……」
彰はそう言いうと、再び窓から見える景色を眺めた。運動場は昨日の雨で湿っている。しかし、水はけが良いように設計されている所為か、雨が降った名残りは余り見当たらなかった。ただ、ところどころ地表に色の違う斑点が浮き上がっているのみであった。そしてその方向を見れば、校舎とL字型に建てられている体育館が、自然に視界に入る。彰にはそれが怖かった。
体育館は立派な建物であったが学力優先の為、体育授業は指定単位ギリギリで、しかも余り体力を消耗するものは避ける様な傾向であった。しかし今は、自殺騒ぎで閉鎖されており、シンと静まり返っていた。
(登下校が一番最悪なんだよ……)
彰にとって、登下校が一番苦痛であった。門から校舎にはいるまでの間、血塗れになった裕喜の死体があったという体育館が、異様な存在となって迫って来る気がし、何度も冷や汗をかく目にあった。しかし一度視線が合うと、彰はそこから目が離れなくなってしまうのである。
(裕喜の奴、ばかな事しやがって)
彰は心の中で悪態を付いた。
俺が悪いんじゃない。勝己がやろうって言ったから仕方なかったんだよ。あいつに逆らえないこと位、裕喜だって分かってた筈だろう。それなのに血文字なんか残しやがって!刑事は来るわ、おやじにはいつもより殴りつけられ、お袋には泣かれるわ、さんざんな目にあったんだからな)
彰は、まだ治りきっていない痣だらけの腕を、制服の上から撫でた。
彰の父親は、上場会社の部長であった。会社では仏の重さんと呼ばれていた。しかし家庭では、彰が小さい頃からアラを見つけては殴りつける虐待者であった。母親といえば、その父親を止めることも出来ず、いつも柱の影に隠れて、弱々しく泣いていた。
彰にとっては、裕喜の自殺よりも父親に殴られたことの方が、どちらかと言えばこたえていた。
とはいえ、自分がいじめられる側でなくて良かったと思った。彰にとって、いやグループ皆にとって田中裕喜という存在は、ストレス解消に必要な存在であった。今から考えると、酷かったかもしれないと思いながら、その時は楽しんでいたのは事実であった。
彰はやっと視線を外し、目の前の賢を見つめる。
彰が今回の件について色々考えるところがあったが、賢はそんな事は意に介さないように、いつも通り日常を送っている。
(こいつはどう考えているのだろうか……)
黙々と、自習を進める賢であったが、彰のじっと見つめる視線に気付いた。
「なに?」
「いや……お前は裕喜の自殺を、どう考えてんのかな……と思ってさ」
彰は、ずっと聞きたかったが聞けずにいた事を、思い切って、出来るだけ努めてさりげなく言った。
「別に、考えたって裕喜が生き返るわけでもないし……いじめなんか何処にでもある事だろ、それに僕は裕喜をいじめてたっていう気は無かったよ。あいつがそう思ってただけだろ、迷惑な話だよ」
賢は、レンズの厚い眼鏡を人差し指で鼻の上に少し上げ、位置を直すとそう言った。
彰は、賢がいつもするその仕草が、妙に鼻につき好きではなかった。いい加減、コンタクトにしろよ……と、彰はいつも思っていた。しかしテスト前は、いつもノートを借りる手前、言えずにいた。
「そうだよな。いじめた訳じゃなかったよな」
と笑いながら言い、それにつられて賢も笑った。しかしその笑いは、何処か白けていた。
(お前は気楽でいいよな。成績だって中の下だし、僕みたいに上位の人間じゃないんだから……)
やっと向こうを向いた彰の背中を見ながら賢は思った。
賢は裕喜の自殺があってから、表情には出さなかったが酷く動揺していた。家での自習も手に付かない日が続き、眠りにつくと、血塗れの裕喜が恨めしげに賢の方をじっと見つめる夢を見、何度もうなされた。
(こんな事で今度のテストの順位を落とすわけにはいかないんだ。僕の目標は、東大文・にストレートで入って、裁判官か弁護士、もしくは官僚に成ることなんだから……父親に認めてもらうには、それしか方法がないんだ!)
賢の父親は、市内の総合病院の院長であった。その息子として将来は、医学の道に進むことが当然だというように育てられた。
医者になり、いずれは院長の父親の跡を継ぐ。それ以外の道を選ぶことは許されない事であり、両親に対する裏切り行為であった。しかし、賢はあえて違う道を選ぼうとしていた。
賢の父親は支配的で、自己中心的、すぐ人を見下す人間であった。たぶん……と賢は小さな声で呟いた。
(そんな父親が敷いたレールの上を歩きたくないんだ。今を逃しては一生僕の人生に干渉し、そして恩を押しつけ飼い殺しだ!それから逃れるには、父親とは違う職種で、且つ一握りのエリートしかなれない仕事に就かなければならない。普通のサラリーマンにでもなろうものなら今まで以上に、人生の敗北者だの、馬鹿だの、あらゆる言葉の限りを尽くして、僕を罵倒するに違いない)
賢の眼は狂気を思わせるような光を発していた。
(あの男の思い通りにはさせない……僕は僕の手で、自由を勝ち取るんだ)
賢は、何度も自分に言い聞かせながら、参考書の問題を解こうとした。しかし、一度湧いた心の動揺は、いくらすくい上げても池の底に沈む澱のように、賢の体に執拗にまとわりついた。
賢には罪悪感はなかった。それよりも後悔の念の方が強い。こんな事になるなら、いじめなんかに参加しなければよかったと、賢は思っていた。裕喜の自殺という事実で自分の心と生活が波立ち、勉強以外に、心を少しでも割かなければならなくなった事が、賢を苛々させる原因となった。何より賢は、楽しんでいたわけではなかったからだ。かといって他の仲間のように、自分のストレスを解消するために、裕喜をいじめていたわけではなかった。
それは裕喜という人間に対する嫌悪感からであった。何を言われても、何をされても裕喜は反抗することが無く、いつもへらへらと笑っていたからであった。裕喜にしてみれば、悔しくても反抗することができず、かといって泣いて許しを請うことだけは絶対にしたくはなかったのである。だから裕喜はありったけの勇気を絞って笑う事で、いじめに対抗していたのであった。
しかしそんな裕喜の思いなど賢は知る由もなかった。賢にとっては、その笑いこそが、嫌悪の原因であり、理解できない行為に映ったのであった。
しかし本当のところ賢は、裕喜のその姿が自分と重なっていたのである。それこそが賢がいじめに参加した原因であった。どんなに口汚く罵られても、どんなことを強制されても笑う裕喜……それは賢が父親に対する態度と全く同じであったからだ。
賢が一番、この世から消してしまいたいと切望している自分の惨めな姿がそこにあった。
裕喜をいじめること……その憎悪と痛みは結局、自分自身に向けられていた事に、賢は最期まで気付くことはなかった。
しかし、この事件の張本人である小川勝己は、彼らとは違う隣に当たる4組のクラスで心ここに在らずと授業を聞いていた。
(かったりーな)
勝己の右手はシャーペンをノートに突き立て、くるくる回していた。
(裕喜の奴、簡単に自殺しやがって、あーあっ……退屈しのぎの玩具が無くなっちまった)
勝己はそう考えながら、眠そうに大きな欠伸をした。教師はそれに気付いたが、別に注意をするわけでもなく、黙々と授業を続ける。
それは単調な子守歌であった。
勝己は小さい頃から頭脳は優秀であった。一度教科書を読めば、まるでカメラで写真を撮るように、頭に焼き付けられる。しかしそれだけではなく、応用と理解力があった。テストでは学年順位、上位5番から落ちたことがなかった。教師らは勝己に、「真剣にやれば学年トップの座どころか、将来はノーベル賞だって夢じゃない。君は世界に出て、ひとかどの人間に成る事を約束された……選ばれた人間なんだよ」と説得されたことがある。しかし勝己にはどうでもいいことであった。
父親は議員で元文部大臣の小川真二郎、祖母は元華族出身である。財産は戦後、父方の祖父が莫大な富を築き今なお、かなりの資産家であった。そんな中に一人息子として育った勝己には手に入らない物はなく、小さい頃から我が儘に育った。しかし、誰もが羨む様な環境で育った勝己は不満のない生活を送る一方、毎日が面白くなく退屈で、時には無気力感に苛まれることもしばしばあった。
そんな生活の中で、裕喜は格好の玩具であった。
裕喜をいじめること……それは勝己にとって一種の喜びであり、既に生活の一部となっていた。
(自分勝手な死に方しやがって……死んでからもむかつく野郎だ!)
裕喜の死は、自分達の度のすぎた行為の結果であるにも関わらず、勝己の怒りは死者に向けられていた。
(それにしても……おやじの奴、俺より怒ってたよな)
勝己は歪んだ笑いを、その顔に浮かべた。
一週間程前、新聞記事に裕喜が自殺した直後のモノクロ写真が掲載されてから、父親の真二郎の機嫌がすこぶる悪いことを思い出した。丁度、選挙を控えピリピリしている時期に、自分の息子が同級生を死に追いやったという事が発覚したものだからまさに、寝耳に水であった。しかし、だからといって真二郎は、勝己を叱る事は無かった。息子がそんなことをしたとは信じられなかった……いや、全く信じていなかったのである。
真二郎は、忙しいのを理由に勝己とは顔を合わせることができずにその件で話し合う機会がなかった。しかしやっと、昨夜久しぶりに早く家に着いた真二郎は、居間のソファに四肢を伸ばして、天井を見、ぼんやりしている勝己を認め、言葉をかけた。
「勝己、実際にはどうなんだ?新聞に書いてあったようにいじめをやったのか?」
勝己は父親の声を聞くとソファーに座り直し、悲しそうな目を真二郎に向けた。その目は、自分を信じてくれない父親に対する非難のように、真二郎には思えた。
「いや。悪かった。お前がそんな事をしたとは、わしも思わない。ただ、どうして自殺した同級生がお前の名前を残したのか、それが分からなくてな……」
ちらっと勝己の目を覗き込むように真二郎は問いかけた。
「僕は、そっ……そんなことしないよ。たまにからかっただけなんだ。あの程度で自殺するんだったら、僕だって死ななきゃならないよ。僕はただ、友達も居ない裕喜と仲良くやってたつもりだった……それなのに……」
勝己はそう言って、うなだれた。その姿は本当に友人が死に、心を痛めているように見えた。しかしこれは勝己お得意の芝居であった。だが、真二郎は本当の息子の姿を知らなかった。
「わしの子供の時代にもいじめはあったさ。わしとて、例外なくいじめにあった。だが、あんなもの誰もが通る道だ。少しいじめられた位で自殺する人間は所詮、この厳しい人間社会を生き抜くことはできん。そう考えれば早々に死ねたことは良かったかもしれん。しかしだっ、死ぬのは勝手だが人に迷惑をかけるとはどういう神経をしとるんだ!親の顔を見てみたいな」
真二郎は迷惑げに言った。勝己はそういう父親が、本当はどんないじめがあったかを知ったらどういう顔をするだろうと思い、真二郎に見えないように、ニヤリと笑った。
「父さん。ごめんよ……俺の所為で、なんかすごく迷惑をかけたみたい……」
勝己はしおらしげに真二郎に言った。瞳の端は潤んでいる様に見える。しかし、その言葉とは裏腹に勝己の心は、笑いを堪えるのに必死であった。
「気にするな。だが、お前だって学校で大変だろう。嫌なことがあったらいつでも言いなさい。私が何とかしてやる」
真二郎は打ちひしがれ、途方に暮れている様に見える勝己に優しく声をかけた。
待ち望み、やっと授かったたった1人の子供は、真二郎にとって何にも代え難いものだったのである。
母親似の優しい顔立ちに、バランスのとれた体躯。そして人当たりも良く誰からも好かれ、その上驚くほど勉強もできた。小川家にとって、これ以上立派な跡継ぎを望むことはできないのだ。それほど勝己は真二郎にとって完璧な息子であった。
「誤解というものは、この世には沢山ある。その犠牲にお前はなったのだ。本当に責められるべきは自殺した少年だ」
自殺した少年は、被害妄想に取り付かれた迷惑な人間……それが真二郎の下した裕喜に対する評であった。
勝己の見る限り、選挙の準備に対する不満も相まって、父親の怒りは裕喜に向けられた様であった。
そんな父親の事を勝己は思い出し、どうしてこう人間は単純なんだろうと思った。
(みんな、ばっかじゃねーの)
机に顔を付け思わず笑い出してしまいそうな自分を押さえながら肩を震わせた。
誰もがおやじの名前に先ずびびり、次に俺が礼儀正しく、どうしてこんな事になったのか分からない……と、困惑してみせると先生も校長も家に来た刑事も、みんなこの俺に騙される。これが笑わずにいられるか。何より死んだあいつは、只のゴミだ。俺のようなエリートから言わせて貰うと、掃いて捨てて何が悪い……という所かな。所詮、あんな奴は目の端にとまることすら許されない人間なんだ。早々に死んで良かったんだよ。裕喜が死んで少々残念な気はするが、どうって事ないさ。玩具はこれから幾らでも手に入る。俺以下の人間は世の中に溢れているからな。
勝己はさすがに声は出さなかったが、代わりに満面の笑みを浮かべていた。
次は誰にしようかな……。
顔を起こし、視線をクラスの生徒に向ける。
目に映る生徒達は全員猫背になりながら教師の一言すら聞き洩らさないように真剣に授業を聞いていた。
辛気くさいな……。
そんな景色を見るのも飽き飽きした勝己はため息をつくと、なにか楽しい夢を見ようと眠りに落ちた。