「誘う―IZANAU―」 第13章
「鳥島君の決定は仕方ないと思って欲しい……」
署長の松原はそう言ってため息を付いた。
「それが規則ですので仕方ありません。ただ、私も鳥島君を結果的に一人にしてしまったこと、所轄連絡を入れなかったこと……それらを処分の対象にしていただきたいと思っています」
「しかし、君は連絡を入れたのだろう？」
「通じなかったのなら同じだと思います」
「まぁ、それはいい。そんなことより……今、一体何がおこっとるんだと思う？」
中年太りの身体をゆさゆさし、署長の松原はため息を付いた。勤続４０年、所轄の署長も転々として東署に来た。ここで穏やかに定年を迎えるのだろうと思っていた矢先の事件に松原は困り果てているようであった。
「私には何とも……」
同じように困り果てながら言った。
「こんな考えられん事件が立て続けに起こるなど……私は悪夢を見ているんじゃないかと思う」
窓際を行ったり来たりせわしなく歩きながら松原は言った。田所と松原は囲碁仲間であった。そういう気安さから、松原は本音を田所に言った。
「私もです……」
「現場の写真を鑑識から貰ったが……あんなことが本当に現実に出来るのかと私は不思議で仕方ない。人間がフェンスを通り抜けるなど……考えられるかね？何よりフェンスの金網を全く曲げずに人間がバラバラになるなど……映画でもあるまいし……。それなのに鑑識はそこを通り抜けたと言い張る。これをどう報告書に書き、何と言って仏さんの親に説明し、マスコミ発表をするんだ……」
松原はしきりに考えるようにそう言った。その度に額の汗を何度も拭いた。田所はそんな松原が気の毒になった。この事件を巧く解決する事など、どう考えても不可能だからだ。
「本当は鳥島君も処分したくは無かったんだが……彼は銃を撃っている。それで誰かが傷ついた訳ではないんだが、こればっかりはどうしようもない」
「ご迷惑をおかけします」
田所はそう言って深々と頭を下げた。
「だが、私が一番心配しているのは別の事だ……」
「何か？」
「あまりの異常な事態に、どうも本庁が乗り出して来そうな気配だ……。それは県警の方からの情報だがな……」
何度かのため息の中でも一番大きなため息を付きながらソファーに座り込んだ。そしてポケットからたばこを取り出す。
「署長、止めたのでは無かったですか」
「イライラが……止まらなくてな、また復活だよ……」
そう言って一本口にくわえた。
「君もどうかね？」
「では一本だけおつきあいさせて貰います」
田所も昔にやめた口だったので、美奈代にばれたら困るな……と思いながら、たばこをくわえた。そうして火をつけ吸い出した二人であったが、田所の方は咽せかえり咳き込んでしまった。それを見た松原が伝染したように咽せた。
暫く、咳き込みながら、二人は笑うに笑えなかった。
「それで、お前はその時どう思ったんだ？」
「警部……もう駄目です……」
尚貴は涙目になってそう言った。話している間、何度も吐き気を起こしたが、胃は空っぽであったのでバケツはいらなかった。それでも名塩は執拗に尚貴に問いただした。
「それで？」
「それから？」
「どうしてそう思った？」
「本当はどう思った？」
「何と答えた？」
「駄目だと？何が駄目なんだ！みんな話し終わるまで、何時間……いや、何日だってここからは出さないぞ。俺は本気だ。分かっているだろう？」
尚貴が言い淀むと、すぐさま名塩は矢継ぎ早に言葉を発し、話を再開させる。
話が後半に入ると、尚貴の口は重くなっていった。それを名塩はこじ開ける。きちんと話すまで、何度も同じ質問を繰り返す。
そのあまりの執拗さに尚貴は涙が潤んだ。時には顔を机に擦り付けた。それでも名塩の追求は緩まなかった。助けて貰えるかもしれないと思っていた西脇は名塩を止めるような事はしなかった。
その西脇は、ただ二人の会話に、耳を傾けている。
話し合いではなかった。犯人に自白させる尋問そのものであった。尚貴は悲鳴を上げたくなるほど苦しかった。何故苦しいのかは分かっていた。後半に話さなければならないことが、尚貴を苦しめていたのだ。そのことは言いたくなかった。口が裂けても知られたくなかった。
自分の弱さを……知られたくなかったのである。
「例の男がそこでお前に何を言ったんだ？」
「あの男は……」
（私に助けて欲しいと言うんだ！）
涙がこぼれ落ちる。自分が言ったことが、あんな結果を招いたことを認めなければならない。そうだった。確かに間違ってはいない。だが、言えなかった。どうしても……
「そうやって、だんまりを決め込んでも、俺は痛くも痒くもない。鳥島、どうしてそこで止まるんだ。言っちまえ、言うんだよ」
尚貴はそれでも、じっと俯いて涙を拭いていた。
「馬鹿野郎！男がめそめそ泣くんじゃねー！」
そう言って名塩は尚貴の顎を掴んだ。それは酷く力がこもっていた。
「いいか、よく聞け。あの男がどうしてお前に執着するかは分からないがな、原因はお前なんだ。分かるか？お前なんだよ。例えお前が知らない奴だろうが、あの男がお前に関わる限り、責任はお前が取らなきゃならない。理不尽だ。そうだろう？お前には何にも関係がないのに、あっちはそうと思っていない。お前を巻き込み、楽しんでやがる。な、腹が立つな？」
コクコクと尚貴は頷いた。
「じゃ、続きを言うんだ、全部だ。黒い霧が出てきたところまで言ったな。それで男は何を言った？何度も言わせるな。いいな」
「あの男は……言いました。自分には……助けられないだろうと……だから……私に……助けてくれと言うように……自分が言えば……助けてやると……そう言いました」
「それで？お前は何と言ったんだ？」
口の中がカラカラであった。胃液の味しか口の中はしなかった。目の間がちくちくした。視界もぼやけて何がなんだか分からなかった。それでも尚貴は言った。仕方なかった。責任が自分にあるのなら、言わねばならないと思ったのである。
「助けて……欲しいと……言いました……」
絞り出すように、尚貴は言った。
「自分が……言ったんです……。純一君を助けて欲しいと……言いました。そうです。俺が純一君をあんな姿に変えてしまった。それでも言わなければ……純一君が黒い霧になってしまう……そう思うと耐えられなくなったんです。今は後悔しています。どうして良いか分かりません。でも……あの時……それが一番良かったと思ったんです……済みません……」
「そうか……それから男はどうした？」
酷く怒られる……と思っていた尚貴は、名塩が意外にそのことについて何も言わなかったのでホッとした。しかし、一番の問題がまだあった。どうして銃を撃ったか？である。それが気になったが、尚貴はそこにたどり着くまでは、何とか言葉を続けていった。それから男が何を言ったか、純一がどうなったかを……。
「それで、どうして銃を撃った？男がお前に危害でも加えようとしたのか？」
「いいえ……ただ……無意識で……自分でもよく分からないんです……」
「そんなはずはないだろう。日本で、理由もなく撃つ馬鹿はいない。それに、無意識で撃つのは訓練された者だけだ。そんな奴は戦場にしかいない」
そこまで言って名塩は尚貴をじっと見つめた。その視線が突き刺さるように尚貴には感じられた。知っているんだぞ……そう語っていた。言葉にしなくとも知られている。そう思ったが、口に出せなかった。
「言えといってるだろう！」
待ちきれなくなった名塩が机を拳で思いっきり叩いた。その瞬間、尚貴は立ち上がった。
「なんだ……？」
名塩がそういうのと同時に、尚貴はそこから逃げ出そうと走り出した。その身体を西脇が取り押さえた。
「離して下さい！もう嫌だ！こんなの嫌だ！」
暴れる尚貴の頬を西脇が叩いた。その痛みに尚貴は大人しくなった。
「席に着きなさい。さあ、早く」
西脇は尚貴に鋭い声でそう言った。見たこともない冷たい瞳の西脇に、尚貴は肩を落としながら椅子に戻った。
もうダメだ……隠しきれない……。
尚貴は、ぼんやりそう考えた。出来れば一生隠したかった。
「自分が……撃ったのは……怖かったからです……」
小さな声であった。
「あの男の言うことを……自分は認めてしまった……間違ってるとは思わなかった。純一君があんな姿に変えられたのに……です。そういう自分が怖かったんです。あの男に取り込まれるような気がした……。心も身体も……自分のすべて……生きていた人生……全部あいつのものになるような気がしました。今も……何処かで……あの時、どうなっていたかは分かりませんが、何か……そうしなければならないような……どうしてそうしなかったのか……そういう気持ちが、心の底にあります。あの時、感じた安堵感……それに対する恐怖感……みんな自分の前から消したかった。あの男に消えて欲しかったんです。だから撃ちました。怖くて……自分が……あの男が……怖くて……俺の前から……全部……消してしまいたかったから……撃ちました」
「撃った相手はどうなった？」
「悲しそうな顔をしていました……残念だと言うようにも見えました。その事で……自分は罪悪感を感じました。何故だか分かりません。自分は……いつの間にか……あの男に謝っていました。分からないんです。どうして謝ったのか……撃ったことに謝ったのかどうか……それすら分かりません……でも……謝ってました……それも……泣きながら……自分は謝っていました。馬鹿です。大馬鹿です。あの男は身体から血も流していなかったのに……傷なんて出来なかったのに……子供みたいに泣いてました。それを見てあの男は言いました」
「なんて……言ったんだ？」
尚貴は顔を上げて何処か遠くを見るように思い出した。なんて言った？
「尚貴は悪くないよ……私が待ちきれなくて……君を追いつめるようなことをしている所為でこんなにも脅えて……恐がらせて……済まない……」
「どうして……俺に……構うんだ……もうほっといてくれよ……」
「ゆっくり……思い出すんだよ……時間はもう余り残っていない……だから私もこんな強引な手を使ってしまったんだ……本当なら、もっと時間をあげるつもりだった。私は、いつまでも君の側で待っているつもりだった……でも時間がない……」
「なんの……時間……」
「君は何のために生きているか？それを自分に問いかけるといい……。何を私に求めたのか……私が君の側にいる意味を……夜の闇を……月の輝きを……思い出すんだ……」
「そう言って……消えました……景色にとけ込むように……何も無かったように……暫くして……自分が何をしたかに……気付きました。済みません……自分は……止める為にそこにいた筈の俺が……事もあろうに……」
そこまで言って尚貴は頭に手を置き、机に突っ伏して泣いた。誰も許してくれないことをしてしまったことを後悔しても遅かった。泣いて解決するとは思わなかった。それでも涙が出た。どうしようもないくらい涙が出たのだ。
「名塩警部、県警の方から連絡が……宜しいですか？」
そこに、遠慮がちに所轄の係長が、扉の向こうから言った。
「分かりました。西脇、あとは頼むぞ」
「はい」
名塩がそう言って取調室を出ると西脇は、先程名塩が座っていた椅子に腰を下ろした。そして尚貴の頭に手を乗せ、くしゃくしゃと髪を撫でる。
「すっとしたでしょう？」
その言葉が何を言わんとしているのか尚貴には分からず、おずおずと顔を上げた。
「二人していじめてた訳ではないのですよ。ちょっと厳しすぎたような気もしましたが、これも貴方の為だったんです」
西脇の瞳はいつも通りの穏やかなものであった。先程見た瞳とは全く違っていた。
「え……」
真っ赤になった目を擦りながら尚貴は言った。
「今回のことで、鳥島さんの精神が酷く傷ついていることが様子から分かりましたので、警部に相談したんですよ。警部は貴方に洗いざらい話させる事で、少しは楽になるだろうと言って……こういう事になったわけです。黙って一人で悩むより、誰かに聞いて貰う方が楽になれるのを、経験で私達は知っていますからね。罪を犯した人間は、たいてい言ってしまうまで苦しみます……悩みます……時には心の病にかかります。その前に、話させるんですよ。あらましではなく、その時何を感じたか……何を思ったかを……ね。すると、人間はホッとするんでしょうね。話してしまったからと言って何かが変わるわけではありませんが、人は心の平静をかなり取り戻します。鳥島さんはどうです？」
にこにこと笑みを浮かべながら西脇は言った。
「…………」
確かに、心のつかえが取れたようなホッとした気持ちが尚貴に生まれていた。
「済みません……」
尚貴は二人の優しさに本当に感謝した。どうして執拗に問いただされたのかを知って、尋問中、恨みがましく思った自分を恥じた。
「良いんですよ。ですが……」
そこまで言って西脇は怖いほど真剣な顔になった。
「私は……純一君を助けられなかったとは思いません。確かにその時、彼は絶望し、人生を悲観し、ただ死を願ったでしょう。でも助けられたはずです」
「…………」
「あ……そんな落ち込まないで下さい。鳥島さんを責めている訳ではありませんよ。もし私がそこにいて、あの男に助けを求めなかったとしても、純一君は飛び降りて死んでいたでしょう……。そう、彼には死しか選べなかった。いえ、選ばせて貰えなかったのです」
西脇が何を言いたいのか分からずに尚貴はじっとその話を聞いていた。
「考えてみて下さい。田所さんは応援を呼んだそうです。それはあの男によって阻止されました。その上、鳥島さんは一人にされた。田所さんは扉を開けて貴方の元に行けなかったそうです。そして……貴方は身体を拘束された。どうして？」
そう言って西脇は尚貴の方をじっと見つめる。
「純一君を助けられては……困るから？」
「そうです。本当に死が約束されたものなら、応援が来ようと田所さんが貴方の側にいようと純一君は死んでいたでしょう。それなのにあの男はそれを許さなかった。どうしても純一君を鳥島さんの目の前で殺したかった。そう思いませんか？」
殺したかった。その言葉が尚貴の目を覚まさせた。自分がどうやっても助けられないようにした。そう、あの男が殺したようなものだと強く思った。
「あの男は嘘は言っていません。確かに悲しみや苦しみが限界をこえることもあるでしょう。その頂点で死を迎えれば魂が迷うのではないかとも思います。でも人間はいつまでもその悲しみ苦しみを持続できないように造られてるんです。時には力ずくで拘束しなければならないときもあります。馬鹿なことをしないように閉じこめることもします。でも必ず落ち着きます。それは人間が生きるために与えられた忘却という精神のカウンセリングが働くからです。心に受けた傷……悲しみ……苦しみ……死への欲求……それら全て、時間と共に少しずつ癒えます。時に、精神のカウンセリングも追いつかないほどの衝撃を受けることもあるでしょう。その時、今度はサーモスタットが働いて、人間の心は逃避します。たいていは心身症、酷ければ人格後退と呼ばれる精神の病気になります。私達は病気だと判断してますが、精神にとってそれが治療になるんでしょうね……。でもそれらがあるから人間は生きていけるんですよ。そして治せない事もない。治らなくとも人間の心は悩みとは無縁に過ごします。分かりますか？あの時、貴方の身体が自由で、純一君を捕まえることが出来れば……応援が来て、飛び降りても大丈夫な対策をとることが出来ていれば、その時辛くとも私は、彼が人より辛い経験をした事で、立派な大人になれたと思うのです。母親の愛も彼の癒しになったでしょう……そのチャンスを、あの男は奪った。私はそれに腹が立ちます。だから決して貴方に責任はない。あの場を仕切っていたあの男が全ての元凶です。自分を責める前に、もっと鳥島さんは強くならなければなりません。今度はこんな事にならないように……」
尚貴はそれを聞いて目から鱗が落ちたような気がした。どうしてあの時そういう考えが浮かばなかったのかとも思ったが、一瞬……ほんの一瞬そう思ったことを思い出した。何故、あの時それが覆されたのだろうか？それが尚貴自身の心の弱さだとも思った。強くなろうと思った。青年が今度、何を言っても、それに負けないくらいに……尚貴には自分を取り戻す手伝いをしてくれる人たちがいる。尚貴を責めることなく、励ましてくれる人たちがいる。尚貴はそう強く思った。
今度こそ……次にはこんな事にならないように……尚貴はそう決心した。
純一が自殺を遂げてから三日経った。尚貴は一週間の謹慎を命じられていた為、アパートから真面目に一歩も出ずに過ごしたが、さすがに四日目となると食料も底をつき、渋々近くのコンビニへと出ることにした。
外に出ると風はかなり強く、思わず身を竦めながら尚貴は歩いた。周りの木々は丸裸になっており、枝に所々茶色に変色した葉が、危なげに揺れていた。そのうち枝から離れ、大地の肥やしになるのだろう。木の根元に幾重にも重なった落ち葉は、来年木が緑の葉をつけるために必要な栄養分なのだ。そう自然の連鎖がこんな身近にあった。その光景は本当ならばそこに自然のすばらしさを感じるのだろうが、尚貴はその光景から何ともいえない寂寥感を覚えた。色彩が鮮やかでないのが、一番そう感じる原因であろう。周りは何処もモノクロに見えた。吹き抜ける風ですら、灰色に見えた。
尚貴は軽く引っかけただけの上着をパタパタとはためかせ、飛ばないように手で押さえながら、歩いた。その歩いているという感覚もなんだかおかしかった。まだ、心と体が遊離している様な状態である。尚貴は今も純一の血の色を鮮明に思い出せたのだ。いや、思い出さなくとも、いつの間にか心はあの時の光景を何度も繰り返し思い出していたのだ。純一もその周りの景色もモノクロであるのに、血だけが赤く色づいていた。
赤い血……。
その光景はあまりにも非現実的で、夢だったのだと言われたのなら信じてしまうだろう。それほど現実では考えられない出来事が続いたのだ。神経は疲労し、くたくたであった。謹慎が一週間あるとはいえ、心の整理が全く出来ないのだ。
深いため息を付き、コンビニに入ると暫く店内をうろつくことにした。食欲は無かったのでパンをかごに入れたままうろうろしていると、何処かで見た少年を見つけた。それは長野彰であった。彰は雑誌コーナーで漫画を読んでいた。ふと尚貴は今日が平日で授業中であることに気がついた。
「えっと……彰君？」
そう尚貴が言うと彰は驚いた顔で振り返った。
「な、あんた何だよ……」
「今日は非番だから私服なんだけど、一丁目の交番に勤めてる鳥島って言う警察官なんだ。君、授業はどうしたんだい？」
「別にあんたに関係ないだろ。それとも補導でもするか？いいぜ、俺、別に……」
雑誌から目を離さないで彰は言った。
「そんなつもりで声を掛けた訳じゃないよ。ちょっと話をしたいんだけど……いいかい？」
「俺には話す事なんて何にもないぜ」
相変わらず雑誌から彰は目を離さなかった。
「人と会話するのに、そういう態度は感心しないよ」
そういうとやっと彰はこちらを振り返った。
「うるさいんだよ。あんた俺の保護者でもないくせに命令するのか？」
「命令している訳じゃないよ。お願いしているんだ」
「そんなの関係ねーよ」
彰は雑誌を戻すと、さっさとコンビニから出ていこうとした。尚貴はかごに入っていたパンを棚に戻すと結局何も買わずに彰を追った。
「彰君！」
「何だよ、まだなんかあるのかよ」
うざったいという感じで彰は言った。
「少しで良いから話を……」
そう言って腕を掴むと、彰は「いてぇ！」と叫んだ。
「ごめん。そんなに強く掴んだつもりはないんだ……」
尚貴が驚いて離した腕を、彰はもう片方の手でさすっていた。
「あんたの所為じゃないよ」
やっと立ち止まった彰が言った。その表情は辛そうであった。よく観察してみると、襟から見える首元に打撲したような跡がちらりと見えた。誰かと喧嘩でもしたのだろうか？
「学校で喧嘩でもしたのかい？」
「学校の奴らとそんな事するわけないだろ。奴らの興味は偏差値なんだからな」
プイッと顔をむこうに向けてそう言った。
「じゃ……誰と……」
「誰とじゃない。もうほっといてくれって」
きつい目でこちらを彰は見たが、十六歳という年齢特有の幼さを残す顔であったので尚貴は怖くは無かった。それより、打撲の方が気になった。
「病院に行ったのかい？」
「いけるわけないだろ。あーうっとうしい。何で赤の他人としゃべらなきゃならないんだよ。あんた頼むから消えてくれよ」
「あ……そうか……」
尚貴はようやく気がついた。誰かと喧嘩をしたのならそういうだろう。だが自分で転んで出来た打撲ではなさそうであった。後、考えられるのは彼が裕喜のかわりに苛められているか、両親からもたらされたものであろう。
どちらも当事者は隠すはずだ。
「何だよ……」
「分かったから話さなくてもいいよ。でも一度ご両親に会った方が良いのかもしれないね」
「そんなこと言ったら、てめーの所為でまた俺が殴られることになるだろう！余計なことはするな！」
虐めではなくて虐待だったのだ。
「分かったよ。その代わり少し話しにつき合ってくれるかい？」
彰は暫く思案するような仕草をし、こちらを向くと「ああ」と言った。尚貴は近くの空き地まで行くと、積んであるブロックに腰を下ろした。
「で、話って何だよ……」
「裕喜君と純一君が亡くなったことをどう思う？」
「別に何とも思わないよ」
「どうしてだい？」
「二人とも自殺だろ。死にたい奴は死ねばいいさ。それだけの事じゃないか……」
彰には二人の死について何の感慨もないようであった。
「その原因は自分にもあると思わないのかい？」
「苛めてたってことだろ。そうだよ苛めてたさ。それがどうしたっていうんだよ。別に誰でもやってることだよ」
「誰でもって……誰でもするから自分もしたんだと言うことは理由にならないんじゃないか？」
「しちゃいけないって言うのは勝手に大人が決めたことだろ」
「大人が決めた事じゃなくて、気持ちの問題だろう？逆らえない相手を苛めて楽しいのかい？罪悪感はないのかい？」
「ないさ。あいつら負け犬だよ……そんな奴が社会に出たって一生苛められるんだって。死んだ方が良かったんだよ」
「簡単に言うんだね……」
「じゃ、どう言えばいいんだよ。俺が悪かった。ごめんなさいって言えば許されるのか？あんたらおとなはすぐに子供ってのを理解してるんだって態度をとるけどさ、なーんも分かってないよ。だって俺らだって全然自分のことわかんねーんだからさ。たとえば俺が殺人を犯したとして、どうしてそのときそんな事したとかいわれてもさ、したかったからって答えるしかないだろ。だってそれがホントの事なんだからさ」
「殺人を例に挙げるのは行き過ぎているよ……」
「だからさ、言ってるだろ。あんたらが行き過ぎてると思うことでも、俺にはどれでも同じなんだよ」
苛々と彰は答えた。
「誰かに優しい気持ちとか持たないのかい？」
そういうと彰はびっくりしたような顔をして急に笑い出した。
「お巡りさん最高におもしろいこと言うよな」
「おもしろいことを言ったつもりはないけどね」
実際何がおもしろいのか分からなかった。
「俺さ、小さい頃変な幼稚園通ってたよ。あれもきっと今の俺を作ったんだなって思うことがよくある」
「変な幼稚園？」
「ああ、かけっこしてもさ、順位がないの。一番ビリでもみんな一番なんだ」
「え？」
「でよ、発表会とかあるだろ、そしたらみんな主役なんだ。笑えるだろ。でもさ、俺ずっとみんな一緒、平等だって思ってたわけ、したら小学校に上がって初めて一番もあればビリもあるって知ったんだ。中学になると勉強についていけない奴はゴミみたいなもんだったよ。偏差値を気にして、テスト前は互いに牽制しあってさ……自分は勉強していないって言う奴の方がしてるんだぜ……信用できないってそんなの。あの幼稚園時代はなんだったんだってさ……余計混乱するって、ホントに平等を叫ぶんなら全部そうしろっての。でなきゃ訳分かんない内に落とされちまうって……ま、俺はすぐに気がついたから良かったけど、ついていけなくて腐ってる奴もいるぜ。出来た感情がずたずたになるんだよ。で、偉そうにそんな幼稚園作るくせに、結局競争なんだぜ。平等だ、みんな主役だなんて社会で通用するのか？大人が結局、順番で何事も決めるんだぜ。一番が主役で、成功者なんだよ」
「一番になることが幸せとは思わないよ……」
「一番になれと無言の圧力をかけてんのは誰だよ。お前ら大人じゃないか」
「彰君……」
「口では何だって言えるんだ。言ったことに責任もてるのか？俺の人生を保証してくれるのか？将来大企業に就職出来る約束してくれるのか？でかい家を建ててくれるのか？出来ないだろ。出来ない大人が分かったように子供の味方になられても迷惑なんだよ」
「それは自分で築くものだろう」
「そうそう、出来ないことはみんな自分が努力するものだと突き放すんだ」
「言いたいことは一番が幸せとは限らないと言いたいんだよ」
そう尚貴が言うと、少し困ったような顔で彰は
「ま、あんたに言ったって仕方ないんだけどさ……」
と言った。
全く話がかみ合わない。
「苛められた裕貴君に……それに苦しんだ純一君に対して少しくらい悪いと思わないのかい？」
「思わないよ。何か考えて苛めてたわけじゃない。カエルに爆竹を詰めて遊んでいたのと同じだった……おもしろかったぜ。それだけさ」
「……理解できない」
何故そんな風に考えられるのか分からなかった。
「あんたは俺じゃない。分かる訳ないだろ。分かるよって言われてたらきっと殴ってた」
「……」
「居場所を確保出来ない奴は死ぬしかないって」
「君の言う居場所と言っても本当に心を許せる友達のいる居場所じゃないんだろう？それはとても虚しいことだと思わないのかい？」
「心を……許せる？？」
そう言ってまた彰は笑った。
「だから、あんたが虚しいと思っているだけで俺は虚しいと思わないって。居場所を確保する事が出来りゃ、何処だって何だっていいんだよ。そこを見つけられない奴が虐めにあうか、孤独になって壊れていくんだ。あんた、大人のくせに夢見る少女みたいな事言うんだな」
完全に尚貴は言葉を失っていた。
「じゃ、俺帰るぜ」
ひょいっとブロックから飛び降りて彰は言った。
「今日は……ありがとう」
言葉はそれしか見つからず、尚貴はそう言って見送った。彰は振り返らずに帰っていった。暫くぼんやりとブロックに座っていたが、ここにいても仕方ないことに気がつくと尚貴はもう一度先ほどのコンビニに寄り、今度こそ買い物をし、自分の住むアパートへと足を向けた。道々彰との会話を思い出すと虚しくなった。知らずにため息を何度もついていた。まず会話になっていなかった。相手の言うことが理解できないことばかりであったからだ。どうしてあんな考え方が出来るのだろう……尚貴はどう考えても分からなかった。彰の立場に立って考えたとしても同じである。自分があの年の頃どういう考え方をしていたか、尚貴は必死に思い出そうとしたが、全く思い出せなかった。