Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第12章

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 尚貴は純一の周りを漂う霧が、先程よりも増えたことに気が付いた。純一を知っている。彼は確かにいじめをしたが、悪い子ではないことを知っている。気は弱いが優しい子だとも芳美から聞いて知っている。その純一があんな、黒い霧になると言うのだろうか?悪意に満ちた存在に……そんなことが本当にあるのだろうか?
 その霧が純一を取り込もうとするかのように身体に覆い出すのを見た尚貴は思わず叫んだ。
「純一君を助けて!頼む……助けてやって……」
 涙に滲んだ視界の向こうに青年を映し、尚貴はとうとう、そう言ってしまった。
「いい子だ……」
 青年はそういうと、すっと純一の側へと歩き出した。
「立ち去るがいい……彼は君達の仲間にはならない……彼は光の国へと向かうのだ……お前達に同情はするが、私はなんの力にもなってやれない……去れ!」
 「去れ」の言葉と同時に青年のコートがはためき、黒い霧は消えた。
「純一君……さあ……こっちを向いて……私が力を貸して上げよう……」
 あと一歩の所で純一はこちらを振り向いた。涙でくしゃくしゃになった顔が青年の瞳に映る。
「痛くない……辛くない……死は穏やかに君を包むだろう……そして君は初めて安息を得ることが出来る。だから君の持つ怒りと悲しみをここに置いて逝きなさい。私が全て引き受けてあげるから、ここに置いて逝くんだ」
 青年は緩やかな笑みを純一に向けた。
「誰……?」
 不思議そうに純一は青年を見た。
「君の味方だよ。君は死を覚悟している。それは避けられない結果なのも、私は知っている。そして……君が痛みを恐れていることも分かっている。だけど大丈夫。私がここに居る限り、死の痛みは感じない……だから君は、安心して心に一杯になっているものをここに吐き出して逝くんだ。いいね」
「本当に……本当に痛くない?楽になれる?」
 その言葉に青年は頷いた。優しい笑みと共に……。
「こっちだ……純一君……」
 青年は尚貴の横まで戻ると純一を呼んだ。
 なんだ……助けてくれると言うのはこういうことなんだと、尚貴はふっと思ったがその意味を取り違えていることを、次の瞬間知った。
 純一はフェンスを越えようとしていた。それも身体ごと……。目の前に障害物があるにも関わらず、青年に向かってフェンスに身体を擦り付ける。両手はフェンスをしっかり掴み、身体を押しつけていた。
「何を……何をさせるんだ!畜生!」
 尚貴がそう叫ぶのを全く意に介さないように青年は純一を呼び続けた。
「腹が立つ……全てにだね、言ってごらん、君の胸の内を……聞かせてくれ……君の苦しみ……君の本当の心を……」
 すると純一は、暫く微動だにしなかった。そして……
「僕が何をしたんだよ!何で裕喜は死んだんだ!どうして父さんは僕を置いていくんだ!一緒にがんばろうって言ったじゃないか!約束したじゃないか!自分だけ逃げ出して酷いじゃないか!」
 純一は叫びながらなおもフェンスを通り抜けようとした。その手が網目状に血が吹き出す。押しつけた顔も網目の模様がくっきりと浮かび上がり、徐々に血が吹き出した。
「何で僕がみんな悪いんだよ!ど……う……し……て……」
「よ……止せ……よせーーー!」
 尚貴は、その信じられない光景に叫んでいた。目の前で、まるで網目に柔らかいものを濾したように、人間がフェンスに濾されていくのである。まず手が濾されて指や手のひらが地面にバラバラと落ちた。それと同時に顔を形成している鼻や眼球が地面に落ちる。身体中から血が周囲に飛び散り、ブロック状になった肉の塊がそこらじゅうにボトボトと重なり地面に山になった。腸は裂けた腹から流れ出し、地面に広がる。
「ぼ……ぐ……がぁ……ど……じで……」
 人間のはずの身体が、長方形の押し出した固まりになり、まだフェンスの向こう側にある身体に繋がって切れずに重力によって下にぶら下がっていた。最初に突き出された手から繋がる腕は、肘まで四分割に裂け、白骨が吹き出す血の間から見える。純一の身体の半分がそんな状態であった。それでもまだ、裂けた口から血と泡を出しながら何かを言っていたが、それは唸り声でしかなかった。
「うあああああっ!」
 尚貴は近づくことも、目を反らすことも出来ずにその様子を見て、いや、見せられたと言った方がその場にふさわしかった。そのあまりの光景に尚貴は何度も何度も、うめくように叫んでいた。人間が肉の塊と化す瞬間に立ち会いたいと思う人などいない。それを否応もなしに見せられるのだ。
「やめ……やめて……頼むから……こんな酷いことを……しないでくれ……」
 純一であった身体から飛び散った血と肉が、頬を伝う。なま暖かいそれは尚貴の涙と一緒になって滴った。
 グシャっと響きわたるような音が周囲に木霊した。全てが終わったのである。純一であった肉体はもう無く、代わりに肉の塊がこんもりと山を作っていた。その周囲には血の海が広がる。その情景は血の海に浮かんだ怪しげな孤島のようにも見えた。
「あれを見て酷いと思うか?」
 青年は尚貴に振り返って言った。尚貴はその声に自分を取り戻した。
「これが救いだと……本当に救いだと言うのか!」
 尚貴は泣きながらそう言うと、腰にぶら下げていた銃を取り出し青年に向けた。その手は震えている。
「可哀想に……余程ショックを受けたんだね……でも、君が言ったんだよ。助けて欲しいと……君が望んだんだ……」
「こんな……結果を……望んだんじゃない……」
 首を左右に振りながら尚貴は言った。
「私が関わると、どういう結末を迎えるかを知っている尚貴が、そんなことを言うのかい?」
「俺が……望んだ……」
「そうだ……でもこれが一番最良の選択だった。見てごらん」
 青年はそう言って、純一だった肉の塊を指さした。尚貴はその方向を見る。すると肉の塊から白い発光体が浮かび上がった。それは青年の周りをくるりと旋回した。
「行くといい。魂の安らげる所に……さあ……行きなさい」
 その発光体は青年がそういうと空高く飛んでいった。
「あれは純一君だった魂だ……」
 空を見上げながら青年は言った。
「彼は安らぎの地に逝ける……」
 尚貴はその青年の言葉に嘘は感じられなかった。確かに発光体は穏やかな光を発し、何故だか分からないが、それが純一であると感じた。先程の黒い霧に感じた悪意は無く、とにかくとても穏やかであった。
「本当に……?」
「あれが本当の死に向かう魂の姿だ。尚貴から見て、あの肉の塊は酷く残酷に見えるだろう。だが何度も言うようだがあれは入れ物なんだ。重要なのはその中に閉じこめられている魂だ。入れ物になる身体は何度も手に入る。永遠なのは魂そのもの……。魂は人間という肉体に入りこの地上で生きる。そして喜び、悲しみ、恨み、後悔……様々な経験をして、限られた一生を生き、また死に向かう。その過程において、魂は生きた間に経験した様々な事を小さな塊として内包して、安息の地へと還る。痛みも悲しみも苦しみも感じない安息の地へ……。それなのに、人が何故死を恐れるのか分かるか?」
 問いかけられた尚貴はただ首を横に振った。
「誰もが本当は知っているんだよ。死は恐れる事ではないことを……。だが、この地上には喜びもあるが、悲しみや苦しみもあり、人は人を騙し、自分をも騙す。裏切り、奢り、欺瞞、嘘が蔓延するこの世界で生きるためには、死が怖い、恐ろしいものでなければならない。だから大人は子に死に対して恐怖を植え付ける。それはそれでいい……別に私は死を薦めているわけではないのだからね。だが魂にも個人差があって、どの位とは言えないが、生きている間に感じた苦しみや悲しみ、恨みや憎しみが、許容範囲を超えてしまうことがある。それは死してなお残り、魂の姿に戻った時に内包できずに溢れ、本来ならば美しい白い光を発する魂の周りを覆い黒い霧と化す。いって置くが魂には生きてきた人間の人格はない。あるのはただ精神のみだ。それが黒く塗りつぶされ永遠の時を彷徨う……。恨みが許容範囲を超えれば、恨みの塊の魂に……悲しみが許容範囲を超えれば、悲しみだけの魂に……何処にも行けずに……ただ苦しみながら漂う……。たいていは混合型だけどね。もう少しで純一君もそんな魂の仲間入りをするところだったんだよ。尚貴……君は最善の選択をしたんだ。彼は肉体を切り刻むことで、全ての苦しみをここに置いていった。これは悪いことではないんだ。分かるかい?」
 尚貴は青年のその言葉に頷いた。そう、純一は安らかに天へと還っていった。それは先程見た、魂の穏やかさが証明していた。確かに自分の感覚では残酷な事なのであろう。だけどそれは自分がそう感じることであって、純一がどう感じたかの方が重要な事であった。その純一の魂は満足そうな輝きを発していた。それに対して抗議することは尚貴にも、他の誰にも出来ないだろう。自殺した裕喜も、あの少女もみんな満足した顔をして死んでいった。その安らかな顔を浮かべることが出来たのは、目の前にいる青年が力を貸したからである。青年が手を下したわけではない。彼はただ、本当に苦しむ子らを助けたかったのだ。これで良かったんだ……そう……これで良かったのだ。
 混乱しながら尚貴は、再度頷いた。コンクリートの地面には、落とした涙が染みを作っていた。それに気が付いた青年は、尚貴の顎をそっと掴み上に向けさせた。青年は尚貴に向かって優しく微笑む。
 本当にこれで良かったのか?
 じっと青年を見つめ尚貴は思った。
 本当にこれが最善なのか?
 そう思った瞬間、尚貴は無意識に安全装置を外すと青年に向かって銃を撃った。
 その音は静まり返った夜の闇にのみこまれた。



「お父さん……僕、本当に元気になれる?」
「大丈夫。なおは元気になれる。父さんがついてるからな」
「でも……痛い……身体……全部痛いんだよ……ご飯も食べられない……」
「元気になったら、なおの食べたいものを、おなか一杯食べさせてあげるからね。だからお医者さんの言う通りに、いい子にしてるんだよ」
「甘いケーキが食べたい……」
「元気になったらね……」
「でも……いつまでここにいればいいの?僕、ずーっとここにいるんだよ……もうやだ」
「身体に悪い奴がいるんだ。それを一生懸命やっつけようとお医者さんはしてるんだよ。殆ど退治できたんだけど、あと少し残っているんだよ。もうすぐそいつらも退治できるからね」
「もうすぐってどの位?」
「もうすぐって、もうすぐだよ……」



「うああああああっ」
「尚貴!尚貴!しっかりするんじゃ!大丈夫。もう大丈夫じゃ!」
「ああ……ああ……こんな……こんな……」
 尚貴は田所にしっかり抱き留められていたが、なおも暴れ続けた。
「大丈夫……大丈夫」
 田所は幼い子供を宥めるように優しく繰り返しそう言った。しかし尚貴は、しがみつきながら呻き続けていた。
 一夜明けて、やっと扉が自由に開くようになると、田所は尚貴の元へと向かった。尚貴は、屋上の真ん中で膝をついた状態で手に銃を持ち、放心状態であった。そしてその向こうに見える肉の塊……。田所が所轄に連絡を入れ、応援が来たものの、その全員がここで何があったのか全く予想が付かなかった。
 特に外傷が見あたらなかった尚貴は、毛布にくるまれ、一旦四階まで下ろされると、教室の一室で休ませることになった。
「おやじ……さん……?」
 尚貴は見上げるように田所を見るとそう言った。その脅えた瞳が酷く頼りなかった。
「そうじゃ……大丈夫……応援も来たからな。安心するんだ」
 きょろきょろと尚貴は周りを見回し、外が明るいことを確認すると、やっと田所を掴んでいる手を放した。
「警部も西脇さんも今上に来とるよ……」
「そうですか……」
 椅子に座り俯きながら尚貴は言った。
「おやじさん……どうして……来てくれなかったんですか……」
 その声は小さかった。
「信じて貰えるかどうか分からんが、お前が屋上に出たあと、わしも屋上に出ようと扉を押した。じゃがその扉がわしを押して、扉は閉まった。それからどうやっても扉は、うんともすんともいわずに開かなかった。他の非常口も開かなかった。仕方なく屋上に出る扉の前で、ずっとお前を呼び続けていたんだ……」
「開かなかった?」
「そうじゃ。わしにもどうしてなのか分からん。朝方やっと開いたが、鍵がかかっていたわけでも無し、つっかえがしてあったわけでもない。一体、どうなっていて開かなかったのか……」
「様子はどう……鳥島さん!」
 そこに様子を見に来た西脇が、教室に走り込んできた。
「西脇さん……」
 尚貴は西脇を見ると、突然ぽろぽろ涙を落とした。
「何が……あったのですか?」
 椅子に座る尚貴の前に膝をついて、見上げるような格好で西脇は聞いた。
「自分は……」
 右手で尚貴は涙を拭い、左手は膝の上で拳を作っていた。その左手に西脇は、手袋を外してから自分の手を乗せた。
「何があったのか、今は鳥島さんも混乱しているでしょう。ですから、話は落ち着いてからで良いんですよ。ただ、これだけは答えて下さい。屋上の遺体は池田純一君ですね」
「はい……」
「では鳥島さん。とりあえず、うちに戻ってシャワーでも浴びて、着替えてから所轄の方に来て下さい。分かりましたか?」
「はい……」
 尚貴がそういうと、西脇は横に控えている田所の方を向いて言った。
「田所さん。申し訳ありませんが、当分彼の側に付いてやっていて下さい。交番の方は所轄に連絡して、既に代わりの人が行って下さってます。夕方にでも所轄に一緒に来て下さい。その時鳥島さんの制服は鑑識に回して下さい。ま、そのころには現場検証もおおかた済んでいるでしょう……」
「ありがとうございます」
 田所は西脇に一礼すると、尚貴を立たせた。
「ああ、田所さん。下には言ってますので、車を使って下さい。鳥島さんのその格好で外を歩けば同業者に連行されますからね」
 尚貴は返り血を浴びて、制服に血の染みが沢山付いていたからであった。
「何から何まで……」
「良いんですよ、あとで嫌と言うほど、何があったかお伺いしますから……。もし、鳥島さんが食べられる様でしたら、何か食べさせてやって下さい。多分無理だと思いますが……」
「ええ、そうします」
 そう言って田所は、尚貴を支えるように教室を出ていった。西脇はその様子を悲痛な表情で眺めていた。
 可哀想に……状況から見て、尚貴が最初から最後まであの現場で見ていたのだろう。人があのような塊になるまで全て……。西脇はそう考えると、本当に尚貴に同情した。殺人課の刑事である自分でも、やはり気持ちのいいものではない。何より現場状況は、ただの殺傷事件ではないのだ。
 人間としての原型を留めない、などという死に方は、たいていがバラバラ事件で、それも大量の血など犯人が始末している場合が殆どなので、バケツでぶちまけたような血や肉がそこら中にある状況など滅多に遭遇しない。その上こんな頻繁にはおこらなかった。
 刑事になって初めて殺人事件をあつかったとき、ただの撲殺殺人であったにも関わらず、西脇は失神しそうになった。その後何件か扱ううちに慣れたのだった。その慣れの期間のない尚貴にとっては、精神が酷く傷ついている可能性があった。西脇はむしろそちらの方が心配であった。
「おい、鳥島は?」
 名塩が難しそうな顔をしてやってきた。
「話が出来る状態ではありませんでしたので、今、帰しました」
「そうか……。ところで、上の仏はやっぱり池田純一か?」
「そのようです……」
「まずは一人目だな……これが続くと思うか?」
「ええ……」
 西脇は低い声でそう言った。
「田所さんのあの話だがな……どう思う?」
 名塩と西脇は既に田所からは話を聞いていた。しかし名塩は、常識では考えられない事件が起こっているのは分かっているが、やはり無線の事や、扉が開かないなど、そうか分かったと、納得できなかったようであった。
「お話の通りだと思います。確かに理解に苦しむ内容ですが、私は鳥島さんの話の方がもっと信じられない内容だと思います。ですので、このくらいで驚いていては、一連の事件は理解できないでしょう」
「確かにな……上の状況を見るとそうかもしれんな……」
「鑑識もとまどっているでしょう……」
「ああ、とまどうどころか、何人か吐いてたよ。気持ちは分かる。あれが人間だったと思うと、寒気がする。鳥島がその仏と一晩過ごしたらしいが、よく精神が持ったな……」
 ため息を付いて名塩は言った。その顔はしかめている。
「過ごすだけなら良いんですが……」
「そうだった、あいつは最初から最後まで見届けたんだったな」
「はっきりそうとは言い切れませんが、多分そうだと思います」
「ありゃ、殺人課のデカでも遠慮するよ……」
 本当に嫌そうに名塩は言った。
「あの男から連絡があったと言っていたが、どうしてこう、鳥島に執着するんだ?」
「それは私にも一向に……多分、小さい頃に会ったのではないかと私は考えているのですが……ただ、鳥島さんがそのことを忘れているようですので、思い出して欲しいんですよ。ですから、今週の土曜にフィードバックを試してみようと考えておりましたが、鳥島さんの様子から見て、それが出来るかどうか……」
「ああ、お前が言っていた催眠術か……胡散臭そうだな……」
「胡散臭くなどありませんよ。確かに偽物は沢山おりますが、私が懇意にしている先生は信用がおける方です」
「何でもいいけどよ、俺はそういうの苦手だからな……。あの妙な男にしろ、この一連の事件にしろ、出来るならもう関わりたくない……。ただでさえ報告書を作成するのも難航してるっていうのに、こう、次から次へと続くと、頭が変になっちまう」
「私とて同じ意見ですよ」
 西脇はそう言って笑った。
「だが関わっちまったからには、最後まで見届けなければな……」
「結果はどうあれ……」
 二人はそう言って歩き出した。



 田所は尚貴を自分の家に連れ帰った。その方がいいと判断したのである。尚貴が来ることを、先に連絡を受けていた妻の美奈代は、そのいでたちに動じることなく、上着を脱がせ、浴室へと案内した。尚貴が大人しく浴室に入ると田所に言った。
「尚貴君大丈夫なの?」
「酷い事件に巻き込まれていてな……。ああ、着替えは何か用意しておいてくれたか?」
「ええ、尚貴君に合いそうなの適当に見繕ってきたわ」
 嬉しそうに美奈代は言った。二人には子供がいなかった。そういう訳で美奈代の方は、尚貴を自分の息子のように何かと世話を焼いていた。お弁当を二人分作っては田所に持たせ、事あるごとに夕食に招待していた。田所も、お前は構い過ぎじゃと言いながら、自分もまんざらではなかった。
「あと、何か軽いものでも作ってやってくれ……そうじゃな……お粥かスープがいいじゃろう。食べられるかどうかは、分からんが……」
 田所がそういうと美奈代は軽く頷き、キッチンへと向かった。
 キッチンへと向かう自分の妻を見て、田所は美奈代と一緒になって良かったと改めて思った。昔に一度流産して、不運にも二度と子供ができない身体になってしまった。そのときも、田所の方が美奈代に慰められた。
 元来子供好きな田所は、どうしても子供が欲しかった。だから美奈代がもう子供を宿すことが出来ないことを知って、酷く落ち込んだ。その時、一番辛く哀しかったのは妻であるはずなのに、別れましょうと笑って言った美奈代を田所は今でも忘れられなかった。その笑顔の裏には、子供を産める人を探して欲しいと言っていた。
 そんな美奈代の優しさが田所の胸を打った。誰が一番悲しく辛い思いでいるかにやっと田所は気付かされたのだ。
 それから田所は二人の人生も良いかと考えるようになったのだ。だがやはり子供がいて欲しいと思うこともあった。しかし、今、尚貴という息子の様な存在ができ、子供のない二人にはかかせない存在となっていた。
 ただ、少し気にかかる事は、尚貴の方が田所の事なかれ主義をどうもよく思っていないことだった。尚貴は好き嫌いが激しい方ではなかったが、時折そんな所を見せる。田所はそういう尚貴に、どんな人とも合わせる事を教えてあげたいと思っていたのである。そして、事なかれ主義も人間関係を円滑にするのには大切なことであると……。
「あなた……ジャガイモのスープを作ったんだけど、どうかしら?」
 美奈代はパタパタと廊下を駆けながらそう言った。本当に嬉しそうだった。
「尚貴が食べられんかったとしても、強く薦めてやるなよ」
「分かってますよ」
 そう言って美奈代は、またキッチンへと戻っていった。
 暫く外で待っていたが、あまりにも尚貴が出てこないので心配になった田所は浴室に入った。すると尚貴はぼんやりとそこに立ちつくしていた。
「何じゃ、まだ入っとらんのか……」
 呆れる風もなく、田所は尚貴を裸にすると、自分も裸になって風呂場へ連れ込んだ。尚貴といえばそんな田所に無言で従った。
 髪や身体を洗い、風呂場から出ると、タオルで身体を拭いてやる。虚ろな尚貴が心配になったが、あれほどの惨状に身を置いたのだから仕方ないだろうと、田所も何も聞かずに無言で服を着せてやった。
「美奈代がスープを用意してくれとるから、一緒に食べよう」
 田所は尚貴を居間に引っ張りながらそう言ったが、尚貴は首を横に振った。そんな尚貴を無視して、スープが置かれている机の前に座らせた。
「尚貴君、ほら、食べないと体力が持たないわよ……」
 そう言って美奈代がスープをすすめた。しかしやはり尚貴は首を横に振るだけで手をつけようとはしなかった。
「おやじさん……」
 ふっと尚貴がそう言って顔を上げた。
「何じゃ?」
「こんなにしていただいて……本当に済みませんが……少しで良いんです……横になって良いですか?」
 やつれた表情で尚貴はそう言った。その返事は美奈代の方が早かった。
「気を使わないで……ここを自分の家だと思ってくれて良いのよ。すぐ、お布団用意しますから、少し待っていてね」
「本当に……済みません……」
 尚貴はそう言って視線を落とした。
 そうして用意され部屋に案内されると、尚貴は布団に潜り込んだ。それを見届けて田所はふすまを閉めた。
「あなた……」
 見たことのない尚貴の様子に美奈代は不安げに言った。
「ああ、しかたないじゃろう……」
「何があったの?」
 今まで一度も美奈代は田所に仕事のことを聞いたことは無かった。しかし今回に限っては尚貴の様子から思わずそう言ったのだろう。田所の方も誰かに聞いて貰いたかった。あまりにも現実離れをした事件が、田所を饒舌にさせたのかもしれなかった。
「話……聞いてくれるか?信じて貰えるとは思っとらんが……それでも聞いてくれるか?」
 田所がそういうと美奈代は笑みを浮かべて頷いた。
 美奈代がいてくれて良かったと、この日一番田所は強く思った。



 尚貴は田所に連れられ、夕方所轄に戻った。空は血を連想させるような夕焼けで、思わずこみ上げる吐き気を押さえた。田所は気味が悪いほど気を使ってくれ、それすら尚貴には重く感じられた。本当は一人になりたかった。誰もいないところに隠れていたかった。何があったのか話したくは無かった。貝のように口を閉ざし、深い海の底に沈んでしまいたかった。しかし、それは出来なかった。何があったのかを話さなければならない。分かっているが、記憶のまだ鮮明な今、それが出来るのかどうか尚貴には分からなかった。
 所轄の玄関をくぐると、名塩がやってきた。
「来たか。おい、大丈夫か?酷い顔色だぞ」
「大丈夫です……」
 何とか尚貴はそう言った。
「田所さんは所長がお呼びでした。鳥島君は話がありますので、私が連れていきます。宜しいでしょうか?」
 名塩は田所にそう言い、尚貴の肩を掴んだ。
「分かりました……では私は所長室に……」
 そう言って田所は所長室に向かった。それを見送り尚貴は名塩に連れられ取調室へと入った。
「悪いな、会議室は重なってる事件の本部になってるからこんなとこしか空いてなくてな。おい、そんな脅えた顔をするな」
 尚貴が泣きそうな顔をしているのを見た名塩は言った。
「警部……」
「とりあえず、座って待っとけ。すぐ西脇が来る」
 暫くすると、西脇がバケツにビニールを被せて入ってきた。
「このバケツは、鳥島さんが気分が悪くなったときのものです。ここに置きますね」
 そう言って尚貴の足下に置いた。そして本来ならば書記がいる席に座った。
「あの……」
「これは非公式だ。分かるな。状況が状況だから、今混乱したお前の調書は取れない。一度整理してから、再度調書を取るがいいか?」
 名塩は尚貴の前に座り、手を組んでいった。そんな名塩に息苦しさを感じながら尚貴は頷いた。
「それと、先に言っておくが、お前の処分が決まった」
「処分……ですか……」
「そうだ。お前は銃を撃った。それは覚えているな?弾は屋上にある機械室の建物にめり込んでいた。それに対しての処分だ。刑事だろうが、警官だろうが、銃は例え相手が殺人犯でも、余程特別なことでない限り、撃てば処分を受ける」
 一発につき減棒であったことを、尚貴はかすかに思い出した。
「はい……」
「お前の場合、一般市民にそれを目撃されたり、巻き込んだりしていない分、処分は軽く済んだ。俺もフォローを入れたんだから感謝してくれよ」
「済みません……それでどういう処分になったのですか?」
「三ヶ月の減棒と、一週間の謹慎処分」
 軽く済んだとはいえ、処罰を受けたことのない尚貴はショックを受けた。
「下手すりゃ首だぞ、撃った相手を説明できないんだからな。そこんとこをよく理解するんだ。そんな落ち込むことはない。俺なんかしょっちゅう処分を受けたからな。謹慎も休みを貰えたと思えば良いんだ」
「…………」
「じゃぁ、本題に入ろう。細かいところまでじっくり思い出して話してくれ。特にあの男が何を言ったかを一語一句思い出すんだ。西脇がそれを書いて問題のないところまずいところを振り分けてくれる」
 そういうと西脇が、鉛筆を持ってこちらを向いた。二人の準備は万端であった。
 もう覚悟を決めるしかない。尚貴はそう思って観念した。
「あの男から電話がありました。時間は……」
 話しながらも尚貴は鉄格子の付いた磨りガラスを見ていた。逃げ出したい……ただそれだけが、今、自分の心を支配していた。
 そんな尚貴の心をよそに鉄格子は冷たい光を発していた。
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