Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第22章

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「……そう思います。俺は、そういう経験が無いから、はっきりとした意見は言えないんですけど。違う。多分、そういう目にあったことのない人間が何をいっても説得力は無いような気がする……」
 まだ赤みが残る雲を眺めながら、尚貴は呟くように言った。
「人って、優しくもなれるし、許すこともできる。それは自分の中にある心にもあるものだと思う。でも、嫌な自分もいるし、嫌な人もいる。これが人間だって思ってるわ」
 伶香は何故か笑っていた。
「伶香さんって哲学者みたいだな……」
「そうかしら。私はいつでもいろいろ考えてるだけ。そこで判断したことが、正しいことなのか悪いことなのか、後にしかわからないけど。でも、考えることをやめたら人間じゃなくなっちゃうでしょ。私は、生きてる限り答えを探すのよ……。でもきっと答えは見つからない」
 ブラブラと大きく手をふって伶香は笑みを浮かべていた。不思議なことに尚貴にはとても伶香が綺麗に見える。容姿ではなくて伶香の心の中を覗いたような気がしたのだ。それはとても澄んでいて、静かなものだった。
「伶香さんって……綺麗ですね」
 ふと漏らした尚貴に、伶香は振り返って、顔を赤らめた。
「……鳥島さん、何、言ってるの?」
「え、別に……なんでもないです……」
 ははっと笑って尚貴は誤魔化すように伶香から視線を逸らせた。



 いつものように夜を迎えるはずだった。
 だが、今日は違った。
 隅にいるはずの子供の姿がない。
 身体を這っていたはずの、虫たちもなりを潜めている。
 そろそろ、楽になれるのだろうか。
 男は期待に満ちていた。
 望んでいた永遠の静けさがようやく訪れるのだ。
 確かに今日は静かだ。
 誰かが遠くで部屋を叩く音も。
 見回りの男が持つ警棒の音もしない。
 どこかかけ離れた世界に行けるのだろう。
 だが、安堵の気持ちで胸を一杯にしていた男は、いつもと違う気配を感じていた。子供とは違う誰かがこの部屋にいる。
 男は一度閉じた目を開けて、目だけを動かした。すると、子供がいつも立っている場所に真っ黒な影を見つけた。よく見ると、影ではなく、男が着ている服のせいだと気づく。
 男はもっとよく見ようと目を凝らした。

 黒い影に見えたのは、青年だった。
 どうやってここに入ってきたのだろう……。
 男はいつも固く閉ざされている扉を見つめたが、鍵が開けられた気配はない。なにより、鍵が開けられる音など男は聞こえなかったのだ。
 耳は耄碌していないはずだ。
 ということは、この青年はどうやって入ってきたのだ。
 青年は男と目が合うと、口元だけに笑みを浮かべた。
 青白いとも見られる白い肌に浮かぶ、灰色の瞳。その奥には決して触れてはならないものが延々と広がっているように見える。
 はっきり言おう。
 頭がおかしくなっているわけではないのだ。
 これだけは言える。
 俺は正常だ。
 ただ、誰も信じてくれないだけだった。
 今、見えている青年は幻想でもなんでもない、自ら作り出した幻ではない。
 いつも見える子供もそうだ。
 男には見えているのだ。

 ただ、誰も信じてくれないだけだった。

「お前にはお前の役目がある……」
 青年は口元を動かさずにそう告げた。
 どうして口を閉ざしたまま声が聞こえるのか男には分からない。
 狂ってなどいないと叫び続けてきたが、実は狂っていたのだろうか。
 いや、狂ってなどいない。
 見た目はどれほど醜くなり、人間として形をとどめていなくても。
「ああ、分かっている。お前は狂ってなどいない。私は確かに存在する。ただ、見える人間が限られているだけだ……」
 青年は目を細め、うっすらと笑った。
 どこか危険なものを含み笑みは、男を震え上がらせた。
『あっちにいけっ!』
 男は心の中で叫んだ。
「お前は救われたいのだろう?そして……お前の失ったものを取り戻したいと思っている」
 青年は音も立てずに男が縛り付けられているベッド脇に立った。見下ろす青年の顔は陶磁器で作られたような白さがある。
『俺の言うことが分かるのか?』
 もう一度、男は語りかけてみた。 
「ああ……分かるとも」
 青年の手が伸び、男が拘束されているベルトの上を撫でるように動かし、触れることなく外していく。長年、繋がれていた拘束服の感覚が一気に身体から去って、男に自由を与えた。とはいえ、男は青年の向ける視線に、動けずにいた。
『……あんたは、一体、なんだ?』
「お前とは一度会っているが、忘れたか?」
『……いつ?』
「思い出せないのなら無理に思い出す必要はない」
 青年は、穏やかな声で言い、男の身体をそろりと撫でた。するとあれほど痛みで苦しめられてきた身体が楽になっていく。
『あんたは、一体……』
「楽になりたいか?」
 楽にしてくれるのだろうか。
 本当に?
 苦しんでいた自分を解放してくれるのだろうか。
 疑いの目を向けていた男だったが、青年の穏やかな笑みに、心を許しはじめていた。
 青年が一体どういう存在なのかはもう男にはどうでもよかった。
 ただ、楽になりたかった。
 だから、男は頷いた。
「では……お前が後悔していることを探しに行け」
 青年は手を伸ばし、出口の方を指さした。先程まで締まっていたはずの扉が開いているのが男には見えた。だが、すぐに男は動けなかった。
 ここから出て何処に行けばいいのだ。
 男はただ、楽になりたいだけなのに。
「私が導いてやる」
 青年の言葉に、男はようやく身体を起こし、ベッドから降りた。いつも感じない、冷えた床の感触が足の裏から伝わってくる。
 冷たい……という感覚を男は久しぶりに味わっていた。



 息子がどれほど、非人間的な存在であるのか、母である重美には気づいていた。父親である小川真二郎は知らない。息子の勝己がどれほど素直な子供の仮面を被ることに長けているのか、母である重美が知っているだけだ。
 自分の息子であるのに、重美は勝己の存在を恐れていた。
 同じ時期に生まれた男の子。
 恐ろしい……。
 重美は暮れた空を眺めながら入院している隆子のことを思いだしていた。
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