Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第3章

前頁タイトル次頁
 待ち望んだ朝は意外に早く訪れた。
 太陽の光は全てのものを浄化するとすれば、朝の光こそふさわしいのではないか。朝露は木々にたわわに実り、それに反射して光は複雑なモザイクを描き出す。生きとし生けるものに平等に降り注ぎ、その力を発揮する。睡眠という闇から目覚め、人は光の中で生活を営む。
 睡眠。それは人としての防衛本能の一として、闇という得体の知れないものが巣くう環境から本能的に我が身を遠ざける手段ではないか?
 そう思わせるほど朝の光が心地よく目の下のクマすら尚貴は気にならなかった。けだるい体もそう悪いものでも無い。
 しかし、捜索結果は見事に空振りし、生き物として見つかったのはネズミだけだったのである。警官達も憔悴の色を隠せない様だ。
 例の少女は夜が明ける一時間前に解剖のため大学病院に運ばれていった。細切れになっていた内臓なども、丁寧にビニールに詰められ一緒に運ばれた。尚貴はその様子も見ていたが、鑑識係の仕事ぶりに頭が下がる思いだ。やれ、と言われれば出来ないこともないが、やはり気持ちの良いものではないから。
「朝ご飯でも食べに行きましょう」
 ビルの玄関で尚貴がぼんやりしているのを見つけた西脇が言った。
「あ、いえ自分だけ行く訳には……」
 なによりああいう光景を見た後なので、食欲が無い。
「こういう商売の人間は自分で自分を管理しなくてはいけないんですよ。どんな事件にあっても、食事は少しの暇を見つけて行くしかないんです。サアサア行った、行った!」
 西脇は尚貴の背中を押し、有無を言わさずビルの向かいにある喫茶店に引き込んだ。
「あの、警部はいま……」
 尚貴は仕方無しに、とりあえず窓際の席についた。
「今、警備員の話を聞いてますよ。それに警部は朝、食べないんです」
 二人はモーニングを注文し西脇に限っては、さらにサンドイッチを注文した。こんなに細い体のどこに入るのか、尚貴は不思議に思った。
「私は食べる量は、警部よりずいぶん多いんですよ。脂肪の備蓄量は私の方が少ないんですがね」
 クスと笑って西脇の笑顔には一本歯が抜けている。尚貴はその顔を見て思わず笑いそうになるのをぐっと堪えた。その様子に気づいたのか西脇はちょっと申し訳なさそうに言葉を続けた。
「先週尋問中、情けないことに犯人に殴られましてね」
 西脇は小さな目を棒のように細めて言う。
 その、見た目は神経質そうに見えるけれど、この西脇という男は話してみると全くそんな所がないことに尚貴は気付いた。
「私より警部の方が、どらちかと言えば神経質ですね。靴下は毎日替えないと気が済まないとか、台所に生ゴミを一日たりともほったらかす事がないとかね。おかしいでしょう」
 西脇はそう言って傍らの朝刊を手に取った。しかし尚貴はどうしてこう自分の考えていることを先回りするかのように、西脇が会話を進めていくのか不思議で仕方ない。まるで心の中を覗かれているようである。
 西脇は自分のことを訝しげに見ている尚貴に気付いたのかあわてて言った。
「すみませんね。どうも私は人の先手を取って気味悪がられるんですよ。別に読心術を使える訳じゃないんですが、人が何を考えているのか表情から予測することが少しばかりできましてね。小さい頃両親を早くに亡くした為に、人の顔色ばかり気にしながら大人になった所為でしょうね。但し、鳥島さんはあまりに表情が豊かなので、少しばかり敏感な人なら何を考えているのかすぐに分かりますよ」
 するとウエイトレスがモーニングとサンドイッチを運んできた。
 尚貴は恥ずかしく感じた。顔色が変わりやすいというのは警察官として失格だから。例え、どのような状況でもポーカーフェイスを作れるように努力しなければいけないということを実感した。特に現場では。
「そんなに、表情を強張らせないで下さいよ。自然でいいんです。自然でね」
 尚貴は照れくさそうに「はぁ」と言って頭をかいた。
 若いっていいなぁ。
 西脇は尚貴を見てそう感じた。警官に成りたてのくせに妙に表情が冷めている者や、無表情で何を考えているか分からないような者よりは、ずいぶん見込みがあるように思えたのだ。感情を表に出さないようにするのは、訓練や経験を積めばいくらでも出来るようになるが、柔軟な感情表現はしようと思って出来るものではない。そういうものを持ち合わせている人間が、事件の被害者の痛みや、辛さ、悲しみを理解できるから。
 そしてその被害者の感情を自分を動かす原動力にし、いつ終わるかしれない聞き込みや単調な張り込みに耐えることが出来るのである。
 二人はしばらく無言で朝食を摂っていた。西脇が新聞に目を通しながらサンドイッチをつまんでいるので尚貴は邪魔にならないよう、話しかけず食事に専念していた。
 窓の外は丁度ビルの裏手が見える。昨日に較べてやや警官の数は減ったものの、まだかなりの警官が出入りしていた。
(自分だけ朝食を食べるのは気が引けるな……)
 尚貴はトーストをパクつきながら昨日の電話の事を思い出していた。
(声は男の声だったよなぁ)
 トーストに塗られたバターが流れ落ちそうに端に盛り上がっていることに尚貴は気付かない。
(あのときは頭に血が昇っていたから分からなかったけれど、どことなく聞き覚えがあるような気がする。どこで聞いたかは思い出せないけれど……)
 バターはとうとう尚貴の指をつたい、ゆっくり這い出した。それが端まで来たところで、なま暖かいヌルリとした感触を感じ、尚貴はあわてて机の上にある手拭きを掴んだ。その光景を見られたのではないかと目の前に座っている西脇を見たが、新聞を広げていたことでこちらが見えないようだ。
 ホッとした尚貴は湯気が立っているコーヒーを飲もうとカップに手をかけようとしたが、そのカップが小刻みに震えているのに気付いた。
(西脇さんの貧乏揺すり?)
 尚貴はカップを取り、西脇の方をそろそろと見る。すると西脇が掴んでいる新聞も震えていた。
「西脇さん?」
「鳥島さん」
 問いかけは同時だ。
「あっ、はい」
 先に答えたのは尚貴であった。
「貴方がこの間、体育館で高校生が自殺した事件の第一発見者でしたね」
「はい。そうですが」
「不審な人間を本当に見なかったですか?」
「はい。と言っても血を見た瞬間、情けないことに気絶してしまったようで、よく覚えていないんです」
 新聞越しの西脇の表情は分からなかったが、声の調子がひどくうわずっているのが、尚貴には気になった。
「これを見て下さい」
 そう言って見せられた新聞の記事に尚貴は愕然とした。

 16歳の少年いじめによる自殺
 体育館に恨みの血文字、その中に政治家の息子がいた!

 見出しの他、誰が撮ったか分からない写真が載っていた。あの体育館の現場を真上から撮ったショットで、自殺した少年の頭部が(髪だけ)一番下に写っており、後ろの血文字だけがクローズアップされたかのようになっている。記事の写真はさすがにカラーでは生々しすぎるのか、モノクロであった。血文字の名は誰か分からないようにはなっていたが、高校の名が出ていることから、政治家の名はおのずと分かるようになっていた。
「誰がこれを撮ったんでしょうか?」
 尚貴の声は震えていた。
 まざまざと、あの血の光景が思い出されて吐き気をもよおしたのだ。
「これを見ておかしいと感じませんか?」
「えっ」
「このショットからして体育館の真上から撮ったことになります。どうやって真上から撮ったと思いますか?」
 西脇の言う通り、どう考えても妙なショットであった。この写真を撮った人間は空でも飛んだとでも言うのか?
「電気は点いているようですね」
 西脇が尚貴に意味深にな目つきを向けてくる。
「あっ」
 尚貴は小さく叫んだ。
「電気は点いてなかったと聞いていましたが、鳥島さんは点いていたと証言していたと警部から聞きましたが、これを見る限りその通りだったんですね。私も、きっと鳥島さんが動転して、消えていたのを点いていたと間違えたのではないかと思ったのですが……いや、申し訳ない」
「いえ、いいんです。自分があのとき気を失わなければ、不審者だって見つけられたかもしれないんですから、自分さえ……」
 西脇は右手で、尚貴の言葉を遮る仕草をした。
「済んだことはいいんですよ。それより聞きたかったのは、それを知らせてきた男の事ですが、どうして貴方に電話をかけてきたと思います?以前からありましたか?」
「こんな電話を受けたのは初めてです。それにどうして自分にかけてくるのか全く分からないんです」
 尚貴は困惑した面もちで、これまでどんな状況にかかってきたか、昨日かかってきた電話について、田所には話さなかった内容も含めて細やかに話した。
「なんだか気味悪いですね。声に聞き覚えはないんですか?」
「それがよく分からないんです。最初は聞いたことがない声だと思ったのですが……今は、はっきり言い切れないんです。昔にどこかで聞いたような気がするんです」
「西脇さん」
 名塩が窓の外からこちらに向かって叫んでいるのが見えたので尚貴は声をかけた。
「ああ。またずいぶんおかんむりのようですね。食事の途中ですが仕方ありませんねぇ。出ましょうか」
「はい」
 尚貴は残りのコーヒーを一気に飲み干すと立ち上がった。西脇は既に立ち上がってレジで精算している。その片手には先ほどの新聞を持っていた。
「あの、自分の分は払います」
 店を出た西脇に、尚貴は財布に手を突っ込みながら慌てて小銭をさがした。
「先輩としてのおごりですよ。これ位いいとこ見せさせて下さいよ」
 そう言って西脇は笑った。
「何をほのぼのやってるんだ!こっちは大変なことが……」
 名塩は大股に走り寄ってきた。
「これの事ですか?」
 西脇は新聞を名塩に見せた。
「あっ、そうそう」
 不意を突かれたのか名塩は声を和らげる。
「県警本部ではなんと言って来ています?」
「誰があの写真をリークしたのかと、どやされたよ」
「まさか警察の人間だと本気で思っているんでしょうかね」
「あの勢いじゃ、思ってんだろうよ。何せ警察しかあそこの現場写真を撮ることは出来ないんだからな」
 名塩は苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
「私、これから本部に戻ります。ちょっと調べたいことがありますので、忙しいとは思いますが宜しいでしょうか?」
 西脇の行動は、意味不明で理解できないことも多いが、最後にはいつも解決の近道を歩いていることに気が付く。心強い戦力であった。
「ああ。まあいいさ。どうせ元々人手は足りなかったんだからな。行って来いよ。……で、ついでに上司のご機嫌伺いもしてきてくれ」
「心得ていますよ」
 そう言って。西脇はきびすを返そうとしたが、立ち止まって、名塩には聞こえないように尚貴に言った。
「警部のおもりをお願いしますね」
「えっ」
 尚貴がそう言った時、既に西脇は覆面パトカーに乗り込んでいた。
「なんだ。何を言ったんだ奴は?」
「えっ。いえ……別に何も」
「全く。どうせよけいなことを言ったんだろう」
 そう言いながら顔は笑っている。
「そうそう。聞くのを忘れていたが、例の電話の男の事だが……」
「西脇刑事にも先ほどお話していたのですが……」
 と前置きをし、尚貴は西脇に話した同じ事を繰り返して話した。それを名塩は真剣な顔つきで聞き、尚貴が話し終えると少し考えるような仕草をし、おもむろに言う。
「仕事をしてもらうぞ」
「はい」
 尚貴はすかさずそう答えた。
「お前は自分の職場に戻って、例の自殺した少年の周りの聞き込みしてくれ。何か分かったり、連絡することが出来たら携帯に電話するように。そこが通じなければこっちの所轄に伝言を入れておいてくれ。お前のとこの所轄の方には連絡が行っているはずだから自由に動けるだろう。こちらの経過や情報も逐一流してやるから何かあっても単独で判断して動く事はするな、必ず報告してこい。これが捜査参加の最低限の条件だ」
 名塩はそう言って携帯の番号を差し出した。尚貴は嬉しさのあまり目の端を潤ませてそれを受け取る。そんな姿を見た名塩は、尚貴がこの件にこのまま突っ走ってしまいそうな気配を感じ取ったのか、更に言葉を続けた。
「但し、巡回は必ず交代してやるようにな。聞けば、お前ん所の交番は2人しかいないんだろう?田所巡査長にはくれぐれも迷惑をかけないようにな。例の男は今の状態では探しようがない。所轄に言って、逆探知出来るようにしてもらえ。電話をまたかけてくるという、保証はないがな」
「かけてくると思われますか?」
 尚貴のその問いに名塩はわずかに頷いた。
「では、自分は早速戻って聞き込みを始めます」
 そう言って立ち去ろうとした尚貴に名塩は追いかけるように声をかける。
「無理するんじゃないぞ」
「はい!」
 尚貴はそれに対して満面の笑みで答えた。
 名塩は去っていく尚貴を見て、本当にこの件に関わらせて良かったのか、言いしれぬ不安に駆られる。
(こんな事は初めてだ。俺が不安になるなんてな…やはり妙な事件が続いた所為かもしれんな)
 名塩は一陣の風が自分を吹き抜けて行くのを見届け、先の予測できない事件へと戻ることにした。



 悲鳴がこだまする。
 あらゆるモノを切り裂くようなそんな悲鳴だった。
 さっきまで楽しそうに笑っていた両親の顔が、どす黒い血で青黒く変色している。
「ああああああっ」
 空が、地面がその居場所を探すようにぐるぐる回っていた。
「げっ。誰か生きてやがる」
「子供じゃないか」
「どうする?」
「今更金を放り出していけるか!」
「じゃ、どうするんだよ」
「どうせこいつも死ぬんだ。見てみろよ、身体中血と打撲だらけじゃないか。そうだ、あといくつか打撲が増えても分かんないな」
 そういって男は両親の首を抱きしめている子供の手を振りほどき、その身体を軽々と持ち上げた。
 子供は反抗する体力もない。まるでぬいぐるみのようにぐんにゃりしている。
「おい。どうするんだ?」
「こうするんだよ」
 そういって力一杯崖の下に投げた。小さな体は一瞬のうちに見えなくなった。
 辺りは遠くの川の流れだけがこだましていた。

  

 交番には昼過ぎ頃尚貴は着いた。しかし何となく気まずく、そっと覗いてみると田所は巡回中であった。
「良かった。おやじさん巡回中か」
 しかし、いずれ顔を合わせないといけない。尚貴は椅子に座ると、田所にどう言おうか逡巡していた。
「帰ったのか」
 田所は表に自転車を止めながら笑顔で言った。不意を突かれた尚貴は言葉が出ない。
「所轄から連絡は受けてるよ。無理せんとがんばるんだな」
 その声には皮肉も、冷やかしも無かった。
「おやじさん。あの……俺……済みません」
 尚貴はただ、深々と頭を下げた。そうすることしか思いつかなかったから。
「謝ることはないんだ。若いうちは色々経験するのもいいだろうしな」
 田所は笑って尚貴の肩を叩いた。
「出来るだけおやじさんには迷惑を掛けないようにします。それが名塩警部との約束なんです。もし、何か不都合な事をしたらいつでもいって下さい。俺、すぐに直しますから」
「ああ。その時は遠慮せんと言わせてもらうよ」
「はい!」
 尚貴はただただ、感謝することしか出来なかった。
 その日から聞き込みを始めた尚貴は子供達の凄まじい、いじめの実態を知った。先ず、血文字で書かれた生徒以外をあたることにしたが、制服でうろうろすると目立つため、尚貴は私服で聞き込みをすることにした。ただ、校門の所で学生に声を掛けると他の生徒に見られる恐れがあるので、一人目星をつけてその子の家の前、もしくは一人になったところを捕まえるようにした。
 最初は口の重かった生徒達も、誰が話したかを口外はしないということを堅く約束すると、少しずつ話してくれるようになった。だがその内容は信じられないものであった。
 血文字の4人はいつもつるんでいて、リーダーは例の政治家の息子で外面は良く、学業優秀、品行方正の折り紙付き。先生たちのお気に入りで、その理由は少年の父親はこの学校に多額の寄付をしていた為だ。
 最初は特定のいじめの対象は無く、その時気に入らない奴を見つけては1日限りのいじめを繰り返していたが、ここ1年ほど自殺した少年をターゲットに毎日、己のストレスのはけ口として、少年はまるでものより酷い扱いを受けていたようだ。
 使い走りから始まり、太ももの内側や脇の下、胸等服を着れば見えなくなるような所を選んでナイフで小さな傷を無数に付ける。他には煙草を押しつけたり(その事は少年の検死解剖結果からも裏付けられている)自分の糞尿を食わせたりしていた。また、冬のさなか冷たいどぶ川を泳がせたりと、聞いて廻るとネタは無数に出てきた。
 尚貴は、閉口するより、どうしようもない怒りがこみ上げて来るのを押さえきれなかった。何よりどうしてこういう状況を先生達や両親が気づかなかったのだろうかと不思議に思う。今、リーダーの父親にあたる政治家は世間で選挙を控え、まずい立場に立たされていたが、その位の制裁は受けて当然だ。
 だいたいの聞き込みを終えた尚貴は、次に自殺した少年の家を訪ねることにした。
 自殺した田中裕喜の家は、尚貴の交番から歩いて十分位の距離にある閑静な住宅街で、新興住宅地と言われる前からここに居を構える商売人の一人息子であった。店の方は市内にあり、両親は家を空けがちであったが、その事で喧嘩をすることもなく親子関係は良好だったと母親が事情を聞きに訪れた所轄の刑事に話していたそうだ。
 自殺当日に関しても、少年には何ら変わった様子は無かったと。
「この辺だよな……」
 尚貴は、住所を再度確認しようと手帳を開こうとした。すると筋向こうの通りから何人かの声が聞こえてきた。その声に混じって興奮した女の声が時折「帰って下さい」と言い次に「いい加減にして下さい」と叫んでいる。その声を聞いた近所の人たちは窓をそっと開け、不安そうに様子を窺っていた。
 尚貴は何事かと声のする方へ走った。

「だから奥さん、少しくらい話をしてくれてもいいじゃないですか。裕喜君の為にもね」
「話すことなどありません」
 買い物から戻ってきた裕喜の母である佳子は、何人かの新聞社や週刊誌の記者に囲まれ家に入ることが出来なかったのだ。
「それじゃあ可哀想でしょう。自殺したんですよ、自殺。死に追いやった同級生に対して血文字で訴えたそうじゃないですか。ここでご両親が亡くなった裕喜君の代わりに、その四人の同級生の責任、学校に対する責任を問わなくてどうするんですか」
 マイクを突きだし、レポーターは必死に食い下がる。
「とにかく……お帰り下さい」
 佳子は目を真っ赤に充血させながら、言葉を絞り出すように言った。
「貴方、自分の子供が殺されたようなものなのに、それでいいのですか?全国にいる裕喜君のように、いじめられている子供達の為にも、ここで泣き寝入りなんてしてはいけないんです!」
 そう言ったのは取材陣の中でもひときわ目立つ容姿の女性であった。大東新聞社に勤めて今年二十六歳になる芹町伶香はこの事件に個人的に関心を持っていた。特にいじめに関しての取材は異常かと思われる程徹底的で、取材中関係者と何度か、トラブルを起こしていたほどだ。
 伶香がそれほどのめり込むには理由がある。それは彼女が十八歳の時、三つ下の弟がやはり、いじめを苦にして自殺しているからに他ならない。
 伶香の逆三角形の輪郭にやや尖った顎がその意志の強さを物語っている。瞳は目尻がやや上がり、それが少しきつい印象を与えているが、全体的に鼻筋のすっきり通った美人顔であった。髪はゆるくウェーブをかけて後ろでパレットでとめている。
 道ばたですれ違ったのならきっと何人かは振り向くであろう。
 尚貴は一瞬、伶香と目が合ったが無視をし、報道陣の群をかき分けると裕喜の母親の間に割って入った。
 幸い今日は制服を着ていたので、警察の威光を発揮することができるだろう。尚貴はそう思いながら出来るだけ重々しく聞こえるように言った。
「さあ、帰ってもらいましょうか」
 一瞬、警官の服装に驚いた報道陣は、少したじろいだかのように見えたが、その声に似合わない童顔の尚貴を見ると、
「私たちには報道の自由があるのよ。帰るのは貴方の方じゃなくて?」
 きつい目で睨みながら伶香がまず言った。
「あなた達が、これ以上ここに居座るのなら、敷地内不法侵入で連行するけどね。いいのですか?」
 尚貴も負けずに言い返す。
「それって職権乱用じゃないのか?こっちは当然の権利でここにいるんだ!沢山の人がこの事件の真相を知りたがってる。その要求に答えてもらいたいだけだ。だから俺達の要求を聞き入れるのは義務だと思うね」
 今度は太った、冬でも汗をかいていそうな男が叫んだ。
「あんたらの世界の義務を勝手に振り回さないで欲しいですね」
 尚貴はあきれ顔で言った。
「ごちゃごちゃ言わずにさっさと帰って下さい!」
 尚貴は更にそう怒鳴ると佳子の肩に手をかけ入り口の戸を開けた。後ろではまだ報道陣が言いたいことを口々に叫び、警察を罵倒していたが、尚貴にとってはどうでもいいことだ。
「貴方も話を聞きに来た口でしょう?警官だから正当で、私達は不当だなんて不公平だと思うわ」
 伶香は、不服そうに尚貴を睨む。 
 美人が言うと何となく正当に聞こえるところが不思議だ。そう思いながら尚貴は、それを無視して家の中に入ると戸を閉めた。
「大丈夫ですか?」
 尚貴は心配そうに佳子に声をかけた。
 ここ数日、食事もまともに摂っていないのであろうか。服から覗くやせ細った首が痛々しい。顔色もよくなかった。
「ありがとうございます。毎日あの調子で……」
 悲しそうに微笑む。
 確かに尚貴も、話を聞こうとやってきたが、先程の様子から「お話を聞かせて下さい」とは言えなくなってしまった。
「じゃ、私はこれで帰ります。また、こういうことがあれば気軽に御連絡下さい。すぐそこの交番ですから」
 笑顔で帽子を取り、一礼すると尚貴はその場から立ち去ろうとした。だが佳子はその言葉を聞き”ハッ”とした顔をすると尚貴にこう言った。
「この先の交番……それはもしかしてあの子の第一発見者の警察官の方ですか?」
「えっ」
 尚貴はその問いに対してどう答えていいか、迷った。
「数日前に来た刑事さんがそう言っておりましたので、もしやと思いましたが……違うようですね」
 佳子は、落胆を隠せないように肩をすぼめ「いいんです」と小さく言った。
「あの……自分が第一発見者の鳥島と言います」
 どうせいずれ分かることなのだから、隠すよりはっきり言った方がいいだろう。
「話をお伺いに来たのではないんです。ただ何となく様子が気になりまして……」
 それはわざとらしく見えただろう。だがこうなっては仕方ない。当分話を聞かなければいいのだ。子供の死はこの母親にとって、まだまだ深い悲しみの出来事だから。
 自分の無神経さを恥じながら、尚貴はドアのノブに手をかけた。
「お時間ございませんの?」
 佳子は尚貴を引き留めるように言った。
「もし宜しければ、あの子のこと話していただけません?」
「あまり話すことはありませんが、それでも宜しいでしょうか?」
「ええ。本当言いますと主人とこちらからお伺いしようかと申しておりましたの。大したおかまいは出来ませんが、どうぞお上がり下さい」

 尚貴が通されたのは、応接室だった。人目を気にしてか、庭に続くであろう窓は雨戸で遮り、その上を厚いカーテンで覆っていた。
「コーヒーでもお入れしますね」
「あ、お構いなく……」
 と尚貴は言ったが、佳子は部屋を出ていった。
 尚貴はとりあえずソファーに座ったが、何となく落ち着かずにお尻をもぞもぞさせる。どうもソファーが苦手なのだ。
 暫くして佳子は、湯気の立つコーヒーを運んできた。
「どうぞ、お口に合うかどうか分かりませんが……」
「済みません」
 さあ、何をどう話せばいいのだろうか……と、尚貴は考えを巡らせる。しかし頭に浮かんだ言葉は、部屋に漂う重い雰囲気によって、霧散してしまっていた。
 その沈黙を破ったのは佳子だった。
「あの子は本当に自殺したのでしょうか?いえ。分かっているんです。どう考えても自殺としか考えられない状況だと聞きましたから。ですがどうしてもそれを受け入れることが出来なくて……」
 声に少しずつ力が入ってくる。
「色んな方から、いじめられていた兆候に気付かなかったのか?と言われましたが、知っていたらあんな学校、当の昔にやめさせております」
 語尾が僅かに震える。
「私は母親です。それなのに、裕喜があれほど苦しんで、死しか選べなかった事にこれっぽちも気付いてやれなかった事が、悔やまれて悔やまれてならないんです」
 ハンカチを握りしめた佳子の手の筋が、白く浮き上がった。
「鳥島さんは第一発見者です。その現場を見てやはり自殺だと思われましたか?」
 訴えるような目が、尚貴を見据えた。
「残念です……」
 尚貴はその目を避けるかのように少し俯いた。
 協力者がいなければ説明することが出来ない事が多々あったが、それでも自殺をしたのは裕喜自身であり、考えられない程の量の血が床にあったとしても、それは裕喜自身が自ら望み、描いた血の訴えだったのだ。
 現場検証と検死解剖結果から導き出された答えを思い出し、尚貴は唇を噛み締めた。
 その言葉を聞いた佳子は、ここで泣き出すのではないかと尚貴には思われたが、予想は外れ、佳子はやや顔を歪めただけであった。
「そうですか。すみません。分かってはいたのですが……。本当に気付かなかったんですよ。母親失格ですよね。あの子、家では笑顔の絶えない子で、学校でこんな事があったとか、誰々と遊びに行って楽しかったとかそういう事しか言わなかったんです。だから、勉強の大変な学校に入学して心配しておりましたが、友人も出来て楽しくやっているとばかり思っておりました。それが、あの子が亡くなってから、いつも話してくれた友人は一体、誰のことを言っていたのだろうかと、いつも聞いていたお友達の名前を学校の方に問い合わせしたのですが、そういう名前の生徒はいないと返事を受けまして、不思議に思っていたんです」
 そう言って、つと立ち上がると佳子は、部屋を出ていった。何処へ行ったのだろうと尚貴が首を傾げていると暫くして佳子は手に何冊かのノートを持って戻ってきた。
「これ、見ていただけます?」
 尚貴は差し出されたノートを手にとると、ごく普通の大学ノートを眺める。
「見て、宜しいのでしょうか?」
 佳子は、コクリと頷いた。
 その中身は裕喜が描いた漫画であった。内容は学園ものであったが、ストーリーは殆ど無く、淡々と学園生活が描かれていた。そこには裕喜と言う生徒がでてきて、正樹と花岡と言う同級生が裕喜の後ろで笑っている。
 物語の中では、裕喜が現実の世界では得ることが出来なかった親友と、架空の世界で悩んだり、笑ったり、スポーツしたり、休みの日には映画に行ったりしていた。
 尚貴は裕喜が、架空の世界の住人として、叶うことのない世界で、ひとときの安らぎを貪ぼり、両親には存在しない友人の話しをして、まるであたかもすばらしい学園生活を謳歌しているように振る舞っていたのだ。それを事を考えると胸が締め付けられるように痛む。
「それを読んで私は、裕喜が不憫で……。親として気付いてやれなかった事を、あの子に詫びなければならないのでしょうが、どんなに考えても、言葉が見つからないんです」
 佳子はここにきて初めて涙を落とした。
 それは静かな涙だ。
「こんな無理なお願いをするのは心苦しいのですが、最近のノートを何冊か、暫くお貸し願えませんか?どうしても確認したいことがありまして……」
「確認したいことですか?」
 佳子は濡れた頬を拭いもせずに尚貴の方をまじまじと見つめた。
 まずいことを言ったかもしれない……。と、尚貴は後悔をしたが、どうしてもこの漫画をじっくり読んでみたかったのだ。もし自殺に協力者がいれば、どこか漫画の中に何らかの形で、出てきているかもしれない。
「決して好奇心ではありません。それだけは解って欲しいのですが……」
 尚貴は真剣そのものであった。しかしそういう表情にもかかわらず、尚貴はどことなく気迫に欠けて見えるのは仕方ない。
 佳子はあまり気が進まなかったが、何故かこの青年に、また会いたいと思った。
「ええ。お貸しします。返却はいつでも構いません。でもどうしてですの?描いた本人が……その……自殺した事をご存じの方にとって、読んで楽しいものではないでしょう」
 自殺と言う言葉にやはり抵抗を感じるのか、その部分だけ言葉がかすれる。
 警察の発表はとりあえず”自殺”ということになっていたので、ここで「自殺行為に関し、協力者がいたかもしれないので……」などとは口が裂けても言えない。とりあえず当たり障りのない言葉を選ばなければいけない。尚貴はそう考えた。
「裕喜君が何を考え、本当はどんな風に毎日をすごしたかったのか、知りたいんです」
 それを聞いた佳子が、やや微笑んだ。
「な……何か、おかしな事を言いましたでしょうか?」
「いえ、ただ血のつながりのない方が、まるで身内が亡くなったかのようにおっしゃるものですから……」
「確かに、他人事のような気がしません……」
 それは嘘では無かった。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP