Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第23章

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 隆子は老婆のように変貌していた。目が深く落ちくぼみ、筋張った身体。このまま倒れ、死に至るのではないかと思われるほど、憔悴していた。だが、瞳の深みには明らかな哀しみが漂っていて、重美には隆子が狂っているようには見えなかった。
 あれは、絶望に打ちのめされたのだ。逃げられない深い闇に取り込まれ、精神が蝕まれてしまったのだろう。
 一家族、また一家族と崩壊していく様は、重美にとっても恐怖だ。まだ、無事なのは薫と重美の家族だけだった。もしかすると自分の元へ、死の影が近づいていて実は重美自身が気付いていないだけなのかもしれない。
 闇の影は何処からともなくやってきて、犯した罪が発する異臭を嗅ぎ取り、空から伸ばされるのか、それとも通りから伝わり、家族を守る家の壁を突き抜け、ただひたすら重美に向かって伸びているのだろう。
 自分達の犯した罪はそれほどのものだったろうか。
 重美は結婚をし、家に縛られ、夫の地位に縛られ、子に縛られた。外に出ることもあるが、それでも家にがんじがらめにされている自分に愕然とするときがある。期待することも、未来を想像することも、将来の夢を描くことも、できたあのころ。それらは少女の持つ甘い砂糖菓子のような夢だった。現実は退屈で、同じ事の繰り返し。何かを作り出すこともできなければ、夫や子に夢を託すこともできない。
 結婚した当初は、もっと明るい未来が開けていると信じていた。実家の両親は反対したが、重美は野心家の真二郎と結婚をすると言い張り、意志を貫いた。あのころは、他のどの男性よりも真二郎は輝いて見えたし、立派な人格者だと思えたのだ。
 真二郎に恋をしていたのか……と聞かれると、違うと答えるだろう。好きだったのかと問われると、間違いなく首を横に振る。
 重美はただ、退屈な男性とは一緒になりたくなかっただけだ。金のない、夢しか語れない、妄想癖の持ち主と一緒になったところで、将来が目に見えている。重美は貧乏な暮らしは絶対にできないと自分で分かっていたからだ。
 重美の実家は財産家で、金に困らない生活を送っていた。
 真二郎と結婚する前の重美はどちらかというと、お嬢様気質だった。この世の中に悪い人間は存在せず、性善説を信じていた。両親が財産家であることが、周囲の目を変え、本当のことを重美に伝えなかったというところにも原因があったのかもしれない。
 だが、生まれや育ちが全く異なる人間と重美は出会った。考え方の違う彼女たちに驚き、新鮮さを感じた。
 金を持たない人間に対して、現実の世界がどれほど残酷なのかを教わった。金のない生活がどれほど惨めなのかも知った。自分がどれほど恵まれているのかも。
 家一つ建てるために何十年ものローンを背負い、芳しくない夫の給料を永遠にやりくりし、死の間際でそれまでの苦労が癒される――こんな一生など考えたくない。
 要するに金の価値観や、生活基盤が全く違う相手とは結婚できないのだ。だからこそ、ある程度の財産を持ち、将来が約束されている真二郎と結婚した。
 だが、それは間違いだった。
 どんなことも大抵後から、あれは間違いだったと気付く。やらなければ良かった、しなければ良かった――そんな後悔ばかりが重美の中に渦巻いていた。今更どうしようもないことは分かっている。例え、真二郎とは違う男と一緒になっても、いずれ息をつくのもわずらわしい生活に縛られていただろう。
 だが、もし、真二郎ととは違う男性と結婚していたら……。
 重美はそれまでの人生、両親に頼って生きてきた。誰かに支えてもらえないと一人では生きていけない子だ……と冗談交じりに両親から言われたこともある。人生に不満がなかった。毎日が穏やかに過ぎていくものだと信じていた。なのに、真二郎を選んだばかりに、支える側になれと強制されたのだ。
 そんなことなどしたこともない、できない重美に。
 『妻』という役割がどうしてこの世にあるのだ。
 重美は『女』でいたかった。
 守られ、愛される『女』でありたかった。
 だが、真二郎は重美を『妻』としての役割を完璧にこなすことを強制したのだ。夫である真二郎につくし、陰になり日向になり、己の存在を誇示することなく支えろと。もっとも真二郎が大臣になったとき、確かに重美も誇らしかった。夫を支える妻の役割も悪くはないと心底思ったのだ。
 重美がいたから真二郎は家庭の煩わしいことを気にすることなく、己の道を邁進できた。手のかかる子を無視することもできたはず。実家からも金を借り、どれほどばらまいたか分からないほど札束をゴミ溜につっこんだ。もちろん重美の両親も真二郎をバックアップした。
 それら全てに感謝してほしいなどと望まないが、重美はただ一言を待った。
 お前がいたから今の私がいる――と。
 その一言だけで重美は報われただろう。
 だが、真二郎は重美の行動をすべて、妻の当然の役目だと言ってのけたのだ。重美をいたわることも、労うこともなく、ただ、言った。
 当然だと。
 夫を支えることが妻の当然の行為になるのだろうか。
 子は全て妻が面倒をみるものなのか。
 家族が崩壊しないよう、舵を取っていたのは他ならぬ重美だ。なのに真二郎は重美の存在を妻だとしか認識をしていない。いや、これでは女中だ。
 妻の役割。一体、誰がそんな役割を決めたのだ。
 それとも、重美がただの女であったら違ったのか。
 重美は身も心も疲労していた。
 本来の性格とは違う役割を果たしていたからだ。
 いつまで貞淑な妻の役割を努めなければならないのだろう。永遠とも思われる拘束に息切れしそうだ。何もかも放り出し、あの、温かい実家に逃げ帰りたい。優しい父と母、祖母の側にいると、いつでも重美は小さな子供に戻ることができた。
 肩にのし掛かっている様々な重圧が、その時ばかりは消えて、いつも暗く物思いに耽る心が晴れやかになる。懐かしい思い出が沢山詰まった家は、いつまでもその景色を変えることなくそこにあった。
 なのにもう、あの家は自分の帰るべき場所ではなくなった。
 戻りたい……。
 叶うなら重美は子供に戻りたかった。
 そうすればあの出来事も忘れられるのに。
「ママ、明日のことだけど……」
 仮面を被った息子の勝己がにこやかな顔でリビングに入ってきた。
 真二郎自慢の息子だ。
 勝己は小さな頃から頭がよかった。この子を可愛いと思えた時期も確かにあった。初めて立ったとき、意味不明ではあったが己の意志を伝えようと必死に言葉を発していた姿も、蝶を追いかけて庭で転んだ姿も。全てが愛おしかった。
 可愛かったのはそんな時期だけだ。
 勝己は親の目を盗み、蝶の羽をちぎって、胴体だけになった獲物をいくつも水に浮かべて楽しんでいた。重美がカエル嫌いなのを知っているのに、死骸を枕の下に隠してみたり、時折悪し様に人を罵る。ただし、父親の前ではそう言ったことはいっさいしない。重美の前だけなのだ。
 重美には勝己が自分の子供に思えなかった。一見、そう見えないのだが、勝己は冷酷な面を持っていた。己を偽る術を知っているのだ。家の外で見せる礼儀正しい姿も、年齢に似合わない丁寧な口調も、すべてが偽り。
 一番の問題は勝己には人の心が抜け落ちていることだ。
 病人を労る気持ちもなければ、哀れみも、同情心もない。心が鉛か氷でできているのではないかと思うほど、失敗に対して容赦がないことを重美は知っていた。
 勝己は完璧主義なのだった。完璧に母を演じられない重美に失望し、不満を抱いている。
 そんな勝己のことなど知らない夫の真二郎は、すっかり騙され、重美の言葉より勝己の言葉を信じ、選ぶ。重美の地位はこの家族の中で一番下に位置しているのだろう。
「聞いてるの?」
 重美の前に腰をかけ、勝己はじっとこちらを見つめてきた。
「ええ、聞いているわ。お父様の講演のことでしょう?準備はできているから貴方が心配することはないのよ」
 勝己から視線を逸らし、重美は答えた。
 同級生を苛めたという記事を重美はこっそり読んでいた。真二郎は「うちの息子に限って」と言うおきまりのセリフで全てをすませたが、重美は違う。勝己は同級生を苛めたのだ。それも残酷な方法で。普通の母親なら腹を痛めて産んだ我が子が同級生を苛めていたなど、信じないはずだ。
 だが、重美は違う。
 勝己は自分より劣るものを蔑視する。それは憎悪にちかい。単に憎んでいるだけならいいだろうが、反撃できない心根の弱い相手を苛めることに勝己は喜びを感じるのだった。我が子ながら、信じられない性格だ。
「そう、ならいいんだけど」
 勝己は高校生とは思えない、大人びた顔つきでそう言った。
 親に手を挙げたり、暴れたりすることはない、聞き分けのいい子であるのは重美も分かっていた。だが子供らしくない、心の中が読みとれない不気味さも同時に兼ねそろえていて、親には隠れてあれこれとやっている。
 この子は私が知らないと思っている……。
 重美は偶然、息子が人様の子供を苛めている現場を目撃したことがあったのだ。
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