「誘う―IZANAU―」 第17章
賢が自分の部屋に行くのを見届けると、薫はテレビのチャンネルを変え、他で長野家の事をやっていないかどうかを探したが既に内容は他の話題へ移っていた。仕方なく薫は電源を切った。明日の朝刊に出るだろう……。そう思いながらソファーに座り時計を見た。
既に十二時を過ぎている。夫の広はまだ帰宅しそうになかった。病院が忙しいのではない。女の所にどうせ転がり込んでいるのだ。広はその事を薫が知らないと思っている。だが朝方帰宅して夫の妙に石鹸臭い身体に気が付かないと思っているのだろうか?若い女といたくせに、急患が入っただの付き合いがあるだのよくもまあ出任せを並べられるものだと腹が立つ反面思うのだ。
離婚しようと何度考えたか分からなかった。だが子供の教育上離婚は良くないと実家の母に諭され、我慢しようと泣く泣く思った。確かに賢を愛している。賢のためなら何だってするだろう。
だが……。
何故もう一人出来なかったのだろう。本当は女の子が欲しかったのだ。男の子は出来ることなら欲しくなかった。賢が疎ましいわけではない。だが、実際男の子を産んで最初は複雑であった。だから次は女の子が欲しかった。しかしどう頑張ってももう一人を授かることは無かった。
あの時のみんながそうである。全員が男の子を身ごもった。それも同じ年に……。考えたくはなかったが、あれが原因なのだろうか?忘れようとしたあの事が……。
住むところを絶対近くにしない。全員と離れ、全てを忘れようとした。あれ以来連絡すら取り合うことは無かった。それなのに、気が付けばお互い同じ学校へ入学させ同じ地域に住んでいた。賢の入学式の時、あの時の四人はお互いに気付きながらも声を掛けることはしなかった。
全員が顔を合わせたことで薫はぞっとした。何かに操られているような気がして仕方なかった。何より同じ年の息子に兄弟はなく、同じ地域に住んでいるのだ。こんな偶然があるのだろうか?考えれば考えるほど気味が悪かった。その上、ひと家族ごと崩壊していく。これはやはりあの時の事が原因なのだろうか?
分からないことばかりであった。だが何かに絡め取られて身動きできない自分がはっきりと感じられる。どうしたら良いのだろうか?誰に相談すれば良いのだろう?例え自分の母親にも相談できなかった。出来るとすればあの時友人だと思った四人にしか出来ない。だが今更その話を蒸し返すことを誰が望むだろう……。
自分の家族もいずれ崩壊するのだろうか?
薫は今考えたことを振り払った。もう遠い昔の事である。誰もあのことは知らないのだ。思い出すことも思い出させることも薫はしたくなかった。
もし、本当に賢が虐めに参加していたのだとしたらどうだろう?息子を信じてはいたが、息子の本心など既に分からなくなっている。確かに頭は良いが、父親に反発心を持っていることを薫は薄々気が付いていた。それも反抗期だと思うようにしていたが、ただの反抗期なのだろうか?賢が父親を見る瞳の奥に得体の知れない憎悪を見た事があったのではないか?だが賢はそんなそぶりは見せたことが無かった。いつも従順であった。広に口答えなどしたことはない。それでも母として賢の父親である広の言い方があまりにも尊大で重圧的であることを心配していた。
広は自己中心的で傲慢だった。自分以外の人間を卑下するのだ。それは例え自分の血を分けた息子でも特別扱いなど無かった。それが分かっていても広に怒鳴られると自分が本当にどうしようもない嫁であるような気がするのだ。それは全く根拠のないものなのだが、広が薫に何か言うと非常に惨めになった。理不尽なことであると言い聞かせても、広は薫が気にしている部分を抜け目なく探し出す特技をもっていて、的を射た部分を拡大して貶めるのだから始末が悪かった。
結婚した当時はそれが魅力だったのだから今更文句は言えなかった。どちらかと言えば消極的で自ら何かを計画したりするのが苦手な方であった薫は、ぐいぐいと引っ張ってくれる人が魅力的に映った。だから広の尊大的な態度も立派に見えた。あの独断的なものの言い方も何事も自分で決めることが苦手な薫にとって十分な魅力であった。
薫はぼんやりと時計の秒針を眺めながら深くため息を付いた。いや、何度も何度もため息を付いた。
来てしまった……。
翌日、薫は、もと同級生の長野隆子の容態を伺いに、病院にやってきていた。手には花束を持ち、形だけのお悔やみを心の中で用意して、受付で聞いた病室にたどり着いた。
扉の前の壁には長野隆子の名札が掛けられている。それを確認して薫は中に入った。
すると病室に置かれたベッドの上に隆子は座り、窓の外をじっと見ているようであった。真っ白な壁と、真っ白な毛布が目に痛く感じる。そうであるのに何故か病室内は薄暗く感じた。
脇には小さな冷蔵庫とその上にはテレビが置かれていたが、テレビは付けられてはいなかった。
その為静まりかえった部屋と微動だにしない隆子の姿が、まるで時間が止まっているように薫には思えた。
……!
隆子の髪は真っ白に近かった。パジャマから伸びる手は痩せて骨張っている。それに薫は動揺したが、必死に平静を保って「こんにちは……」と、とりあえずそう言った。するとユルユルと薫はこちらを向いた。
「……随分……久しぶりだけど……色々あったみたいだから……お見舞いに……」
げっそりとやつれた隆子を視界に捉えた薫は、一瞬足を後ろに引いて思いとどまったようにそう言った。
「……ふふ……貴方も来ると思った……」
言って笑った隆子の顔はまるで老婆のようであった。
「貴方もって……他に誰か来たの?」
震えるような声で薫は言った。
「来たわ……みんな……ね」
隆子は言ってまた笑った。それは泣き笑いに近かった。
「貴方もどうせ同じ目に合うのよ……誰も逃げられないわ……あの時、あそこにいた全員に呪いがかかっているのよ……これは呪いよ……呪いなんだわ……」
ははははと歪めた口で笑いながら隆子は言った。
「何のことを言ってるの……」
額にうっすらと汗をかきながら薫は聞いた。いや、分かっていてそれを認めたくなかったのだ。全ての原因が、あの昔に犯した罪に起因するなど考えたくなかったのだ。
「そう、あとの二人も最初はそう言ったわ……だけど、芳美は分かっていたようだわ……だって彼女も家族を全員失ったんですもの……私と同じようにね。後は貴方と、小川に嫁いだあのお嬢様だけよ……」
その言葉で薄暗い病室が益々暗くなったように薫には思えた。
「そんな……馬鹿な話が……貴方の思い過ごしよ……」
自分に言い聞かせるように薫は言った。
「私たちは男の子しか授からなかった……私は絶対男の子なんか欲しくなかったのによ!貴方だって、他のみんなも男の子しか子供はいないじゃない!それに……何故同じ年に生んでいるの?こんなの……どう考えたって呪われてるとしか思えないじゃない!自分だけ大丈夫なんて思っても無駄よ……無駄だわ……分かるもの……貴方も……あの女も全員が全てを失うのよ……」
まるでこちらに呪いをかけるような声で隆子は言った。
「わ……私は違うわ……あの時……止めたもの……それを……」
「今更自分だけ被害者面したって無駄よっ!逃げられないんだわ……誰も……誰もよ……」
「違うわっ!私は関係ないっ!あそこにただ居ただけだものっ!」
「ねえ……どうしよう……」
「どうしようって言っても……」
「もう駄目よ……逃げましょう……」
「誰もいないわ……」
「でも……」
「事故だったのよ……」
「それに私たちは何もしていないわ……」
「……そう……そうよね……」
ワタシタチハナニモシテイナイ……。
「私達は何もしていないわ!何も……何もよっ!それなのにどうして呪いなんてふざけたことを言うのよっ!自分が夫と息子を失ったから貴方、気がおかしくなってるのよ!私は違うわ!」
バシッと持っていた花束を床に叩き付けて薫は言った。
「……今に分かるわ……」
くぼんだ目を此方にじっと向けて隆子は言った。
「何も止められない……誰も逃げられない……」
「……そんなことない……」
「だったら何故ここに来たの?私に会いに来たの?もう二度と会いたくないはずなのに……そうでしょう?どうして?気になったからでしょう?ねえ、自分が思ったことを確認しに来たんでしょ?そうよ。貴方の思う通りよ。あれが全ての始まりなのよ……」
痩せた手を隆子は伸ばし、薫の腕を掴んだ。その手は酷く力が込められており薫は痛みを感じ、隆子の掴む手を振り払った。
「貴方の夫も息子も死ぬわ……」
隆子はそう言ってニヤリと口元だけで笑った。
「やめてええっっ!」
両手を耳で押さえ、薫は病室を飛び出した。その後ろから隆子の高笑いがずっと聞こえていた。
病院から走りながら逃げだした薫は、後ろを振り返るのも怖く、ただ走り続けた。そうして随分病院から距離が開いたところでようやく立ち止まり、側にある電信柱に手をかけて荒い息を整えた。
額からどっと汗が流れ落ちるのが薫には分かった。だがそれを拭うことすら今出来なかった。自分が思っていたことを、ズバリと指摘されたからだ。隆子に会いに行ったのは、それを否定して欲しかったのだ。まさか、まさかと思ってきたことだからだ。
それはもう十何年も前の話だ。なのにどうして今頃蒸し返され、怯えなくてはならないのだ。
あの時本当に自分たちは何もしなかった。ただ、原因を作ったのは自分たちだ。それは分かっている。今の今までずっと罪悪感として心の底にあり、思い出しては自分を責めてきたのだ。それでは罪の償いにはならなかったのだろうか?これほど苦しんできたのだ。それを今更話して何になる?
何より自殺か事故だ。隆子はああ言ったが、夫が息子を殺し、その後自殺したと新聞には出ていたはずだ。それがどうして呪いになるのだ?家庭の問題があの様な結果に結びついたのであり、薫の家庭は今平穏だ。
もっともいじめ問題で暫くは肩身の狭い思いをしたが、今は表だって非難されることはない。なにより賢が苛めに荷担していたとは今も思えないのだ。気は小さいが、悪い子ではない。ただの噂や誤解が生んだものだと今も信じている。
それが母親だろう。薫はそう思う。賢は自分はそんな事はしないと言った。それが嘘か本当かは情けないことに判断が付かない。だからこそ、母親として息子を信じることにした。信じることにしたのだ。
だが最近の賢は様子がおかしかった。食欲が落ち、勉強にも身が入っていない。何か悩み事でもあるのかと薫がしつこく聞いても、首を横に振るだけだ。その上、夜を酷く怖がるのだ。
夫である広は最初のうちは賢に注意をしていたが、のれんに腕押し状態の賢に最近は何も言わなくなった。その代わり、うちに帰ってこない日が増えた。今までは愛人宅に行ったとしても、帰っては来たのだ。どんなに遅くであろうとも帰ってきた。
だが最近は母子家庭のような状態だ。
何が平穏な家庭なのだ……。薫は泣きそうになった。家族がバラバラなのだ。息子のことが分からない。夫は愛人の所に入り浸っている。それを薫はどうしていいのか分からないのだ。
このままでは同じように崩壊するのだ。自分の所はそんな事などないと否定してきた。だが内情は滅茶苦茶だ。家族という二文字を必死に守ろうとしているのは自分だけだった。このままでは駄目だと薫は思った。何かしなければ……薫は帰宅途中その事ばかり考えていた。
西脇は出払っている捜査本部にぽつりと座りながらこの妙な符号の意味を考えていた。捜査員から上がってきた書類には奇妙な合致点があったからだ。
目の前には今回の事件で問題になっている、田中、池田、小川、長野、岡林家の家族構成、そして個人の履歴が書かれた書類が並べられていた。今までこうやって並行に見比べたことは無かったからだ。すると不思議なことに田中家を除く他四家族の母親が全員同じ大学に通っていた。結婚した年と、夫の年齢はバラバラだが、それぞれが同じ年に男子を出産しており、そのほかに兄弟はいなかった。これは何を意味するのだろうか?
もちろん同じ大学に行ったとしても全員が顔見知りとは限らない。だが、一体これはどういうことなのか?偶然にしては出来過ぎであった。
難しい顔をしているとそこに名塩が戻ってきた。
「しかめっ面してどうした?」
意外に笑顔な名塩に思わず西脇が「警部は元気そうですね……」と言った。
「長野の事件は普通の事件だからな。何となくホッとしてるんだろ」
名塩はそういうと、書類が山積みになっている机の上にどっかりと腰を下ろし、西脇が持っていた書類を覗き込んだ。
「母親が四人とも同じ大学か……よっぽど人気のある大学か?」
名塩はそう言って顎を撫でた。
「お嬢様大学といえば人気のある大学でしょうが、四人とも同じというのは偶然でしょうかね?」
「同じだから何かあるとは思えないがな。どうせなら、四人とも男の子を同じ年に産んでることの方が気持ち悪いぞ。その上兄弟無し。まあ、少子化時代だからといって済まそうと思えば済ませるがなぁ……」
「私は……この符号にも意味があるような気がするのです」
「符号ねえ……お前そりゃあ考えすぎじゃねえのか?偶然だ偶然」
呆れた風に名塩は言った。
「これだけ妙な事件が続いているにも関わらず、警部は偶然を信じられるんですか?」
西脇は意外に強い口調でそう言った。
「俺に当たるなよ……」
苦笑しながら名塩は言った。
「……済みません……」
「ああ、長野の母親はようやく落ち着いたんだが……あれは駄目だ。何も言わずにただ窓の外ばかり見ていてこちらの問いかけに何一つ答えようとしないそうだ」
はあと溜息を付いて名塩は言った。
「面会謝絶ですか?」
「いや。錯乱している状態は収まったからそれは外されたよ。それに逃げるそぶりもないということで一般の個室に移った。今は親戚連中が面倒見てる」
名塩は見ていた書類を机に置いて言った。
「そうですか……余程ショックが強かったのでしょう……」
目線を落として西脇は言うと細いフレームの銀縁眼鏡をかけ直した。
「そうだ、聞くのを忘れていたが、鳥島の……なんだっけか、ほれ、催眠術をどうのという話はどうなった?」
「ええ。はっきり姿を見ましたよ……あの青年の……」
淡々とそう西脇が告げると名塩は驚いた顔を向けた。
「見ましたって……おい、その話を聞かせろっ!」
「……余計混乱しそうな気がしますが……」
苦笑しながら西脇は、この間あった事を名塩に話した。
「余計訳が分からなくなってきたぞ……」
西脇の話を聞き終えた名塩はそう言って腕を組んだ。
「……鳥島さんが小さい頃にその青年に会っているのは分かるのですが、何処でどうやって会い、今どうして青年が鳥島さんの周りをうろうろとしているのか……」
西脇は困惑したように言った。
「……その男がどういう存在かも分からないんだから……どうしようもないぞ」
う~んと今度は名塩が唸った。
「ですが……鳥島さんに対して悪意はないんですよ。まるで守護者の様につきまとっているところがあります」
「なんだそりゃ……そんないいものじゃないだろう……」
「……記憶を無理矢理こじ開けた場合、鳥島さんの人格が崩壊するような事を言っていました。それが本当だとすると、開けようとした私たちを止めに入っているんですよ。本当は長野の方へ行きたかったにも関わらずね。あの青年にとって鳥島さんは非常に大切な存在の様です。どういう理由であれ程大事にしているのか分からないのですが……」
意識を失った尚貴に向ける瞳は、まるで愛し子に対するようなものだったのだ。恋愛の愛情ではない。保護者、もしくは肉親が子に向ける愛情だ。
「実はあいつ、その男の息子とか……」
真面目な顔で名塩はそう言った事で、西脇は初めて笑いが漏れた。
「何をおっしゃってるんです……はははは。それは良いですね。息子だなんて……はは」
「いや、笑い事じゃなくてよ……。でもまあ……大切にしてるように見えるか?あんなもん見せるような男がよ……。下手したら鳥島気が変になっていたのかもしれないんだぞ」
それは純一が校舎の屋上で自殺する一部始終を青年によって見せられた事を指しているのだろう。
「そうですね……どうしてそんな残酷なものを見せたいのでしょう……。記憶をこじ開けることで崩壊するかもしれない鳥島さんの精神を守るために青年はわざわざ姿を現す。なのに、下手をすると気がおかしくなりそうな状況を無理矢理見せるその意味がわかりません」
西脇は余計混乱しながらもそう言った。
「……普通どういうときに、そんなもんを見たいと思う?」
名塩は意味ありげにそう言った。
「見たいとは?」
西脇には名塩が何を言いたいのか分からなかった。
「だからな、人が滅茶苦茶に壊れていくのを見たいと思うのはどういうときだって聞いてるんだよ」
分からないかなあ……という口調で名塩は言った。
「……どんなときでも見たくありませんが……」
西脇は想像して気分が悪くなった。
「俺はこういうときなら見たいっていうのがあるぞ」
「警部は見たいんですか?」
呆れた風に西脇は言った。
「例えば……相手を殺してやりたいという気持ちがあるときは見てみたいと思うだろ?その憎い相手のをさ……」
ニヤと口元だけで名塩は笑った。
「……それは……鳥島さんが本当は心の中でそれを望んでいたからと言うのですか?だからあの青年はその希望を叶えるために見せてやったと……。彼にはそんな残酷な趣味はありませんよ!少し正義感の強いだけの平凡な青年です。その鳥島さんが……」
思わず力を込めて西脇は言った。
「おいおい、お前が興奮するなよ……。例えだって……。お前が先に振ってきたんだろうが……俺は別に鳥島がどうとか言ってるんじゃない。普通どんなときに見たいか?っていう話をしているんだ。俺だってまさか鳥島がそんな事を心の中で思ってるかもしれない、なんてこれっぽっちも考えちゃいないよ」
おいおい、と西脇を宥めながら名塩は言った。
「……」
だが……もし、尚貴の閉ざされた記憶というのが憎しみや、相手を殺してやりたいというものであったらどうだろうか?西脇はふとそんな事を考えた。
無理矢理にそんな気持ちを思い出されては困る。だから自然に思い出させようとあの青年はしているのだろうか?
怒りか?
憎しみか?
それとも恨みか?
それを仄めかすような尚貴の言動や、過去は今のところ見あたらない。ただ、尚貴のことで気になっていることが西脇にはあった。
生活感のない部屋。物が何も置かれていないまるで引っ越してきたばかりのような部屋。色のない、そして趣味も見あたらないあの閑散とした部屋……。あれは一体尚貴のどういう部分を表しているのだろうか?
本人がその事について、これっぽっちも変だと思わないところにまず問題があるのだ。普通はもう少し、部屋を飾ってみたりするだろう。だが尚貴の部屋は、本当に何もないのだ。その事がずっと西脇には気にかかっていた。だからといって本人がこれで良いと思っている事を無理矢理変えさせる事など出来ない。それが個性だと、趣味だと言われたら終わりだからだ。
「おい、何を考え込んでいるんだ?」
「……いえ……何でもありません……」
西脇が視線を逸らせたときに事件を告げる館内放送が鳴った。
薫が夕方うちに戻ると、珍しく夫の広が帰っていた。
「貴方……珍しいのね……」
リビングでワインをひたすら煽っている広に薫が言った。
「お前に話がある……」
ボトルごとワインを口に含んでいた広はそう言ってボトルを机に置いた。
「……なにかしら……私も話があったのだけど……」
薫は言って、自分も広の前のソファーに座った。
無言で広は、ただ組んだ手を何度も組み替えていた。そして暫くすると顔を上げて言った。
「別れてくれ……」
「えっ?」
広が何を言ったのかすぐには薫は理解できなかった。
「実は子供が出来た」
ぽつりと広が言った。それは愛人に子供が出来たと言っているのだろうか?薫にはまだその事実が受け入れられなかった。
「貴方……一体何をおっしゃってるの?」
「今更知らないとは言わせないぞ。私が外に女を囲っている事くらい知っていただろう?ずっと帰らなかった事も、そういうことだというのを知っていたはずだ」
確かに知っていたが、遊びだと割り切っていたのだ。家庭を守るために何も薫は今まで言わなかった。
「……貴方……」
「良妻賢母を演じるのは止めろ。もうお前にはうんざりだ。慰謝料はくれてやるからあの気味の悪い息子を連れて出ていくんだな」
言ってまた広はワインをボトルごと口に含んだ。
「賢は……気味悪くありません……とても……良い子よ……」
泣き笑いのような表情で薫は言った。
「何が良い子だ。気持ち悪い……お前、最近、賢が一人でへらへらと笑っている姿を見たことがあるか?あれは精神的に病気を持ってる。入院させた方がいいんじゃないのか?うちの家系から精神病者はだせん。お前の教育方針が間違っていたんだ」
そんな事があったのだろうか?薫には全く分からなかった。賢は最近は確かに元気は無かったが、そんなおかしな行動をとっているのを見たことなどない。広が別れたいために嘘を言っているのだ。そうに違いないと薫は思った。
「そんなのは貴方が作った嘘に決まっています!別れたいから……そんな事を言っているんでしょう?」
腹立たしげに薫は言った。今まで広にこんな風に言ったことは無かった。だが我が子である賢の事をそんな風に言う父親にどうしても我慢できなかったのだ。
「……見てくるといい……」
広は意味ありげに天井を指さした。
「……帰ってるの?今日は塾の……」
「いいからお前も見てこいっ!」
ジロリと睨んで広は言った。
薫はその言葉でようやく立ち上がり、二階にある賢の部屋に向かって階段を上った。すると二階から声が聞こえてくるのが分かったが、何を話しているのか分からなかった。だがぼそぼそと話している声は、薫が賢の部屋の前に立つとぴたりと止まった。
「賢……入っていい?お母さんだけど……」
そういうと、中から賢の声が聞こえた。
「いいよ……」
どこから聞いてもそれは普通の声だった。薫は安堵しながらノブに手をかけて扉を開けた。すると、賢はベッドに座り夕闇迫る外の景色を見ていた。何かこの光景を何処かで見たような気が薫にはしたが、その時は思い出せなかった。
「今日は塾の日でしょう?どうしたの?身体の調子が悪いの?お父さんが心配しているわよ……」
薫が声をかけると、賢はゆっくりと振り返って言った。
「何も止められない……誰も逃げられない……」
その声とその姿は、昼間見た隆子そっくりだった。