Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第10章

前頁タイトル次頁
 尚貴が交番勤務に戻って数日が経過した。
 いつもの穏やかな日々が戻ってきたように見える。しかし、自転車に乗って町を見回ると何故か昔見た景色とどことなく違っているように感じる。それは事実なのか、それとも色々なことが起こった所為で、そう思うのか分からなかった。
 その日も朝早く池田の家に見回りに行った。尚貴は警邏で必ず立ち寄るようにしていた。だが、たいてい池田の家はしんと静まり返っていた。
 高い塀の向こうで、純一は今何を考えているのだろう……
 そして思い出す。
 昨日、尚貴が田中裕喜の家に借りていたノートを返しに行くと、母親が教えてくれた。
「つい先日、池田さんがご夫婦で息子さんを連れて謝罪に来られまして……。何でも裕喜のお墓に参った帰りだとおっしゃっておりました。それを聞いて、確かに私も夫もまだ全て許したわけではないのですが、とりあえず、この間は取り乱したことをお詫びしたんですよ……」
 そういうと、佳子はまだ悲しみを引きずってはいるのだろうが、緩やかな笑みを尚貴に見せた。きっと池田の誠実さが伝わったのかもしれないと尚貴は思う。佳子も、息子を死に追いやったとはいえ、家族総出で来られては無下にあしらう事は出来なかったのだろう。
 人間というのはどんなに怒っていても、怒りの全てをその人物にぶつけてしまうと、今度は言い過ぎたと感じてしまう。例え、それが息子を死に追いやった原因の少年であろうと変わらない。それも相手が低姿勢であればあるほど、こちらが悪いわけではないのに罪悪感を感じる。
 例えば、子供を殺された親が殺人犯に求めるのは、無慈悲で冷酷で、どんなに罵声を浴びせても歯牙にもかけないという、人ではない怪物である。決して殺人を犯したことを後悔するような人物であってはならないのである。だから家族はたいてい犯人からの謝罪を受け入れようとはしない。弁護士が「彼は反省しています」と本当に後悔していたとしても聞き入れない。刑期を終え、謝罪に来たとしても会おうとはしない。それは対面したとき、自分たちが怒りによって想像した人物像を壊されたくないからである。
 忘却によって薄れる痛みを怒りによって繋ぎ止めるのである。
 怒りを持続させる為に、犯人の良心に触れることは決してしない。不謹慎ではあるが、ある意味で、痛みも苦しみも後悔もしない相手であればあるほど幸せかもしれないと尚貴は思った。
「家の中の様子が分かれば良いんだけどな……」
 尚貴は高い塀を仰ぎながら池田の家の周りを自転車を押して歩いた。しかしこれといって変化は感じられない。
 ただ静かであった。
 西脇が言っていたように本当に関係者が自殺するというのだろうか?
 尚貴は何か心に引っかかったまま門の所まで行くと、くるりと方向を変え、交番へともどっていった。

 交番には予期せぬ訪問者があった。
「あ……」
 芹町伶香はにっこりと笑って椅子に座っていた。
「今日は」
「何しに来たんです?」
「約束、忘れているんじゃないかしら……と、思ってわざわざ来てあげたのよ」
 伶香のその一言に尚貴は以前彼女のカメラのネガを台無しにしたことを思い出した。
「ああ、そのことですか。あれはお宅が悪いんですよ。当然の事です」
「当然のこと?人の仕事の邪魔をしてそれはないでしょう!」
「あれが仕事なのでしたら、ろくな仕事をしていないのですね」
 その尚貴の言葉にムッとしたのか伶香は思わず立ち上がっていた。
「ろくな、とはなによ。その辺のゴシップ屋と混同しないで欲しいわ!」
 その伶香の声が意外に大きかったので、奥でお茶を入れようと用意していた田所が驚いて戻ってきた。
「なんじゃ、君の彼女じゃないのか……」
「何言ってるんですか!こんな女、彼女な訳ないでしょう」
「こんな女って何よ。誰の税金で養って貰ってると思ってるの」
「そういう奴に限って、何かあると頼って来るんだよ」
「二人ともやめなさい!」
 暫く二人の会話を聞いていた田所がそう言った。
「子供の喧嘩じゃあるまいし……いいかげんにしなさい。尚貴、君は警官なんだろう?一般市民と喧嘩してどうするんだ……」
「済みません……」
 尚貴は田所にそう言って謝った。すると横にいる伶香がそれ見たことかと、口元に笑みを浮かべている。それに気が付き、尚貴は新たに腹を立てたが、そこをグッと堪えた。
「芹町さんでしたね」
「ええ」
「貴方は鳥島巡査の友達で、待たせて欲しいと言って来られましたが、どうやらそれは違うようですね」
 田所が困った顔を伶香に向ける。伶香の方も、田所にはしおらしくすぐに謝った。
「済みません。ですが、どうしてもこちらのお巡りさんにお会いしてお伺いしたいことがありまして、嘘をつきました。何時来ても警邏中か、病院に入院しているとかで、なかなかお会いできませんでしたので、今日は待たせて貰いたかったのです」
「まぁ、いいでしょう。で、本当はどちら様でしょう?」
「大東新聞社、報道部の芹町伶香と申します。こちらのお巡りさんにはもう名刺を渡してあったはずなのですが……」
 と、言ってこちらを見る。
「そうでしたね」
 尚貴はそう言いながら、机の引き出しから巡回日誌を取り出すと奥に引っ込もうとした。が、伶香はそれを引き留めた。
「話があると言ってるでしょう。市民の相談はちゃんと聞きなさいよ」
「それなら市役所に行って下さい」
 にべもなくそういう。
「貴方、自殺現場の第一発見者でしょう?」
「なんのことですか?」
「とぼけないで。田中裕喜くんのよ!」
「知りませんよ」
 尚貴はそう言って伶香の視線を避けた。
「本当に自殺だったの?殺人幇助した人間がいるという噂も出ているそうじゃないの……実際どんな状況だったの?」
「知りませんと言っているでしょう?」
 その件は上司から厳しく口止めされていた。
「芹町さん。彼は第一発見者ではありませんよ。何か誤解しておられるのではありませんか?もう一度よく調べてからにされたらどうでしょう?」
 田所はやんわりとそう言って追い出そうとしたが、伶香はしつこく食い下がった。
「他の新聞社のスクープだったけれど、彼の自殺現場の写真が出ていたわよね。見てないとは言わせないわ。あれを見ただけでも、裕喜くんが自分で血文字を書けるとは思わない。必ず幇助した人間がいるはずなのよ。それにあの写真はどうやって撮ったの?撮れるとしたら警察関係者でないと無理だわ。その辺をどう考えているの?」
 感が鋭くない人間でも気付くであろう事実は、誰もがその答えを知りたがっていた。しかしそれに答えられる人間は居ない。手を貸したであろう人物はどうも人間ではないからだ。
「捜査に直接関わっていませんので分かりませんね。所轄で聞いて下さい」
 尚貴がそういうと伶香は酷く怒りだした。
「そうやって誰もがただの自殺として片づけるのよ。彼はいじめに遭っていた。それは事実よ。裕喜くんはそれを知って貰いたかった。でも生きている間は言えなかった。両親には言えなかった。相談に乗ってくれる友人も居ない。それを知った裕喜くんは血文字で訴えたのよ。自分が死よりも辛い目に遭ったことを知って貰うためにあんな事をした。いえ、正確には誰かが裕喜くんの手伝いをしたに決まってる。それでもあの血文字は裕喜くんの意志だった。彼は命を代償に賭をしたの。自分を分かって貰うためにね。それを無駄には出来ないわ!私はね、知りたいのよ……幇助した人間は誰なのか、どうして手伝おうと思ったのか……お金じゃないわ……。きっと裕喜くんから聞いて同情したのよ。いいえ、同情だけでは手伝うことは出来ないわ。もしかしたら同じ目に合ったのかもしれない。だから私はその人を見つけたいのよ」
「見つけてどうするんですか?」
「裕喜くんの事を聞くのよ。それを世間に発表するの。それが裕喜くんの供養にもなると私は信じてるわ」
「そんな事をしても傷つく人間が増えるだけだと思いませんか?」
 池田のことを思いだし、尚貴は言った。今更誰を責めても、死者はよみがえりはしない。
「傷つく……ね、じゃ、死を決意するほど傷ついた裕喜くんはどうなるの?」
 挑むような瞳が尚貴を見つめる。
「自分は関係者ではないので、軽々しく意見は言えません」
 尚貴がそういうと伶香は皮肉っぽい笑みを浮かべた。歪んだと言っていいかもしれない。
「そうやって真剣に考えないから、こういう事件が後を絶たないと思わない?自分には関係ないとか、人ごとだと言って……」
「軽々しく言えないことが、イコール真剣に考えていないになるんです?」
 そう言いながら尚貴は、またそぞろ腹が立ってきた。
「軽々しく言えないと言えば格好が付くわね。本当はなんにも考えていないのでしょう」
「いい加減になさって下さい」
 暫く会話を聞いていた田所がたまりかねて言った。そして尚貴の手を引っ張り伶香から引き離すと小声で言った。
「言ってもいいんじゃないか?」
「おやじさん……」
「あの手合いはしつこいぞ。県警からの発表通りになら言っても構わんじゃろう」
 田所にそう言われ、気は進まなかったが尚貴は伶香に話すことにした。
「確かに第一発見者は自分ですが、田中裕喜くんの自殺に関して貴方がおっしゃるような協力者はおりません」
「最初からそう言えばいいのよ」
「これでいいですね」
 尚貴はそう言って、今度こそ奥に引っ込もうとしたが伶香がまた引き留めた。
「肝心なことは何も教えてくれていないわ。協力者がいるはずでしょう?それは誰なの?」
「協力者はいません」
「嘘よ!」
「本当です。信じて貰うしかありませんが、協力者はいません。既に自殺と発表されています。写真の件は、今所轄で調査中ですので、そちらに問い合わせて下さい」
 きっぱりと言った所為か、伶香から言葉は返ってこなかった。例え返ってきたとしてもこれ以上の事は答えようがなかったので、尚貴はホッとした。
「じゃ、自分は仕事に戻ります」
「信じた訳じゃないけれど、今日は何を聞いても答えてくれそうにないようだから帰ります」
 伶香がそういうと同時に交番の電話が鳴り、尚貴が受話機を取ると相手は名塩だった。
『鳥島か?』
 その声は横にいる二人にも聞こえるほどの大きさであった。
「そうです。警部……」
 耳に響きながらも尚貴はそう言った。
『今から本屋か駅の売店に走って、今日発売の週刊大東を買ってこい。とにかくとんでもないことになりそうだ。それを読んでから携帯に電話を入れてくれ』
 それだけ言うと名塩は電話を切った。
「名塩警部かい?」
「そうです。本屋か駅の売店に行って今日発売の週刊大東を買って来いって……」
「うちのグループのだわ」
 それを聞き、玄関で立ち止まった伶香が振り返り、何となく誇らしげにそう言った。尚貴はそんな伶香の脇を通り抜け、表に出ると自転車を引っぱり出した。
「おやじさん、俺ちょっと行って来ます」
 それだけ言うと尚貴を乗せた自転車はキイキイという音を立て、近くのコンビニへと走り出した。
「それで、お宅はまだここにいるつもりなのかい?」
「え、ちょっと気になって……。私も雑誌のこと気になるんですよね……。ご迷惑をおかけしますが、鳥島さんが雑誌を買って戻ってくるまでこちらにいても構いませんか?」
 しおらしげにそういう伶香を追い出すことも出来ずに、田所はため息を付いて頷いた。

 コンビニについた尚貴は雑誌のコーナーに向かうと、名塩が言っていた週刊大東を探した。それは一番目立つ所におかれていたので、すぐ見つけることが出来たが残りあとわずかであった。結構売れてるんじゃないか……と思いながら何気なく、尚貴はそれを手にとった。 表紙には大きくこう書かれていた。

 現代のいじめ、少年は死をもって復讐を誓った

 尚貴は急いでページをめくり、その内容を確かめようとした。
「なっ……!」
 写真こそは掲載されていなかったものの、個人名が仮名になっておらず、裕喜をいじめた四人の少年、その両親のフルネームと勤める社名が掲載されていた。
 内容はかなり辛辣なものであった。
 これが世間にどんな影響を与えるのだろうか。少年達は今まで通り学校に通うことが出来るのだろうか?また両親は職場でどういう立場に立たされるのだろう。最悪の場合、自主退職を仄めかされるかもしれない。尚貴は様々な事が頭をよぎった。
 故意にそうしたのか、それともミスプリントなのだろうか?尚貴がそう考えていると最後のコメントにその原稿を書いた人間の名前が載っていた。
「芹町!」
 思わず店内に響きわたるような声で叫んだ。
 芹町という名を指す人物は、先程会った伶香であると尚貴は確信していた。芹町という名が余りポピュラーではないことと、先程見せた態度の所為である。
 彼女ならやりかねない……。それにしても困ったことになった。尚貴はたった四ページしかないが、その四ページがどれほど影響を及ぼすのかを考えた。ただで済むとは思えなかった。社会的制裁が必ず何らかの形で各家族を襲うだろう。その時、いい気味だと自分は思えるのだろうか?
 尚貴はその雑誌をレジに出し、精算を済ませると暗澹たる面もちで自転車を走らせた。ペダルをこぐその脚は酷く重く感じられた。
 あの子供思いの池田はこれをどう切り抜けるのだろう……。それより気になるのは純一の事であった。裕喜を虐めていた四人組の中で一番気の弱そうなのが純一だったからである。そして西脇の言葉を思い出す。四人ともいずれ自殺という形で死を迎えるだろうということ……。純一が一番それに近いような気がした。
 交番に戻ると、まだ伶香がいるのを見つけた尚貴は怒りがこみ上げた。先程買った雑誌を思わず投げつけたくなったが、寸前のところで思いとどまった。
「こんな記事書く奴は最低だ」
 尚貴は投げつける代わりに雑誌を突きつけるように伶香に渡した。伶香の方はそれを受け取り、何か言おうとしたが尚貴は彼女を無視して名塩に電話をかけた。その電話に出たのは西脇だった。
『鳥島さん。済みません。警部は今、手が放せなくて……』
「あの、雑誌を買ってきました。問題と思われる場所も読みました……」
『それで池田さんのお宅はどのようです?』
「これから様子をうかがおうと思っています」
『そうですか……まだでしたか……』
 西脇のその声は沈んで聞こえた。
「何かあったんですか?」
『他の三人を見てくれている私服のものから、連絡がありましてね……さすがに、小川さんの方は特に変わった動きはないのですが、他の長野、岡林さんのお宅には馬鹿な連中が石を投げ入れたり、いたずら電話がかなりかかっているそうです。エスカレートしなければいいのですが……。多分、池田さんのお宅も似たような状況になっているのではないかと思いまして……』
 確かに何かおこるのではないかと思ったが、これほど早くにそんな状況になると尚貴は思わなかった。世間にはいかに暇人と、根性のひん曲がった根暗な人間、ストレスをこんな形で発散するしかない小心者が多いのだろうと、尚貴はため息をついた。
「今すぐ見に行って参ります。また後ほど連絡いたします」
『ところで鳥島さん。来週、時間がとれますか?』
「え?」
『忘れてますね。催眠術の事ですよ』
 電話向こうの西脇はやおら明るく言った。
「はぁ……」
 すっかり忘れていた尚貴はそういうしかなかった。
『忙しいですか?』
「あ、そんなことはありません。日にちが決まったら連絡を下さい」
『日にちはもう決まってるんですよ。土曜日の夜ですが、予定はどうなっています?』
「多分、余程のことがない限り大丈夫だと思います」
 尚貴はカレンダーに書いてある自分のシフト表を眺めてそう言った。
『怖くはないですよ。一時間もあれば済みますから、逃げないで下さいね』
 くすくす笑いながら西脇はそう言った。
「西脇さん……自分は子供じゃありませんから怖くはないです。では、後ほどお電話します」
 尚貴はそういうと、西脇が携帯を切るまで待って、こちらも受話器を下ろした。
「西脇さんだったのかい」
「はい」
「雑誌に何の問題があるんじゃ……?」
 田所は不思議そうに尚貴に訊ねた。
「それは……」
 チラリと横目で伶香を見ながら尚貴は言った。その伶香は雑誌をじっと凝視したまま動こうとしない。何を考えてるのだろうか?
「あの記者がとんでもないことをしてしまったので、あちらも対応に困っているようです。俺も担当の池田さんのお宅に向かいます」
「?」
「あとであの雑誌を見て下さい。それで分かりますよ。元凶は彼女の様ですから、あとは田所さんが話を聞いて下さい。俺が訊ねたらきっと殴ってしまう……」
 尚貴が小声でそういうと、田所は驚いた顔を向けた。
「だから……何が載っているんだね……」
「嘘よ……こんな……」
 田所の言葉と同時に伶香が震えるようにそう言った。
 うつむいて雑誌を見ていた伶香の顔が上げられると、表情は凍り付いている。正確には血の気が無かった。
「正義を貫くのも結構ですが、その記事が正義だと自分は思いません。貴方の所為で今大変なことになってるんですよ……」
 何も言わずに出ていこうと思った尚貴であったが、やはり言わずにはおれなかった。田所は何がなんだか分からず、二人を交互に見て無言で立ちすくんでいる。
「だって……おかしいの。私は確かに名前を書いたわ……でも下の名前まで……その上……保護者の会社名なんか書いてない!たとえ名前を掲載することになっても、仮名にするはずなのよ……それは確認だってしたわ!なのにどうしてこんな記事に変わってるの?」
「そ……そんな事……自分に言われても……」
 伶香が泣きそうな顔で言ったので、尚貴は意表をつかれた。
「会社に……連絡しなきゃ……」
 震える手つきで鞄から携帯を取り出すと、伶香はスイッチを入れた。その様子から見て普段は電源を切っているのだろう。しかしその手つきは頼りなかった。
 田所は、伶香がいつの間にか落とした雑誌を拾うと、顔色を変えた。中身を確認して更に悲痛な面もちへと変わる。
「尚貴……これは芹町さんが書いたのか?」
「それで俺も頭に来ていたんですけど……なんだか様子が変なので、どう言っていいか分からないんですが……」
 尚貴はそう言い、伶香が携帯に向かって、なにやら叫んでいるのを横目で見る。
「これだけ身元が割れると……ただでは済まないだろう……」
「そうなんです……今、西脇さんからの連絡もその件で……。各家族の家に被害が出ているそうで、俺の担当している池田さんのお宅はどうかと聞いてこられたんです。俺もこれから様子を見に行きます」
「それがいい。そうしてやりなさい」
 尚貴は頷くと、交番を出て自転車にまたがった。伶香のことが気になったが、今はそれより池田の家の方が気がかりであった。純一は学校を辞めたと聞いていた。来月から隣の県の高校に通うことも聞いた。だが、本当に通うことが出来るのだろうか?今回の事件は地元では知らない人間はいない。
 しかし、ここを離れれば誰もそんなことには気付かない。そう思ったから池田も自分の息子を転校させることにしたのだろう。だがこんな記事が世間に晒されると、そうもいかない。最悪、家族総出で遠くに逃げ出すしかない。
 何故……こんな事になるんだろう……尚貴は冷たい風を全身に受けながら思う。確かに池田の息子はいじめに参加していた。裕喜も恨んでいたから自殺した。いじめた四人は責められても仕方ない。だが両親はどうなのだろう。その息子達を育てた張本人であるからやはり責めは負わなければならないのか?いじめに気付かなかった罪、そのような子に育てた罪……それら全て、降りかかる先の終点が両親であるのだろうか?
 裕喜の両親に、親戚に責められるのは仕方がないだろう。だからといって赤の他人が、裕喜の死だけを知って、そこに至る経緯、そこに関わった子供達が何を思い、どうしていじめたのか、何故そこまで追いつめたのか、そこに駆り立てたものは何なのかを知らない人達に、何ら責める権利はないのだ。中には同じ経験をした人達もいるのだろう。真剣にいじめを考えている人もいるだろう。その人達は裕喜の両親を励まし、力になってあげればいいのだ。それをとばして、四家族を無責任な言葉で非難し、陰に隠れて石を投げることは、いじめと行為は同じである。
 乱暴かもしれないが、非難し、石を投げてもいいのは裕喜の両親だけである。
 池田の家に付くと意外にシンと静まり返っていた。とりあえず様子を見に来たことを告げようと、門に手をかけ中に入る。すると外からは見えなかったが、空き缶がいくつか転がっていた。外から投げ入れられたものだった。よく見ると窓は雨戸が閉ざされていた。
 尚貴は玄関に取り付けてあるインターホンを鳴らし、こちらの身分と名前を告げた。しかし返答がなかったので再度インターホンを鳴らす。暫くすると、玄関の扉を開ける音がした。
「お巡りさん……ですか……?」
 細く開けた扉から、ここの婦人らしき人物が覗いていた。扉のチェーンはまだ外されていないようである。
「済みません。あの……」
 尚貴はここで気が付いた。何を理由に話を始めればよいのか、考えていなかったのである。池田とは面識があったが、妻の芳美は初めて会うからだ。
「以前、池田さん……あの……こちらのご主人と知り合う機会がありまして……その……」
 その言葉はしどろもどろであった。しかし芳美は池田から話を聞いていたのか、顔色が少し明るくなった。
「以前うちの主人を助けて下さったお巡りさんですか?」
 助けたわけでは無かったが、池田は芳美にそう話したようであった。
「そんなたいそうなことはしておりませんが、色々話をお伺いいたしまして……」
「むさ苦しいところですがお入り下さい。少し困ったことになっておりましてご相談したいのです……」
 芳美はそう言い、チェーンを外すと扉を開けた。芳美は小柄で、ふっくらとした体型をしており、どことなく自分の母親を思い出させた。
 そこへ空き缶が飛び込む。
「やべぇ!お巡りが来てる!」
 尚貴が振り向くと同時に、二十歳に満たないであろう若者が数名走り去って行った。
「仕方ありませんわ……」
 芳美は諦めたようにそう言って、尚貴を中へ促した。
「あの……純一君は?」
「部屋にこもったままで……。親戚からの電話で知ったのですが、何でも雑誌に今回の事件が名前入りで掲載されたとか……」
 苦しそうに芳美はそう言った。その目線は床に張り付いている。
「学校を転校することになって、あの子も少し落ち着きだしてはいたのですが、朝からいたずら電話や、外から先程のように空き缶を投げ入れられて……それで自分の所為だといって、部屋にこもってしまって……。こういうことを取り締まっていただけないものでしょうか?」
「現場を押さえることが出来れば、交番まで引っ張ってはいけますが……」
 こういう問題はとてもデリケートであるので対応が難しい。結局、警察というのはそうなるだろうという予想では動けず、既におこってしまった事にしか対応できない。
「純一のしてしまったことを考えると、耐えるしかないのですね……」
「そんな風に思わないで下さい。空き缶を投げ入れたり、いたずら電話は筋違いのことです。耐えることではありません」
 尚貴は思わずそう言っていた。
「主人が言っていたとおり、鳥島さんは良い方ですね……」
 疲れた笑みを芳美は浮かべる。
「そんな……。自分はそんな人間では……」
「お茶でも入れますので、ここでお待ち下さいね」
 芳美は客間に尚貴を通すとそう言った。
「あの……宜しければ、純一君と話がしたいのですが……」
 芳美の顔色が変わる。
「何を……ですか?」
「自分自身、何を話して良いか分からないのですが……。人間って、一人になると妙に落ち込むじゃないですか、自分もそうです。本当はもっと歳の近い人間の方がいいのかもしれませんが……」
 落ち込むを通り越して、妙な考えを持つのではないかと尚貴は心配しての事であったが、そんなことは芳美にはもちろん言えない。
「あの子さえ……良ければ……」
 気の進まないような言い方であったが、芳美は尚貴を二階へと案内した。
「純一、お前と話がしたいとお客さんが来られてるんだけど、良いかしら?」
 その言葉に純一は無言で返した。
「純一?眠ってるの?」
 一瞬、顔色が変わった芳美であったが、扉には鍵がかかってはいなかったのでそっと中に入る。その様子を尚貴は廊下から見守った。そこからそっと覗くと、純一はベッドに毛布をかぶって丸くなっているようであった。
「純一?」
 心配そうに芳美が毛布に手をかけると、そっと引き下ろす。すると純一が横向きのまま言った。
「僕に友達なんて……いないよ……」
 弱々しい声でそういうと、芳美の掴んだ毛布を引っ張ろうとした。
「お巡りさんが来てるの……話がしたいって……」
 お巡りと聞いて、純一は真っ青な顔で身体を起こした。くしゃくしゃの頭にやつれた顔が痛々しいと尚貴は思った。
「僕を……捕まえに来たの?」
「違うよ……」
 そこで尚貴は純一の部屋に入った。意外に片づいているというのが尚貴の第一印象であった。
「あの……じゃ何の用ですか?」
 ベッドに座り込むように純一はこちらを見る。
「じゃ、お母さんお茶でも入れるわね」
 努めて明るく芳美がそう言って部屋をあとにすると、尚貴は話し始めた。
「学校転校するんだって?」
 そう聞かれた純一は、コクリと頷いた。
「お巡りさん……知ってるんでしょ?僕が何したのか……」
 項垂れながらそう純一が言った。その姿は疲れた老人の様に見える。
「知ってるよ」
「僕を捕まえて……死刑にしてよ……疲れちゃった……」
「捕まえに来た訳じゃないよ。それに君が直接裕喜くんを殺した訳じゃないから、死刑と言われても困るよ……」
 少し困ったような笑いを浮かべて尚貴は言った。
「知らないから……お巡りさん。僕や他の奴らが裕喜に何をしたか知らないからそういうんだ。本当にどんな風に裕喜をいじめたか知れば、そんな風に言えなくなるよ」
「そんなに酷いことをしたんだ」
 だいたいの所は、聞き込みをして知っていたが、知らない振りをした。
「うん……」
「酷い事って分かっていて、どうして?」
「怖かった……」
 じっとうつむきながらそういう。その気持ちは分からずとも推し量ることは出来た。たいていいじめに参加するのは、参加しなければ今度は自分がいじめられる対象になるのを知っているからであった。それを承知で拒否することは出来ないだろう。とはいえ、純一は元々裕喜の友達だった。いじめに参加することは、知らない人間を相手にするより、辛く苦しかったに違いない。
「友達……だったんだって?」
 一瞬強ばった表情が、そのことで純一を苦しめているのを物語っていた。
「僕……いじめた後で、二人っきりになることが何度か合って……その度に……僕は……謝ったんだ……何度も何度も……あいつ……僕を恨む事なんて……一言も……言わずに……いいんだってその度に……言ってくれた……僕の事も分かるって……あいつが一番辛かったのに……自分をかばえば……今度は僕がいじめられるよって……言って……そんな……裕喜を……かばえなくて……どうしていいか分からなかった……。いつも苦しくて……誰かに相談したくて……でも、そんな人誰もいなかった……」
 純一の泣きすぎて赤くなった目から涙がにじむ。どれほどこの子は自分の行いを責め、幾夜泣いたのだろう……。
「死にたいとか……考えること……ある?」
 尚貴はそうきりだした。その言葉が純一にとって免罪符のように思うのか、尚貴にすぐさま頷いて応えた。
「もう……何もかも……嫌になって……生きるのも酷くしんどいんだ……。将来の希望もなんにもないし……」
「君は……いつも何かから逃げて……逃げて逃げて……一体何処で立ち止まるんだい?裕喜くんのことは済んでしまったから今更どうにもならない。冷たいようだけど、死で償えると思ったら大間違いだよ。確かに一見、楽に見えるかもしれないけどさ、あの世がどうなっているのか分からない。けど、今、死んで、あの世に行って裕喜くんに会ったとしよう。そこで君はどうするんだい?そこからはもう逃げ出せないよ」
「……」
「誰に罵倒されようと、陰口をたたかれても、君はそれに耐えて生きなきゃいけない。それが償いだよ……」
 そう尚貴に言われ、純一はうつむいたまま微動だにしなかった。
「雑誌……見てないけど……名前とか……父さん達の事とかも……出てたって……何処にも……もう……行けない……。僕が……いると……みんな迷惑するんだ……こんな僕なんか、いなくなる方がいい……」
 ポロポロと涙を落としながら純一は震えるような声でそう言った。
「お父さんやお母さんが頑張ろうとしているのに、どうして君にそれがわからないんだ!」
 そこで尚貴は叱りつけるようにそう言った。言った後で、自分がそんなことを言う権利はないことに気が付いたが、その言葉を引っ込めることはもう出来なかった。
 純一はじっと尚貴を見て驚いた表情をしていた。
「あ……なんか……余計なこと言ったみたいだね……」
「どうして僕がこんな話を知らない人に話すか分かる?」
「あ……そうだね……」
 そう言えば当然のことであった。あまりにもすんなり話し合えたので、尚貴はそのことを変だとは思わなかったのである。
「お巡りさんが、裕喜の……第一発見者なんでしょう?」
「えっ!」
「僕は自分のことを正直に話したよ。だから教えて欲しいんだ……裕喜……どんな顔してた?」
 その問いかけに一瞬何と答えれば良いのか、尚貴は言葉に詰まった。何より自分は血を見て気を失ったので、裕喜自身を見たわけではなかったからだ。
「そうだね……とても安らかだった……。死ぬことが彼を苦しめはしなかった。それは検死官の意見だけどね……」
 確かにそう言っていたのを尚貴は思いだした。
「本当に?」
「嘘は言わないよ……」
 それを聞いて純一は何とも言えない笑みを浮かべた。
「そっか……良かった。裕喜……やっと解放されたんだね……」
「でも……死を選ぶより、生きることを選択して欲しかったよ」
「お巡りさん……僕、それ聞いてちょっぴり元気がでたよ……。例え、僕を恨んで血文字を残したとしても、僕はそれに対して何も言えない……。ただ、安らかな顔をしてたっていうのが嬉しい……本当に……良かったと思う……」
「だからといって君も馬鹿なことを考えないようにね」
「ホントはね……死のうと何度も思ったんだ……」
 何処か遠くを見ながら純一が言った。
「でも……父さんが頑張ろうって言ってくれたから……もう少し頑張ってみようかなって思ってた。それでも、嫌がらせとか色々あって、ぐらつくことがあったんだけど……今、お巡りさんから裕喜のことを聞いて、そんな考えはどっかに行っちゃったよ。きっともうここには住めないと思うけど……頑張ってみる……」
 そう言って純一は久しぶりであろう笑顔を尚貴に向けた。
「頑張るんだよ……そうだ、相談したいことがあったら、一丁目の交番にいつでもいるから、自分で良かったら相談に乗るから」
 胸を叩いて尚貴はそう言った。
「お巡りさんって……変な人だね……」
 くすくすと純一はそう言って笑った。
 そんな様子を芳美は廊下で立ち聞き、思わず目頭を押さえた。久しぶりの純一の笑顔が、我が子が初めて自分の名を呼んだ時の感動に似ていると思い出していた。
前頁タイトル次頁

↑ PAGE TOP