Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第9章

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 尚貴は暗い闇の中にいた。
 ここは何処なんだろう……。
 自分の身体は暗闇の所為で見えなかったが、僅かな光もない世界に漂っている感触がした。意識だけがここに浮いているようだ。
 深い闇の襞にピッタリと絡め取られ、本当ならば恐怖が先に立つ筈なのだが妙なことにそんな感情はこれっぽっちも湧かなかった。
 俺……どうなったんだろう……。
 記憶が切れ切れで、自分に何が起こったのか全く見当がつかなかった。
 そこに自分を呼ぶ声が聞こえた。
 何処からだろう……。
 上下も分からない尚貴は困り果てた。
 それにもう少しここに浸っていたいとも思った。
 すると誰かの手が自分の肩に触れたような感触がした。
 え……。
 尚貴は人の手らしき暖かさを感じる方向に視線を向けた。
 ……!
 自分の肩は見えないが掴んでいる手が白く浮かび上がっており、後ろから両肩を掴まれていることが分かった。
 紙のように白い手は手首から後ろが闇に消えていた。
 あ……。
 急に恐怖がこみ上げた尚貴は大声を上げてその手を振り払おうとした。しかし手足をバタつかせているにもかかわらず感覚がない。恐怖を感じる傍ら妙だと思いながら手を自分の目の前に差し出してみた。しかしある筈の手は見えず、代わりに闇の海が拡がっていた。
 どうして……手はここにある筈なのに……。
 自分の指で頬を撫でてみたが指の先からはなんの感触も尚貴の脳には伝えられなかった。
 これは一体どういうことなんだ……。
 新たな恐怖が尚貴を支配した。
 五感がないのではなくて、肉体がないことにやっと気が付いたのである。
 嘘……だっ……こんなの……嘘だー……っ!
 尚貴は絶叫と共に目を覚ました。
 最初に瞳に入ってきたのは光だった。
 白い光……だ……。
 尚貴は射し込む光で目が痛いほどであったが、闇の中から開放されたことに安堵した。
 その光の向こうに見知った人物が自分に心配そうな顔を向けていた。
 それは西脇であった。

「良かった……やっと目を覚ましたのですね……」
「西脇さん……あれ……俺どうしてこんなところに……」
 上半身を起こした尚貴は、自分がまた病院にいることを知った。
 キョトンとしたその顔は何とも間が抜けていた。
「どうして……って……?」
 西脇はそんな尚貴を見て張りつめていた何かが緩み、引き締めていた口元から思わず笑いが洩れた。
 その笑いは暫く止まらなかった。
 西脇の一本抜けていた歯がちゃんと治療されていることに気が付いた尚貴は自分のことを聞くより先ずその事を聞いていた。
「西脇さん。前歯いつ治療したんですか?」
「え……鳥島さん。それは分かっていてボケているんですか?」
 呆れたように西脇が言った。
「ボケてなんかいませんが……」
 すまなさそうに尚貴は俯いた。
「三日前、貴方は電話の男に何故か身体を乗っ取られ、その存在が消え失せたとき倒れたのを覚えていないのですか?」
「そう言えば……」
 少しずつ記憶が戻りだした尚貴は、その時の事を思い出し次第に腹が立ってきた。
 青年がいかにも自分が正しいと言わんばかりの態度と口調に、酷く憤慨したことも思い出した。
 急にムッとした表情になった尚貴を見た西脇は、やっとあの時のことを思い出したのだろうと思った。
「あの後、鳥島さん……心臓が止まっていたのです。警部が人工呼吸をすぐ施したので暫くして呼吸が戻ってきましたが、こちらの方がヒヤリとしました。それが今度は何度お呼びしても意識が一向に戻る気配がなくて今まで昏々と眠り続けていたのですよ……」
 西脇は心底ホッとした表情でそう言った。
「済みませんでした……警部や西脇さんに随分ご迷惑をおかけしたようで……」
「そんなことは気にしないで下さい。それより鳥島さん。身体……おかしく感じるところはありませんか?」
「空腹以外は……特に……。こんな風に言うのもなんですが、とても気分はいいんです。これって変ですね」
 そう言って尚貴はにこりと笑いかけたが、西脇が困ったような顔をしていた。
「気分は本当にいいのですか?鳥島さんは眠っている間、酷くうなされていたのですよ。今も何かを叫びながら飛び起きたのです。ですのでどんな夢を見てうなされていたのか伺おうと思っていたのですが……その調子では眠っていた間のことは覚えていない様ですね」
 残念そうに西脇はそう言った。
「自分が……うなされていたのですか……」
 尚貴は信じられないという様子で暫く考え込んだ。
 俺が夢を見ていたなんて……それもうなされていた?
 そんな馬鹿な……だって変な夢を見た記憶はないし……
 苦しいとか、怖いとかも感じた覚えもない……
 尚貴は何処ともつかない場所で恐怖を感じたことを何も覚えていなかったのである。
「あの……それで裕喜君を苛めていた四人を、それとなく見張ろうと言っていた件はどうなったのでしょう……」
 尚貴は池田純一を担当したいと言った事を思い出した。
 おもむろに尚貴が聞くと西脇は微笑みながら答えた。
「大丈夫です。それとなく所轄の警官に様子を窺うように手配は済んでいます。そうそう、池田純一君は田所巡査長が貴方の代わりに見て下さっています」
「え……おやじ……田所さんがですか?」
 思わずおやじさんと言いかけ、慌てて言い直した。
「お願いするつもりは無かったのですが、御自身から何か出来ることがありますかと食い下がられた警部がその熱意に押されましてね。確かに人手も足りませんでしたので結局お願いしたのです」
「そうだったのですか……田所さんが……」
 尚貴は不思議であった。ややこしいことや揉めることには一切関わらないようにしていた田所自身からそんなことを言い出すとは信じられなかったのである。
「田所巡査長ですが、鳥島さんに何があったのか随分警部に聞いておられました。それはもう大変な剣幕でしたよ……貴方に何かあったら、御両親に顔向け出来ないと言って警部に掴みかかっておられました。ですが結局話せなかったようです。言って信じてもらえないことは分かり切っていますので……。それにしても鳥島さん、良い方を上司に持って幸せですね」
 西脇はそう言ったが名塩に掴みかかる田所など想像がつかなかった。
「はぁ……良い方だと思います……」
 何となく歯切れの悪い言葉から、尚貴が普段田所のことをどんな風に思っているのかが西脇には分かった。
「その様子だと、田所巡査長に対して鳥島さんはきっと歯がゆい思いをされたことがあったのでしょう。だから素直に喜べないし、信じられないのですね。でもね、貴方はまだ若いから上司の生き方を学べないのですよ。私から見ますと鳥島さんは最初にああいう上司に当たったことはとてもラッキーだと私は思いますよ。これから警官として貴方が勤めていく間にきっと田所巡査長の下で働けたことを良かったと思う日が必ず来るはずです」
 あ、また顔に出ていたのかな……西脇さんには隠し事が出来ないなぁ……
 西脇の人の表情から考えを読む才能を改めて思い知った尚貴は羨ましいとも思い、怖いとも思ったが、それよりも初めて田所を誉める人物に会ったので尚貴は驚いた。
「本当にそう思われます?」
「ええ、保証しますよ。あの方は鳥島さんが思っているほど、頼りなくありませんし、事なかれ主義でもありません。そう見えるのはちゃんと鳥島さんが人の本質を見抜いていないからです。これからは一度先入観を捨てて違う方向から田所巡査長を観察してみてはどうですか?何より鳥島さんは刑事になりたいと思っていらっしゃるのでしょう?人間観察は刑事の基本ですよ」
 そう言われた尚貴は、ただ素直に頷いた。
 刑事になりたい……か。おやじさんが言ったんだろうな……。
「ところで西脇さん……自分はずっと考えていたのですが……あの時……どうして警部も西脇さんもあの男の言うことに強く反論して下さらなかったのですか?魂の解放とか訳の分からない理屈を並べ、いかにも自分が正当であると主張する男に腹が立たなかったのですか?自分は……悔しくて……自分があの時口をきけたら絶対に好き勝手には言わせませんでした」
 尚貴は不服そうに言った。
「相手が何を考えているのか、どんな性格なのか、何を目的としているのかを知るには、相手を怒らせない程度に言葉を返すのです。そうして気分良く洗いざらい話させるのですよ。私も警部も別に反論出来なかった訳ではないのです」
「そっ……そうだったのですか……済みません何も分からないくせに口一杯に言ってしまって……」
 急におたおたとした尚貴が妙に可笑しかった。
 俺って本当に馬鹿なんだな……どうしてこう何も考えずに言っちゃうんだろう……。
 尚貴は心の底から反省した。
「そんなに落ち込まないで下さい……」
 急にシュンとなった尚貴に西脇が言った。
「話は最初に戻りますが、貴方はこのベッドで意識不明の間、かなりうなされていました。本当に心当たりがないのですか?それとも目覚めと同時に忘れてしまったのでしょうか……」
 西脇はじっと見つめてそう問いかけた。
 尚貴は必死に思い出そうとしたが頭の中からはそんな記憶の断片すら見つけられなかった。
「済みません。どんなに考えても何も思い出せないのですが……。例えばどんな事を自分は言っておりました?」
「それが……一つ一つの言葉の繋がりはないのです。ですが……」
 西脇はそこで一旦言葉を切って、暫く考え込むような仕草をした。それは尚貴が発した言葉を一つずつ思いだしているかのようであった。
「痛い……苦しい……助けて……お父さん、お母さん。死にたいよう……もう嫌だ……言葉として分かったのがそれ位ですね。思い当たりますか?」
 そう聞かされた尚貴は、天井をじっと見つめた。暫くすると「あっ」と、小さく叫ぶ。そんな尚貴を見て西脇の方が驚いているようだ。
「何か……思い出したのですか?」
「大人になってからは無かったのですが。小さい頃怖いテレビや、映画、お化けの話……そういう事を見たり聞いたりすると決まってその日の晩、うなされたんです」
 小さい頃とはいえお化けが怖いというのが恥ずかしくて、尚貴は顔を真っ赤にして言った。しかし西脇は困惑の表情を浮かべている。
「怖いテレビを見てあんなうなされ方をするのでしょうか?それにしても、どう考えても死にたいと言うのはおかしいでしょう?」
「あ、済みません。その説明がまだでした。自分は小さい頃……六歳から七歳までの間、大病を患いまして……何度も生きるか死ぬかという状況に陥ったそうです。先程西脇さんがおっしゃっていた言葉を熱にうかされた自分が譫言のように何度も何度も両親に訴えるように言ったらしいのです。それから病気が治ってからも、時折うなされるようになったようです。色々妙な事件が続いたので、きっと久しぶりにうなされたのだと思います」
「理由は分かりました。ですが、どんな内容の夢に対してうなされているのかを覚えていないという事が私には不思議に思えて仕方がないのですが……」
「考えてみればそうなんですが……昔からそうなんです。内容は全く覚えていないのです。どうしてなのでしょう……」
 暫く考え込んだ西脇が言った。
「鳥島さんさえ良ければ、一度催眠術をかけて、貴方がどんな夢を見ているのかを探ってみませんか?」
「え……なんだか……怖そうですね……」
 尚貴はそう言って少し身体を竦ませた。
「知り合いにとても上手な方がいらっしゃるので、大丈夫。怖いことは何もありませんよ。それに貴方も夢の内容を知りたいと思いませんか?」
 理由はないが尚貴は気が進まなかった。
「ですが理由は分かっていますし……今更……」
 何ともいえない寒気が背筋を走る。西脇に夢の内容を知りたいと思いませんか?……という問いかけにどうしてか恐怖すら感じた。
 何故こんなに怖いと思うのだろうか……。何も怖いことなんかない筈なのに……。きっと病気で苦しかったことを身体が覚えていて、それを思い出すのが怖いと感じているのかもしれない。なにより夢の内容など尚貴にはどうでも良かった。思い出したところで、どうせ過去の事なのだ。しかし、西脇の方はどうしても調べたいという雰囲気を漂わせていた。
「鳥島さん?」
 沈黙してしまった尚貴に心配そうに西脇が声を掛けた。
「あ、はい。自分はいつでも構いません……」
「では、連絡を取っておきますね」
 西脇はそう言って尚貴の了解を得た。
「はい」
 ちょっぴり後悔したような声音で尚貴は言った。
「あ、そうだ……話は変わりますがもしかして三日間ずっとついていて下さったのですか?もしかして両親に知らせたとか……」
「ずっとというわけではありませんが、仕事の合間をぬって出来るだけ様子を見に来ていました。田所巡査長も名塩さんも日に一度は来られてたようです。ただ、御両親には連絡を取った方がいいのかどうか悩みまして、ご兄弟はいらっしゃらないと田所巡査長に聞いておりましたし、結局まだ貴方の身内には連絡はしていないのですが……」
 それを聞いた尚貴はホッと胸を撫で下ろして言った。
「良かった……ただでさえ警察官になるのを反対されておりましたので……こんな事が知られると今度は何を言われるか……それにもう歳ですし、あんまり驚かせるようなことは聞かせたくありませんから……」
 西脇はそれを聞いて口元に笑みを浮かべた。きっと事あるごとに両親から警察を辞めろと言われていることが分かったに違いない。
「ところで自分はいつ退院していいのでしょうか……身体は何処もおかしく感じませんし、出来れば早々にここから出たいのですが……」
「それは担当医の方に伺ってからですがその様子ではもう大丈夫でしょう」
 そこへ西脇の携帯が鳴った。
「はい、西脇です……ええ、鳥島さんはやっと意識が戻りました。今、代わります」
 そう言って西脇は尚貴に携帯を差し出した。
「え、どなたでしょうか……」
「名塩警部ですよ」
 それを聞いた尚貴は慌てて携帯を掴んだ。
「はい、鳥島です。随分ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございませんでした」
 尚貴は思わず携帯に向かって何度も平謝りに頭を下げていた。
『お前……いつまで惰眠を貪っていたのか分かっているのか?全く……』
 名塩の口調はきつかったが、電話向こうで安堵している気配が尚貴には感じられた。
「済みません……」
 ただ謝ることしか尚貴には出来なかった。
『まぁ、いい。元気そうで良かったよ。それより身体は大丈夫なのか?』
「はい、病院の先生に許可が貰えればすぐにでもここから出るつもりです」
『妙な奴はもうくっついていないだろうな……』
 名塩はからかうようにそう言って電話向こうで笑った。
「いません。警部、気持ち悪いこと言わないで下さい……。それでなくてもあの時の事を思い出すだけでも吐き気がするんです……」
 それは尚貴の本心であった。
 意識は存在するのに身体を動かせないというもどかしさと嫌悪感……。
 このまま本当に、乗っ取られるかもしれないという恐怖と脅え……。
 青年が語っている間、繰り返し襲ってきた激しい吐き気と目眩……。
 それら全てがない交ぜになって尚貴の心と身体にドロリとした澱の様に沈んでいた。
『気持ち悪かったのはこっちだ!西脇にはそいつの影が見えたようだが俺には見えなかった。それがよけい不気味だったんだ。ま、奴が何を考えているのか多少は分かったが、それでも何者であるのか、どういう存在であるのかがどうも分からない……お前はその見当がつくか?』
「分かりません……」
 尚貴はそう言った。
『まぁいい。お前が無事なことだけで今回は良しとしよう。西脇に代わってくれるか?』
「はい。その前に警部……あの……何を考えているのか分かったとはどういう事なんですか?」
『まず、あの男は自分が正しいと信じている。それも信念の様なものを持っている。何より悪意がない。俺には信じられないことだが、悪意はないんだ。それは話してみて分かった事だがな……。悪意が無く、純粋に死のうとしている相手のことを思って力を貸しているようだ……』
「そんなっ!」
 尚貴には考えもつかないようなことを名塩が言ったので思わず叫んでいた。
『大声を立てるな!耳に響くだろうが……』
「す……済みません……でも、悪意がないなんて警部がおっしゃるから……」
『何度も言うようだがあの男に悪意はない。それが世間の法律に通用するかどうかはまた別の話だ』
「悪意が無くてあんな状況を作れるのでしょうか?」
 尚貴は裕喜が体育館一杯に血をまき散らしていた状況と少女が身体を引き裂いて死んでいたことを思い出した。
『死を幇助したり、殺人を犯したからと言って全てが悪意からとはいえない。時に人は善意や正義という大義名分を持ち出して血の争いをする。ある意味であの男の言ったことは的を射た事を言っていた。それを認めるわけにはいかんがな。だがあの男の考えに賛同する人間もこの世にはいるはずだ。いや、いるだろう。しかし、意見に賛同したからと言ってそれを実行する事は普通出来ない。それは心の何処かで実行してはいけないことが分かっているからだ、それなのに実行に移す人間は精神を病んでいるか、純粋にそれを正しいと信じている奴だけだ』
 そこで名塩は一旦言葉を切り、先を続けた。
『だがあの男は精神を病んでいるわけじゃない。ただ自分が正しいと思っているだけだ』
「自分には理解出来ません……」
『出来なくていい。実は俺もそうだ。よく分からんのだが、そう考えると不思議に納得出来るだろう?』
「はぁ……そうですが……」
 混乱したまま尚貴はそう答えた。
『あの男の分析は西脇の意見だ。もっと聞きたければ西脇に聞くんだな。ところでいつ代わってくれるんだ?』
「あっ、済みません」
 尚貴は急いで携帯を西脇に渡した。
「警部が西脇さんに代わって欲しいとおっしゃっています」
「分かりました」
 西脇は携帯を受け取ると名塩と何か事件の事を話し出した。尚貴はその間じっと天井を見つめて先程名塩が言ったことを思い出していた。
 悪意はない……。
 尚貴はその言葉の意味を必死に考えた。
 確かに裕喜は酷いいじめに合っており、何度も死にたいと思っただろう……。
 あの少女にしても父親の支配から逃れたかったのだろう……それも死を決意する程……。
 だからといってあんな状況で死ぬことが死に逝く者の慰めになると尚貴には到底思えなかった。
 では、あれは善意だと言うのか?違う。善意があれば助けようとしたはずである。もし無理でも先ず思い止まるよう説得する。それすらしようとせず、あんな死を世間に晒してやることが良い事な訳がない。尚貴は強くそう思った。いつの間にか握りしめた拳が震えていた。
 それにしても……どうして俺なんだ……?
 自分でないといけない理由があるのだろうか……?
 何度も繰り返して自問してきた事がここにきて、また最大の疑問として心の中に浮上してきた。
「鳥島さん」
 突然名を呼ばれ、尚貴はハッとして声のした方に顔を向けると、いつの間にか西脇は電話を終えていた。
「あ、はい。済みませんぼーっとしてしまって……なんでしょう?」
「私は今から県警の方に戻りますので、帰りに看護婦さんに貴方のことを伝えておきます。明日には退院出来るはずだと思いますよ。もう暫く我慢して下さいね」
 そう言って病室を出ようとした西脇であったが、ふと立ち止まった。
「そうそう、大綱物産の社長ですが、遺書もあり自殺と処理されました。その娘は不審な死に方をしましたが、自殺と処理されました」
「そうですか……」
 西脇が病室を出ていくと病室は急にしんと静まり返った。
 尚貴は病院が嫌いであった。小さい頃、病院生活が長かった所為かもしれなかった。
 白い壁が四方から迫ってくるような感覚に囚われた尚貴は思わず毛布を引き上げ、昔していたように布団に潜り込んだ。
 早く……ここから出たい……。
 そう思いながら尚貴はいつの間にか眠りについた。

 西脇は看護婦の詰め所に立ち寄ると、尚貴の事を伝え駐車場に停めて置いた車のところへと急いだ。西脇は歩きながらも尚貴のことを考えた。尚貴が何に恐怖してうなされるのかが知りたかった。確かに大病の記憶が幼い心に焼き付き、尚貴自身が無意識のうちにトラウマとして抱えている所為だとも考えられたが、それだけでは分からない事があった。尚貴には悪いと思ったが、彼に伝えていない言葉があったのだ。言えばきっと混乱するだろうと思い、西脇は言わなかった。
 尚貴に言えなかったこと……

 お兄ちゃんは誰?何処から来たの?

 その譫言が西脇には引っかかって仕方なかった。

 僕を助けてくれるの?

 お兄ちゃんとは誰だろうか?尚貴には兄弟はいない。近くに住んでいた自分より年上の男性のことをそう言っていたのだろうか?それならば何処から来たのとは聞かない。僕を助けてくれるの?……と、言うわけがない。
 あれはどう言うことなのだろう……。
 西脇はお兄ちゃんという言葉が指し示しているのは、例の青年のことだと確信していた。そこから導き出される答えは一つである。
 そう……尚貴は会ったことがあるのだ……。
 たぶん小さい頃に……。
 どうして会ったのかは分からないが、あの青年に会って死なずにいたのは尚貴だけだとも西脇は考えた。
 何故、何処で会ったのかを西脇は知りたくて仕方がなかった。
 そして今、何故その記憶がないのか?
 疑問ばかりが虚空を舞い、答えは当分掴めそうにない。
 エレベータを降り、地下駐車場に着く。そこはひんやりとした空気をその場に漂わせていた。
 西脇はそんな空気をかき分けるように自分の車を置いてある場所に向かった。
 車を置いてある真上の電灯が切れかけているのか断続的に点いたり消えたりしており、その度に自分の影がコンクリートに浮かんだ。それを見ながら車に近づくと一瞬影が二つ浮かんだ。
 今のは……。
 思わず西脇は後ろを振り返ったが人の気配は無く、自分だけが駐車場に佇んでいた。
 いつの間にか点滅をしていた電灯は、弱々しく光を継続的に発している。
 周りに誰もいない事を確認すると西脇は車に乗り込んだ。
 気の所為ですね……きっと……
 そうやって西脇が考え込んでいると何か視界の端にピンク色が揺れるのが分かった。
 ………?
 焦点をそのピンク色が見えたであろうところに合わせる。そこは車から前方数メートル離れた場所で、現在は車は止まってはおらず灰色のコンクリートの面を晒していた。そこには小さな水溜まりが見えた。
 あの水溜まりの辺りで、ちらちらと何かが揺れたのですが……
 西脇は、じっとその水溜まりを見ていると、その水面がゆらりと揺れた。
 え……。
 そうしていると水溜まりの中心が放射状に緩やかに渦巻き出し、そこからにょきり二本の手が突き出した。
「あれは……一体……」
 自分の今目にしているものが現実のものと思えず、西脇は何度も瞳をしばたいた。
 ゆらゆらと水面をたゆたう手は大人のものではなかった。手の大きさと腕の太さから未成年の子供のものだと西脇は思った。
 もしかすると、あそこはただの水溜まりではなく、何かの拍子に地下の水道管が壊れて陥没しているのかもしれない。そこに誰かが落ちたのだろうか?
 そう判断を付けると同時に車から降りて助けようとした。
 ……が、
「扉が……開かない!」
 車の扉のロックは解除されているにもかかわらず、西脇が渾身の力を振り絞って開けようとしても、扉はピクリとも動かなかった。
「この……!どうして開かないのですか!」
 焦ることのあまりない西脇が額に汗を滲ませて必死になり、扉を何とか開けようと叩いたり押したりを繰り返していた。ふと横目で先程の手を確認すると水溜まりの水面は揺らぐことなく、何事も無かったように水面に駐車場の天井にある蛍光灯を映し出していた。
「あ……?」
 今のは……錯覚?
 西脇は扉に手をかけたまま頭だけを車の前方に見える水溜まりに視線を張り付かせていた。するとすうーっと手の先から鳥肌が立ってくるのが分かった。同時にぞくぞくと背中を冷たいものが這い昇っていく。
 なに……?
 真横に何かがいる気配がじわりと伝わってくる。それを全身で感じ取り、前を向いている自分の顔が強張ってくるのが分かった。
 サイドミラーで扉の外に何がいるのかを横目で見ようとするが、前のめりの体勢の為によく見えない。首を横に向ければ済むことだが、本能がそれを止めた。
 髪の生え際から滲んだ冷や汗が、いくつかの汗と珠を結び頬を流れ落ちる。その汗の雫がシャツに落ち、染みを作った。
 見ない方がいいという消極的な感情と、見てみたいという好奇心が心の中で戦っていた。しかし西脇は他の人から穏和で物腰も柔らかに思われがちであったが、好奇心の固まりの様なものを生まれつき持っていた。
 そんな性格であったので、正体を見ずにこのまま車を出して逃げることは出来なかった。
 西脇は心の中で一、二の三!とカウントをし、思い切って横を向いた。
 だが……。
「変ですね……誰もいないなんて……」
 コンクリートの地面に描かれた白線が白く浮き立っているものの、そこには誰もいなかった。それが分かると西脇は思わず笑い出しそうになった。ピンと延ばしていた背骨が急に緩み、倒れ込むようにシートに身を沈めた。
「私は一人で何をやって……」
 口元に笑みをこぼしながらフロントガラスに目を向けるとガラスに筋のように流れ落ちる赤いドロリとしたものが目に止まった。
「血……」
 一瞬のうちに蒼白になった西脇の顔はひきつったまま凍り付いた。
 トロトロと次から次へと流れてくる血はフロントガラスを染め、外の景色を塗り潰して行く。その血と血の間からつぶらな瞳を持つ少女が見えた。
 その少女はボンネットに座っているようであった。
「………」
 ねえ、私ね……いますごく幸せなの……。
 何処からともなく聞こえてくる声は目の前の少女のものであった。
 あのお兄さんがいたから、私はやっと自由になれたのにどうして疑問を持つの?
「え……君は……」
 西脇は突然のことに呆然としていたが、よく見ると身体を引き裂いて亡くなった少女だと気が付いた。
 みんな誤解してるよ……
 あのお兄さんがいなかったら、私はきっともっと苦しんだと思うの……
 少女は西脇が現場検証の時見た表情で微笑んでいた。その微笑みは憑き物が落ちたような晴れやかなものであった。
 そうしているうちにフロントガラスは血で塗り潰され、僅かな隙間から少女の瞳だけがかろうじて見える。
 西脇は少女が見えなくなる前に車の扉を開けて外に飛び出した。今度はすんなりと扉が開いた。
「君!」
 少女が座っていたであろう場所を西脇は見たがそこには流れ落ちる大量の血も、少女もいなかった。
 浅く吐き出す自分の息の音が耳に届く。音と形容されるものはそれだけしか存在しなかった。
「確かに、ここに……血が……女の子が……」
 手をボンネットに乗せながら西脇は車の全面を見回すが、フロントガラスには困惑した表情の自分の顔しか映っていなかった。
 お願い……。
 そこに先程の声が響いた。西脇が振り返ると先程の水溜まりのところ、十センチ上に少女が浮かんでいた。
 その服装は淡いピンクのドレスであった。
 もう一人のお兄ちゃんを追いつめないで……。
 追いつめると、壊れてしまうの……。
 今にも泣きそうな少女がそう言って足からゆっくりと水溜まりに沈んでいく。
「もう一人のお兄ちゃんとは誰ですか?」
 西脇はそう言って少女に駆け寄ろうとしたが、足はピクリとも動かなかった。
 もう一人のお兄ちゃんが……。
 私のように他のみんなもそうなったように……。
 いずれ望んだように全てが収まるから……。
 幸せになれるから……。
 周りは急がせないで……。
 顔を半分水に沈めた少女がそう言った。
「待って下さい……まだ聞きたいことが……!」
 やっと何かに拘束されていた身体が急に自分の支配下に戻ってきた事を感覚的に知った西脇は水溜まりに向かって走り出した。
 しかし、水溜まりに着くと既に少女はすでに消えていた。
「……」
 透明な水は、地面のコンクリートをその底に見せていた。
 ただの……水溜まりですね……。
 そう思いながらも西脇は、膝をつきそっと水溜まりに手を伸ばした。
 その指先は、水に一センチも沈まず硬いコンクリートの感触を捉えた。
 なんだったのでしょう……今のは……。
 立ち上がった西脇は、今度は片足を水溜まりに浸けてみたが結果は同じであった。
 常識では考えられないことが起こっていることは分かってはいたが、こう続くと頭の中で何百の計算をさせられたような疲れを感じた。
 はー……っと深い深呼吸を西脇は何度もしながら、逆立った神経を平静に保とうとした。そうして今度は手を上に上げたり、身体を曲げたして強張った筋肉をほぐしていると、やはり駐車場に車を止めていた人が病院から帰ろうとやってきて、その西脇の行動に不審な目を投げかけた。
 西脇はそれに気付くと慌てて車に乗り、県警へと戻って行った。
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