Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第27章

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「おい、どうした?顔色が真っ青だぞ」
 真二郎は上着を脱ぎながら怪訝な表情を見せた。
「……え、いえ。何でもないの……」
 重美は真二郎が手に持っている上着を受け取り、いつもどおり振る舞おうと努める。今はもうここに青年はいない。しかも頭がおかしくなったのだと思われても仕方のないような体験を、現実主義者の真二郎に話したところで、信用などしてくれないだろう。しかも重美もまだ頭は混乱したままだ。
「それで……青年がどうしたんだ?」
「気になさらないで。それより、お風呂の準備はできてますので、お出かけになられるまで、ゆっくりなさって。七時には春日の迎えが来るのでしょう?」
 真二郎は夜に会合があり、出かける予定になっていた。いつだって家に滞在する時間は僅かだ。ならば帰ってこなくてもいいのに、真二郎は戻ってくる。
「ああ、そうだ。お前が言った青年と乳繰り合うために、私は邪魔なんだろう?」
 誤解するにしても、もう少しましな言い方があるだろう。そう、内心では馬鹿にしつつも、重美は妻の顔を取り繕っていた。
「面白い冗談をおっしゃるのね。それより、お風呂の前に何か軽くお食事でも作らせましょうか?」
 真二郎の決して笑わない瞳は雨上がりの川のように濁っている。若かい頃からそうなのか、それとも年齢とともにこんなふうに正視に耐えない瞳になったのか、重美には思い出せない。
「はは、冗談だ。料理はいい。先に風呂に入るよ」
 健康に留意しているのだろうが、目の下の脂肪、たるんだ頬に、出っ張った腹。老いを嫌悪する重美にはどれもこれも、醜悪でしかない。けれど真二郎は、アメリカの政治家がよくやっている額の皺だけはこっそり美容整形して取り除いたことを重美は知っていた。
「ええ」
 脇を通り、部屋から出て行こうとする真二郎からは、妙に甘ったるいコロンが漂う。出会った当時から変わらないその香りに、重美はうんざりしていた。真二郎が自宅にいるのかいないのか、この香りで判断ができるくらいだ。
 重美はつきあい始めた当初、彼を傷つけないよう、何度も忠告をした。本人が気に入っているからと言って、周囲が同じような感想を持つとは限らないからだ。けれど、真二郎は決してお気に入りのコロンを変えることはなかった。
 どうして男というのは、女の忠告を素直に聞かないのだろうか。
 いや、大抵の男は女を見下し、女中としか考えていないのだ。同等などと言う考えは、実は露ほども存在せず、女の意見を聞くことなど、ちっぽけなプライドが許さないのだろう。
 本当にどうして真二郎を選んだのか。
 後悔という文字自体をこの世から抹殺したいと切実に願うほど、重美はなんど後悔したか分からない。
 あの青年が見せた未来を信じるのなら、勝己は人を殺し、真二郎は重美を捨てる。

 お前の息子は十年後、児童連続殺人犯として逮捕されるのだ。お前は夫に捨てられ、親戚から縁を切られ、世間から疎まれる存在となる。安らぎは得られず、中傷と非難がお前に向けられるだろう。それが勝己を産み落とし、彼の残虐性に気付きながらも放置した、母親に課せられた罪だ。それはお前を苦しめ、精神をも狂わせ、最期は孤独に、死ぬ。

 どうしてこんな未来が重美に用意されているのだ。勝己の罪を何故重美が負わなければならないのだ。考えるだけでゾッとする。確かに金に困らない将来を選んだ。そう、地位も名誉もある真二郎と結婚した。それがそもそもの間違いだったのか。
 勝己のこれから起こすであろう行動を止めるには、どうすればいいのだろう。児童連続殺人犯を産み、育てた母という、耐え難いレッテルを貼られないようにするには、どうすればいいのだ。
 もし勝己がそんな犯罪者になったら……。
 愛情をたっぷり注いで育ててくれた両親であっても、重美を見知らぬ他人として扱うに違いない。本来帰りたい家は失われ、お前の責任ではないと言ってくれるだろう夫は逃げ出している。
 そんなの、いや。
 絶対に、いやよ。
 重美はソファに腰を下ろし、青年が立っていた窓を眺める。あれは幻だったと思いこむのは簡単だ。同じように、事実だと考えるのも簡単だった。あとは重美がどちらを本当だと信じるか、だ。
 近い未来といって見せられた光景を、二度見た。一つは幻、一つは現実として。
 息が浅く、そして早くなる。身体が小刻みに震えていた。
 今からでも遅くない。勝己を外国の全寮制の学校に入学させたらどうだろうか。厳しいカリキュラムが彼を変えてくれるかもしれない。いや、勝己の暗い性格がその程度のことで改まる訳などないのだ。
 真二郎から受け取った上着をしわくちゃになるほど握りしめた手は、白く筋が浮き上がっていた。心臓の鼓動が早くなり、不安だけが心の中で膨れあがっていく。誰かに相談したいが、こんなことを信じてくれる人などいないだろう。頭がおかしくなったと言われて、精神科に連れて行かれるのは目に見えている。
 真二郎と離婚をすればどうだろう。
 勝己の親権を手放すわけなどないだろうから、真二郎に押しつけられる。重美は実家に帰り、真二郎のことも勝己のことも忘れるのだ。そうすれば重美が産みの親だと責められることはあっても、性格形成の責任は真二郎に向けられるはず。そう、離婚をしてすべてを捨てたなら、もしかすると救われるのかもしれない。
 ただ、離婚の理由がすぐに思い浮かばなかった。
 真二郎は確かに重美にとっては一緒にいるのも煩わしい存在となっている。けれど、外面だけのものだったとしても、夫としては完璧だった。野心的ではあるが家族のために金を稼ぎ、不安のない衣食住を保証してくれている。過去に女遊びもしていただろうが、それを重美に悟らせることは今までなかった。感情にまかせて暴力をふるったこともなければ、意味もなく怒鳴り散らすこともない。
 また真二郎の秘書が気の付く男で、重美や勝己の誕生日、結婚記念日も含めてプレゼントを用意し、真二郎が帰宅するときに手渡しているのだ。真二郎が覚えていてそれらのプレゼントを手配しているのではないが、それでもいい夫になるに違いない。
 そんな夫の欠点をどこに見いだせばいいのだろう。
 ただ、この夫がいやになったという理由では駄目なのだろうか。
 女を馬鹿にしたような口調が、妻を女中のように扱う態度が、身に付けているコロンが、たるんだ身体中の肉が、目尻や口元に浮かぶ皺が――何もかもいやなのだ。
「重美、本当に今日はおかしいぞ……」
 いつの間にかリビングに戻ってきた真二郎が、ローブ姿で重美の前に座る。
「私と別れて下さらない?」
 重美は目を伏せたままそう切り出した。
「突然、何を言い出すんだ?」
 真二郎は笑っていた。冗談だと思っているのだろう。
「本気よ……あなた。もう、限界なの」
 誰かの妻でいること、母としての自分。それらすべてが煩わしい。
「随分と遅い育児疲れだな」
 真二郎は重美を馬鹿にするときによくする、口の端を少し上向きに歪めて笑った。重美はこの笑い方が反吐が出そうになるほど嫌いだ。
「冗談じゃないと言ってるでしょうっ!」
 重美は持っていた真二郎の上着を床に叩き付けて、立ち上がった。
 苛々して頭が割れそうに痛く、吐き気がする。
 どうしてこの男は、いつだって妻の話を真面目に聞かないのだ。確かに唐突だっただろうが、重美は真面目に真二郎に告げた。笑い飛ばされるために、離婚という言葉を口にしたわけではない。
「一体どうしたというんだ……落ち着きなさい」
「私は……妻としても母としても、もういやなのよ……」
 違う。
 一番いやなのは、連続殺人犯になるであろう、勝己の母であることだ。
「……とにかく、落ち着きなさい。ほら、座るんだ……」
 真二郎も椅子から立ち上がり、重美の方へと回ると、肩に手を回してきた。初めて夫に向かって怒鳴った重美が、尋常ではないと悟ったのだろう。けれど、もう遅い。重美はどうあっても離婚するつもりなのだ。
「私は気が狂ったわけでも、冗談を言ってるわけでもないの。離婚したいのよ」
 真二郎の手を払い、重美は距離を取るように椅子から離れた。
「……重美……?」
 驚きに目を見張り、真二郎は重美に向かって手を伸ばしている。その伸ばされた手が震えているのを重美は見逃さなかった。
「明日、離婚届を用意します。慰謝料もいらない。ただ、印鑑を押して欲しいだけ」
 驚愕の面持ちで見つめる真二郎を睨み付け、重美は言った。
「私は……お前が狂ったようにしか見えん……」
「あなたは未来を知らないから……見ていないから……そんなことが言えるのよ」
 青年が立っていた窓際に自然と重美の視線は向かう。するとそこには姿を消していた青年の姿があった。青年は見たこともない穏やかな笑みを表情に浮かべ、重美に向かって小さく頷いた。
 重美の選択は間違っていないのだ。
「未来……何を言ってる?」
「確かに勝己は天才よ。外面がいいから、信用もある。でも、あなたは勝己がどれほど心のない息子か、知ろうともしないし、理解しようともしない」
「お前は自分の息子をそんなふうに言うのか?信じられない母親だな」
「馬鹿なのはあなたよ。あの子は……将来、世間を騒がせる殺人鬼になるの」
 青年の笑みはどんどん深くなる。重美は褒められたような気がして、ますます饒舌になっていった。
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