「誘う―IZANAU―」 第18章
「賢っ……!」
薫はその場にへたりとしゃがみ込み、自分の息子である賢に近づくことが恐ろしくて出来なかった。何故隆子と同じ台詞をこの賢が言うのだろうか?それが薫には理解できない。何時も見る息子の表情とは違う、身内が亡くなったことを知らされたような陰鬱な顔はとても己が腹を痛めて生んだ子供には見えないのだ。
「賢ちゃん……ど……どうしたの?」
言葉を震わせながらも薫は母としての言葉を絞り出した。
もし、「隆子?」等と聞き、「そうよ」と返答されでもしたらどうするのだ。想像するだけで薫は背筋が凍りそうだった。目の前にいるのは見まがうまでもなく賢なのだ。薫が腹を痛め、そしてこの世に産み落とした、たった一人の息子だ。腕の中であやし、乳をやり、愛情込めてここまで育ててきた。
自分の息子だから。
それが隆子である筈など無いのだ。ならば、賢はふざけているのか。ふざけるような子供ではない。だったらどうして自分しか知らない言葉を、今、賢は言ったのだ。どこかで聞いていたのか?変だ……違う。聞いている訳など無い。薫はこっそりと隆子の入院する病院に向かったのだから。
「賢ちゃん……ねえ……じょ……冗談は止めて頂戴……」
笑い飛ばすことが出来たらどれほど気持が楽になるだろう。何もかも。過去のことすべて、もう終わりだと誰かが言ってくれたら。違う。終わったと思っていたのだ。苦しんだ。そして家庭を作った今でも、鉛を飲み込んだような重さが何時も何処かにあり、本当に心の底から笑えたことなどもう無いのだ。
もしかして知っている?
誰かが自分の息子にうち明けたのだろうか。その話が賢にも伝わったとは考えられないか。では誰があのような話をうち明けられたのだ。芳美が?それとも重美。やはり隆子か。
分からない。
「お母さん……どうしたの?」
分からない。
「お母さんって……」
「え?」
顔を上げると、賢が薫の方を覗き込んでいた。先程賢の顔に見た暗いものはもうなかった。もしかすると夢でも見ていたのではないかという程、賢は普通だ。何も変わらない。
「……どうしたのかしら……お母さん、何処か変だった?」
小刻みに震える両手を隠すように膝で合わせ、ギュッと力をこめた。そうすることで震えを止めようとしたのだ。
「え、気が付いたら床に座り込んでるから……僕も驚いたんだ……」
心なしか賢の声が震えているように薫は思えた。
「そ……そうなの?お父さんがね。賢が変だって言うから……見に来たの。何処か具合でも悪いのかと思って心配だったんだけど……大丈夫そうね。それとも風邪気味かしら?だったら塾も休んだ方が良いわね……お母さん電話をして置くから……」
必死に表情を明るく取り繕い、薫は何処か言葉が上滑りしている事実を知っていながら、ぺらぺらと話していた。今何か普通のことを話して置かないと、自分がどうにかなってしまいそうな気がしたのだ。
「え、ううん。別に……ただ、勉強に身が入らないだけだよ……」
言いながらも賢は床に何かがあるように視線をチラチラと向かわせる。薫はそれが気になった。
「床……汚れてるの?」
薫も同じように床を眺めてみたものの、フローリングは傷すら付いていなかった。そうであるから賢が何を気にしているのか分からない。
「え。ううん」
顔を上げた賢は疲れているようだ。
「余り勉強に根を詰めちゃ駄目よ。お父さんが何を言っても、賢は賢なんだから……」
何事も無かったように自分も立ち上がると、貧血に似た立ちくらみが薫を襲った。だが先に気が付いた賢が支えてくれた。
「……大丈夫?母さんの方こそ休んだ方がいいよ」
「そうね……」
気の小さい賢。昔からそうだった。強い者に何時も憧れているのが賢だ。小さい頃未熟児で生まれ、手足も小枝のようだったのだ。ミルクを飲む力も弱く、この子は本当に大きくなるのだろうかと薫がどれだけ心配したか。
大きくなったとはいえ、今も賢は体が小さく、手足も普通の男の子よりは細い。貧弱な薄い胸板はあばらでも浮いてるのではないかと思うほどだ。その所為か、小さな頃はよく苛められていた。そんな賢が同じように人を苛めようとは思わないだろう。
人の痛みを分かる子供に育って欲しかった。今、薫を心配する賢を見ている限り、それは果たされたのだ。
それだけで良い。多くは求めない。私はこの張りぼての家族という絆をここまで来ても尚、守りたい。夫は愛人に子供が出来たというが、最近は子など出来てもいないのに、出来たと嘘をつく女も増えた。妻も子もいる男性を横から奪おうなどと姑息にも考える女なのだから、どんな嘘でもつくだろう。
誰が別れてやるものか。泣いて縋ってこようと薫は絶対に頷いたりしない。
賢に父親は必要だ。例え不在にすることが多い夫であっても家長という飾りと、まだまだ必要な養育費のために広は必要だ。
薫は今まであの傲慢な広に耐えてきた。もう十数年も。
なのに今更自分だけが逃げるなど許しはしない。今まで薫が耐えてきた分、今度は夫の広が耐えるといいのだ。
「お母さん……横になってくるわ……」
頼りない足元をようやく動かした薫は、労るように添えられた賢の手をそっと押しやると自分は賢の部屋を出た。広の言うような所は賢に見受けられなかった。最初見たものは幻想なのだ。何時も恐れているからあんなものを見たのだろう。
賢は全く普通だった。何時も通りの息子。薫だけが昼間みた頼子のことに怯えているだけなのだろう。だから見なくて良いものまで見えたのだ。
そう……疲れているのだ。頼子のこと。そして今聞かされた広の言葉。想像しなかったことをいきなり聞かされたから混乱しているのだ。
暫く寝よう。一眠りすれば頭も冷えるはずだから。
薫は一階まで下りると、広の所には戻らずに寝室に向かった。
自分の母親がおかしかった。違う賢自身かおかしかったのだろう。確か裕喜が出てきたのだ。それから意識がない。気が付くと母親が目の前で座り込んでいた。良く叫ばなかったものだ。
はあ……
あれ程バクバクと動いていた心臓は今は正常に戻っている。本当に自分は裕喜を見たのだろうか?床から出てきた手に掴まれた感触は、生々しく覚えているはずなのだが、今、この瞬間には、既に記憶が遠くに薄れていた。
裕喜は幽霊になったのだろうか?僕を恨んでいる?だからとり殺そうとおもっているのか。純一と彰が死んだのも、裕喜に追いつめられたのか。純一は自殺だと新聞に載っていた。彰は良く分からない。だがどちらとも死んだ事だけは事実であり、間違いない。
では裕喜を苛めることに参加していた、あと賢と、勝己を殺すまで恨みは消えないのだろうか。
そんなの……都合良すぎる。賢はギュッと手を握りしめてそう思った。自殺して復讐するなんて最低だ。僕は確かに苛めに参加していた。だけど、仕方なかった。裕喜は反抗しなかったじゃないか。なのに、勝手に自殺して、僕らを恨むのか?
逃げようと思えば方法はあったはずなのに、何もしなかったのは他ならぬ裕喜だ。助けを求めなかったのもやはり裕喜だ。そうであるのに、どうして今更恨まれなくてはならないのだろう。自分が死に逃げた。その代償を僕らに払わせようと裕喜はしている。
賢はそんなことを考えながらも、自分が悪いことを理解していた。裕喜が何もできなくしたのは賢達だからだ。だがヒシヒシと何かが迫ってくる感触に、それが本来は自分の責任であるのだが、誰かに押しつけたかった。自分は悪くないと言い聞かせたかったのだ。
そう、責任転嫁だ。分かっていても自分が悪いことを認められない。認めると自分が最低な人間となってしまうことを知っているから。
賢は自分で自分を普通の人間だと思っていた。頭がずば抜けて良いわけでもなく、人付き合いも下手。当然、彼女もいないし、友達もあんな事をしでかした人間しかいない。そのグループ四人の中で既に二人は死んだ。違う殺されたのだ。
どうしよう。
もし本当に裕喜が呪ってこんな事になっているのなら、誰も自分を助けられないだろう。相手は幽霊だからだ。一体この世の誰が幽霊になった裕喜を止めてくれる?テレビで良くやっている心霊番組ではこういうとき、霊能者が出てきて、えい、やっで、追っ払ってくれるのだった。だが賢にはそんな事を頼める知り合いはいない。しかも今からテレビ局にハガキを書いても遅いだろう。
だがもしはがきを書いて上手く事が運んだとしても、どうしてこうなったのか霊能者は事細かに裕喜から聞くことになる。そうすると折角良い子で通してきた自分の仮面はバラバラと崩れ去り、醜い己の事が暴露されてしまうのだ。
嫌だ。
じゃあ自分が悪かったと認めよう。それで許して貰えるのか。ならいくらでも自分が悪いと認める。いくらでも。だけどそれが他の誰かに知られることは耐えられない。小さな自尊心だ。プライドだ。分かっているけれど、それを捨てられない。母親に全て話すことも、あの父親に話すことも絶対に出来ない。これでは許して貰える筈など無い。
だったらどうやって許して貰う?
許して貰えなければ自分もいずれ冷たい土の下だ。そうして裕喜に永遠に足蹴にされるに決まっている。今までも父親という存在に足蹴にされてきた賢だ。死んでからも誰かに足蹴にされるのだけは耐えられない。
それらから逃れるために今まで必死に頑張ってきたのだ。いつか父親を自分が足蹴にしてやると思ってきたからがんばれた。己の考えが一番正しいと思い、これがお前の道だと勝手に決め、その路線に無理矢理乗せたのは他ならぬ広だ。たかだか、一匹の精子を母親に提供しただけなのに、どうしてそこまで締め付けられなければならない。
賢は賢だ。一人の人間として存在するはずだ。だが父親は賢を子供だと思っていない。さらに一個人という意識もない。広の思い通りになるロボットだという認識くらいしかないのではないか。そうでなければ賢の自由になるはずの将来を全てお膳立てするような事はしないだろう。自分の物だと思っているから、こうあるべきだという意見を押しつけ、逆らえないようにするのだ。逆らえばきっとそれこそ不思議に思うに違いない。
物だから。
物が意見することは許されない。
もし、将来。広が重病を患い、心臓を取り替えることにでもなれば、躊躇無く賢は闇に葬られるだろう。あの男にとって息子という存在はそんなものでしかないからだ。
そう、こんな父親として最低の男と暮らしてきたのだ。父親などと思ったことなど無い。ただ苦しく、いつかそんな父親から逃げてやると希望を抱いて生きてきた。今はまだお金を稼ぐ力も、父親を見下せる地位もない。それらを手に入れて初めて父親を路傍に捨ててやろうと決めていた。
母親は事なかれ主義でどうにもならない。広が浮気をしていても知っていながら容認するような母親だ。多分、賢の気持など分からないだろう。いや分かっていても家庭内で波風の立つようなことは避けるのが薫という母親だった。
息をつくのも苦しい状態であるのに、更に裕喜のことも考えなくてはならないなんて。
どうしようか。
都合の良いことを考えているのは賢にも分かっていた。
今は裕喜に許して貰いたかった。誰にも話さず済むように。誰にも気づかれずに。ただ許して貰える方法を賢はひたすら考えていた。
見上げると高い所にある窓から月の光が見えた。あれ程高いところにあるのに何故か鉄格子がはまっている。届かないのだから必要ないはずだろう。
男はぼんやりと月の光を浴びていた。
体は動かない。
両手足を拘束されているからだ。毎晩こんな風にして男は眠っていた。調子のいいときは庭に出して貰うこともあったが、大抵はここで一日を過ごす。髪は真っ白だがぼさぼさではない。数ヶ月に一度カットして貰えるからだった。
あの事件のおり、全部毛は抜け、数年後にようやく生えてきた髪はもう黒く無かったのだ。何本抜け落ちようと、生えてくるのは老人の様な髪だ。別に誰かに見て貰おうと思わないため、男は気にもしない。
熱い……
ある時間になると体が熱くなる。
そして鼻を掠めるのは己の肉が燃える臭い。
同時に聞こえるのは己の肉が沸騰する音だ。
ぷすぷす……ぷすぷす……
顔の半分から下、体の右半分をケロイドで男は包まれていた。皮膚は乾くことなくドロドロとした透明な汁を滴らせ、いつまで経っても治らない。
ぷすぷす……ぷすぷす……
肉が焦げている。
ケロイドの下にいくら新しい皮膚が出来ようと、上からどんどん溶けるために一向に治らないのだ。
紫色の煙が視界に漂う。
燃えているのだ。
体が。
生きたまま焼かれている。
何故死なないのだろう。
男はずっとそう思ってきた。何時までも生きている自分が不思議だった。毎晩燃えているのに、体がまだ残っている。
いつか燃えて灰になるのだろうと期待していたのだが、新しい皮膚が出来るためにいくら燃えても体が無くならない。
何時になったら無くなるのか?
体も、魂も……
全てチリになってしまいたいのだ。
「ふぇ……ふ……ふぇ……」
熱くて男は声を上げた。だが顔の半分が溶けているために口元が歪んで開かない。皮膚が口の端を突っ張っているからだ。何とか口を開けても薄く横に開くだけで言葉がでないでいる。声帯もやられているらしく、多分一生治らないだろうと宣告された。
ケロイド部分の皮膚はでこぼこで、所々産毛が申し訳なさそうな感じに、ちろ、ちろと生えている。その部分が痒くて堪らない為、以前体を掻きむしりすぎて血まみれにしてしまった。それ以来拘束されている。
皮膚が燃え、ケロイドを更にケロイドで埋めた肌は、炎が収まると、今度は身体中に小さな虫が這っているような痒さを感じる。
ざわざわ……ざわざわ……
小さな虫が、六本か、八本か分からない小さな足を男のケロイドの上で左右に動かされ、その僅かな接触が男にかゆみを与えるのだ。今までもあまりに痒いために瘡蓋状の皮膚を殆ど剥がしてしまったことがある。あのときは血が辺り一面噴き出し、シーツと毛布を染め、それでも尚爪を立てて掻いた。
だがかゆみは収まらなかった。
ざわざわ……ざわざわ……
痒い……
何故俺の体を這うんだ……
身体中をザワザワと小さな虫が行進する。ケロイドを食っているのだろうか?それともケロイドの丘に住処でも作ろうというのか。
「ふぇ……ふぇえ……」
後悔は随分と、もう忘れるほど昔に散々した。涙は何度流したか数え切れないほどだ。最初は後悔で流した。今は殺して欲しいのに叶えられない為に泣いている。
自分は狂っているらしい。
そう医者は言った。馬鹿な。狂ってなどいない。
言葉にならない声を出すからか?それとも最初あまりにも己が置かれた立場に絶望し、暴れたからか?
俺が悪いんだ……。
ほら、俺はちゃんと反省しているだろう?狂った人間は反省などしないはずだ。反省し、後悔し、そして涙をも流せる。これほど人間的な俺の何処がどう狂っているというのだろう。
ああ、そうか……。
あれがわるかったのだ。
男は初めて己の姿を自覚したとき、恐怖におののいた。次ぎに心配になったのは頭の毛のことではなく、性器のことだ。
当時男にはつき合っている女がいた。
女を喜ばせてきたペニス。
それくらいは無事でいてくれたのかと思ったが、扱いても扱いても勃起しなかった。意地になった男は、ただ無性に悲しくて皮一枚剥ぐほど扱いたのだ。
また血まみれだ。
「ふぇふぇ……ふ……」
あれが異常に見えたのだろう。だが男として生まれてそれをまず確認するのは当然だと思わないか?普通そうする。死んだあいつもそうしたはずだ。そうだ。そうしたはず。
男は一人でぐるぐるとそんなことを毎日毎晩考えていた。
女は一度訪れ二度と来なかった。
家族も一度訪れ二度と来なかった。
四角い箱に置き去りにされた男は、誰の記憶からも忘れられていくのを待っている。だが許してくれそうにない子供がいるのだ。
そこにいるのに……
子供はいつも部屋の隅に立ち、こちらを見ている。正確には子供の顔には目も鼻も口もなく、該当する部分が空洞になって真っ黒に塗り潰されていた。
覗き込むと、闇だけが広がり、それが何処まで続いているのか男にも分からなかった。ただじっと見つめている視線だけが感じられ、未だに部屋の隅を見るのが恐い。
子供がいるんだ……
誰も信じてくれない。男は何度も訴えた。子供を何処かに連れだしてくれと。恨みのこもった空洞が何時までもこちらを見つめているからだ。
それが恐くて何度夜尿を繰り返したか分からない。
子供は動かない。
そこにいて、ただみている。
毎晩体が燃え、苦しみ、その後は痒みにうなされる男に対し、時折子供が足元近くで笑っているような気配がした。だが口も空洞になっているため、形は分からない。だが笑っている。楽しそうに。
苦しむ男を見て愉快で仕方がないのだろう。
俺が何をした。
手を出した訳じゃない。
だが許してくれない。
子供は立っている。
そこに何時までも。
男の顔を覗き込んでいるときもある。
そして笑う。
笑っているように見える。
苦しめと笑う。
殺しはしないと笑う。
何時までも、永遠に苦しむことを望んでいる。
子供は立っている。
黒い深淵をその表情に浮かべて。
ようやく仕事に復帰したのは良いが、別段変わったこともなく日々が過ぎていく。
尚貴はそんな中、年代物の爪切りでいつの間にか伸びていた爪を切っては使わない灰皿に落としていた。何を考えているわけでもなく、ただぼんやりと爪を切り、顔を上げる。すると解放されている交番の出入り口から青い空が見え、所々に白い斑点を落としたような雲が浮かんでいた。
天気がいいな。
誰に言うわけでもなく尚貴はそんな言葉を頭に浮かべた。
交番勤務に戻ったものの、毎日同じような日が続くだけだ。淡々とした日々。何時も通りの仕事。何か何処かで変わってしまったような自分の気持ちだけが空虚だ。
何かに追いつめられているような焦燥感。得体の知れないものが上から覆い被さってくるような圧迫感。日々それらが尚貴を包んでいる。
気のせいだよ。
尚貴はそう思うことで自分の妙な焦りを忘れることにしていた。だがふとしたきっかけでそれらは尚貴をまた包んでいる。
「こんにちは……鳥島さんってお巡りさんいますか?」
机でぼんやり爪を切っている尚貴を入り口から少年は言った。
「え、あ……俺がそうだけど……」
灰皿に入らず周りに散らばった爪を払いのけ、尚貴は慌てて言う。
「僕……僕、岡林賢って言います」
痩せた少年はそう言って頭を下げた。