Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第21章

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「賢くんっ!」
 両手を伸ばして助けを求めている賢をしっかり抱きしめると、尚貴は身体に巻き付いている奇妙な手を引き剥がしていく。触れるとそれは、ぐにゃりと柔らかい。掴むと指先がめり込んだような感覚が伝わってくる。今までの記憶の中でこんな奇妙なものを掴んだ感触はない。
 だが、手で掴めるところから、何かしらの物質でできているのだろう。
「お巡りさんっ!怖いっ!」
 涙でグシャグシャになった顔を尚貴の胸元に押しつけて、賢は己を取り巻く手を戦々恐々とした表情で見つめていた。
「くそっ……なんだよこれはっ!」
 払いのけても、払いのけても地中から新しい手が伸びてきて、尚貴に引き剥がされると空気に溶け込むように霧散する。
 他に助けを求めようと周囲を見回しても、誰一人としていない。周囲が茜色に染まり、もう暫くすれば闇が支配する世界が訪れるだろう。そうなる前にここから逃げ出さなければ、とても賢を守りきれないと、何故か尚貴は確信していた。
 ここは死者が眠る場所だ。
 裕喜に同情して、どういった存在が目覚めて加勢してくるか分からない。いや、幽霊など信じない。そんなものはこの世にはないはずだ。人は土に還るだけ。ここに何かの意志が留まることなどありえない。
 心の中で強くそう考えながらも、目の前で繰り広げられる光景を間近に見て、自分の信じていたものが砕かれていくような気がした。
「……っ!」
 尚貴は、片手で掴んでいる賢の身体が急に重く感じた。いや、賢の身体が急に沈んだように見える。
「この野郎っ!」
 警棒でざわめく手を払いのけると、一瞬だけ地面が見えた。すると賢の身体が地中に少しばかり沈み、膝から下がない。
「お巡りさんっ!助けてっ!」
 賢が回している手にギュウッと力が込められている。
「くそっ……このっ!畜生っ!」
 歯ぎしりをしながら尚貴は必死に賢の身体を引っ張ることに専念した。ユラユラと揺れている手ばかりに気を取られていたために、賢の状態が分からなかったのだ。ここは一気に賢を抱き上げて、逃げ出さなければならない。
「お巡りさんっ……お巡りさんっ!僕、死ぬのは嫌だっ!」
 顔を左右に振って、賢は絶叫を上げた。手に囲まれながらも必死に賢の身体を引き上げようとするのに、ズルズルと下へ沈んでいくのだ。
 こんなことは信じないっ!
 俺は信じないからなっ!
 半分涙目になりながら、尚貴は賢から手を離さなかった。
 肩まで地面に埋まったところで、賢は叫んだ。
「どうしてだよっ!そうだよっ!僕は裕喜を苛めた。認めてる、分かってる!でも……裕喜だって、小学生の頃、僕を苛めたじゃないかっ!それはどうなるんだよっ!覚えてないって言わせないからなっ!あのとき、僕がどれだけ辛かったか、裕喜にわかるのかっ!なんだよっ!自分だけ被害者面して、他のみんなを連れて行こうって言うのかっ!身勝手だよっ!」
「くっ!」
 賢が叫ぶと同時に、沈んでいた身体が一気に地中から抜け、尚貴は賢共々通路に転がった。痛いなどと声を上げる暇もなく、尚貴は賢を抱き上げたまま立ち上がると、今までそこら中にあった白い手の存在は、最初から何も無かったように消え、線香の煙だけが辺りを漂っていた。
「……なんだ……一体」
 一瞬にして消えてしまったあらゆる異形の存在に、呆気にとられたように尚貴はその場からすぐに動けない。だが、賢は違った。
「お巡りさん……行こう。逃げようよ……」
「え……あ。分かった」
 賢を下ろし、細い手首を掴むと、二人は全速力で墓場の門を駆け抜けた。途中、尚貴が肩越しに振り返って裕喜の墓を見ると、例の青年ではない、子供のような影が立っているのが見えたのだが、それが裕喜なのか別の誰かなのか尚貴には分からなかった。

 賢を後ろに乗せて尚貴は自転車をフルスピードで漕ぎ、交番ではなく自宅へと送りどけた。最初は交番に連れて帰ろうかと思ったが、それより家族の元に帰す方がいいだろうと判断したのだ。
 どうせ何処に逃げても追いかけてくる……。
 そんな、諦めに似たものも、尚貴の中に生まれていたのだ。あの墓場にあった絶対的な何かが、そう思わせるに違いない。銃で撃ち、死ぬような相手ならいいだろう。だが、尚貴は知っていた。
 あれは、この世の存在ではないのだと。
「……お巡りさん。僕、多分、死ぬんだよね……」
 自転車から降りて、自宅の玄関まで見送ろうと、隣を歩く尚貴にぽつりと賢は言った。
「死なないよ……」
 尚貴の言葉に賢は立ち止まる。
「それって、希望的観測って言うんだよね」
 大人びた言葉が賢の口から漏れるが、どこか他人事のようにも聞こえる。
「……さっき叫んだことだけど……そうなのかい?」
 ふと、どうしてあそこから逃げ出せたのかを考えた尚貴は、賢が叫んだ言葉を思い出していたのだ。

 裕喜だって、小学生の頃、僕を苛めたじゃないかっ!

 その言葉が、あそこにいた存在を消したのではないかと。
「え……うん。そうだよ。裕喜は忘れていたみたいだけどね。僕、ちいさい頃から身体があんまり強くなくて……体育の授業とか休みがちだったんだ。それもあるみたい。よく分からないけど……。ああいうのって、自分がやったことは忘れてるんだよ。そんなものだけどさ……」
 瞳を伏せて賢は何の感慨もないような口調で言う。
「よく、自分がされたら、その時の気持ちが分かるから、人にはいじめなんてできないっていうけど、違うよ。今度は自分が裕喜を苛める立場になりたいって思うものだって。僕は、裕喜を苛めていてそう思った。……いじめが始まった最初の頃に、僕は裕喜にそのことを言ってやったけど……あいつは忘れてた。そんなもんなんだよね……もうどうでもいいけど……じゃあ、お巡りさん。付き合ってくれてありがとう」
 繋いでいた手を賢の方から解き、笑うこともなく賢は玄関を開けて中に入っていった。扉の向こうから母親の「何処にいってたの?お母さん心配したのよ……」という声が聞こえる。
 ……俺も……分からなくなってきた。
 自転車を止めているところまで戻り、賢の自宅を見上げる。ごく普通の家。母親は帰りの遅くなった息子のことを心配し、今頃は温かいミルクでも入れてやっているのかもしれない。
 人間の営みがここにあり、特に人と違う生活をしているわけではないのだ。父親がいて、母親がいる。ごくごく普通の家庭だ。何がどう狂ってこんなことになっているのか、尚貴は問いかけてみたい。だが、問いかけられる相手などいなかった。
 自転車に乗ることなく尚貴は交番まで引っ張って歩き出した。真っ赤に染まっていた空が、今では紫色になって、濃い闇が半分垂れ込めている。
 夢だと思えたらいいのにな……。
 全部夢だと。
 裕喜の死も、他の人間の死も。それら全て夢だったとしたらどれほど心が安らぐだろう。
「鳥島さん……?」
 聞き覚えのある声が背後から聞こえ、尚貴が振り返ると伶香が立っていた。
「あ……芹町さん。こんにちは」
「やっぱり鳥島さんだったんだ。よかった……違っていたらどうしようかと思った」
 にこやかな表情で、伶香は駆け寄ってきた。
「お久しぶりです。どうしてここに?」
「長野彰の母親が入院している病院を訪ねていったんだけど、岡林賢の母親がどうも見舞いに訪れたらしいの。そこで何かあったようなのよ。よく分からないから調べていたんだけど……」
 伶香はため息をついて言った。
「岡林さんの奥さんに会われました?」
「駄目。会ってくれないわ。日を改めてきたら、鳥島さんに会ったっていうわけ」
 嬉しそうに伶香は微笑む。
 こうしてみるとかなりの美人だ。いつも男っぽく話す口調に気づかないが、よくよく見ると、男性が放っておかないタイプに見える。
「取材は続けてるんですね……」
 嫌みではなく、ただそう思っただけだ。
「ええ。この事件を最期まで追うつもり。いいままでいろんないじめを取材してきたけど、今回はなんだか普通じゃないもの……」
 鳥島の歩に併せて伶香も歩く。
 細い身体の何処にそのパワーがあるのか不思議なほどだ。
「普通じゃないですね……確かに。俺もよく分からなくなってきました……」
 はあ……とため息をついて尚貴は答えた。
「さっき、賢くんと帰ってくるのを見たんだけど……あの子どう?」
「どう……って」
 先ほど墓地で見たことを話しても良いのだろうかと、一瞬思案した尚貴だったが、話せたことと言えば、賢が昔裕喜に苛められたことがあったということだけだった。墓地で体験したことなど、どうせ信じて貰えないだろうというのが理由だ。
「……そうなんだ。それは知らなかったわ……」
 伶香は遠い目をしてそう言った。
「この場合、どっちが被害者で加害者か分からなくなりますね……」
「いじめなんてそんなものよ……」
 フッと笑って伶香は伸びをしてみせる。
「そんなもの……ですか」
「……なんていうのかな……いじめって一件一件状況や、理由が違うのよ。被害者に全く落ち度がない場合もあるし、被害者に落ち度がある場合もあるわ。どれ一つ取っても同じ理由じゃないのよ。被害者が加害者にすり替わることもあるし、必要以上に責め立てられることもある。難しいのよね……」
 ブラブラと両手を振って伶香は面白くなさそうに言った。
「俺にはよく分からないな……」
「どんな事件もそうだけど、結局当事者や、それに関係した人達にしか本当の事って分からないの。第三者がああだ、こうだと言ったところで、結局は他人だから……。なんていうのかなあ……私は自分の弟のことでしか言えないけど、弟が亡くなった当時、匿名の手紙やハガキがたくさん来たのよ。励ましの手紙や、中には苛めた人間を知っていて、彼らは酷い奴だとか……鬱陶しかったわ」
 前を見据えて伶香は吐き捨てるように口にした。意外な言葉だ。
「励まされてよかったんじゃないのかな……」
「最初はね。でも、結局、何も知らない人達が、弟が死んだ後で口にすることなんて、鬱陶しいだけよ。特に匿名は鬱陶しかった。知っていたなら、どうして名乗ってくれないの?何故止めてくれなかったの?ってね。しかも、暇だからそういうことに便乗して正義を訴える馬鹿もいたわ。もう……いいから放って置いて欲しかった。何も知らない人達が勝手にいろいろ尾ひれを付けて噂を流すのよ。一見すると素晴らしい行為に見えるかもしれないけれど、当事者からすると表に出せないこともたくさんあって、本来関わっていないと分からないこともあるはずなのに、苛め……と言う言葉だけに反応して騒ぐのよ。ゾッとしたわ……」
「……俺からすると味方ができて心強いと思うけど……」
「……どんなことでも、いつか自分の中に許しを見つけないと前に進めないのよ……」
 伶香は緩やかに微笑んでいた。
「許し?」
「そう。どれほど腹が立ってもいつか許さないと、余計に辛いの。騒ぐ人達にはそれがなかったわ。騒いでいる人達はこれが正義だって酔いしれてるのよ。私は、そんなのは嫌。人間って様々で、考え方もたくさんあって、しかも主観が入ってくるから、考えの統一なんて絶対にできない。そんな中、相手を許す行為が失われてるのよね……責めるばっかりの人間って醜いわ……逆に、じゃあ、自分達は人様に迷惑をかけたり、悪口も言わず、誰も傷つけずに生きてきたの?って問いかけたいくらいよ」
 もう一度伶香は伸びをする。
「伶香さんの言葉を聞いていると、苛めた人達を養護しているみたいに聞こえるな……」
 尚貴からすると伶香の言葉は意外だったのだ。
「違うわ、そうじゃなくて、何処までも責めてなじることができるのは当事者だけよ。周囲の、何も知らない、ただ、聞き及んだことだけで騒ぐ人達には関係ないことでしょう。その辺りをはき違えてるのよ。力になってくれるのなら、名を開かして、私の家族を訪ねてきてくれたらいいじゃない。当時、全く関係のない人がやり玉に挙げられて、窓ガラスは割られるわ、嫌がらせの電話がかかってくるわ……大変だったのよ。私たち家族は謝罪に行ったもの。弟と全く接点がないから、本当に関係のない人達に迷惑がかかって……。もし、もしもよ。本当に弟を苛めていた人達にそういった行為がされていたとしても、やっていいのは私たち家族だけであって、赤の他人がおもしろおかしく、それが正義だと勘違いして、暗い行為を繰り返すのなんて、最低よ。何が正義なのか、分かってないのね。ううん。私の弟のことに便乗して、単に鬱憤晴らしがしたかったに違いない。そういう名も開かさない、暗い行為に没頭する人達こそゾッとするわ」
 ブルブルッと身体を震わせて伶香は言った。
「……確かにそうかも……」
 池田家を訪れたときも、空き缶を投げつける人間が数名いたのだ。苛めに参加していた純一は当然犯した罪を償わなければならなかっただろう。だが、それと空き缶を投げつける行為はまた別の問題だ。
「……私だって、嫌いな上司のことを同僚たちと飲みに行って散々悪口を言うわ。だってそうしないとストレスが溜まるもの。同じ職場でも、どうにも性格が合わない人がいて、話したくない人もいる。だから避け気味になるんだけど……あ、社交辞令はできるわ。でも、よくよく考えるとそれだって小さないじめになるのよね……。ただ、人間って公私を分けることで上手く切り抜けているだけで、どこにも聖人君子なんていない。辛いことがあっても、誰かを憎んでも、どこかで許しを見つけて自分の中で昇華しなきゃって思うの。恨みを抱いて毎日暮らすのは辛いわ……」
 暮れた空を眺めながら伶香は空よりももっと遠いところを眺めているような気が尚貴にはした。
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