Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第2章

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 少女は社長室にあるレザーの椅子に座っていた。その前にある机にはジュースの缶。横には睡眠薬がいくつかこぼれている。空の薬の瓶は二本、それらをほとんど飲み干したようだ。
 その少女は朦朧としながらも、入り口に立つ青年を視界に映した。
「死ね……ない……の……」
 床の絨毯にいくつか吐き戻した跡があった。空腹だった少女の胃は、命を奪おうとする異物を拒否したようであった。
「死に……たい……の……」
 少女は震える手を青年になんとか差し出した。青年は近づきその手を取る。すると少女の手にも床の嘔吐物と同じ液体がまとわりつき、つんと異臭を発していたが青年は気にならないようだ。
「あなた……だれ……」
「君の声が聞こえたんだよ。力になって欲しいという声が……」
 青年は長いまつげの下にある灰色の瞳を少女に向けた。
「じゃ……私を殺して……」
 涙でぐしゃぐしゃになった少女の顔を青年は優しく撫で、そして気まずそうに言った。
「ごめんね。私は殺すことは出来ないんだ」
「そう……皆そういうの。だから私自分で死のうとしてるの……」
 うなだれた少女はまた泣きはじめた。
「君が死んだら、全ての人に君が何故、死のうとしたか分かるようにしてあげる。特に君の父親に……」
 少女はその言葉を聞き、目を見開く。
「パパを知ってるの?」
「君の呼びかけの中に、父親に対する憎悪も聞いた」
 少女はこの青年の言う意味がよく分からなかったが、不思議と納得した。
「私はパパの“もの”なの、ママもそれが耐え切れなくて二年前、自殺したわ……それから更にパパの私に対する要求はひどくなってきたの……お前はこの会社の跡継ぎになるんだって……勉強も、作法も何でもかんでもパパの言う通りにしておれば間違いないって……でも、もう嫌なの……それを言ったらいつもひどく殴られたわ……一度は病院に入院までしたの……個室に閉じ込められてね……」
 薬の効果が薄れてきた少女は、はっきりとした口調で話した。
「私は……私のものよ」
 毅然と言い放つ。まるでそれが確固たるものだというように。
「そう君は君のものだ。この空間もすべてね」
 青年の瞳と少女の瞳が交差した。そして青年は気付く。
 この少女は助からない……全てが死へと向かっている。私がここにいるということは、すなわちそういう事なのだ。青年はそう心の中でつぶやくと、悲痛な面持ちで少女の動向を伺った。
「私の事、馬鹿だと思う?」
 そう言いながら、少女は机の引き出しを震える手で開けた。
「いや……そうは思わないよ」
「嘘、まだ使っていたなんて……」
 愕然と少女は手の平のものを見つめた。青年もその視線を追う。
「これは、スペイン製の短刀なの。刃が細みだからペーパーナイフとしてパパは使ってたみたい。飾りの宝石は本物よ」
 確かに柄の部分にはめ込まれている大小さまざまな宝石は本物のようである。しかしこれは実際に昔使われていた様だ。短刀から異様なうめきが聞こえた。だが少女は気が付かない。
 その青年だけに聞こえる声は、深く沈んでいた。遠い昔、これをめぐってかなりの人々が争ったのだろう。
「これでママも手首を切って死んだわ……」
 短刀をゆっくり窓の外の月に掲げた。
「それなのにまだあいつは後生大事に持ってるのね……許せない奴……」
 少女は当然だというように右手に短刀を持つと青年の方を向く。
「痛いのかな」
 少し困った顔で少女は問いかけた。
「大丈夫。痛くないよ。ここに私がいる限りね」
 普通に考えると痛いという次元を越えているのだろうが、少女にはその言葉が決して間違ってはいないと思えた。
 少女は短刀で少し手首を切った。すると赤い血が一筋流れたが、痛みは感じない。
「ホントだ……」
 少女は不思議そうに青年を見た。そして今度は刃を自分に向け、首から腹にかけ、縦に裂いた。
 鮮血がまだ鼓動を打っている心臓の動きに合わせて吹き出したが少女はそれが現実のように思えず、ただ吹き出す血を眺めていた。
 やはり痛みは感じない。
 吹き出す血は、見る見るうちに床を染めていく。
「私のものよ……」
 何度も何度も自らの体に、過去もそうであったそのものを突き立てた。
 肺が、胃が、腎臓が、内蔵全てが短刀によって切り裂かれていく。突いて、抜いてを繰り返し、抉り、砕く。肉片は悲鳴を上げるかの様に、赤いものを撒き散らしながら部屋全体に飛び散った。

 私のものよ私のものよ私のものよ私のものよ私のものよ私のものよ私のものよ私のものよ

 少女は呪文の様に繰り返しそう言ったが、喉は既に切り裂かれていたので、声は出ない。ただ、口とパックリ開いた喉から絶えず、ゴボゴボと出る血と泡がその代わりを務めていた。
 手術でもくっつかないように切り刻まなければ……少しでも助かる可能性があれば、パパは地獄からだって引きずり戻すに違いない。それだけは避けなければいけない。もし万が一、助かるようなことになれば、今よりも監視と締め付けが厳しくなるだろう。必ず死の世界に旅立たなければならない。きっとママが迎えにきてくれる。
 少女の腕の動きがさらに激しくなる。青年はその光景を、顔色一つ変えずに凝視していた。その様子はまるで、少女の全てを心に焼き付けようとしているようであった。
 ナイフが血糊で滑り、コロリと床に落ちる。しかしもう少女は動くことはままならなかった。椅子の上で、目だけがキョロキョロしていてある物に釘付けになった。
 腸だ。
 スープ状になった血に浮かび、見え隠れしているそれは、いくつか少女から逃げ出そうと、床に流れ出ようとしている。
 だめよ……私のものよ……
 少女はそれを掴むと、いとおしく頬擦りを繰り返した。しかし腸はまるで生き物の様にくねくねと動き、少女の手から零れ落ちる。
 だめよ……私のものよ
 血を送り出すポンプがその役目を終えるころ、少女はこときれた。だが口の端にはうっすら笑みを浮かべている。青年はそれを見届けると、血を手にすくい部屋の壁の前に立った。
「君の怒りの全てをここに託そう」
 その壁に豪華な絵が掛けてあるのが邪魔になったのか、青年は手も触れずにそれを吹き飛ばし、部屋の隅に追いやった。
「この姿こそ本来の死だ」
 そう言って、壁に手のひらにある血で文字を書く。それが済むと少女の方に近寄った。青年はその白い指で、少女の髪をいとおしそうに撫でたが、その手には先程の血は一滴も付いてはいなかった。
「死が君を導いてくれる。もう苦しまなくっていいんだ」
 そう語りかけると、おもむろに少女の額にキスをした。愛おしむように。
「本当に私を呼んでいる人はまだ私に気付かない。悲しい事だ……」
 青年は白い手で血にまみれた電話の受話器を上げると、待ち望む人に電話をかけた。



 電話が鳴っている……
 尚貴は昨夜の事もあって、自分の目の前で鳴っている電話を取る気になれなかった。
 電話が鳴っている……
 嫌な予感がする。取らなくてはいけない様な……取らない方がいい様な……尚貴はそんな胸騒ぎを感じていたのだ。
「何じゃ、早よう取らんか」
 トイレから出て来た田所はハンカチで手を拭きながら急ぎ足で尚貴に近づき受話器を取ろうとした。
「待って……」
 尚貴は田所の手を遮り、自分が受話器を取った。
「もしもし、こちら……」
 言い終わらないうちに聞き覚えのある声が語りかけた。
「そこから少し遠いかもしれないが、市内のオフィス街にある大綱ビルの社長室で父親の傲慢さに悲嘆した少女が自殺した。丁重に弔ってやって欲しい」
 その抑揚のない声を聞き尚貴の顔色は蒼白になる。
「昨夜の事といい、あんた何者なんだ!どうしてここにそんな電話をかけてくる?そこならもっと近くにでかい警察署があるだろ!」
 横で聞いていた田所は、一瞬にして尚貴が言っていた妙な電話の事を思い出したようだ。
(尚貴の返答からするとまた死者が出たのか?)
 田所は息を潜め様子を伺った。悔やまれるのは、この交番には録音テープも逆探知の設備もないことだった。
「誰よりも君に知って欲しいから……」
「お……俺?」
「私を求めて欲しい……」
 懇願に近い声。
「な……何を言っている。俺にはそんな気はこれっぽっちもないぞ!」
(からかわれている……)
 尚貴はそう思い、無性に腹が立って来た。
「昔、君は私を呼んだ……そして私から逃れた。決して起こるはずのない事が……何故?」
「俺はあんたの事なんか知らないぞ!妙な事は言わないでくれ!」
 いつの間にか声を張り上げている自分に気付いた。田所はそんな尚貴に向かって手を下に向ける仕草を繰り返し、押さえて、押さえてと伝えていた。
「すまない。怒鳴るつもりは無かったんだ。ところで、そういう情報をどこで知ったんです?」
 尚貴は、力を抜くためにも語尾を丁寧にした。
(落ち着け、落ち着け。相手は一応情報提供者だ。もしかしたら自殺じゃなく、この男が犯人かも知れないんだ。ここで機嫌を損ねる訳にはいかない)
「一度、こちらに来ては頂けないでしょうか?昨夜の事も色々教えてもらいたい事もありますし」
 横で田所はOKサインを出している。電話の向こうの相手も思案しているようだ。
(よし!もう一押しだ)
「今、会っても君には私は見えないだろう……おそらく……」
「えっ?」
「私を求めるんだ尚貴。そして私を受け入れろ。君は望んでいるはず……心の奥底でこの私に包まれ抱かれるその時を」
「いいかげんにしろ!」
 相手の言葉に我慢が出来なかった尚貴は受話器を机に叩きつけていた。
「ど、どうしたんだ?相手は何を言ったんだ?」
 田所は驚いた様子で尚貴の肩に触れた。その肩は小刻みに震えていた。
「また……自殺者が出た様です。場所は市内のオフィス街にある大綱ビルの社長室、至急所轄に電話を入れて下さい」
 そう言いながら時計を見る。
(11時……最終の電車にギリギリ間に合うか)
 尚貴は帽子を被ると表に出、自転車に飛び乗った。
「尚貴!待つんだ 本当に自殺者がいたとしても管轄外じゃ!」
 その声を既に遠くに聞き、尚貴はペダルをこぐ。
(交番に管轄なんてもともとないじゃないか!)
 私を求めるんだ尚貴
(どうして俺の名を知っている)
 そして私を受け入れろ
(やめろ)
 君は望んでいるはず、心の奥底でこの私に包まれ抱かれるその時を
(やめろ!俺はお前の事なんか知らない!)
 男の言った言葉が尚貴の肢体にねっとりとまとわりつく。それを振り切るかの様に自転車のスピードをあげた。



 オフィス街は騒然としていた。
 いつもは静かなこのビル街は、赤いライトの点滅する光の洪水が押し寄せ、立ち回る人々がそこで泳いでいるかのように、赤い波間に見え隠れしている。そこから少し離れた飲み屋街では、泥酔間近の人々、タクシーを拾おうと道路に溢れている千鳥足のサラリーマン、それを見送る女たちが何事かとビル街に向かうパトカーを見ていたが、どうせ酔いに任せた誰かが日頃の鬱憤を払おうと、ちょっと派手な喧嘩でもしたんだろう。そして、たいていは警察沙汰にならず済んでしまう事が、運悪く通報されたのだろうと一様に思っていた。彼らは半ば同情的な面もちで、だが関わり合いを避けるように家路に急いだ。  そんな中、一台の覆面パトカーが停車する。
「意外に野次馬が少なくて助かったな」
 名塩は車から降りるとまずそう一言云った。
「時間も時間ですからね……反対にこんな、何にもないビル街でうろうろしている人間の方が怪しいですよ」
「そうだ。勘定は後で割り勘にしてくれ」
 警官の群をかき分けながら、名塩は思い出したかのように西脇に言った。
 名塩と西脇は夕食を終え、近くの屋台で飲んでいたのだ。但し酒は注文したが、西脇に止められ、もっぱらおでんをつつくのに専念していた。そうしておでんをひとそろい食し、そろそろ飽きだしていた頃、二人を呼ぶ携帯が鳴ったのだ。
「えっ、警部が払ってくれたのではなかったんですか?」
「いや、俺はてっきり……よし、こうしよう。この件は、二人とも忘れたことにする」
 仮にも刑事が食い逃げをして、尚かつ忘れようなんてとんでもないことだと西脇は考えたが、支払いの請求を忘れたのはあちらの方で、払う気が無かったわけではない。そういう事にしておこう。
 西脇はそう決めると、名塩のあとに続いて歩き出す。するとビルの入り口で、警備員と思われる男と話をしていた刑事が二人に気づき、駆け寄ってきた。
「県警の名塩警部さんと西脇刑事さんですね。私、アサヒ署捜査一課の木下と申します。お待ちしておりました。意外に早く来られて助かります」
 よく分かったな。と名塩は思ったが、いつもの事である。どうせこういう事だろう。
 大抵、所轄から県警に要請がくると、我が上司殿はいつもこう言う。本人がいるにも係わらずだ!
「うちから、優秀な刑事を二人応援に行かせます。ああ、すぐにわかりますよ。一人は名塩と言いまして、ヒグマのようにごつい体をして、顎にはたっぷりとした髭を生やしとります。相棒の西脇は、反対にひょろっとした痩せ形で、かまきりみたいな男です。ま、態度がでかくて腹が立つこともあるかと思いますが、県警一課で一番、優秀なコンビですので、ま……そこんところを……」
 と、言って後は誤魔化すのだ。
 誰がヒグマだ!その理由は知っているだろう!と、名塩は今更言っても仕方がない事を、十分判っていたが(確かにそう見えることは否定はしないが……)妙に納得できなかった。しかし、優秀だとありがたくも誉めてくれるのは、他の刑事が大勢いるにもかかわらず自分達しかいない事も同じ様に知っている。だからとりあえず黙認していたのだ。
 西脇の方といえば別段、そんな風に例えられ様と誉められ様と、飄々として気にも止めていなかった。
「現場は三十階の社長室だと言ってたな」
「はい。ただ今、ご案内致します」
 木下は二人を連れ、警備員専用のエレベーターに案内しながら状況を説明した。
 警備員室を通らなければこのビルに侵入する事は出来ないこと、メインの十二基あるエレベーターは深夜のためストップしていること、非常階段以外で上階に行くにはこのエレベーターしか無く、これに乗るには必ず警備員室を通らなければならないこと、そして訪れたのは社長の娘だけだということであった。
「何でも父親が大事な書類を忘れたと言って来たそうです。警備員も顔見知りでしたので不審に思わずに通したとの事です」
「普通付いていってやるんじゃないか?」
 名塩がそう言った。
「社長が他の人には見せられない書類だと言って断ったそうです。まさかこんな事になると思わなかったそうですから……」
 木下は汗を拭きながらそう言った。緊張しているのだろう。
「で、現場はどんな感じだ?」
「とても考えられない程、ひどい有様です」
 木下は、警備員専用特有の狭いエレベーターに乗り込みながらため息をついた。そして三十階のボタンを押した。
「遺書もあって自殺の様に見えるのですが、どう考えても一人でやったとは思えない状況なのです。だからといって誰かがいた形跡があるような、ないような……」
 木下はそう語尾を濁して二人の刑事に眼をやった。名塩は怒った様な表情をして俯いている。一方西脇は困惑した面もちを名塩に向けている。
「通報者はここの警備員か?」
 名塩が口を開いた。
「いえ、同業者です。東署管轄の南交番勤務、田所巡査長から所轄に電話がありまして何でもそこの巡査が通報の電話をとったそうです」
「その巡査だが、名前は鳥島尚貴と言わなかったか?」
「ああ、そうです。そうです。ご存じの方ですか?」
「少しばかりな」
 名塩がそういうと同時に三十階を告げるチャイムが鳴り、エレベーターの戸が低い音を立てて開いた。三人は木下刑事を先頭に、廊下に敷かれてある豪華なカーペットを進んだ。
「三十階は役員専用のルームだそうで、一般社員は出入りできないそうです。このエレベーターに関してはどの階も行き来出来ますが、メインの12基あるエレベーターには、専用のカードを差し込まなければ、三十階には止まらない様になっているそうです」
 しかし後ろに続く名塩と西脇は木村の話を全く聞いておらず、小声で話し合っていた。
「警部、どういう事なんでしょうか?」
「鳥島がまた電話を受けたって事さ」
「それにしても、どうして鳥島さんなんでしょう」
「妙な奴に好かれたって事だろ」
 クスリとも笑わずに名塩は言った。
(鳥島にもう一度会わなければいかんな……)
 名塩はつぶやくように言った。
「こちらが現場です。鑑識と鑑識係がまだ到着しておりませんので中には入らないで下さい」 
 木村はそう言って、他のとは明らかに違う黒塗りの扉に手をかけ手前に引いた。その瞬間、扉の隙間から赤い空気がすうっと流れてきたかのような錯覚を名塩は覚えた。
 床は血で粘つき足の踏み場が無かった。部屋の三方を囲む壁紙は血で変色しており、正面に見える天井から床まである窓からは、街の灯が漁り火のように揺らめいている。それを背にして少女は、社長専用の革張りの椅子にこちらを向いて座っていた。
 その足元には細切れになった、どこの部所とも判らない肉片が飛び散っていた。
 少女の腹はぽっかり空き、やけに白い肋骨が見え隠れしている。
(笑っている?)
 名塩はまさかと思い、少女をよく観察しようとするが血の赤い色彩で少女の姿が霞み、その上距離もあって表情がうまくつかめなかった。
「警部、彼女笑っていますよ。薬でもやってたんでしょうか?」 
「お前にも笑っているように見えるか?」
 名塩の問いかけに西脇はうなずいた。
「右手の壁に文字が有ります。筆跡鑑定をしますが、たぶんあの少女が書いたものではないかと思われます」
 木村が右手を指さし言った。
「筆で書いたように整っていますね」
 その文字はこう書かれていた。

 ”パパと同じ世界に存在したくないの”

 三人がその光景に魅せられたかのように、しばらく無言で文字を見つめた。
 凄惨な現状であるにも係わらず、その場には一種の侵しがたい神聖な気配が漂っていた為だ。
 その静けさを破るかのように、鑑識と鑑識係が到着した。
「済みません。遅くなりまして……」
 鑑識の腕章を付けた背の高い男が木村に言った。
「では、ここは当分任せます」
 木村がそう言い終わらないうちに、既に鑑識は靴にビニールを被せ、血の海に足を踏み入れている。
「写真撮影が終わってから床にビニールを敷いて足場を作ります。それから我々も入りましょう」
 そう言った木村の顔はやや強張っている。当然だろう。
 すると鑑識と鑑識係の後ろに真っ青な顔をして立ちすくんでいる顔が名塩の目の端に止まった。
「鳥島!」 
 尚貴の目は名塩を見ず、瞳は社長室内に注がれたまま微動だにしない。真っ青だと思った顔色は見る見るうちに蒼白に近付いていた。呼吸はやけに早い。あまりの現場に慣れない尚貴はショック状態になっていたのだ。
 その様子を見た名塩は尚貴の前に、丁度室内を遮るように戸口に立ち、がっしりした手で尚貴の肩を掴んだ。
「おい!ぶっ倒れるんじゃないぞ。いいか、ゆっくり深呼吸してみろ。大きくゆっくりだ。分かるか?」
 尚貴は言われるままに深呼吸をした。ムッとした血の臭いと絶え間なく光るフラッシュが目に焼き付き、今にも倒れそうなのを必死に踏ん張ろうとした。しかし、両足は自分のものでないかのように、頼りなげだ。そんな尚貴を、名塩はしっかり掴んでいた。
(しっかりしろ!俺は警官だぞ。ここでまた、醜態を晒したら本当に根性無しに思われるぞ)
 尚貴は何度もぐらつく心の中でそう繰り返す。
 名塩は、少し赤みを取り戻してきた尚貴の顔色を見ると、少し手の力を緩めた。
「もういけるな?」
 そう言い、名塩は手を降ろす。
「は……い。すみません大丈夫です。こんなにひどいとは思いませんでしたから」
 言いながら、名塩の肩で遮られた部屋を見ようと背伸びをした。その様子が妙に可愛らしく見えたのか、ここにきて初めて名塩の顔に笑みが漏れた。
「見るな……とは言わんが、倒れたり暴れたりするんじゃないぞ。お前もそう何度も病室に縛られたくはないだろうしな。まぁそういう趣味があるなら別だが」
 名塩のその声の調子は、からかうというよりむしろ心配している様に思えた。意外に、いい人なのかもしれないと尚貴は感じた。
「死体を人間だと思わない事ですよ。ものです。もの。いいですね」
 西脇がその横から言った。まるで先生が生徒に諭すような口調であった為、尚貴はただうなずいた。
「とりあえずビニールを敷きましたので入って戴いても結構です」
 鑑識の一人がそう言った。
 三人は所定の手袋をはめ、鑑識のフラッシュの中に入って行った。敷かれた青いシートはまるでウォーターベッドの様に波打ち、その上を歩くとまるで粘着性のものに足元を取られているかのように一歩歩くごとにグシュグシュと音を立てシートが浮き上がる。
 少女は顔だけが血の洗礼を免れ、能面のように白く浮き上がっていた。
「木村さん。こいつは妙だぞ」
 鑑識係が横に来た木村に向かって言った。
「どうした?」
「どうも、自分で腹を切り、内蔵をミンチにした様だ」
「麻薬か何か使った形跡は有りますか?」
「目視で、尚且つこれだけ血が付いてるんじゃはっきりしたことは言えんが、二瓶ある睡眠薬もかなり吐き戻していて、他のクスリを受け付けたとも思えん。それに腕や、足にもなにか注射した痕は見当たらん。解剖すればはっきりするだろう。だが既に解剖されているようだがな」
 三人いる鑑識は同時にクスと笑った。こんな状況で死者を冒涜するような事を言うのは、端から見れば不謹慎だと映るだろうが、毎日緊張した中で仕事をしていると、こういう会話は一種のサーモスタットの役割を果たす。それが解っているので誰も咎めない。
 本気で言っている訳ではないから。
「正気でその痛みに耐える事は可能か?」
 名塩は昨日の事件でもそう鑑識係に聞いたのを思い出した。
「マゾや屈強な精神の持ち主でも耐えられんだろうさ」
「では、変質者の仕業だと思うか?」
「見たところ、少女自身がやったとしか考えられませんね」
「どうしてそう思う?」
「まず切り口が首から腹に向かって切られていますね、一見、真っ直ぐ下に切られているようですが、よく見ると少し向かって右に寄れて中心に戻ってきています。これは右の力のいれ加減によるものと胸骨の関係ですが、ほら自分でナイフをもって引き下ろしてもらうと解るんですが、どうしても手首の加減で力の入り方の強弱が違うでしょう。そして、刃の角度も斜めに入っています。これは人に切られたのではなく、少女自身の手によるものと解ります」
 鑑識係は顔色も変えずに少女にあいた穴を指さしそう答えた。
「少女一人でこの現状を作ったと言うのか?」
 名塩は怒った様な顔で鑑識係に噛み付くように言った。
「あの絵を見てみろ!」
 名塩は部屋の隅に放り投げられている様に見える、長さが自分の身長の倍位ある絵に指をさす。そして今度はその向かいにあたる壁を叩いた。その距離はおよそ十二メートルだ。
「たぶんこっちの壁に掛かっていたんだろう。その証拠にここだけ壁の色が四角く返り血を免れている。自殺と言うなら、少女が血を出しきった後に絵を外して部屋の隅に置いたという事だろう?自分の足跡も付けず、絵を引きずった跡も付けずにな!じゃぁなんだ、この子は化け物とでも言いたいのか?」
 名塩は鑑識係を睨み付けた。
「協力者がいなかったとは言いませんよ」
 そして鑑識係は困惑した表情で言葉を続けた。
「ただ、長年この仕事をやってきて、こんな微笑むように安らかな死に顔には出会うことはそうありません。顔だけ見れば穏やかに笑ってます。自殺でもこんな表情は滅多にお目にかかれない。そう思いませんか?納得して死を受け入れた、そんな風に見えませんか?」
 鑑識係は名塩に問いかけた。
「ただし常識ではこの状態は考えられません」
 言ったもの、納得できないのは鑑識係も同じであった。
 名塩はまだ言い足りなかったが言葉がでてこず、仕方無しに会話を切り上げた。
(同じだ……あの少年と)
 尚貴は名塩らのやりとりを片耳で聞きながらそう思った。
(可哀想に。見たところまだ子供じゃないか)
 尚貴は胸が痛んだ。
 血にまみれながらも、判読出来きる遺書を、尚貴は机から手に取った。
 まだまだ沢山楽しいこともあったはずなのにどうして少女は死に急いだんだろう。遺書には父親に反発する様な事を書いているけれど、死ぬほど辛いのなら、どうしてまず逃げ出すことをしなかったんだろう。尚貴はやり切れず、少女の顔を覗き込んだ。しかし、ガラスのようなその瞳は何も語ってはくれなかった。
「ところで木村さん、この子の両親はどうなっているんだ?」
 名塩は、木村に聞いた。
「母親は既に亡くなっているようです。親戚はなく、父親は今アメリカに出張中だそうです。国際電話で子供が亡くなった事は申しましたが、このような状況は伝えておりません。ですが、かなり動揺しているようでした。明日の夕方にはこちらに戻れるそうです。副社長は既にこのビルの一階でうちの刑事が事情を聞いております」
 動揺で済まないだろうな。まして原因が自分だと知ったらどうなるだろう。その上、こんな状況を父親が知った時のことを想像すると尚貴は、よけい気が重くなった。
「しかし、明日が土曜日で良かった。ああっと!ここは土日休みだな?」
「ええ。休日になっています」
 木村が当然だと言うように答えた。
 そこへ尚貴と同じ警官が飛び込んできた。
「警備員の話から、シャッターを閉めてから出入りしたものはおりません。その裏付けとして警備モニターのビデオはただいま全て見終わりましたが。怪しい人物は発見されませんでした」
「自殺としてだ、協力者がいなければ到底説明出来ない事が多すぎる。その者は、昼間ビルのどこかに身を潜ませて、朝になるのを待っているかもしれんな。よし!」
 名塩はそういうとその警官に激を飛ばした。
「既にビルを封鎖しているとは思うが、関係者以外、たとえこの会社の偉いさんだろうがなんだろうが立入禁止だ!このビルの警備員は無関係が証明されるまで身柄を拘束しろ!捜査員、警官はこのビルの図面を手に入れて、人間が隠れることが出来ない隙間も含めて上から下まで徹底的に探せ!必ずどこかに協力者がいるはずだ。判ったな!」
「ハイ!」
 その若い警官は、目を輝かせて飛び出して行った。どこの警官も一度は、こういう事件に参加したいのである。
「警部、自分も一緒に捜索して宜しいでしょうか?」
 尚貴は名塩の顔色を伺うように覗き込んだ。
「今度血を見てぶっ倒れそうになったら追い出すぞ」
 名塩はニヤリと笑ってそう言い、尚貴はそれを許可と受け取り一階の警官詰め所に向かった。
「警部、いいんですか?」
 西脇はニヤニヤしながら言った。
「今、人手は一人でも欲しい。奴の話を聞くのは、後からでもいい」
「いやそうじゃなくて、彼にすれば管轄外でしょう。後から色々面倒な事になるんじゃないかとね」
 面倒になるといいながら西脇は困った顔はしていない。いつものことなのであろう。
「ずっとという訳じゃない。所轄と田所巡査長に、うちの上司から電話を入れてもらうように言っておいてくれ。それにどうせ暇だろう交番勤務なんて」
「分かりました」
 西脇はそういうと部屋から出、早速携帯電話を取り出した。名塩はそれを見ながら、いつもの様に適当な理由を並べてくれるだろうと思い、西脇をそこに残し、次の作業に移る為一階にある警官詰め所迄降りた。そして、既に取り寄せた図面を受け取り、屋上から地下まで探索をする為の分担を各自割り当て、水も漏らさぬ体勢で一斉にビルの捜査が始まった。そのてきぱきと指図する名塩を見て尚貴は初めて尊敬の念を抱いた。
 最初会った時はイヤな奴だと思ったが、そんな人では無かった。こうやって捜査に参加することを許してくれたのだ。確かにはじめは馬鹿にされたが、馬鹿にされても仕方ないのだ。警察官のくせに血を見て病院送りになったからだ。尚貴はそう考えていると名塩が背中を叩いた。
「お前は俺についてこい!女みたいに途中でへたばったとしても、俺が引きずり回してやるからな。手伝いたいと言ったのはお前だ!覚悟しろよ」
 そう言って名塩は豪快に笑った。
 尚貴は何故か心が温かくなって来るのを感じた。しかしそれとは逆に、窓の外はひんやりとした闇が垂れ込め、このビルの明かりを飲み込むかの様に重くのしかかっている。尚貴はブルッと一瞬身を震わせると名塩の後に続いた。
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