Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第7章

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 西脇は署内に入ると、すれ違う何人かの警官や所轄の刑事に軽く会釈しながら、階段を上がった。尚貴も西脇が会釈すると同じように頭を下げて、その後ろにピッタリくっついて歩いた。
 このアサヒ署は、尚貴が所属する東署とは違い、最近建て替えた所為もあって、鉄筋五階建ての煉瓦風造りで、パッと見ただけでは警察署に見えなかった。署内は淡いミドリとクリーム色のチェックの柄の床、天井と壁も真っ白で、汚れはまだ付いていない。古参組には煉瓦色の外観が警察署としての威厳が感じられないと不評も出たが、若い警官や婦人警官達には、センスがあると好評であった。
 署内には、もう夜の十時近くなるというのに、沢山の人間が行き交い、活気に満ちていた。特に二階は、少年課と交通課がある所為か、補導された子供や事故を起こした人達でごった返していた。
「なんだか今日は人の出入りが多いですね。四階の会議室に行きましょうか」
 二人は四階に上がると、突き当たりにある会議室に入った。西脇は扉近くにある電気のスイッチを入れた。
 会議室は十二畳程の部屋に、前の黒板に向かって二列に整列した幕板付の机が一列三台ずつ、計六台あった。西脇は一番前の机に、持ってきた資料を置くと、尚貴にもそうするように促した。 
「なんだか綺麗になりすぎて落ち着かないですね。一年前に一度こちらに来た時は、机も板をパイプで支えたような粗末なものだったのですが、どこかの企業の会議室のようになってしまうと、以前のあの机が懐かしいですよ」
 西脇は言い、椅子に腰を降ろした。
 尚貴は、そんなものですか?というようにぐるりと部屋を見渡した。
「警部は遅いですね、自殺の件で手間取っているのでしょうか……」
 西脇はそう言いながら上半身をひねり、後ろの入り口を見た。
「うーん。どうしてもそのテープが聞きたいですね」
 今度は、尚貴が持ってきたウオークマンの中に収められているテープをじっと見つめた。
「先に聞かれてはいかがですか?」
 尚貴は西脇に言った。
「いえ……そうしたいのは山々なんですが、警部よりこうゆうものを先に見たり聞いたりすると、機嫌が悪くなるんですよ。もちろん警部がですよ」
 そう言って西脇は笑った。
 そこへ名塩が入ってきた。
「悪いな、手間取ってしまってなぁ。本来なら、自殺なんかは県警管轄じゃないんだが、娘の変死体を所轄と合同捜査してるだろう。その一連で駆り出されたわけだ。おまけに西脇は、このくそ忙しいのに三日も戻ってこなかったしな!」
 と、名塩は西脇の方を見て言った。
「済みません。意外に時間がかかりまして……」
 西脇はそう言って苦笑した。
 そんな名塩をじっと見て、尚貴はポカンと口を開けていた。
 モサッとした髪と髭に隠れていた名塩の素顔は、最初の印象を覆すものであった。
 何より尚貴は、名塩の身長が百八十三センチあったので、真っ向から面と向かって顔を見たことが無かったからであった。
 名塩の濃い眉は太すぎもせず、かといって細くなく、ゆるくカーブしており、笑っているにもかかわらず、黒い瞳は深遠な鋭い光を発していた。右の顎の辺りに、昔負った傷だろうか?明らかに肌の色とは違う白い筋が二本浮き上がっていた。よく観察してみると髪の生え際にも白い痕があった。しかしその傷は、名塩の顔に男らしい魅力を醸し出す要素になっていた。名塩の脂肪のないがっしりした身体と、その精悍な顔は見た者を魅了するだろう。
「なんだ、どうした?俺の顔に何か付いているのか?」
 名塩は口の端を皮肉っぽく歪め、尚貴に言った。
 尚貴はその少し歪めた口が妙に似合うと思った。
「い……いえ、警部……あのう髭を剃られたんですか?」
 尚貴は、おそるおそる名塩に聞いた。
「あっ!鳥島さんは初めてでしたね。警部の素顔を見るのは……」
 西脇が言った。
「なんだ鳥島。文句があるようだな」
「い……いえそんな事は……」
 尚貴はどう返答して良いのか困った。
「私は二十八になったばかりですが、名塩さんは私より二つ上にもかかわらず警部なんですよ。驚いたでしょう。これでもキャリア組のエリートなんです。警視庁で上司と大喧嘩する前ですがね」
 西脇は笑いを堪えながらそう言った。
「媚びへつらう馬鹿に、馬鹿と言っただけだ」
 名塩はケロリとした表情で言った。
「もっと、お年を召されているかと……」
 尚貴は驚きを隠せない表情で言った。
「では警部。やっと例の男が捕まったんですか」
 西脇は名塩に聞いた。
「ああ、ようやくな。これでもう変装する必要もないわけだ。別に命を狙われるのはどうって事なかったが、あいつは所構わず、周りに人が居ようが居まいが、関係なしだったからな、逃げ回るのは不本意だったが、俺の所為で誰かが怪我を負う事だけは避けたかったんだよ」
 名塩は、ホッとした様にそう言った。
「狙われるとは、殺し屋ですか?」
 尚貴が聞いた。
「いや、そんなプロじゃない。以前、警視庁ではマル暴にいたんだ。それで色々とな……」
 そう言った名塩はそれ以上何も言わなかった。
「まあ、無差別に他の件で六人殺した奴ですから、死刑になる筈ですよ。これでやっと警部も枕を高くして眠れますね。その件は終わりにして、問題は今、現実に起こっている事件について考えましょう」
 そう言って西脇は持ってきた封筒の中身を取り出し始めた。
「おい、鳥島。先にテープを聴かせてくれ。その件を昼間お前から聞いてから、俺は気になって気になって仕方なかったんだ」
 名塩はズイッと尚貴に近づき、そう言った。
「あっ、私も聞きたいです。いいですか鳥島さん」
 西脇は書類を出そうとした手を止めて言った。
 テープは既に巻き戻しておいたので、尚貴はボリュームを少し上げ、再生のスイッチを押した。
 再生が始まり、低く通る例の男の声が会議室に響いた。尚貴は改めてその声を聞き、新たに、不快感がこみ上げてきた。
 それにしても一体どういうつもりで、電話をかけて来るのか分からなかった。警察の無力さをあざ笑う為だろうか?それなら平の警官じゃなくてもいい筈なのだ。それとも自分ではいけない理由があるんだろうか。なら、それはどういう理由からなのだろう。
 尚貴そうこう考えているうちに再生は終わった。すかさず名塩が尚貴に真剣な顔で問いかけた。
「俺は理解のある方だと思っている。だから過去、お前が男と付き合っていたとしても、異議を唱えるつもりはない。だから答えてくれ、この男は一体誰なんだ?」
(やっぱり……)
 尚貴は名塩の言葉を聞き、予想通りの問いかけに、がっくりきた。
「はっきり申し上げておきますが、自分は男と付き合った事など一度もありませんし、興味を持ったことも誓ってありません」
 尚貴はやや上気した顔で言った。
「じゃ、どうしてこんな風に……まるで昔の恋人のように語りかけているんだ?」
「それは、自分が一番知りたいことです」
「なぁ、鳥島。ここはひとつ本当のことを……」
「警部。自分は嘘は付いておりません。本当に心当たりがないんです」
「誰にもお前の事は話さないと約束する」
「警部はどうしても、その男と自分を結びつけたい様ですが、知らないものは、知らないと申し上げる事しかできません」
 尚貴は必死に否定したが、名塩はどうしても納得できない様子であった。
「警部。鳥島さんは嘘を付く人ではありません。そんなにいじめないでやって下さいよ。ほらっ、泣きそうな顔をしてるじゃないですか」
 そう西脇が言うと、名塩はハッとして尚貴の顔を見た、確かに泣きそうな顔をしている。
「いや、済まなかった。しかしな……いや、いい」
 名塩はそういうと、ポンと尚貴の肩を叩いた。
「まあ、これが警部だとしたら、毛ほども疑わなかった所ですが、鳥島さんは男にも好かれる可愛らしい顔をしてますからね、そう思うのも無理ないと許して下さいね」
 西脇はそういうと、尚貴に向かって笑みを見せた。
「いえ、いいんです」
 尚貴は西脇が、助け船を出してくれたことで、助かったと思った。
「いずれにしても、全く関係のない鳥島さんに、ああいう電話をかけてくるということは、鳥島さんが気付かない所で、何か接点があるとしか考えられません。ですから鳥島さんが、過去に何かの事件でその男とバッティングしている可能性は否定できません。一度、その辺りを調べてくれませんか?」
 西脇がそういうと、尚貴は無言で頷いた。
「それでは、これを資料として、先ず見て下さい」
 西脇はそう言って名塩と尚貴に、二十枚ほどをステープラで止めた資料を手渡した。
「今回、田中裕喜の自殺と大綱物産社長の娘、ええっと大綱美子の自殺に見られる類似点、大量出血、自殺、現場状況の不可解なもの、この三点を持つものに限って、県警のコンピューターで過去全国で起こった事件を探索した結果、そういう事件は16年前から始まり、現在迄に15件発生しております。いずれも二十歳前の少年少女に限られ、その殆どが自殺として処理されております。但し、最初の一件に限っては自殺ではありませんが、不可解な事件として、探索に引っかかりました。当初、この十五件の中に含んで良いものか悩みましたが、私には何かこの事件が発端のような気がして、とりあえず資料に含んでおります」
 西脇はそういうと、名塩と尚貴の方をゆっくりと見た。二人とも熱心に資料に目を通している。すると名塩が妙な顔をして、資料から視線を外し、西脇に言った。
「これは事実か?」
「はい。紛れもない事実です。追記として添えられているコメントも全て……」
 西脇はそういうと、暗い表情をした。
 名塩には信じがたい資料であった。最初の一件を除くと、不可解な自殺をした少年少女達のその原因となる要因を作った人間が、一様に自殺をしている。
「これはどういう事なんだ……」
 名塩は呟くように言った。
「分かりません。分かりませんが……これを一つの法則として考えますと、大綱ビルの社長の自殺も十五件がらみといえるでしょう。ただ、田中裕喜の自殺に関しては、いじめをしていた四人の同級生の名前が挙がっています。この法則を当てはめれば、今は誰も自殺しておりませんが、いずれ……その四人は自殺をするのではないかと思われます。それも、誰も自殺を否定できない状況で……」
 西脇はため息混じりにそういうと資料を机に置いた。
「なんだか……気味悪いことに気付いたんですが……」
 尚貴は青い顔をして名塩に発言を求めた。
「気味悪いことは分かっている。で、他に何か気付いたのか?」
 名塩がそう言っている間に、尚貴はその資料をまるで見ない方が良かったとでもいうように、裏返しに机に置いた。
「全部……いえ、最初の一件を除いて、大抵自分の住んでいる県内か、市内でこの資料の事件が起こっているんです。ぐ……偶然なんでしょうか?」
 尚貴の目は自分の言っている事に反論を求めるように名塩と西脇を見た。しかし西脇はびっくりした表情をし、名塩は怪訝そうな表情で尚貴を見つめている。
「自分の生まれは奈良の吉野です。現在、両親はその吉野に隠居していますが、父は仕事の都合で転勤が多く、長くても1年位しか同じ所にいませんでした。その後を追うように事件が起こっているのはどうしてなんでしょう」
 尚貴は、二人のうち、どちらかがその理由を言ってくれるのではないかと、すがるような目で訴えた。
 尚貴は恐ろしかった。自分の行く先々で凄惨な事件があったことに愕然とした。
 特にある一件は、死んだ少年が隣のクラスの人間だった事だ。
(確か自殺なのは聞いたけれど……この中に入る事件だったなんて知らなかった。そうだ……そいつは陸上部で、実力があったのにプレッシャーに負けて自殺したとか……)
 尚貴は必死に記憶を辿ろうとしていた。
「1994年の一件は、警察学校の寮近くですね……」
 西脇がやっとそう言ったとき、尚貴はびくっと身体を震わせた。その顔色は真っ青になっていた。
「言っとくが誰も、お前を疑ってはいないさ。考えてもみろ十六年前から起こっている事件だ。十六年前といえば、お前はいくつだ?」
 名塩は尚貴にそう言った。
「七才です」
 尚貴は掠れるような声で答えた。
「そんなちびっ子に何ができるって言うんだ。いくら何でも、お前の後を追うように事件が起こっているからと言って、お前が事件に関与しているなどと短絡的に結果を出すわけがないだろう」
 名塩にそう言われて、尚貴はややホッとしたが、心の中はざわざわと落ち着きを無くしていた。
「鳥島さん。後で詳しく貴方が転居した年と、場所を箇条書きしてくれますか?」
 西脇はそう言って尚貴の手を握った。その西脇の手は温かかった。
「はい……」
 尚貴のその返答には力が無かったが、西脇の小さな瞳の奥に宿る優しい眼差しを見て、勇気づけられたような気がした。
「それでは今後の対策を考えましょう。例の男が事件にどのように関与しているかは、現段階では分かりませんが、田中裕喜を自殺に追い込んだ原因となった、いじめ4人組を当分、鳥島さんにマークしてもらうことにします。但し、四人ともマークをするには人数が多すぎますので、何人か警官を別の理由をつけて手配したいと思います」
「それがいいだろう」
 名塩はそう言い、尚貴は頷いた。
「鳥島さん、四人のうち誰か希望の人間は居ますか?」
 西脇がそういうと尚貴は、
「自分は、池田純一をマークしたいと思います。四人の中で一人、リーダーの小川勝己に仕方なく引きずられるように、いじめに参加しており、田中裕喜の自殺により現在、学校にも登校しておりません。他の、長野 彰、岡林 賢は平常通り学校には通っております。小川勝己に関しては自殺するような気配は全くなく、自分の所為で田中裕喜が自殺したことを何とも思っていない様子で、田中裕喜がいかに弱虫だったかを、学校で面白おかしく吹聴しております。ですので自分が今、一番心配なのは、池田純一です」
 それらは尚貴が一週間ほど聞き込みをした成果であった。
「警部、池田純一は鳥島さんにお願いしても宜しいでしょうか?」
 そう西脇が言うと名塩は了解を示すように、首を縦に振った。
「あと、長野と岡林は警官でも良いとして、問題は小川ですね」
 そう言って西脇は名塩の方を見た。
「上司に釘を刺されているからな、小川真二郎元文部大臣様に関しては……」
 名塩は少し自嘲気味にそう言った。
「私服を使うか……」
 そう言って西脇の方を見やった。
「分かりました。私は当分そちらに付きましょう」
 西脇は文句も言わずにそう言った。
「ま、あの狸の父親の息子だ、ビルから突き落とされる事はあっても、自殺するようなタマじゃないだろうから、たまに様子を見てくれるだけで良いだろう」
「さぁどうでしょうか。それは分かりませんがとにかくマークします」
 西脇がそういうと尚貴がたまりかねたように言った。
「あの……警部、洗面所に行っても宜しいでしょうか?」
「どうした、気分でも悪いのか?」
 名塩がからかい気味に尚貴に言った。
「いえ……ただ冷たい水で少し顔を洗いたくて……いけませんか?」
 尚貴は申し訳なさそうにそう言った。
「行って来い。廊下の突き当たりにある。電気は自分でつけろよ、経費削減でいちいち、スイッチを入れることになってるんだ」
 名塩がそういうと、尚貴はコクリと頷き、部屋を出て行こうとした。その尚貴に更に声をかけた。
「消し忘れんなよ」
「はい」
 尚貴はそういうと部屋を出ていった。
「なんだ、大丈夫か鳥島は」
 名塩はそう言ったが西脇は返答せず、尚貴が出ていったあとを心配そうに見つめていた。 尚貴はそんな二人の事は気付かず、吐きそうなのを堪えながら廊下をのろのろと歩いた。胃は空っぽなのにも関わらず、吐き気を押さえることができなかった。
「夕飯はまだ食べていないのに、吐きそうだ……」
 尚貴はそういうと、薄暗い周りを見渡しながら歩む。
 この階は会議室専門の階なのか、全ての部屋の電気は消えており、窓の外から入る街並みの弱々しい明かりだけが廊下を照らしていた。その薄暗い廊下を一瞬閃光が走り、次いで耳をつんざくような轟音が響いた。尚貴は驚き、一瞬動けなくなったが、すぐさまその原因を突き止めた。
 それは、いつの間にか降り出した雨に伴い、雷が閃いていたのであった。
「び……びっくりさせんなよ……」
 尚貴は額の汗を片手で無造作に拭うと、洗面所に小走りで向かった。廊下の電気を全て点けたい衝動に駆られたが、スイッチの在処が分からなかった。
 絶え間なく白い光を発し、雷は雲間をわたる龍さながらに咆哮する。その度に尚貴は、雷だと分かっているのに、身体を震わせた。
「ばかばかしいな、全く。何が怖いんだよ俺は……ただの雷だろ」
 尚貴はそう声に出して、自分を叱責した。声を出すことによって、先程から心に湧いた不安を打ち消そうとしたのかもしれない。
 洗面所に着いた尚貴は入り口にある電灯のスイッチを入れた。
 白いタイル張りに光が反射して尚貴は眩しいと感じたが、同時に安堵感が漂う。
「それにしても……誰もいないトイレも気味悪いな……」
 トイレの戸は全て開いており、誰も居ない事が分かる。
 せっかく安堵した尚貴であったが、しんと静まり返った洗面所の白い壁が迫って来るような錯覚に、ぶるると首を振り、洗面台に立つと蛇口に手をかざした。すると蛇口のセンサーが尚貴の手を察知し、勢いよく水が出始めた。その水を両手ですくい、尚貴はバシャバシャと顔を洗い始めた。その音の所為か、雷の音は遠くに聞こえた。
 冷たい水が吐き気を止め、次第に尚貴の心を平静に向かわせた。
 コト……。
「えっ」
 その音は、尚貴の真後ろから聞こえた。
 尚貴はずぶ濡れの顔で振り返る。
 そこには誰も居なかった。
 尚貴の頬をつたって水の雫が床にこぼれ落ち、ピシャピシャと洗面所に響いた。
(確かに人の気配がしたと思ったんだけど……)
 突然、ドオンという音が響きわたり、次いでバキバキという木が引き裂かれるような音が続いた。
 尚貴は心臓が飛び出る位驚いたが、先刻の雷だとすぐに分かった。
「近くに雷が落ちたみたいだな……全く……」
 尚貴が悪態を付き終わる前に、フッと電灯が消えた。
「嘘っ……停電?何でも良いから、頼むから早く点いてくれよ……」
 尚貴は洗面所の突き当たりにある窓まで手探りで行くと、灯が消え、そこに在るであろう街並みを眺めながら、そうごちた。
(自家発電器がすぐに作動する筈なんだけどな……)
 尚貴はそう思ったが一向に、電灯が点く様子は無かった。
 目がやや暗闇に慣れた尚貴は、ゆっくりと洗面台に戻ると、もう一度顔を洗い出した。
 ブルブルッと顔をふり、左手は洗面台の縁を掴み、ポケットから取り出したハンカチを右手に持ち、濡れた顔を拭こうとした。すると、何処からか生暖かい風が尚貴の首筋を撫でた。
「な……何?」
(窓は閉まっていたはず……)
 そこへ、もう一度ぬるっとした風が頬を掠めた。
 それは人の吐息の様であった。
(だ……誰かいる)
 尚貴には確かに人の気配がした。それもすぐ後ろに……。
 真っ暗な闇が更にその色を強めた。
 そこへ雷が閃き、洗面所に白い光が差し込んだ。その一瞬の光源を受けて、尚貴の立つ洗面台にある鏡が、尚貴を映し光った。
 しかし、その鏡に映った被写体は尚貴だけでは無かった。
 確かに真後ろ、黒い髪を肩より少し伸ばし、黒い格好をした人間が立っていた。
「誰?」
 尚貴は問いかける。しかし返答は無かった。
 その時、電灯が点き、辺りは急に洗面所内を明るく照らし出した。
 鏡にはやはり、尚貴の後ろに誰かが立っているのが映っている。しかし尚貴に重なるように映っているので、顔はよく見えなかった。
(ひ……人の後ろに立つなんて、一体何考えてんだよ) 
「誰だか知りませんが、人をからかうのは……」
 尚貴はそう言いながら、ゆっくり振り返った。
「………」
 そこには誰も居なかった。
 ただ白いタイルが尚貴の影を、ぼんやりと描いているだけであった。
(錯覚?)
 尚貴はそう思ったが、はっきりと誰かの姿を見た筈であった。
 黒いコートを着、肩より少し伸ばした黒髪……。
(黒いコート……黒い髪……)
 尚貴はドキッとした。田中裕喜のノートに書かれていた内容を思い出したのであった。
 おそるおそる、目の前の鏡に視線を戻す。そこにはやはり人の姿が映っていた。
 尚貴の心臓は早鐘の様に打ち、頭の何処かから危険を知らせる警笛が鳴る。
 耳の奥で血管が激しく波打つ音が聞こえた。
(一体どういう事なんだ……どうして誰も居ないのに鏡には人の姿が映っているんだ?)
 尚貴はおそるおそる鏡を見ながら、その人間が見えるように身体をずらした。
 鏡の中に映る青年は尚貴と視線が合うと、薄く笑った。

 その人の身長は僕より随分高く
 どくん……。
 陶器のように白い肌をしていて
 どくん……。
 肩より少し長い黒髪を時折右手でかき上げる。
 その指も細くて長い。
 どくん……。
 光の加減だろうか?
 瞳は、漆黒のように見えたり薄いグレーにも見えたりする。
 どくん……どくん。
 服装は、いつも足元まである黒いコートを着ている。
 どくん。どくん。どくん。どくん。

 心臓がもの凄い勢いで血液を送り出し、尚貴の身体を駆けめぐる。
 田中裕喜の書き残した男そのものの姿が、鏡に映し出されていたのである。
 もう一度振り向く勇気は尚貴にはなかった。ただこの場から早く立ち去りたかった。しかし逃げようとするが、身体が硬直して微動だにしない。更に瞳も凝固したまま鏡にから視線を外せなかった。
「尚貴……」
 鏡の中の青年はそう言い、白く長い指で尚貴の首筋に触れた。
 ひやりとした感触を受けた尚貴の身体は小刻みに震えていた。
「そんなに怯えないでくれ」
 青年は悲しげにそういうと、ゆっくり尚貴の首筋を撫でた。
 尚貴の頭の中はパニックに陥り、恐怖の余り歯がカチカチと鳴っている。
(何なんだ……こいつは一体何者なんだ……どうして鏡にしか映らないんだよ……)
 尚貴は、恐慌状態に陥っていた。何かを考える機能が麻痺をしており、本能だけが、この場から離れようと、必死に硬直した身体を動かそうとしていた。
「君は余計な事をしようとしすぎる……だけど尚貴だから許してあげよう。無駄な事に必死になる姿も私にとって愛おしい」
 尚貴の後方から回された青年の指が、尚貴の頬を撫でる。その仕草をやめさせようと、尚貴は今度は声を出そうとしたが、カチカチなる歯の隙間から洩れるのは、小さなうめき声だけであった。
 青年の人差し指が尚貴の唇にそっと置かれた。
「しいーっ。いい子だ。怖がることはない。私が君を傷つける事など絶対にない。だから安心して欲しい。ただ私は暫く君の身体を貸して貰いたいだけなんだ。いいね」
 青年はそういうと尚貴の背後から覆い被さった。尚貴はその拍子にタイルの床に崩れ落ちるかの様に思われたが、右手を床について体勢を整えると、すっと立ち上がった。
 青年は、いつの間にか床に落ちた警察帽を拾い被り直すと、鏡に映る尚貴の姿を見て
「居心地は悪くないな」
 と言い、低く笑うと洗面所を後にした。そして、薄暗い廊下を滑るように歩くと明かりの点いている会議室の戸を開けた。
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