Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第15章

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 怒りに燃えていた青年の瞳が急にグレイに変わったかと思うと、視線がこちらを通り過ぎた。暫くすると次第に視点が西脇に合った。
「……余計な小細工をお前達がした所為で、助けられなかった……」
 ため息にも似た吐息と共に青年は言ったが、なんのことを言っているのか西脇には分からなかった。
「何を……言っているのですか?」
 西脇はそう聞いたが、それに対する返答は無かった。
「これ以上尚貴を混乱させないでくれたまえ」
「混乱させているのは貴方ではないのですか?」
 側に近寄る青年から尚貴を守るように自分の方に引き寄せ、西脇は言った。尚貴の方は視線が定まらないまま、ぼんやりと虚空を眺めている。
「確かに……私が尚貴に無理をさせているのは分かっている。だからこそお前達まで余計なことをするなと言っているのだ」
 瞳を細めて青年は穏やかに言った。
 いつの間にか西脇の隣に膝をついた青年は西脇の腕にぐったりしている尚貴を自分の方へと引き寄せた。西脇はそれに抵抗することも出来ず、あっさりと青年の手に尚貴を委ねた。身体が硬直して動かないのだ。
「眠るんだよ尚貴……」
 幼子をあやすように腕の中にいる尚貴に青年は言った。その瞳は見たこともない暖かさに変わっていた。
「……あ……あ……痛い……」
 うめきに似た声で尚貴は訴えるように言った。潤んだ瞳からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。その頬に伝う涙を青年は白く長い指でそっと拭った。
「痛くないよ、大丈夫。言ったはずだ。私が側にいる。痛みは感じないんだよ。尚貴が全て思い出すまでにはもう少し時間がある。だからまだ眠っていて良いんだ……」
 涙を拭った指が瞼に触れると、尚貴はそのまま眠りに落ちた。
「鳥島さんを離して下さい……」
 その西脇の声で、今初めて気付いたように青年は顔をあげた。
「知りたいという好奇心も大いに結構だが、知るという事にも順序がある。それらをとばして結論にたどり着いたとき、尚貴は壊れてしまう。それでは尚貴が生きてきた意味が無くなるのだ」
「それでは貴方が教えて下さい。鳥島さんは何故貴方に出会ったのですか?何故貴方は彼にそれほど執着するのです?」
 青年はすぐに口を開かずにじっと西脇を見つめた。時間が止まったような静寂があたりを包んでいた。
「何故という理由には答えられん。それが全ての行き着くところだからだ。それほど遠くない未来にお前達はそれを知るだろう。今、急いで知る必要などない」
 疑問を簡単に切り捨てた青年の言葉になおも西脇は言った。
「彼は小さい頃に大病を患いました。そのとき本人は何故自分がそんな病気であるのか、苦しまなければいけないのか、それが理解できずに苦しんだのでしょう。その苦しみが、何らかの形で怒りと悲しみになって、貴方を引き寄せたのではないのですか?」
 西脇がそういうと青年は低く笑った。
「それが正解でも私は答えるつもりはないよ。言ったはずだ。君たちの好奇心を満たす為に私がここにいるのではない。尚貴の苦しみを知ったから、助けに来たのだ」
「……助ける?しかし、貴方の存在自体が彼を苦しめている。もし本当に人の苦しみや悲しみを知ることが出来るのなら、彼が今、どれほど辛いか苦しいか分かるはずです」
「お前は本当の悲しみや苦しみを知らない。知らないお前が尚貴の本当の苦しみを分かるわけがないだろう……」
 青年は眠った尚貴を抱えると、そっと椅子に座らせた。その動作はあくまで優しかった。
「これだけは言っておく。無理に記憶をこじ開けようとするならば、尚貴の心は耐えられずに壊れてしまうだろう。それでも知りたいと思うのなら、思うようにするといい」
 憂いた表情で青年は言った。
「そんなことをすれば私を殺すのではないのですか?」
「どうも君たちは私のことを勘違いしているので困る。私自身は誰かを殺すことなど出来ないのだよ。聞くが、私が誰かを殺したことがあるかね?」
 柔らかな口調で青年は言った。その表情は聖母のように穏やかである。そんな青年に西脇は言葉に詰まったまま、言い返すことが出来なかった。
 確かに青年は、誰かを直接手に掛けたことはないのだ。
「……私はどんなことがあっても貴方がしていることを理解するつもりはありません。確かに貴方は手を下してはいないが、そう仕向ける力がある。見えることだけを信じるつもりは毛頭ありません」
「悲しいことだね……」
 青年の身体が急にぼやけ始めた。
「まだ聞きたいことがっ!」
 西脇がそう叫んだ時にはもう青年の姿は視界から消えていた。
「……脇さん」
「……」 
「西脇さん!」
 紺原が叫ぶように西脇を呼んだ。その声に振り向くと紺原の顔は蒼白であった。その格好は尻餅を付いたまま壁に張り付いていた。
「……紺原さん……これは……」
 青年の事をなんと説明して良いか西脇は分からなかった。
「西脇さん……貴方は何に向かって話しかけていたのですか?」
 紺原には見えなかったのだった。では西脇が一方的に話すことだけが聞こえていたことになる。紺原が蒼白になった理由は、異様な青年を見たからではなく、西脇の奇妙な行動に恐れを抱いたのだ。それが分かると西脇は急に笑い出したくなった。緊張が急に解けた所為かもしれなかった。
「えっ?ああ、はははっ……」
「西脇さん……大丈夫ですか?」
 笑う西脇に近づくことをためらったのか、紺原はその場から動かなかった。
「大丈夫ですよ。それよりまず鳥島さんを別の部屋に移したいのですが……」
「えっ?」
「いえ、鳥島さんにこの荒れた部屋を見せたくないのです」  
 部屋の窓ガラスが粉々に砕け床に散らばり、書類が散乱した部屋は目覚めた尚貴を混乱させるだろうと西脇は考えたのであった。
「……では、隣の部屋にでも……」
 ぐずぐずと立ち上がった紺原は訝しげな表情で西脇に言った。
「ガラス代は後で請求して下さい」
 そう西脇が言うと同時に尚貴が「うー……」と呻いた。西脇は慌てて尚貴の側に駆け寄って様子を伺うと、気持ちよさそうに眠っていた。
「紺原さん、済みませんが手伝って貰えませんか?」
「は……はい」
 二人で尚貴を隣の部屋に運び、ソファーに横にさせた。
「催眠は……解けてますよね?」
「その様子では、放っておいても勝手に起きてくるでしょう」
 小さなため息を付いた紺原はそう言って尚貴を寝かせたソファーとは逆のソファーに腰を下ろし、ポケットから煙草を取り出した。
「吸って良いですか?」
「どうぞ」
 西脇から了解を得ると紺原はやや震える手でライターで火をつけると、まずは一服をした。
「鳥島さんの記憶はかなり強くブロックをされています……」
 紺原はそう言ってまた煙草をくわえ、何度か煙を吐き出すと続けていった。
「そのブロックというのは自分で無意識にしたのか、人為的かは分かりません。ですが、たぶん前者だと考えられます。人為的に出来るのは軍関係でしかないので前者といえます。子供の頃の大病が原因で心に傷が出来ているのだとすると、その衝撃があまりにも大きすぎたために、それ自体の記憶を心の奥底に封印したのでしょう。こういう場合は無理にこじ開けることは出来ません。技術的に出来ないのではなくて、無理に全てを思い出したときに現在の心が受ける衝撃が、想像できないからです。その事をあらわすように、記憶を掘り下げようとしたとき、こちらの誘導が不能になりました。続けていれば、意識のそこにどんどん落ち込んで、今の鳥島さんを呼び戻すことが出来なくなる可能性もあったのです。まだ、自分自身が疑問に思い、自らがそれに立ち向かう準備が出来ている場合なら、傷つきながらも受け止めることが出来るかもしれません。ですが私が見たところ鳥島さんは最初から乗り気では無かった。それは封印している記憶の怖さを無意識に知っていて、乗り気ではないのか、私のことを胡散臭いと思って乗り気でないのかは分かりませんがね」
 そう言って紺原はやっと笑みを見せた。 
「病気というものがそれほど大きな衝撃を心にもたらすことがあるのでしょうか?」
 西脇は紺原に聞いた。
「ありますよ。その体験が小さい頃であればあるほど、そのときの記憶を忘れている場合が結構あるんですよ。幼いというのは理解力も幼いということです。何故苦しいのか、痛いのかを理解しにくいのです。そして両親は病気のことを、たいてい幼い子供に抽象的に話します。体の中に悪い奴がいるんだよ……というふうにです。その事も子供に混乱と恐怖を与えているのです。だからといって難しく病名を言っても更に混乱するのですが……。そういうわけで、小さな子供にとって長期の入院生活での記憶は恐怖でしかない。それを忘れようとするのは心の自然な働きなのです」
 紺原がそう説明したが、西脇はそうではないと感じていた。
 確かに青年が姿を現す子供達は何かしら誰かをとても憎み、その上死を望んでいた。では尚貴も長期入院の間に誰かを憎み、更に死を望み、青年に助けを求めたのか?西脇はそう考えたが、その考えもピントがずれているような気がして仕方がなかった。何より苦しいから誰かに助けを求めたからと言って、ああいう得体の知れない人物が出てくるなどとは聞いたことがないのだ。それとも西脇自身、いや、普通に生活している人達が知らないだけで、昔からそういう存在がいたのだろうか?
「割れたガラスですが……」
 紺原はふとそう言ったが、西脇には答えようが無かった。貴方には見えない人物がそれらを引き起こしたと言って信じてくれるかどうか分からないのだ。
「考えないことにします」
「え?」
「考えても分からないことは忘れるようにしていますのでね」
「はぁ……」 
「理由は色々考えられますが……思春期の子供がいる家にポルターガイスト現象が多いとかね……。ですが突き詰めて考えても答えが出るわけでもないですし、鳥島さんにも分からないでしょうから……」
 紺原は自分を納得させるように言った。
「そうですね……」
 意外にさっぱりしている紺原に西脇は安堵した。
「……ん……あれ?」
 尚貴は瞳を擦りながら上半身を起こした。
「気分はどうですか?」
 西脇は努めて普通に接した。
「いつもと同じです。何か分かりました?」
 それに対して紺原が何かを言おうとしたのを西脇が目線で止めた。
「鳥島さんが言っていた通り、貴方が小さい頃入院していた頃の事を夢に見ていたようですね」 
 西脇は尚貴に青年の事は言えなかった。側に紺原がいたからではない。これ以上、尚貴を混乱させたくなかったのである。
「でしょう」
 そう言って尚貴は笑みを浮かべた。
 西脇から見ても幼さの残る尚貴の笑みは可愛らしい。その伸びやかな笑みが曇り、このくるくるとした瞳が死を渇望するような悲しみと、全てを壊してしまいたくなるような怒りを持つことなど信じられなかった。 
 ではあの青年に会った理由は一体何なのだろうか?
「あれ、西脇さん……怪我してますが、どうしたのですか?」
「え?」
 先ほどガラスの破片でついた小さな切り傷から血が滲んでいたのを尚貴が見つけたのだ。
「ああ、これはですね……」
 どう説明しようかと思案していると西脇の携帯が鳴った。
「もしも……」
『すぐに戻ってこい、いや、現地に急行してくれ。長野彰が殺された。俺は今そっちに向かっているところだ。状況が分からんから説明は出来ない。さっさと来てくれ』
 それだけ名塩は言うと携帯は切れた。
「済みません。ゆっくり話をしたいのですが、仕事ですぐに出なければならなくなりました。後かたづけを出来ませんが、紺原さん後お願いして宜しいでしょうか?」
 西脇がそういうと紺原は「いいですよ」といった。
「西脇さんあの……」
 尚貴が不審気に言った。
「隠しても仕方がありませんので話しますが、長野彰が殺されたそうです」
「えっ?」
「状況はまだ分かりませんので誰に殺されたとかは分かりません。とりあえず鳥島さんは謹慎が解けてはいませんので自宅に送ります。その足で私は現場に向かいます」
「一体……何が……」
 尚貴はそれだけ言って沈黙した。そう問いかけたいのは西脇も同じであった。



 名塩が現場に到着すると既に野次馬の山であった。住宅街であったため、近所の住民がほとんどそこに集まっているかのような人数であった。それらの人間を四台のパトカーでバリケードを作り、その周りをロープで囲っていた。若い警官達がそのロープを越えようとする野次馬を押さえるために必死になっている。その光景は、まるで朝の満員電車に乗ろうとするサラリーマンとそれを押す駅員のようなものであった。
 名塩はそんな野次馬を眺めながらあることに気が付いた。周りの家々が、まるで四角い箱をぞろりと並べたような景観であったのだ。建っている家もどれもこれも同じデザインであるため、間違って人の家に入るのではないかと思われるくらい似ていた。
 それらの家から出てきたのだろうか、パジャマ姿の住民もちらほらと見えた。その中には小さな子供の手を引き、野次馬整理にかり出されていた警官の肩越しに長野家を覗き込むように背伸びをしている母親もいた。同行させられた子供は訳も分からずぐずっているようであった。こんな所に連れてくる母親の気が知れないと名塩はため息がでた。
 ロープを張っている若い警官に名塩は警察手帳を見せ中に入ると、所轄の佐山が名塩を見つけて走ってきた。
「警部!名塩警部!」
「もう少しこの野次馬を何とかできんのか?」
 言っても仕方のないことは毎度の事ながら分かっていたが、言わずにはおれない性格の名塩はついそう言った。
「済みません」 
「いや、いい……それより、息子の方が父親に殺されたと聞いたが、父親は逃げたのか?」
「いえ、父親の方は事故かどうか分かりませんが、窓から落ちて死亡しております。母親は一階の台所で事情を伺っていますが、半分意識がないような状態です」 
 佐山は言いながら名塩を玄関に案内した。ちらりと庭の方を伺うと、ブルーのシートがかけられていた。たぶんあの下には父親がいるのであろう。
「そうか……で、息子の方はまだそのままか?」
「はい。鑑識が今現場検証をしております。先に見ますか?」
「ああ、ちょっと覗かせて貰ってから母親に会おう」
「では二階へどうぞ」
 名塩は促されるまま階段を上がり鑑識が行き来する部屋へと入った。
 彰は部屋の真ん中に仰向けに倒れていた。その額は陥没しており、そこからかなり出血をしていた。血糊でぬめった表情は目を見開き、丁度何かに酷く驚いたような顔をしている。その周りには机の上にあったのだろう教科書や参考書が真っ赤な装丁に変わり、散乱していた。
「北原さん。致命傷はこいつか?」
 彰の側にいた検死官の北原に名塩は額に指をさして聞いた。
「かなり頭蓋骨も陥没している。そこに転がっている金属バットで、ためらいもせずに何度も殴ったんだろう。可哀相にな」
「そうか……」
 名塩も確かに可哀相だと感じたが、それよりもホッとしていたのだ。目の前の現場は普通の殺しであったからだ。
「隣人の話では一時間前からかなり言い合いをしていた声が聞こえていたそうです。ただ、こちらの父親は穏やかな人物だと評されていたので、まさか父親と息子が言い合いをしていたとは思わなかったそうです。その父親の重雄ですが、近所でトラブルを起こしたことは全くなく、いい人だと聞く人全てがそう答えています。ですが……」
 そう言って佐山は彰のシャツを少しめくってそこにある青あざを名塩に見せた。
「北原さんが見つけたのですが、どうも体中にこういう傷があるようです」
「虐待されていたのか……」
 名塩は出来たばかりの青あざと治りかけの黄色くなっているあざを見ながらそう言った。
「両親どちらがこの傷を付けたのかは分かりませんが、虐待されていたことは間違いないでしょう」
 苦々しい表情で佐山はそう言った。
「で、さっき目に入ったが、父親はそこの窓の下か?」
 そう言って名塩は顔を上げてがらりと空いた窓を見た。
「ええ、体勢を崩して落ちたのか、自分のしたことを償うために自ら落ちたのか、今のところ良く分かりません」
 名塩は立ち上がると窓に近づき下を覗くと、先ほど見たブルーのビニールシートの周りを鑑識がせわしなく動いているのが見えた。
「さて、母親に事情を聞いてみるか……」
 その場を鑑識に任せ、一階に下りると居間に向かった。居間の扉を開けると若い所轄の刑事が隆子に質問をしていたが、名塩に気が付いて振り返った。
「どうだ?」
「何も……妙な事を言うばかりで、会話になりません」
 刑事がそう言って隆子に視線を戻したが、問題の隆子はぶつぶつ何かを言いながらぼんやりと視線を彷徨わせていた。乱れた髪が頬に張り付き蒼白の容貌はまるで柳の下の幽霊であった。
「何を言っているんだ?息子のことか?」
「いえ、私たちは幸せになれない……というような言葉を繰り返しているんです」
 困惑しながら言った。
「私たちは幸せになれない?」
 名塩はそう言って隆子の顔を覗き込んだ。すると彷徨っていた瞳の視点が名塩と合った。
「男の子なんて生みたくなかった……だから不幸になったのよ。みんなそう……全員不幸になるのよ……」
「みんな?誰のことを言ってるんだ」
「みんなよ……あの時あそこにいたみんな……」
 そう言って隆子は低く笑い出した。
「あの時あそこにいた?」
「うわっ」
 急に背後から西脇の声がした為、名塩は驚いて振り返った。西脇の方はそんな名塩の方を見ずに難しい表情で立っていた。
「おいっ!西脇。先に一言くらいかけろ」
「あ、どうも済みません」
 そう言って西脇は頭をかきながら破顔した。
「たく……よう……。とにかく落ち着くまで病院に入れた方がいいな。君」
 呼ばれた刑事は身を正して「はい」と言うと、外に止まっている救急車の職員を呼びに行った。その間中隆子は低く笑うだけでうつろに壊れていた。
「警部……」
「見たところ全くもって普通の事件だ。いや、ただ異常性がないといいたいんだ。奴は絡んでいないようだ」
 名塩は西脇が付いてくるのが分かっているのか、二階へと足を運びながらそう言った。
「そうですか……」
「なんだ、残念そうに聞こえるぞ」
 やや振り返って立ち止まると名塩はそう言った。
「いえ、絡んでいないと言うのは間違いで、余計な邪魔が入ったために絡めなかったというのが本当の所のようです」
「言っている意味が良くわからんな」
「その事は後で話します。それより何がどうなっているのですか?」
 二階に着くと名塩は彰の部屋に入った。既にブルーのシートをかけられている方を指さし苦々しそうに言った。
「バットで殴られて頭蓋骨陥没。本人は死んだことに気付かないままあの世に行ったようだ」
 西脇は手袋をはめるとブルーシートの端を掴んで中を覗く為に身をかがめた。
「で、なんだかよく分からないのが父親だ。この状況から父親がそのバットで息子を殴って殺し、そこの窓から飛び降りたのか落ちたのかわからんが死んでいる」
「飛び降りたのですか?落ちたのですか?」
「ああ、ちょっと待てよ」
 名塩はそう言って窓に近づくと西脇を呼び寄せた。
「悪いが、ちょっとシートをあげてくれないか?」
 でかい声で下にいる鑑識にそういうと、二人の鑑識は、道路側から見えないようにそちらに立ち、互いに端を持って上からのぞけるようにシートを持ち上げた。
 重雄は仰向けになっていた。手足は左右に広げられ右片方だけスリッパをはいていた。そのポーズは彰とよく似ており、表情は目が見開かれ、やはり彰と同じように驚いているように見えた。返り血を浴びたためにシャツに付いた血が茶色に変色していた。
「もういいぞ」
 そういうと鑑識達はブルーのシートを元に戻すと、自分たちの仕事に戻った。
「自分で落ちたように見えませんね」
 西脇は言いながら窓の近くに落ちているスリッパに視線を落とした。
「背中から落ちているな……」
「ええ。母親に突き落とされたのでしょうか?それとも自分のしたことに動揺して後ろ向きに落ちたのでしょうか?」
「さあな……死因は解剖してからでないと分からないだろう。何があったのかという状況は母親が落ち着くまで無理だな」
 言いながら名塩は窓から離れ、彰にかぶせてあるシートをめくった。
「でな、こいつはどっちがやったと思う?」
 名塩は彰の首筋に残る青あざを指さした。
「最近の傷のようですね……」
「新旧合わせてこういう傷が、体中にあるそうだ」 
「虐待ですか……」
「たぶんな、ただ、どっちがやったかは分からない」
「これで……」
 窓際に近づき西脇は外からの風に当たった。名塩にはその姿がとても疲れているように見えた。
「なんだ?」 
「警部……これでふた家族が崩壊しました……」
「そうだな」
「微妙にバランスを取っていた家族が、バランスを崩して壊れていく……。そのバランスを崩すきっかけを作ったのはあの青年だと私は思います。ですが、きっかけを作ったのは確かにあの青年ですが、元々は各家族の中にあった歪みです。いずれ何かの形で噴出したでしょう。あの青年が出てこなくともです」
「奴の弁護でもしてるつもりか?」
「いえ……。自分でも何を口走っているのか分かりません……。今言ったことは忘れて下さい」
 西脇はそういうと、小さなため息をもらした。
「あのなー、何処の家族だって、誰だろうとみんな歪んでんだよ。鬱屈したもんを抱えてんだ。そんなもんいちいち気にしてたら生きてはいけないぜ。だから信じるしかないだろう。自分の中にある正しいと思うことをだ」
「私も……そう思います。ですが、どれが……何が正しいと思いますか?自分が信じていることが本当は間違っていたら……」
「お前が急にそんなことを言い出す理由は分からないけどな、間違っていると気付いたらそこで正せばいいんだよ。難しく考えるんじゃないぜ、答えはいつの間にか出ているもんなんだからな」
 さらっと名塩は言った。
「そうですね」
 西脇はやっと笑みを見せた。
「俺が一番気になっているのはきっかけなんだ……奴が出てくるきっかけとなったことは一体なんなんだ……。それが知りたい」
 そう言って名塩は天井を仰いだ。
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