Angel Sugar

「誘う―IZANAU―」 第5章

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 尚貴は気を取り直して、引き出しにしまって置いた裕喜のノートを取り出し読み始めた。
 しかし何処のページを読んでも、楽しそうに学園生活を送っている裕喜の様子しか描かれていない。尚貴はパラパラと何冊かのノートをめくっている内に、漫画ではなく日記のように字が並んでいた為に、ふとあるページに目が止まった。
 日付は裕喜が自殺をする一週間前である。

 僕の前に1人の男の人が見えるようになった。
 その人は、いつも優しく微笑んでいる。
 貴方は誰ですか?そう聞くと笑って答えた。
 君を助けたいんだ。
 助けたい?それはどういう事ですか?
 それは君が一番よく解っているはずだよ。
 そう言ってすうーっと消えてしまった。
 でも僕には確信がある。あの人は僕の力になってくれる人だと……。

「見える?すうーっと消えた?幻覚なのか」
 尚貴は更に読み続けた。そうするとまた、同じ様に字ばかりのページが見つかった。
 それは死の当日の日付である。

 その人の身長は僕より随分高く。
 陶器のように白い肌をしていて。
 肩より少し長い黒髪を時折右手でかき上げる。
 その指も細くて長い。
 光の加減だろうか?
 瞳は、漆黒のように見えたり薄いグレーにも見えたりする。
 服装は、いつも足元まである黒いコートを着ている。
 その下に何を着ているのか分からない。
 朝だろうが、昼だろうが、夜だろうが、
 気が付けば僕の視界のどこかに立っている。
 いつも守られていると感じる。
 きっと僕の望む世界に行く手伝いをしてくれるに違いない。
 その時は迫っている。

 尚貴は他に字ばかりのページを探したが、今読んだ所から先には何の記述も無かった。
「何なんだろうこれは……」
「何だ、戻っていたのか?」
 突然、田所に声を掛けられて、尚貴はビクッと体を震わせ、椅子からずり落ちそうになる。
「おっ、おやじさん!びっくりしたーっ」
 田所の顔を認め、尚貴は安堵した。
「なんちゅう顔をしとるんじゃ。わしの方が驚いたよ。ん、そのノートは?」
 尚貴は田所に見せて良いものか考えた。
「これは……」
 その時、電話が鳴り響いた。尚貴はここぞとばかりその電話をとった。
「はい。こちら南交番……」
「やあ」
 その声は例の男の声だった。尚貴は田所に、録音と逆探知の手配をしてくれるように、手で合図する。すると田所は分かったように無言で録音と逆探知のセットをした。
「また、誰か亡くなったのですか?」
 尚貴は準備が終わるのを見届けてから、問いかけた。
「いや、今日は君の声が聞きたいと思ってかけたんだ」
 低いよく通る声。
「知りたいのですが、貴方は自殺志願者の手伝いをしているのですか?」
「手伝い?」
 笑い。
「何か、可笑しいことを聞きましたか?」
 尚貴は少しムッとしたが、冷静に心を保つように努めた。
「手伝いか……君にそんな風に思われているのか。心外だな」
 心外だと言っているが、声は穏やかだ。
「正義だよ。私の望むことは、君が望む正義だ」
「たとえ自殺志願者が、手伝ってくれと言ってもそれは正義ではなくて、自殺幇助と言う罪になるんですよ。ご存じですか?」
 笑い。
「真面目に聞いて下さい」
 尚貴は声が腹立ちで、大きくなるのを押さえて言った。
「知っているはずだよ。私を呼ぶ人間は助からない運命の持ち主だと」
 急に真剣な声。
「話は変わりますが、体育館で自殺した少年とは話しをしましたか?」
「嗚呼、したよ」
 興味なさそうに答える。
「自殺を先ず止めるように説得しましたか?」
「どうしてそんな事を聞くんだい?そういう事は無駄だと言っているだろう」
 あきれたような口調。
「だか……」
 電話を切られそうな気配がしたので、尚貴は必死に会話を続けようとした。
「貴方がもし今度そういう人に出会ったら、自殺してしまう前にこちらに電話を下さい。貴方が出来ないと言うなら私が説得します。いいですか自殺してしまう前に必ず連絡を下さい。これは約束です」
 大笑い。
「分かったよ。無駄だと思うが君に連絡しよう」
 笑いながら、言う。
 尚貴は、たとえ相手が笑っていても、とりあえず連絡をくれるという約束を取り付けたのでホッと胸を撫で下ろす。
「尚貴……」
 その声は、先程笑いながら話していた声とは全く異なり、尚貴の背筋をゾクリとさせる響きを持っていた。
「な、なんでしょうか」
 尚貴の声はどうしてか、かすれた。
「逢いたい」
「なっ?」
 尚貴はその一言で息が止まるかと思った。
「息を潜めて、ずっと君が呼んでくれるのを待ち続けた。でも、もう待ちくたびれたよ」
「どっ……どうして私を知っているんです?どこかでお会いしたことがありましたか?」
 尚貴はかろうじてそう言った。
「尚貴の息を感じて……尚貴に触れる。ああ……その日を待ちこがれる。この思いは今の君には解らないだろう。だがいずれ解る。私が君を他の誰よりも愛しいと思っているか……」
 その声は、まるで恋人に話しかけるように甘く切なく響く。
 だが尚貴はその言葉を聞き、例える事が出来ない何かに、躯を拘束された様な錯覚を覚えた。
「貴方……名前は?」
 こめかみがジンジンするのを押さえながら聞く。
「ないよ」
 電話向こうの青年は、素っ気なくそういうと電話を切った。
 尚貴は受話器を置くと、ドッと汗が出てくるのが自分でも分かった。すると折り返し、電話会社から電話が入る。
「逆探知するには少し時間が足りなかったかもしれないな。じゃが地域の特定くらい出来たはずだ」
 田所は、そう言いながら受話器を取った。
「妙なんです」
 電話会社の第一声がその言葉だ。
「え?」
 田所はそんな答えが返ってくると思わなかったため奇妙な声を返す。
「それが……回線は繋がっている様なんですが……もちろんメーターのカウントもしています。それなのに、何処からかけてきているのか皆目分からないんです」
 その口調は、かなり慌てていた。
「どういう事なんですか?」
 田所の様子が変なので、尚貴はイヤな予感がした。
「こちらも何と返答して良いのか……まことに申し訳ないのですが……」
 田所は、電話の向こうの担当者の声で、相手がひどく困惑しているのが想像できたが、理由はどうあれ駄目だったのだろう。
「分かりました。原因を調べて、今後は必ず逆探知出来る様にして下さい」
 担当者にこれ以上聞いてもどうしようもない事が分かると、田所は意外にあっさりと引き下がり、電話を切った。向こうも分からないことを何度も聞いて言い合いになり、揉めたくなかったのである。要するに田所は事なかれ主義なのだ。
 尚貴は逆探知の事が気になって思わず立ち上がっていた。
「どうでした?」
「だめだったそうだ」
「そうですか……」
 尚貴は疲れたような声で言い、椅子に座り込む。
「尚貴」
 田所はそんな尚貴の方をじっと見つめて言った。
「はい?」
「昔……その……男と付き合っていた事があるのか?」
 田所はヘッドホンで二人の会話を聞いていたのだ。
「へっ、変な事言うのはやめて下さいよ。男と付き合った事なんてあるわけないじゃないですか!」
 尚貴は顔を真っ赤にして田所に叫ぶように否定した。確かにあの電話の会話を聞けば、誰でもそんな風に疑うに違いない。
「そりゃ確かに恋人はいませんけど、だからといって男と付き合うなんてしたことありませんよ」
「冗談だよ。真に受けるんじゃない」
 そう言って笑う田所の声は、空虚にうわずっている。
 疑われている……尚貴はそう感じたが、ムキになって否定するとよけい誤解させる恐れがあるので、反論する気になれなかった。
「じゃ、この事を警部に報告します」
する。その後ろから田所の視線がちくちくと感じられて、尚貴は苦笑するしかなかった。
 コールが2度鳴った所で電話は繋がった。
「もしもし」
「鳥島か?」
 名塩はそう大声で言った様だが、工事現場にいる様な音がその声に混じって聞こえていたので、尚貴にはよく聞き取れない。
「警部!よく聞こえないんですが」
 尚貴は声を張り上げて言った。
「う……こっちはよく聞こえている。でかい声を出すな。ところで今、交番にいるのか?」
 名塩は、先程の場所から移動したのか、バックの音は遠くに聞こえている。
「すみません。今、交番にいます。何か?」
「今晩、こっちの所轄に……そうだな10時頃来てくれるか?話がある」
「はい。大丈夫だと思います。それで警部、あの……自分も話があるんですが」
 と、尚貴は言ったが、電話向こうの名塩は誰かと話をしているのか、暫く返事が途切れる。その声は「鑑識はまだか」とか「どうして現場の保存がこんなに悪いのか」と言った声が、途切れ途切れ尚貴には聞こえた。
(今警部は、何かの事件の現場にいるんだ)
 そう思い、名塩から何か言って来るまで黙っていた。
「なんだ。何か言ったか?」
「はい。例の男から電話がかかってきまして、録音は出来ましたが、逆探知は失敗しました」
「なにっ!そうか分かった。今晩聞かせてくれ」
 尚貴は、名塩がそれで電話を切るかと思われたが、最後に一言こう言った。
「自殺したよ。大綱ビルの社長がな……」
 そういうと名塩は電話を切った。
 自殺?あの少女の父親が?尚貴は、既に切れた電話を暫く受話器に戻す事を忘れて呆然とその場に立ちすくんだ。
 何かが俺の周りで起こり始めている。それは、まだ始まったばかりでしかないという嫌な予感がする。この胸騒ぎはその為なんだろうか?
 尚貴はその予感が現実にならないように祈りながら、受話器を置いた。



 電話会社の男は、汗を拭きながら先ほどの逆探知の失敗を考えていた。トレーサーの機械は正常に動いているにも関わらず、その結果が信じられないものだったので、田所に本当のことを言えなかったのだ。
(き……機械の調子がおかしいんだ。きっと、どこか回線がいかれちまっているんだ)
 担当者は、額の汗を拭きながら何度もそう呟いた。
(どう考えたって変だ。発信者と受信者の電話番号が同じだなんて、絶対起こりえないことなんだからな。それがもし……もし事実だとしても、そんな事を言える訳がない)
 担当者は、なにがしの責任問題になったらどうしようかとそればかり考えていた。



 大東新聞社は全国でかなりの部数を発行していた。本社は東京の神田にあり、大東グループのビル内にある。そのビルは三十階建てになっており、側面が全てガラス張りであるため、この辺りでは”ガラスの塔”と呼ばれていた。新聞社のフロアーは十五階から上で、その下の階は大東グループの雑誌関係会社がそれぞれ入っている。
 その報道部に所属する伶香は、その新聞社から発行している週刊大東という雑誌から依頼されていた原稿をやっと完成させた。
「良かった。締め切り前に出来たじゃない」
 伶香は、出来上がったばかりの原稿を、パソコンから大東新聞社専用のネットで週刊大東の担当者宛に送ると、椅子に座ったまま大きく伸びをする。次に愛用の煙草を取り出すと、一本口にくわえ火を付けた。この新聞社のビル内は、大抵のフロアーは禁煙で、その為喫煙コーナーがそれぞれ設けられており、そこ以外で煙草を吸うことは許されなかったが、しかしそれは吸わない人間がいる部署で、この報道部のフロアーは全員が喫煙者であった為、フロアー全体が喫煙コーナー化していた。
「伶香さん。御機嫌ですね。そう言えばここずっと取材から戻っては、パソコンに向かってパチパチやってましたよね。それが出来て御機嫌なんですか?」
 そう声をかけたのは、報道部に入って二年目になる鶴見康司である。 
「つるちゃんにも分かる?そうなの、久しぶりに燃えちゃったわ」
 つるちゃんとは鶴見の愛称であった。
「原稿相手じゃなくて、男相手に燃えて欲しいですね」
 といって鶴見は笑う。
「セクハラで訴えられたいの?」
 トンと、灰皿に灰を落としながら伶香は言った。
「やだなぁ冗談ですよ。真剣、何の原稿ですか?」
「例のほら、いじめで自殺した田中裕喜君のレポートよ」
 そう言った伶香の目は少し翳りを帯びたように鶴見には見えた。
「でもこの間、そのレポートの件で週刊大東の編集長と揉めたんじゃなかったですか?」
 鶴見が心配そうに言うと、伶香はにっこり笑う。もう先程見せた翳りなど表情の何処にもみあたらない。
「揉めた理由が、ほら例の血文字の中に政治家の息子がいたじゃない。その政治家の小川をレポートの中で、こき下ろしちゃって問題になったわけ。でも昨日うちの南さんが、小川の汚職をスクープして、今度は反対にイケイケ状態なのよ」
「全く、げんきんだな」
「そう、げんきんなの」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「それにしても、タイミング良く汚職が発覚したもんですね」
「南さんに聞いたんだけど、三日前、報道部に元文部大臣の小川真二郎が汚職をしているって電話があったんですって。それで最初は南さんも、からかいの電話だと思っていい加減に相づちを打っていたそうなんだけど、妙に説得力があって具体的だったそうなの。それで小川真二郎を張り込んでいたら、鯨が釣れたってことらしいわ」
「ニュースソースは電話ラッキーですか」
「そうよ。でも残念だわ。私がその電話取りたかった」
 伶香の声は本当に残念そうだ。
「小川真二郎といえばクリーンが売り物で、金とは無縁のイメージがあって、ノーマークでしたからね。確か元教師で三十歳の時、今はもう亡くなった元総理の立川大三郎の秘書になり、四十歳で立川の後押しで政治家になった」
 鶴見はまずそう言って、息継ぎをすると言葉を続けた。
「そして、五十三歳の若さで文部大臣になり、斬新な教育改革を断行。”子供が未来を背負う”がスローガン。正々堂々と何事にも誠実に取り組む。これが小川の事務所から出しているパンフレットの内容。どうです。素晴らしいでしょう」
「嘘臭いわ」
 と、伶香。
「嘘なんですよ」
 と、鶴見は笑った。
「政治家で腹黒くない人間なんていないわ。ただ私は、小川がどんなスローガンを掲げようが、どんな改革をしようがあんまり関心ないのよ。でもね。自分の子供の教育も、まともに出来ない人間が、文部大臣だった事に腹が立つの。以前、テレビのインタビューで小川が何て言ったか知ってる?子供の教育は家庭から始まるとか、親子の愛情が希薄になってきたとか、子供の行動を把握するのが親の務めとか、もうーっ、ごちゃごちゃと自分が出来もしないことを言うわけ。よくまああんなに、片腹痛いこと並べられるもんよ。まともに聞くのもばかばかしい事だったわ!そういう自分の息子は、何だっていうのかしら、息子がどんないじめを、同級生にして自殺に追いやったのか、あんたは把握してたのか?……って、言いたいわよ!」
 伶香はすっかり興奮して、煙草の灰が落ちそうになっている事に気付かない。そんな伶香の手の下に鶴見は手元の灰皿を引き寄せ、煙草を持っている下にそっと置いた。
「いじめ問題は、一方ならぬ関心を持っているんですね。そう言えば、大抵の大東扱いのいじめ問題の特集には一筆書いてますね」
 鶴見は感心して伶香に言った。
「関心……か。そうね、私、一生をかけてこの問題に取り組んでいきたいと思っているの」
 そう言った伶香の目は、何処か遠くを見つめている。
「いじめって、最初はどうすれば無くなるのか、そればっかり考えていたわ。でも何年かその件に携わってきて分かったの。いじめは無くならないって。いじめられている子達が強くなるか、ずるくならなきゃ逃げられないって。でもね、いじめられる子って皆傷つきやすくて、正直でいい子達なの。よく何にも解ってない大人が、平然といじめられる子にも原因がある。なんて、ふざけた言葉をもっともらしく言う偽善者がいるけど、いじめられたことのない人間だから簡単に言うのよ。そういう言葉が、どれ程彼らを傷つけているのか解らないのかしら?その上、何故、両親に相談しないのか?なんて言うのよ。両親に言えないのは、両親だからこそ言えないのよ。1人で傷ついて、1人で悩んで、最悪の場合、孤独な死を選ぶ。私はそういう彼らのことを思うとたまらなく辛くなるの。だからこそ避けずに、この問題に取り組んでいきたいの。私の書くレポートや本を読んで、少しでも強く、誰かの手を借りようとする勇気を持てるように、1人じゃないって思えるように、微力ながら力になってあげたいのよ」
 伶香は言い終わると、ふっ……と笑った。声を荒げるわけでなく、淡々と胸の中に秘めた誓いを聞かされた鶴見は、以前、伶香の弟がいじめを苦にして自殺した話を聞いた事を思い出した。
「ごめん。なんだかくだらない話、しちゃった」
「全然、そんな事ないですよ。俺なんかこう……断固として心に持ってる事、何にもないですから羨ましいです」
 鶴見は真剣な顔をして伶香に言った。何より、鶴見はこの二歳上の伶香の事を大切に思っていたからである。
 人から気が強そうに見られがちだが、実際は誰よりも脆くて、心根が優しいことを鶴見は知っている。
「つるちゃん位ね、そんな風に言ってくれるの……」
 伶香がそう言って、もう一本煙草に火を付けようとした時、週刊大東の担当者から電話が入った。
「あっ、鳴海さん。届きました?」
「ええ。今、目を通し終わった所です。伶香さんらしい、なかなか鋭いレポートになりましたねぇ」
「私らしいって、良い意味かしら?」
「もちろん。これ、八日発売の分に載せますよ」
「えっ、間に合うの?」
 伶香は、今日は十月三十日なのを卓上のカレンダーで思わず確認した。
「相模健二さんの小説の原稿が今晩の七時、届くことになっているんです。人気作家なので落とせなくて……それで輪転機止めてるんですよ。ですからそれまでに伶香さんのレポートの校正をして、一緒に印刷かけます」
「急ぐのはいいけど、気を付けてね。本名とかいつものように仮名にしてよ」
「分かってますよ」
 当然だというように鳴海は言った。
「再来週の発売でも構わないわよ。予定ではそうだったし……」
「敵は弱っているうちに撃てってね。じゃ、そういう事で」
 鳴海はそう言って、電話を切った。
「鳴海さんですか?」
 鶴見が言う。
「ええ。また、妙なことわざを使ってたわ。敵は弱っているうちに撃てって」
 伶香はそう言って笑った。
「あの人も好きですね。ことわざをアレンジするの……さしずめ鉄は熱いうちに打てってとこですか」
 しかし、鳴海のことわざのアレンジは、時に何を元にしているのか全く分からないようなものもある。
「そうだ、つるちゃん。貴方、警察関係明るかったわよね」
 伶香は、鶴見に振り返って言った。
「いえ、俺は明るくないんですけど、同期の小暮って奴が警視庁の記者クラブに、常時詰めていて、そいつが警察関係者何人かと仲良かったはずですけど……何か知りたいことがあるんですか?あるんだったら小暮に聞いて貰いますけど……」
「あのね、別に大したことじゃないんだけど、東警察署所轄管轄、南交番に若いお巡りがいるの。確か、鳥島って言ったと思うわ。自殺した少年の第一発見者という事は、東警察署の刑事にしつこく聞いて聞き出したんだけど、会いに行っても、いつも巡回中でいないのよ。どんな男か、出来れば経歴と写真なんかも欲しいんだけど……」
 伶香は尚貴に、既に会っていることに気付いていなかったのだ。
「若いって言う位だから巡査だと思うし、たぶんすぐに調べる事が出来るはずですよ。でも伶香さん、会いたいんなら電話でアポ取ればいいんじゃないですか?」
「だめだめ。警察官や刑事はアポなんて取っても、時間通りに行けば必ず、都合良く突然用事が出来て会えやしないんだから……」
「うん。それもそうですね。いいですよ。今から小暮に連絡取ってみます」
 そう言って鶴見は自分の席に戻った。
 報道部のフロアーはぼちぼち記者達が戻ってきており、にわかに騒がしくなってきた。それを避ける為に、伶香は報道部のすぐ隣に設置されている休憩室に足を運ぶ。
 幸い、休憩室には誰もいなかった。
 天井まである窓無しのパーテーションの向こうから、やや話し声が聞こえるが、気にするほどでもなく、伶香はこの約二十畳位の部屋を独り占め出来た。
 この休憩室は、ピンクの机が十個ほど並び、一つの机に六つの椅子が配置されている。更にこの部屋の壁紙は淡いピンク色であった。精神色彩学から、ピンク色は人の心を穏やかにさせる働きがあるという事で、そのような配色になったらしい。しかし報道部の人間には評判は悪く、来年早々壁紙と机、椅子等取り替えられることになった。今度はブルーで統一させるらしい。
 伶香もそれに賛成だ。
 ピンク色は妙にソワソワさせる。これといった理由はないが落ち着かないのだ。一つ考えられるのは、母親が、男の子のような服を好んで着ていた伶香によくピンクのドレスを買ってきては伶香に無理矢理着せたのだった。母親はよく似合うと、1人悦に入っていたが、伶香はその時感じた違和感が今でも心のどこかに残っていた。たぶんその所為だろう。男性連中に関しては、ピンク色は女の子のイメージがあって、違和感を感じるのだ。
 伶香はそんな事を考えながら、端に設置されている自販機でコーヒーを買うと、窓側に座った。ここはビルの二十階で、足下から天井まである窓から見える景色の眺望は、なかなか良かった。
 既に日没した中でありながらビルの群はまだ眠ることなく、何万と有る窓から発せられる光の全てが、働く人々の営みを示す。その頭上高く、ビルの警告灯が、闇の中で休むことなく規則的に赤い光を浮かべていた。
 伶香はその赤い光を眺めながら、心が過去へ旅していることに気付かなかった。それはごく自然に訪れたから。
(お姉ちゃん。ちょっといい?)
 過去からの呼び声が聞こえる。
(お姉ちゃん。ちょっといい?)
 あの時、どうして振り向いて話を聞いてやらなかったのだろう。
(お姉……)
「もう8年になるんだ……」
 ボソリと、伶香はそう言って一口コーヒーを飲んだ。
 8年前のこの時期、伶香は受験勉強の追い込みで、毎日3時間の睡眠しか取らずに、猛勉強をしていた。1年浪人し、東大を目差していたのである。ただでさえ社会は、未だ男尊女卑で、余程努力しなければ同等には扱われない。希望の職種も選べない。それなのに妙な事に学歴が高ければ、女であっても扱いは雲泥の差である。だからこそ伶香は、どうしても東大に入りたかった。
 伶香は女だという事で損をしたくなかった。女で在る事を誇りに思う事はあっても、男に生まれたいと思った事はない。しかし、スポーツが出来る訳でなし、芸術方面に長けている訳でもない。人に迎合するのはまっぴらで世渡り上手でも無し。
 ともかく人に誇れる才能が何もないくせに負けず嫌いの伶香が、社会にアピールする為には、学歴で身を守るしか無かったのである。学歴社会を肯定するつもりはないが、そういう方法しか選べない事だってあるだろう。
 しかし、伶香はそう自分で思いこむ事によって、結局は自分も学歴社会を容認しているのではないか?というような思いを悶々と抱えながら、受験勉強をしていた。
 その日は底冷えする日だった。外は既に朝を告げる小鳥達が、自由気ままに、さえずり始めていた。昨夜から、たった1問の問題に頭を抱え込んでいたので、伶香にとっては、その声すら苛々の対象であった。その1問が解けない事で全てが終わりの様な、そんな焦燥感に駆られていたのである。
 胃がきりきりと音が聞こえてきそうな程、痛んでいた。眠気覚ましのコーヒーやドリンク剤も耐性が出来たのか、殆どその効力を発揮しない。
 音を上げたくは無かったが、ピーンと張りつめた何かが、今にも切れてしまいそうだった。
 そう、伶香にとって、その日は精神的にも体力的にも限界であった。
 そんな伶香に声をかける者がいた。
「お姉ちゃん。ちょっといい?」
 伶香は声で、それが三つ下の弟の幸也だと気付いた。
「こんなに朝早く、なに?今じゃなきゃ駄目なこと?」
 振り向く事もせず返答した伶香の声は、とても冷たかったに違いない。
「ごめん。いいんだ。勉強がんばってね」
 そう幸也は言うと、音もたてずに伶香の部屋の戸を閉めた。
 その日の夕方、幸也は睡眠薬を多量に服用し、ベッドの上で冷たくなっているのが見つかった。
 遺書には、こう書かれていた。

 お父さん、お母さん、お姉ちゃん。ごめんなさい。
 黙っていたけど、学校にもう行くこと出来ません。
 いじめられていました。
 相談したかったけど、言えませんでした。
 ごめんね、もっと強くならなくちゃってがんばろうとしたけど、
 もう無理です。弱い僕でごめんなさい。
 最近ずっと、思い出すんだ。
 二年前家族で北海道に行った時のこと。楽しかった。
 この世に僕らだけがいれば良かったのに。
 そしたら毎日楽しい生活できたのに、
 あのまま時間が止まってくれてたら良かった。
 僕死にます。でも悲しまないでね。生きてる方が悲しかったから。
 お父さんお母さん今まで育ててくれてありがとう。
 お姉ちゃん。受験がんばってね。
 みんなみんな、ずっと幸せに暮らして下さい。


 幸也

 遺書は、所どころ滲んで、幸也が泣きながら書いたことが分かる。
 あの時、振り返っていたら、幸也はどんな顔をしていたのだろう。それを確かめる術はもう無かった。
 死の原因になった睡眠薬は、病院に行って不眠を訴え、少しずつ貰った物をその日の為に、ためていたことが警察の調べで分かった。
 両親も気付かなかった。何より共働きであったので、2人とも帰宅は夜遅く、子供の心の変化に気付かなかったのである。その上、姉は受験で殆ど部屋にこもって出てこない。幸也はさぞかし孤独だったろう。結果、一人で苦しんで死んでいった。
 伶香は自分の愚鈍さを呪った。共働きの両親の代わりに、幸也が小さい頃から親代わりになって色んな事を相談にのってきたから。確かにここ2年、自分の事で手一杯で、話もろくに出来なかった。しかし自殺するほど思い詰めていた幸也の事に気付かなかったという事が、当時、伶香に衝撃を与えた。

 一番肝心な時に、幸也を突き放したのだ。
 もしも自分があの時、話を聞いてやっていたら、自殺することは無かっただろう。

 後悔と罪悪感。無力さが、ないまぜになって伶香を捉え、放さない。もちろん勉強など手につくはずが無かった。
 慌ただしく通夜と葬式が行われたが、両親が放心状態で母親に至っては悲しみのあまり倒れた。伶香はその2人の代わりに、泣く暇もないほど忙しく種々の準備に追われたことを覚えている。
 葬式の日、幸也の学校に生徒達が焼香に現れたが、その中に幸也をいじめた奴らがいると思うと、そいつらの首根っこを捕まえて、幸也の棺の前で土下座させてやりたい、私が幸也に代わって罵倒し、殴りつけてやりたいという思いに強烈に駆られた。
 だが、葬式の儀式も延滞無く終わり、伶香は煮えたぎる怒りをぶつける相手も探せず、火葬場へと向かった。幸也は誰にいじめられていたかを、何処にも残さなかったのである。
 そして棺が炉に入れられるのを見た瞬間、初めて涙が零れた。
 零れたというより号泣に近かった。
 それから一段落付き、受験の日が迫った。伶香は、さんざんな結果になるのは分かっていたが、とりあえず受けるだけは受けた。しかし奇跡が起こったのか、見事に東大に合格したのだ。伶香はきっと幸也が幸運を運んでくれたのだろうと、信じて疑わなかった。
 誰よりも応援してくれていたのは幸也だったから。
 それ以後、伶香は母が癌で亡くなった時も、父親がつい最近事故で亡くなった時も悲しかったが、涙は出なかった。
 幸也が薄紫の煙になったのを見たあの日、伶香の水瓶は涸れてしまったのである。
「伶香さん。小暮からファックス届きましたよ」
 伶香は急に現実に引き戻されて、すぐにその声が鶴見の声だと気付かなかった。時間を確認すると、休憩室に入ってまだ三十分しか経っていない事が分かった。
「えっ、あ……ありがとう。随分早く分かったのね」
「小暮がすぐ捕まったのと、あいつがその時、話していた警視庁の人が、東署の所長と同期ですぐ聞いてくれたみたいです。それと依頼人は美人だと付け加えましたから、張り切ったんですよ。いつもなら頼みごと自体、忘れるような奴ですから」
 そう言って、鶴見はファックスを差し出した。
 それを受け取った伶香は、暫く声が出なかった。
「この人……」
 ついこの間、写真のフィルムを感光させ、台無しにした警官であることを伶香は思い出したからだ。
「知ってる人ですか?」
「この人、以前に会った事があるの。その上、私に借りがある人よ」
 と、言って伶香は、意味ありげな笑みを漏らす。
 だが伶香が妙な笑い方をしたので、鶴見は何となく不愉快になった。
(昔付き合ってたとか……)
「つるちゃん、じゃこれ貰って行くわ。私これから取材で、出るから、お礼は今度一杯おごるわね」
 そう言って伶香は席を立った。
 その後ろ姿を見送ると、鶴見はため息をつき、いつ自分の気持ちに気付いてくれるだろうと考えながら、伶香が眺めていた景色を見た。
 立ち並ぶビルはいつの間にか光のイルミネーションを作りだしている。
 だが月も星も見えない真っ黒な空から、低く垂れ込めた雲が地上の光を受けて、灰色と白のコントラストを浮き上がらせていた。その雲の裂け目から地上に向け、冷たい空気を吐き出している。
 鶴見は、マーブル状の雲の隙間から悪意を持つ得体の知れないものが、上空から覗いているような気配を感じて、ブルッと体を震わせた。
「今晩、降るな……」
 鶴見はそう言って、伶香が放置していったコーヒー缶を取り、ゴミ箱に捨てると、仕事に戻ることにした。
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