Angel Sugar

「黄昏感懐」 第9章

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「宇都木さん……俺……待ちますから……」
 鳴瀬はそう言って、ようやく作ったような笑みを宇都木に向けた。そんな鳴瀬に宇都木はチラリと視線を移す。
「……」 
「……ほら今はまだそんな気にならなくても……これから先分からないですよね。いつか俺のこと好きになってくれたら……」
 その鳴瀬の言葉が誰かを思いだした。
 自分と同じだ……
 私も最初そう思っていた。
 いつか……
 いつかで構わない……
 あの人が自分を見てくれる日が来るならそれでいい……
 そんなものは来なかった。
 それでも私は……これから先も……
 あの人を自分の中から追い出せないだろう。
 なのに……
 私は一体何をしている……
「済みません……ごめんなさい……」
 宇都木は膝を抱えた腕に顔を埋めてそう言った。
「宇都木さん……」
 そう言って鳴瀬が延ばしてきた手を宇都木は払った。
「私は……私の気持ちは……変わらない。それが分かっていて……貴方にまでこんな想いをさせることなど出来ない。私が悪かったんです。このことは忘れてください……」
 身体だけは満たされる……
 だけど……
 心は益々乾いていく……
 それを知っているだけに、辛い……
 同じ所に引き込んではならない。宇都木はそう強く思った。
「それでもいいっ!俺がそう言ってるんです!」
 鳴瀬は叫ぶようにそう言って、こちらを無理矢理引き寄せた。
「貴方はその現実を知らないからっ……ん……」
 いきなり口元を掬われ、鳴瀬によってベットに倒された。こちらの言葉のみを飲み込むようなキスは苦く、そして苦しかった。
「……愛してる……愛してるんです……」
 何度もそう鳴瀬は言い、こちらを抱きしめたまま頬を擦り寄せてきた。
 宇都木はただ目を閉じ、そして言った。
「帰って下さい……」
 後悔しても遅い現実は自分だけが知っているのだ。
 引き返せるうちに……
 断ち切ってあげた方が鳴瀬の為だ。
「宇都木さん……」
 身体を起こした鳴瀬がこちらを見下ろしているのが気配で分かった。
「お願いですから……」
「……俺……諦めませんから……。宇都木さんだって……何時か分かる……俺がどれだけ貴方を愛しているか……。俺は絶対諦めない」
 鳴瀬は言い終えると、宇都木から離れ、暫くするとマンションの玄関の開閉する音が遠くから聞こえた。だが、宇都木は暫く目を開けることが出来なかった。

 翌日宇都木は東の屋敷に向かい、真下を訪ねた。その真下は相変わらず忙しそうにあちこちの書類を引っ張り出し、部屋の中をうろうろとしていた。
「ああ、宇都木……悪いが例の件だが……」
「あの……真下さん。お話が……」
「なんだ?どうした?」
 真下は立ち止まり、怪訝な顔でそう言った。
「……私を……辞めさせて欲しいんです……」
 小さくそう言って宇都木は視線を落とした。
「辞める?どうして?」
「……色々……ご迷惑を……」
 まともに真下の顔が見られずに、宇都木はやはり視線を落としたままそう言った。
「まて、まあ座って。まず話しをしよう……」
 真下は前髪を掻き上げ、眼鏡をかけ直し、宇都木にソファーに座るよう促した。そうして宇都木が座るのを見届けた後、真下は内線でコーヒーを二つ頼んだ。
「……で、なんだいきなり……」
 苦笑しながら真下は言った。
「……ただ……辞めたいんです……」
 何もかも投げ出したいのだ。
 今いるこの場所から逃げ出してしまいたかった。たった一つしかない自分の居場所であったが、それすら今は宇都木にとってもう苦痛でしかなかったのだ。
 今までは踏ん張れた。
 だが踏ん張る理由が無くなった。
 だからもう……
 全てがどうでもよくなったのだ。こんな状態で仕事など出来ないだろう。そう思った宇都木は散々迷い、辞めることを選んだ。
 暫く沈黙していると、先程真下が頼んだコーヒーがお手伝いの女性によって運ばれてきた。
「一服するか……最近雑多なことが多いだろう……もう目が回りそうだ……」
 真下は胸ポケットからシガレットケースを取りだし、マルボロを一本口にくわえると、ライターで火をつけた。
「……真下さんには本当にお世話になりましたのに……こんな形で申し上げるのは本当に心苦しいのですが……」
 宇都木が言うと、真下はふう~と煙を吐いた。
「……来月、如月邦彦を日本に呼び戻すことになった。今度新しくプロジェクトを組む仕事の関係でな……」
 その言葉で宇都木の顔が上がった。
「東様は確かに身内を保護する意識は強いが……仕事の話しは別だ。どう候補を上げても、適任は邦彦だろうとおっしゃってな……それでだ、色々余計な問題が出てきた。ほら、あの男には好きな男がいるんだろう?そっちにちょっかいをまた出すような気を起こされるのも困る。で、邦彦も忙しいだろうから、補佐する人間を一人つけようということになってな。今適任を探している。もっとも、馬鹿な事をしないように見張って貰うのも条件に入って居るんだがな……どう思う?宇都木……」
 煙草の灰をトンと灰皿に落とし真下は言った。
「……それは……どういう……」
 真下が何をこちらに求めているのか分からないのだ。
「なんだ……私にさせてくださいと、お前が言うんじゃないかと思ったんだが……。そんな気はもう無いのか?折角、色々お膳立てしてやったのに……」
 クスクスと笑って真下は言った。
「真下さん……」
「仕事の出来る男にはそれを的確にサポートできる男が必要だ。だからお前に頼みたいと言ってるんだ。お前はちょこちょことアメリカに行くたびにあの男を補佐してきただろう。知っていたよ……。だったら慣れているお前がやるのが一番だろう。違うか?」
 じっとこちらを見た真下は冗談を言っているようには見えなかった。ということは本気で宇都木を如月の補佐につける気でいるのだ。
 どうする?
 どうしたらいい?
 あの人が嫌だと言ったら……
 いや…… 
 多分そう言う筈だ……
 いくら私がその役を引き受けたいと言っても……
 あの人はそれを快諾などする筈などない……。
 そう考えると宇都木の視線はまた知らずに下がった。
「なんだ、あの男と関わるのはもう嫌か?それなら仕方ないが……。あ、そうそう、邦彦の方にはお前が良いというなら構わないと了解を貰っているが?」
 ニヤと笑って真下が言った。
「えっ……あの……」
 顔をもう一度上げると真下はにこやかな表情をしていた。
「……今朝早くこちらにも挨拶に来ていたよ。その時に話した。なんだか吹っ切れた感じがしたな……。少しは自分の気持ちに整理がついたんだろう。ああいう男は仕事が益々出来るようになる。良いことだよ……」
 クスクスとまた真下は笑った。
「……私は……」
 身体の関係が無くなっても……
 向こうに恋愛感情が無くても……
 ただの仕事上の付き合いだとしても……
 何かで必要とされるなら、それで良い……
 いや……
 ただそれだけで嬉しい……
「なんだ?」
「引き受けさせていただけませんか?私で……私で良ければ……」
 そう宇都木が言うと真下は頷いた。
「じゃあ早速だが……彼の住まいをとりあえず探してやってくれ。あっちと連絡をとってな。彼と君の辞令が正式に出るのは来月だが、それまでにして貰わないことが山ほどある。要するに……そういう煩わしいことを邦彦に一切させずに仕事に専念して貰うように、君がそれを仕切るんだ。いいね」
 宇都木は何度も頷いた。
 胸がわくわくし、酷く興奮しているのが分かる。それを真下に悟られないようにと平静を装っているのだが、表情は一気に明るくなったのが宇都木には分かった。
 嬉しい……
 嬉しすぎる……
 ずっと一緒に居られるのだ。
 側に居ることが出来る。
 その理由が出来たのだ。
「……で、宇都木。まだ辞めたいか?」
「いいえ……。本当に……ありがとうございます……」
 如月の側に自分の居場所が出来ることが宇都木には何よりも嬉しかった。例え仕事だけの関係でしかなくても、それでも良いのだ。
 それ以上は望まない……
 充分だ……
 宇都木は心の底からそう思った。
「……だが……お前が辛いかもしれないぞ……」
 何もかも知って、真下がそう言ったのが宇都木には分かった。
「……辛くなどありません。私は……本当に真下さんに感謝しています。本当に……ありがとうござ……」
 そこまで言って宇都木は不覚にも涙が落ちた。それは冷めたコーヒーに落ち、小さな波紋となった。
「だが私は不満なんだな……」
「……」
「有能な秘書に抜けられて、実は不機嫌なんだ……」
 笑みを浮かべた真下の表情にこれっぽっちも不機嫌さは無かった。
 辛いだろうが、お前がそれで幸せなら良いだろう……
 そんな笑みであった。
 その後、宇都木は真下から色々指示をされ、大量の書類を預かると自分のマンションに夕方帰宅した。
「……ふう……」
 ネクタイを解き、胸に抱えるようにして持ち帰った書類の入った鞄をキッチンテーブルに置いた。
 ここしばらくずっと憂鬱であった表情の自分が嘘のように笑顔になっている。
 意外に単純なのだ……
 あれ程何もかも捨ててしまいたいと自暴自棄になっていたのに……
 今は……
 これからのことが楽しみで仕方ない……
 書類の入った鞄をそっと撫で、宇都木は口元に笑みを浮かべた。
 如月と同じ職場で働くのだ……
 サラリーマンとして働くのは初めての経験であったが、誰かのフォローをすることは今までもしてきた事だ。それも如月のフォローは随分してきた。今までと同じ仕事を、如月の側で、如月の為だけにすると思えば良いのだ。
 嬉しい……
 本当に嬉しい……
 そんなことで宇都木が胸を一杯にしていると電話が鳴った。
「もしもし……あ、はい……。もう着かれたのですか?」
「まだ空港だ。真下さんからメールを貰ったから……。……本当に良いのか?嫌じゃないのか?」
 如月は尋ねるような声でそう言った。そのバックはざわざわしており、聞き取りにくい。それでも宇都木にははっきりと如月の声が聞こえていた。
「……私でお力になれるのなら……」
 冷静に宇都木は言った。
 気持ちは飛び跳ねたいほど嬉しいのだが、これからはお互い仕事上だけの付き合いになるのだ。例え今まで身体の関係を重ねてきた間柄だとは言え、それは既に精算され過去になっているのだ。どれだけ自分が昔を懐かしむことがあっても、今まで二人にあったものを全て切り離すことが出来なければ、今後如月は側に置いてくれないだろう。
 だからこれからはあくまで宇都木は仕事のパートナーとしての立場を貫くつもりだった。
 そうすることでこれからずっと如月の側に居続けることが出来る……
 宇都木はそれを選んだ。
 想いは通じなくても……
 二度とその話しを持ち出せなくても……
 側に居るだけでいいと、決めたのだ。
 例えこの先……
 如月に恋人が出来たとしても……
 この場所だけは誰にも譲らないと誓った。
「そうか……ありがとう……。私もお前となら安心してこれから仕事が出来る……」
 その言葉に宇都木の胸の奥に温かい火が灯った。
「それで……住まいの件ですが……こちらで適当に決めて宜しいでしょうか?」
 そんな話しなど後で良いのだろうが、話題が無くて宇都木は思わずそんなことを言っていた。
「あ、ああ。そうだ……その話しなんだが……」
 そこで如月の口調はやや低くなった。
「……ご希望がありますか?」
「通勤時、祐馬のマンションを通るようなルートに、私のマンションを確保して欲しいんだが……いや……お前が嫌なら私は自分で探すが……」
 それも良いのかもしれない……
 私は貴方を想い……
 貴方は彼を想い……
 お互い叶わない想いを抱き続けるのだ。
 私達は本当に……似たもの同士ですね。
 だから貴方の気持ちが手に取るように分かる……
「分かりました。そのように手配いたしましょう。組織や人選などの詳しい話しは、今週末にでも私がそちらに伺います。今の私の役目は貴方の現在持っている仕事をストップさせずに、次の役目にスムーズに移行させることです。ですので、必要なことがあればいつでもご連絡を下さい」 
 淡々と宇都木はそう言った。
「そう言ってくれて助かる。じゃあ週末来るんだな。待ってるよ」
 言って如月から電話は切られた。
 待ってる……
 ただの仕事上の会話であるのに宇都木はその言葉が嬉しかった。このままいつまで側に居られるかどうか分からない。だが、出来うる限り長く如月の側に居たいと宇都木は本当に思った。
 いつか……等とは宇都木は考えていなかった。既に二人の関係がどうあっても進展しない事を思い知っているからだ。もう一度そんなことでもめたりすると、如月は宇都木を切り捨てるだろう。
 蒸し返しなどしない……
 想いを秘めたまま、いつものように仮面を被ると良いのだ。それは宇都木にとって慣れたものであった。
 辛いことも……
 悲しいことも……
 泣き出したくなるときも……
 全てそうやって乗り切ってきた。
 ただそれをこれからも続けるだけだ。何も変わらない……。
 それで充分宇都木は幸せだったのだ。



 新しい職場になるフロアを整理し、各担当者と打ち合わせし、配分を決め宇都木は忙しく過ごした。だが大変だとか、辛いとかこれっぽっちも思わなかった。ただ宇都木は如月がこちらに戻ってきたとき、直ぐに仕事が出来るよう全てを整えておきたかったのだ。
 今日は帰ったら、あちらに向かう準備をしないと……
 肩を自分でポンポンと叩きながら自宅のマンションに戻ってくると、扉の前に鳴瀬が座り込んでいた。
「鳴瀬さん……」
 そう言うと、鳴瀬は顔を上げて笑った。
「こんばんは……随分遅いんですね……」
 言って立ち上がる。
「色々……忙しくて……」
「聞きました……真下さんから……。秘書は解任だそうですね……」
 苦笑したように鳴瀬は言った。その表情は何もかも知っている顔だった。
「……ええ」
 やや視線を逸らせて宇都木は言った。
「どうして?」
 鳴瀬は不思議そうな声でそう言った。その意味が宇都木には分からなかった。
「どうして……とは?」
「……何故また辛い所に自分の身を置くんです?」
 それは如月の側で働くことを指しているのだろう。
「辛いなど考えたことはありません。仕事ですから……」
 宇都木はただそう言った。それ以外の気持ちを持つことを自分で止めたのだ。
「貴方は何を考えてるんです?」
 表情の変わらない宇都木に鳴瀬はそう言った。
「……何を考えろと言うんですか?」
 そう言うと鳴瀬は黙り込んだ。
「……お話がそれだけなら、帰っていただけますか?まだ……仕事が残って居るんです」
「俺は……貴方が分からない……。だけど……寂しい人なのは分かる」
 やや逸らせていた視線をこちらに戻した鳴瀬がそう言った。だがその言葉に宇都木は何の感慨も持たなかった。
 持っても仕方のないことだからだ。
 これ以上鳴瀬を深みに引きずり込むことはしないと宇都木は決めていた。鳴瀬に抱き込まれた時、どんなことをしても拒否すれば良かったと、宇都木はあれからずっと後悔していたからだ。
 一時でも鳴瀬を受け入れたのは宇都木自身だった。
 ただ慰めが欲しかった。
 誰かに温めて貰いたかった。
 そんな気持ちだけで受け入れたのは間違っていたのだ。それに気が付くのが遅かった。
「……帰って下さい……」
 冷ややかに宇都木は言った。
「このまま、また身体だけの関係を続けるんですか?」
「馬鹿なことを言わないでください。そんなことを言いに来たのですか?」
「馬鹿なこと?貴方がしていることが一番馬鹿な事じゃないですかっ!そんな関係で……何が楽しいんです……もっと……自分を大切にしてください……俺は……」
 そのまっすぐ向かってくる鳴瀬の気性が宇都木には辛かった。真摯な……そして相手を想う気持ちが宇都木の胸を痛めるのだ。
「……何か勘違いされていませんか?私は如月さんのフォローをしているだけです。それ以外の関係ではありません。例え……以前そうであったとしても……ね。何よりどうして部外者の鳴瀬さんにそんな事を言われないといけないんです?そうでしょう?」
 宇都木がきっぱりと言うと鳴瀬は泣きそうな表情を見せた。
 だが宇都木には鳴瀬に対して何の感情もおきない。いや、元々何の感情も持っていないのだ。以前一度だけ寝た相手だ。
 宇都木は酷い言い方をしている自分に罪悪感を感じながらも、そういう態度で対応しなければならないと強くそう思った。
「……貴方は以前言いましたね……身体だけは俺にくれるって……」
「……そうでしたね……」
 溜息をついて宇都木は言った。
「俺に……下さい……身体だけで良いから……」
 瞳の奥に明らかに欲望の火が灯っているのが宇都木には分かった。だが頷くことなど出来なかった。
 暫く口を閉ざしていると鳴瀬が言った。
「……ああもう……済みません……俺……こんな事言いに来たんじゃないのに……」
 鳴瀬は宇都木を掴む手を離すとそのままポケットに手を入れた。
「……明日、宇都木さんがアメリカに行くって聞いたものだから……これ持って来たんです……」
 言って鳴瀬がポケットから出してきた小さなお守りを宇都木は受け取った。
「それ……別にたいした神社のじゃないですから……何処までそれが効くのか分からないんですけど……。はは……ガキっぽいですね。でもまあ……気持ちだし……受け取ってやって下さい。何か押しつけたみたいで悪いんですけど……」
 照れくさそうに笑いながら鳴瀬は頭をかいた。その目にはもう先程の欲望は見えなかった。
「でもね、それで俺、結構色々助けて貰ったりしてきたから……。昔バイクで事故に会ったとき、本当だったら死んでいたっていう程の事故だったのに、かすり傷一つなくて……その変わりそこの神社のお守りがボロボロになってたんです。うちのばあちゃんが言うには身代わりになってくれたんだろうって……それから俺、毎年そのお守り買って何時も身につけてるんですよ……。だから、宇都木さんにもって……用事……それだけだったんです」
「鳴瀬さん……」
 手に乗せられたお守りから視線を上げると既に鳴瀬は廊下を歩き出していた。
「鳴瀬さんっ!」
 呼び止めるようにそう言うと鳴瀬は満面の笑みでこちらを向いた。
「じゃあ、気をつけて行ってきてくださいね。又遊びに来ます……」
 そう言って帰っていく鳴瀬の後ろ姿を、宇都木は複雑な気持ちで見送った。
 ただ手の中に残されたお守りだけが、宇都木には何故かとても温かく感じた。
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