Angel Sugar

「黄昏感懐」 第11章

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 あわただしく夕方飛行機に乗ると、如月は鳴瀬が持ってきた書類にサインをし始めた。
「……さっさと終わらせたいな……。とにかく何処か一カ所に落ち着きたいよ……」
 独り言の様に如月はそう言って、サインを追えた書類を次々宇都木に渡す。宇都木はそれを確認しては証券封筒に直していた。
 それらが終わると、如月はシートをやや倒し、深くもたれた。その間、如月の目線はずっと外に向けられ、雲が流れる様子を見ていた。
 如月の青い瞳に映る雲が、宇都木の印象に残った。まるで如月の瞳が空の様に見えるのだ。
 綺麗な瞳……
 真っ青で空にも海にも見える……
 あ……
 そんなことを考えている場合じゃない……
 気が付けば見つめてしまう如月の瞳から宇都木は視線を逸らせた。
「少し休まれた方が良いですよ……」
 言って宇都木は如月に膝掛けをかけた。ここのところ、宇都木より如月の方が忙しいはずなのだ。元の自分の部署を未だに行ったり来たりしているのだから、仕方ないだろう。
「……ああ……」
 如月はそう言って目を閉じた。それを見届け、宇都木は自分の書類を引っ張りだしてそれに目を通し始めた。
 この二週間、如月の側で仕事が出来、宇都木は楽しかった。来月には毎日側で一緒に仕事が出来るのだ。出来る限り頑張らないと……と宇都木は本当に思っていた。今までは東に有能だと自分を認められたかった。だが今は如月にそう思われたかったのだ。
「……宇都木……」
 目を閉じたまま如月はそう言った。
「どうされました?」
「……急に予定を変更して悪かった」
「いいえ……それが仕事ですから……」
 宇都木はそう言って膝に置いた書類にまた視線を戻した。それで会話は終わりであると思ったのだが、暫くしてから如月は口を開いた。
「……実は……兄さんの家でな……」
 何となく言いにくそうに如月は言った。
「ええ……秀幸さんはお元気でしたか?」
「ああ、で、食事は旨かった……」
「良かったですね……」
「……そこでな義姉さんがな……」
 如月の兄嫁は祐馬の姉である舞だった。
 その舞が何か言ったのだろうか?
「舞さんがどうかされましたか?」
 宇都木がそう言うと、如月は小さく溜息をついた。
「……いや……いいんだ……」
 閉じていた目をうっすら開け、又窓外に向けられた。
 舞さんが話すことと言えば……
 弟の祐馬さんのことだろうか?
 なら……
 また戸浪の事か?
 如月が戸浪とつき合っていたことなど知らずに、祐馬のことを舞は何か相談でもしたのだろうか?そんなことを宇都木は考えたのだが、如月が話しを止めてしまったことで、聞くことが出来なかった。聞いて答えてくれるとは思えなかったのだ。
 だが、それだけのことで如月はこの忙しい時期に仕事をキャンセルしてまで日本に戻ろうとするだろうか?
 分からない……
 以前の如月なら、まず仕事優先だった筈だからだ。
 ……もし例えそうだったとしても……
 私には何も言えない……
 何も聞けない……
 仕方ないことなのだ。
 宇都木も膝の上に置いた書類を片づけ、シートにもたれると目を閉じた。
 
 朝早く成田に着くと、手配したホテルに如月を送り届け、宇都木自身は自分のマンションに戻った。

「何か手伝えることがありましたら、お手伝いしますが……」
「いや……いい。ああ、真下さんへの書類は私がもっていくから……」
「分かりました。では、明日の朝またお迎えに参りますので……」

 宇都木はそう言って如月とホテル前で別れたのだ。
 それは淡々とした会話だった。たった数行の会話の最中も如月の瞳は何処か落ち着きがなかった。その所為でやはり宇都木は、戸浪と祐馬の事で戻ってきたのだとカンで分かった。
 何があったのかは全く想像も付かないのだが、またもめているのだろうか?
 今でも隙があれば戸浪を取り戻したいと思っているのだろうか?
 無理なのに?
 だが……
 本当に無理だと言えるのだろうか?
 人の心など移ろいやすいものなのだ。戸浪は今、祐馬が好きだと思っていたとしても、これから先どうなるかなど分からない。しかし、如月が誰とつき合うことになろうと、宇都木には自分の居場所ができた。それも如月の側に居場所が出来たのだ。
 仕事に熱中するタイプの如月は時折恋人のことなど忘れてしまう。そんな男の恋人以上の存在に、時にはなれる。そして愛は貰えないが信頼は貰える。
 それが今の宇都木にはとても素晴らしいことに思えた。

 ホテルに一旦入り、朝が早いのもあった如月はとりあえずシャワーを浴び、ずっと同じ姿勢で居た身体を解した。
 全く……
 義姉さんの気持ちは分かるが……
 やりすぎだ……
 心の中でそんな事を思いながら如月はシャワーを止め、タオルで頭を拭くと、ホッと息を吐いた。
 昨日、昼食を兄夫婦の家でご馳走になったのだが、兄の秀幸が途中、仕事で抜けた。その時義理の姉である舞に相談を持ちかけられたのだ。

「弟の祐馬の事だけど……。ほら、この間、男の人とつき合っているって言ってたでしょう……私あれから気になってしまって……」
 舞はそう言って溜息をついた。
 そんな相談をしようというのだから、その祐馬の相手が、元如月の恋人であったことなど知らないのだろう。知っていて話せる事では無い。
「……そうですね。でも義姉さん、まだ祐馬も若いですから色々あるんですよ。これからまたどうなるか分からないでしょう。周囲がちょっかいを出すと余計に意地になりますよ。特に祐馬はそのタイプですから……」
 言って如月は笑った。
「邦彦さんはあの子の一途さを知らないからそう言えるのよ……。なによりおじいさまもおばあさまも容認してるのよ。私は嫌だわ。あの子の相手が男の人だなんて……」
 ムッとした口調で舞は言った。
 舞は弟の祐馬を非常に可愛がっている。その分余計に、自分の弟の相手が男性だと言うことが気に入らないのだ。特に舞は祐馬に可愛いお嫁さんを貰うのだと張り切っていたのだから、ショックも大きいのだろう。
「……まあ……東様と都様がお認めになられているのでしたら、誰も文句は言えませんがね……」
「……そうなの。祐馬ってほんとおじいさまとおばあさまに可愛がられてるから……。でもそれとこれとは違うとどうして思ってくださらないのかしら……」
 困ったような顔で舞は言った。
「仕方ないですよ……」
「でも私、どうしても許せなくて……従姉妹の鈴香に頼んだのよ」
 舞はそう言ってニッコリと笑った。
「え?」
 確か従姉妹にそんな名前の大学生が居たはずだったのだが、如月にはその鈴香の顔が出てこなかった。
「あの子、ヨットの資金を貯めていて、この間うちにもカンパして欲しいって来たの。その時、祐馬の話をして、協力してくれるならお小遣いを奮発するって言ったら、快く承諾してくれたわ」
 クスクスと笑って舞はコーヒーカップの口を両手で撫でていた。その仕草は舞が気分がいいときに良くする仕草だ。
「協力……ですか?」
「ええ。祐馬の家に適当な理由をつけて転がり込んで、まあ引っかき回して貰おうと思ってね。鈴香が色々考えてくれてるみたいだから、そのへんはもうおまかせしちゃったわ。鈴香が何をしても、祐馬が男の人と別れてくれたらそれで良いのよ……。それが先週の話しだからもう今、祐馬の家に転がり込んでいるはずよ」
 クスクスと笑って舞は言った。
 恐い姉だ……如月はそう思った。
 舞と祐馬の性格が反対だったら良かったと聞くが、確かにそうなのかもしれない。
「まあ……程々にされた方が良いですよ。そんなこと東様の耳に入ったら、おしかりを受けますから……」
「大丈夫でしょう。鈴香の色気に参ってくれたらまだ祐馬も男は捨てていないと思えるし……。恋愛問題でもめていることを誰が口を出すって言うの?」
 いや……
 恋愛問題でもあのじいさんは口を出すのだ。それは如月が一番良く知っていた。だが舞にはそれが分からないのだろう。いや分かっていてギリギリで手を引くのかもしれない。
 そんな策士な所が舞にはあるからだ。今も全て如月に話している訳ではないだろう。もっと色々鈴香に指示を出している可能性は否定できないのだ。
「確かに……そうですね」
 この話をしながら舞はきっと如月がどちら側に立っているかを見定めようとしているのかもしれない。そうなるとこちらも舞に同意している立場を取って置いた方が、良い。そう思った如月はニッコリと笑ってそう言った。
「でしょう?上手くいくと良いのだけど……」
 
 その会話の後、如月は直ぐに日本に帰る事にしたのだ。国際電話でも良かったのだろうが、戸浪に会ってその話しをしてやろうと思った。
 会う理由が出来たこと。そして、やはり自分がしてしまったことに対する償いというかそんなものが如月を動かしたのだ。
 酷い男だと戸浪に思われたままなのが、辛いのだ。恋愛感情が既になくとも、優しい男だとやはり戸浪には思われていたい。
 以前の別れ方ではそれは望めないだろう。例えもうどうあっても戸浪がこちらを向くことはなくても、道ばたで会えば微笑みを返してくれるくらいの存在に戻りたいと如月は思っていたのだ。
 やはり嫌な性格だな……私は……
 自分を取り繕うことばかり考えている自分が如月には醜く感じた。
 それでも戸浪にはそんな風に思われたくない自分がいる。
 全く……
 本当に馬鹿だな……私は……
 自虐的な笑いを浮かべながら如月はバスルームを出た。直ぐに服を着替えるのも怠く感じ、バスローブだけを羽織ってベットに身体を伸ばした。
 ずっと駆け足で走っていたような気がする……
 仕事に追われて立ち止まることを忘れていた……
 そんな時戸浪を良く思い出すのだ。
 どんなときも変わらない戸浪……
 如月にはとても貴重な存在だった。今更望んでももうこの手の中には帰っては来ない。時間と共にこの想いも薄れていくはずだ。
 過去は清算した。
 つい最近の出来事もようやく自分の中で整理できた。
 だが、戸浪を取り戻すことは諦められても、戸浪の中から自分の存在を消してしまいたく無かったのだ。
 きっかけがあれば一つ残らず拾うつもりで如月はいた。
 それが未練だというのかもしれない……。
 なんだ……
 私は意外にしつこい男だったんだな……
 と、如月は今頃気が付いたようにそう思い、思わず笑みが口元に浮かんだ。そうして暫くうつらうつらしながら、ふっと気が付くと、既に十時を過ぎていた。
 そろそろ戸浪は出社しているだろう……
 如月は携帯を取り出し、戸浪に電話を掛けた。
「……一体……どこからかけてるんだ?」
 すぐにこちらが分かったのか、戸浪はそんな風に如月に言った。その警戒心丸出しの口調に如月は苦笑しながら言った。
「出張でな、今、日本に帰ってきて居るんだが、面白い話を小耳に挟んでね……」
「だから何だ?さっさと言わないのなら切る」
「そう冷たくするなよ……長い話になる。会えないか?」
 如月がそう言うと、戸浪は電話向こうで暫く考えた後言った。
「……お前は二人きりになるとやばいからな……」
 確かに以前はな……
「ははっ、まあそういうな。お前と祐馬の事だ。知りたいだろ?ちゃんと人の多いところで会うつもりだよ。喫茶店ならお前もオッケーくれるか?」
 そう言って如月は再度笑った。するとまた戸浪は無言になった。色々今考えているのだろう。そうしてようやく、仕方なさそうな口調が聞こえてきた。
「……分かった……」
 如月は時間と待ち合わせの喫茶店を指定すると、電話を切った。
 久しぶりに会えるな……
 無意識に如月の表情が笑顔になっていた。
 さて、次は真下に会わないと……
 本当は余り真下とは会いたくないのだが、仕事の事であるため仕方ないと如月は諦める事にした。そうして次に真下に電話を入れ、如月は準備を整えると本家に向かった。

 宇都木は自分の車を駐車場から出し、本家に向かった。とりあえず今どんな風に仕事が進んでいるかを真下に報告するためであった。
 だがそれだけではない。そんな報告などいちいちしなくても良いのだが、やはり祐馬と戸浪のことが気になったのだ。
 自分からは聞けないが、真下から振ってくるかもしれないと期待したのだ。
 如月が自分の仕事をそっちのけに、何を慌てているのか知りたかった。
 知ってショックを受けるようなことだったらどうする?
 いろんな思いを抱えながら宇都木は東の屋敷に着いた。屋敷のガードマンに顔を出し、門を開けて貰うと宇都木は屋敷の左側の私道を通り、丁度建物の裏に造られている駐車場に車を停めた。すると見慣れた車が一台停まっていた。
 鳴瀬さんの車……
 いつ帰ってきたのだろう……
 私達より先に着いた便だろうか……
 車から降りながら鳴瀬の停められた車を眺め、車のロックをかけると後ろから声を掛けられた。
「宇都木さん……もう帰ってきたんですか?」
 鳴瀬は昨日別れた時のあの不機嫌な顔はもうしていなかった。
「鳴瀬さん……鳴瀬さんこそ……」
 驚いた顔で宇都木はそう言った。
「俺の方が先の便だったんですよ。で、今真下さんと話して帰るところだったんです」
 言って鳴瀬はニッコリと笑った。
「そうですか……。私は今からですが……」
 そう宇都木が言うと、鳴瀬はこちらの手元をチラリと見て、また視線をこちらに戻した。
「書類は?」
「あ、書類は如月さんがご自分で本家に持っていくとおっしゃったので、お願いしました」
「……じゃあどうして宇都木さん……来たんです?用なんか無いはずでしょう……」
 そう言った鳴瀬の表情が、やや強ばったように見えたのは宇都木の気のせいだと思うことにした。
「あちらでの片づけ具合を報告に来たんですよ……」
 本心を悟られるのを恐れた宇都木はそう言って誤魔化した。だが鳴瀬には分かったようだった。
「……祐馬さんの事ですか?」
 鳴瀬の表情は今度は真剣なものとなった。
「えっ……いえ……違いますよ」 
 やや笑い顔を作って宇都木はそう言った。
「……ごたごたしてるみたい……」
 ぽつりと鳴瀬は言った。
「何か……聞かれたんですか?」
 宇都木は思わずそう聞いていた。
「やっぱり……。じゃあ如月さんが急に戻る予定を立てたのはその所為だったんだ……。嫌な奴……」
 身体をやや横に向けて鳴瀬は言った。
「……如月さんの事は、仕事の都合ですよ……」
 何も知らないのだが、宇都木はそう言った。
「……別に良いですけどね。如月さんがどう動いたって俺には関係無いことだし……今は真下さんが様子を窺ってるそうですから……」
 鳴瀬は溜息を付いてそう言った。
「真下さんが?」
 それは珍しいことだった。真下は秘書の統括責任者なのだ。その真下が直接動くことはまずない。
「ほら、やっぱり気になってる……」
 苦笑した鳴瀬はそう言って、駐車場を囲んでいる塀に身体をもたれさせた。
「……いい加減にして下さい。気にしていると言えば教えてくれるんですか?」
 なんだか鳴瀬にからかわれているような気がした宇都木は呆れたようにそう言った。
「……大したことじゃないですよ。祐馬さんのお姉さんがどうも動いてるみたいで、真下さんが困ってるだけです。舞さんも東様のお気に入りの孫でしょう?それで、色々大変みたいですよ……」
「舞さんが?」
 如月も舞の事を言っていたことを宇都木は思いだした。
 では舞が祐馬達にちょっかいをかけているのだろうか……
 多分そうなのだ……
 全く……余計なことを……
 あそこには出来るだけ落ち着いていてもらいたいのだ。祐馬と戸浪の関係がぐらつくと如月が動こうとするからだ。
 仲を取りもつ為ならいい。だがそんな事を如月がする訳など無いことを宇都木は知っているだけに、あの二人はこれからも問題を起こさずに居て欲しいのだ。
 どうにもならない二人の問題で壊れてしまうのなら文句は言えない。だが身内がちょっかいをかけて壊して欲しくないと本気で宇都木は思っていた。
 舞は一体何を二人に対して行っているのだろう……
 それが分かれば自分が動いても良いとまで宇都木は思った。
 意外に策士の舞のことは宇都木も良く知っている。綺麗なだけの女性ではないのだ。
「……さん?」
 いい加減、落ち着かせて何故やれないのだ。
 放っておけばいいのだ……
 あの二人は勝手に幸せにやっていくだろう。
 それで良いのではないのか?
 宇都木は、関係のない周囲が恋愛問題にとやかく言うのは気に入らないのだ。
 祐馬は欲のない男だと何故分からない。
 舞も知っているはずなのだ。
 出世欲も無し、物欲もない。そんな祐馬が欲しいと思った相手を本気で手放すわけなど無いだろう。逆に実の姉が自分達を別れさせようと企んでいる事を知れば、祐馬がどう反発するか考えないのだろうか?
 何より、舞はいつだって祐馬からは綺麗で立派な姉だと思われたいと望んでいるはずなのだ。
 だったらっ!
 何故、物わかりの良い姉で居てやれないのだ……。
 それとも祐馬に敵対されても良いと思ったのだろうか?
 それほど祐馬が男とつき合う事が気に入らないのだろうか?
 嫌なら企まず、正々堂々と姉として祐馬に言えば良いだろう。それなら誰も文句は言わない。
 私だって……
 言うつもりはない……。
「宇都木さんって!」
 急に耳に入ってきた鳴瀬の声は怒鳴り声に近かった。
「は、はい。聞こえてますよ……。そんな大きな声で叫ばなくても……」
「今……すごい顔してましたよ。俺……ちょっと怖かったな……」
 困惑したような表情で鳴瀬は言った。
「え?」
 そんな顔をしていたのだろうか?
 宇都木には分からなかった。
「冷たい……表情のない顔されてました。何を考えていたんですか?」
 ……いや
 元々がそんな顔なんですよ……
 宇都木はそう思ったのだが、鳴瀬には言わなかった。
 笑うことの出来ない子供……
 昔、東にそう言われたことを鳴瀬の言葉で宇都木は思い出したが、すぐに気持ちを切り替えた。
「……気のせいですよ……」
 言って宇都木は苦笑した。
「宇都木さんって……不思議な人ですね……」
「……そうですか?普通ですよ……」
 視線を逸らせ、宇都木は言った。 
「俺……そんな宇都木さんのことをもっと知りたい……」
 世の中には知らなくて良いことが沢山あるんですよ……
 知ったところで……
 貴方は何も出来ないんですから……
 して欲しくもない……
「……私は真下さんの所に行きますね……じゃあ……」
 きびすを返そうとしたところで宇都木は鳴瀬に腕を掴まれた。
「どうして俺から逃げるんですか?」
「逃げて等いません……いきなりどうしたんですか?」
 掴まれた腕を振り払おうとしたのだが、強い力で掴まれている所為で振り払うことが出来なかった。
「離して下さい……」
「嫌だ……」
 思い詰めたような瞳で鳴瀬は言った。
「あんな奴……見ないで俺を見てください……お願いだから……」
 言って鳴瀬は強引に自分の腕の中に宇都木を引き込んだ。
「鳴瀬さんっ!いいかげんにっ……つっ……」
 身体をいきなり車の側面に押しつけられ、背中から鈍い痛みが走った。
「俺……俺じゃあ駄目ですか?」
 泣き出しそうな鳴瀬のその表情が宇都木の胸を痛めた。だが宇都木は突き放すと決めた相手だった。
「一度寝たくらいで、そんな風におっしゃらないで下さい」
 睨み付けるような瞳を向けて宇都木がそう言うと、鳴瀬は何故か笑みを零した。
「似合わない言葉を必死に使ってる……」
「……っ!」
 ぐいとこちらの両足の間に片足を差し入れられた形で抱きすくめられた。
「いい加減に……」
 と宇都木が言ったところで、鳴瀬は自分の口を合わせてきた。必死に宇都木が両手で押しやろうとすると、その手を掴まれて後ろに回された。
「い……っ……」
 痛みで呻いた口元に鳴瀬はすかさず自分の舌を差し込み、逃げるこちらの舌に絡めてきた。
「……んっ……」
 何度も口内を翻弄され、目の間だがじいんと痛んだ。そこに車が一台走り込んでくる音が聞こえ、正気に戻った宇都木は後ろで掴まれている手を必死に動かし、鳴瀬の拘束から逃げようとしたが、強く抱き込まれている身体は全く動かなかった。
「……なんだお前達……」
 聞こえた声は紛れもなく如月の声だった。その声の主を知ったことで、宇都木は一瞬身体が硬直した。
「……邪魔しないでください」
 いやに遠くから鳴瀬の声が聞こえた。
「別に……邪魔する気はない。ここに車を停める為に来ただけだ。勝手にやってろ。ああ、宇都木、何でもいいが明日は寝坊しないで迎えに来てくれよ」
 からかう風でもなく、淡々と如月はそう言って、本家の建物の方へ歩いていった。宇都木はその後ろ姿に、今の自分達を見られたショックで声をかけることが出来なかった。
 そうして視界から如月が消えたところでようやく声が戻ってきた。
「……な……ちが……違うっ!」
「……違うって何がです?俺達は寝た間柄でしょう?別に今更取り繕ったってあの晩のことは消したり出来ない事実だ……」
 鳴瀬はそう言ってこちらの身体からようやく離れた。
「……わ、私はっ……」
 誤解された……
 誤解されたはずだっ!
「……俺……如月さんがもうすぐ来るの知ってました。真下さんと話していたときに電話入ったから……」
 鳴瀬はそう言って笑った。
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