「黄昏感懐」 第27章
「鳴瀬さん……」
もう一度そう宇都木が言うとようやく鳴瀬の顔が上がった。
「……身体……大丈夫ですか?」
そう言った鳴瀬は手に薬の袋を持っていた。どうもそれは如月のものではないかと思えた。
「え……あ、はい……」
鳴瀬の手元から視線を上げ、宇都木はそう言った。
「……俺……真下さんに言われて……その……如月さんの様子見に来たんです……。というより……俺がなんか色々させられて……」
言って鳴瀬は苦笑する。
「もしかして……あの人の面倒を見てるんですか?」
驚いた顔で宇都木は言った。
「今、人手が足りないそうで……それで俺が……タオル代えたり……」
言いにくそうに鳴瀬は言った。
真下は鳴瀬が宇都木に何をしたかなど知らないのだろう。だから何も考えずに如月の面倒をこの鳴瀬にさせているのだ。
あの人が……
目を覚ませているところで会わなければ良いんですけど……
宇都木はそう思って心の中で溜息を付いた。
「そうだったのですか……」
鳴瀬の手にある薬はやはり如月のものだった。ではずっと鳴瀬は如月の面倒を見る為に行ったり来たりをしているのだろうか?
「……あの……宇都木さんも身体の調子……悪いって……板東先生がおっしゃってたんですけど……うろうろして大丈夫ですか?如月さんは……俺が見てますから……大丈夫です」
又視線を逸らせて鳴瀬は言った。
「……っ……」
暫く立っていたことで宇都木は目眩を感じ、その場に膝をついた。
「大丈夫ですか?」
そう言って駆け寄り、鳴瀬が延ばした手を宇都木は条件反射のようにはね除けた。だがその宇都木の行動に、鳴瀬の表情は苦痛に満ちたものとなった。
「……あ……す、済みません……」
宇都木は我に返った顔でそう言い、壁に手を伸ばして身体を起こした。はね除けるつもりは宇都木には無かったのだが、無意識に払ってしまったのだ。
「……当然ですよね……。もう会わないって約束したはずなのに……済みません……」
鳴瀬はそう言い、宇都木によって払われた手を自分でさすった。
「……鳴瀬さん……もう……良いんです……あのことは……。気に病まないでください……私は貴方を恨んだリ、憎んだりなんてしていませんから……」
あの後……あの人は……
私を優しく……介抱してくれた……
そして……
愛していると……
告白してくれたのだ。
あの日から私は……
暫くの間、夢のような生活を過ごせた……
だから……
鳴瀬のことを恨んだりはしていない。
だが、やはりこちらを助けようとして延ばされた手であっても、あの時感じた嫌悪感は、感覚として身体に残っている。例え気持ちは許していたとしても、手を払ってしまった理由は、無意識の中で鳴瀬をまだ許していないからだろう。
「……俺……あんな事したけど……本当に俺……宇都木さんが好きです……」
「……」
どう答えて良いか宇都木には分からなかった。そんな宇都木に気が付いたのか、鳴瀬は話題を変えるように言った。
「……あ、今、真下さんの自室にいらっしゃるんですよね。俺……送っていきますから……。ほら……また倒れたら困るし……」
何とか笑顔を作ろうとする鳴瀬が、とても宇都木には可哀相に思えた。その為ここで断ることが出来ず、宇都木は頷いた。
彼をあんな風に駆り立てたきっかけを作ってしまったのは……
私なのだ……
自分の隣を、とぼとぼとついてくる鳴瀬をチラリと見て宇都木は思った。
私が……
一度受け入れてしまったから……
鳴瀬に期待させることになった。
期待させられその気になり……
それを突然相手に否定されたら……
確かに暴走してしまうかもしれない……
宇都木は何度も後悔したことを、鳴瀬を見たことでまた思いめぐらせ、やりきれない気持ちになった。
「私が……悪いんですね……一度貴方を受け入れてしまったから……済みません……」
小さな声で宇都木がそう言うと鳴瀬の足が止まった。
「もう……お願いですから、そんな風に……言わないでくださいっ!俺は……あの時だって……無理矢理……。でも……宇都木さんは……受け入れてくれた……。俺……貴方が誰を本当は好きなのか知っていて……狡いのは……俺だったんです……」
鳴瀬は俯いたままそう言った。
「……」
「ねえ……宇都木さん……。俺と……関係が合ったこと……如月さん知ってるんですよね……無理矢理やったときも……見つかったし……。俺……自分からもばらしたし……。だから俺と寝たこと知らない訳じゃないんでしょう?それで……如月さん……宇都木さんの事、責めたことあったんですか?もしそうなら……俺……土下座して……如月さんに謝りますから……」
土下座……
多分本当に如月がまだ怒っているなら、そんな事を鳴瀬がしても許さないだろう。宇都木はそれだけは分かった。
だが、如月は一度も宇都木を責めたことはなかった。
あの晩を思い出させるような言葉もなかった。
「いえ……あの人は……何も言いませんでしたよ……だから多分……もう許しているのだと思います……」
責めることも……
思い出させることも……
まず鳴瀬の話が出たことがなかった。
二人で暮らしていたときも……
抱き合っていた時も……
何も……
覚えているのは……
何時も……
愛していると囁いてくれた事だけ……
幸せだった時間だけを私も覚えている……
「……俺……如月さんの事誤解してたんだな……」
ふと鳴瀬はそう言った。
「俺が如月さんの立場なら……宇都木さんのこと責めたかもしれない……。如月さんは……そう言う意味で……大人なんだ……。なにより……宇都木さんが本当に大切なんだろうと思う……。責めても傷つけるだけだって分かってたんだ。俺は……勢いで責めて……あとで後悔するタイプだから……。済んだことはどうにもならないことだと、割りきるまでに時間がかかるのかも……」
続けて鳴瀬はそうも言った。
「……私が……大切?」
そうなのだろうか?
私は……
如月が何も言わなかったのは……
戸浪を想っているからだと思っていた。
鳴瀬と何があったのかを知っても、別段変わらなかったのは……
如月が別の人間を好きでいたからだと……
そう思った。
だから……
私を責めることなど無かったと……
恋人ではないから……
その人間に何かあったとしても、可哀相だと同情されていただけだと思っていた。
でも……
本当は鳴瀬の言うように……?
日本に早めに帰って来た如月は、その理由を何と言っただろうか?
「……宇都木さんを責めたって……どうしようもないから……きっと言えなかったんだ。……俺もあの時殴られたくらいで……。その後呼び出されたことも無かったし……。俺は……また絶対呼び出されると思ってた。でもそんなこと無かったし……。俺の事……許してくれていたのかな……」
最後の言葉はまるで独り言のように鳴瀬は言った。
「あの時のこと……何も話されてた事は無いですよ。だから……鳴瀬さんももう……本当に忘れて……気に病まないでくださいね……。私も、もう忘れます。それで……良いと……私は思います」
言って宇都木は又歩き出した。だが鳴瀬はついてこなかった。そんな鳴瀬を振り返ると、こちらを見てニッコリ笑っていた。
「俺は……宇都木さんを追いかけることはもうしない……。だけど……あの……マンションでの一夜は……俺……忘れない。俺の……思い出だから……」
鳴瀬はそう言い終えると、今歩いてきた道を走って行った。
「……鳴瀬さん……」
「宇都木っ!」
いきなり怒鳴られ、振り返ると真下が怒った顔でこちらに歩いてきた。
ああ……
それで鳴瀬さん……
「何をうろうろしている?……まあ……何処に行ったのか見当はついていたが……。で、鳴瀬は何の用だったんだ?」
そう言う真下は手に一杯の書類を抱えていた。
「いえ……大したことは……。今、邦彦さんの世話をしている様なことを言っておられました……」
「本当に今人手が足りないからな。何に拗ねていたかは知らないが、鳴瀬をずっと別館に籠もらせて置くわけにもいかないだろう。だから、頼んだんだがね」
知っていて頼んだのか、知らずに頼んだのか真下の表情からは分からなかった。だが宇都木にはもうどちらでも良かった。
「お手伝いしましょうか?」
宇都木がそう言うと、真下は驚いた顔で言った。
「……私は寝てなさいと言ったんだ。うろうろするんじゃない」
「……済みません……」
宇都木はそう言い、真下の後について自室に戻らされると、又ベットに横になった。それを確認し、真下はベットの横にある脇机を見て言った。
「ああ……宇都木、お前が居ない間にリンゴをとってきた。この茶色の紙袋に入れてあるから……食べるつもりなら昼食に出して貰うが?」
「いえ……まだ……食べるつもりは無いんです。ありがとうございます……」
宇都木のその言葉を聞き、真下は部屋を出ていった。
真下が取ってきたのだろうか?
人が居ないから?
だから先程居なかったのか?
……そうなのだ……
宇都木はチラリと視線を紙袋に移し、手を伸ばしてその袋を胸元に持ってくると、中身を開けた。
するとリンゴの芳香が周囲に漂った。
もうそろそろ食べないと……
でももう……一つしかない……
何となく寂しさを感じながらも袋の口を締め、宇都木はそれを胸元に置いたまま目を閉じた。
リンゴ……
これを持ってきてくれた日……
何て言っただろう……
「お前は一体私を何だと思ってるんだ……」
そう言って私を……心配してくれていた……
宇都木はあの日のことを思い出していた。
もしかしてそれは……
私は恋人なのに、何故気を使う?という言葉が含まれていたのだろうか?
宇都木は鼓動を早めながら、今までの事を思い出していた。一つ一つ、丁寧に、如月の言葉と……そして行動を思い出せる限り思い出していた。
鳴瀬に無理矢理身体を開かされたときも……
身体の調子を崩したときも……
何時も……
心配してくれていたのは如月だった。
もしかして……
本当に私は……
愛されているのか?
リンゴを持ってきてくれたのも……
病院に連れて行ってくれたのも……
雨の中ひたすら私が出てくるのを待っていたのも……
何時出てくるかなど分からないのに……
あんな場所で……
あんな雨の中……
待っていた。
それは……
私だから?
私だからあの人は……
もしかして……
本当に私は……
愛されている?
私は……
愛されている……
宇都木はようやくその事に気が付いた。それは目の前にあった霧が晴れるようなそんな奇妙な感覚であった。
本当なんだ……
本当に……
あの人は私を愛してくれている……
ギュッとリンゴを握りしめて宇都木はようやくたどり着いた答えに涙がこぼれ落ちた。
どうしてこんな簡単なことが今まで分からなかったのだろう……
何故あの人の事を疑うことが出来たのだ?
あの人の為に尽くそうと思った。
どんな時でもついていく覚悟をしていた。
だがそれは一方通行だとばかり宇都木は思っていたのだ。
戸浪のことがあったからだ……
しかしそれはよくよく考えると、如月は戸浪を愛していると思いこみ、宇都木は自分が愛されている事実を認める事をしなかったのだ。愛されることが恐い、だから信じようとしなかった。
宇都木は今まで、自分が愛する事と同じ想いを返して貰ったことが無かった。だから宇都木は愛されることが恐かった。
私は……
ずっと臆病者だったのかもしれない……
折角……あれ程……
あの人に大事にされながら……
それを現実だと思わなかった。
あの人は……
あの告白してくれた晩から……
愛していると告白し、抱きしめてくれた日から……
ずっと私を好きでいてくれたのだ……
愛してくれていた……
そして……恋人だと思ってれていたのだ。
それを信じられなかった私が……
一番悪かったのだ。
もし私があの人だったら……
恋人がもし、会社で疲れた顔をしていたら宇都木も心配するだろう。そしてその恋人が痩せたと感じたら、食事に誘い、体調を尋ねるに決まっているのだ。それは決して秘書に対してだけの感情ではない。恋人だから余計に気になり、心配になるのだ。
本当に……
愛しているから……
大事に思っていたから……
弱った私を休ませようとした……
決して……仕事が出来ないから……
誰にでも出来るから等という理由で辞めさせようとしたわけではない。
私は……
どうしてあの人のそんな優しい気持ちを……
分からなかったのだろう……
あれ程大事にして貰っていたのに……
それに全く気が付かなかった。
信じることが怖くて……
愛されるのが怖くて……
何も見ようと……
聞こうとしなかった。
私は……
馬鹿だ……
涙がボロボロとこぼれ落ち、枕を濡らした。
ずっと如月は宇都木を愛してくれていたのだ。確かに最初は戸浪の方を向いていたかもしれない。だが如月の気持ちは少しずつ精算され、いつの間にか宇都木を見てくれていたのだ。
「私も立派なことは言えないぞ。戸浪のことを忘れられない癖に……お前を……」
愛してしまったと続いたのだろうか?
「私は……多分……お前を愛してるんだと思う……」
あの言葉は如月の精一杯の気持ちだった。そして……
「私が、どうして早く帰ってきたと思う……?」
あの時は分からなかった。
「慰めるために言ったんじゃない。私は……ただ自分の気持ちを伝えたくて帰ってきた」
如月はそれだけのために帰ってきた。
「だから……急がずに……ゆっくり恋人同士にならないか?」
それは如月の気持ちも、宇都木の気持ちも含めての言葉だったのだ。
「これからも……私だけを見ていてくれるか?」
たった……それだけの言葉を……
宇都木は待っていた。
ずっと……
叶えられたはずなのに、宇都木は信じようとしなかったのだ。
あの時、如月は正直に今の自分の気持ちを宇都木に伝えてくれた。
だがそれに応えることが出来なかったのは宇都木自身だった。
一人で思い込み、如月の気持ちなど分からずに、ただ空回りしていたのだ。
宇都木はそれが分かると自分が酷く情けない気持ちになった。
愛されることは恐い……だが、宇都木はずっとそれを求めていたはずなのだ。そして如月の側に自分の居場所が欲しかった。その宇都木の為にいつだって如月は居場所を用意してくれていた。だが、宇都木がその事を理解できなかったのだ。
自分は愛される価値等無いと宇都木は思っていたからだった。
だが宇都木がそう思うのと、如月が思っていることとは違うのだ。例え宇都木が自分に対して、愛される価値など無いと思ったところで、如月の気持ちは宇都木のものとは違った。
如月はゆっくりと宇都木への想いを温め、いつも宇都木の事を想い、愛してくれていたのだ。そして今、如月の心にはもう戸浪への想いは無かった。綺麗さっぱり過去にしてしまっていた。
こだわっていたのは宇都木だけだったのだ。
会いたい……
あの人の側に行きたい……
私も……
自分の正直な気持ちを伝えたい……
あの人が正直に言ってくれた様に……
今まで言えなかったことを……
私も……はっきり言いたい……
貴方を愛している……と……
宇都木は涙を拭うと、又ベットから降りた。そうしてリンゴの入った袋を持ったまま真下の仕事場に続く扉を開けた。
「なんだ……どうした?」
真下は資料を探していたのか、本棚の前に立っていた。だが、宇都木が泣いていることで驚いた顔を向けた。
「私……自分の気持ちがようやく分かったんです……。だから……邦彦さんの所に行きたいんです……」
言いながらもハラハラと涙は落ちた。それは拭っても拭っても頬を伝う。そんな宇都木を見た真下はこちらに向き直ると苦笑して言った。
「邦彦と話をしたのかい?」
「……少しだけ……」
宇都木は正直に言った。
「それで……あのぼんくら男は……きちんと宇都木に自分の気持ちを話したか?」
クスリと口元だけで笑った真下は、腕組みをして今度は机にもたれかかった。
「……少し……だけ……。でも……十分な言葉を……貰いました……」
言って流れ落ちる涙の量が増えた。
「眠っている筈だが?」
「良いんです……側に居るだけで……あの人の目が覚めるまで待ちます……。待っていたいんです。側で……あの人の側で待っていたいんです……」
「またどうせこの先、泣くことになると思うんだが……」
宇都木は真下のその言葉に頭を左右に振った。
「……ふう……」
真下は聞こえるような溜息を一つ付くと、眼鏡をかけ直し、言った。
「行っておいで。折角帰ってきてくれた宇津木をまた……あの男に持って行かれるのは辛いが……、宇都木がそうしたいと自分で選んだのなら、いいんだよ……」
宇都木はもう言葉が出ずに、ただ深く頭を下げると、如月の眠る部屋へ向かった。涙で前が曇り、見えなくなる廊下を何度も目を拭い、宇都木は歩いた。
あの人に会いたい……
あの人があんな身体でありながら、自分の気持ちを正直に伝えてくれたように……
会って私も、自分の気持を伝えたい……
今、宇都木が望むのは、それだけだった。
身体は少しも怠くなかった。目眩も起こさなかった。ただ、周囲の音が全く聞こえなかった。まるで音のない世界を歩いている様な気が宇都木にはした。だが、宇都木の胸元でしっかり握りしめられている紙袋だけが、歩くたびにカサカサと音を立てているのが聞こえていた。