Angel Sugar

「黄昏感懐」 第20章

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「邦彦……私を抱いてくれ……」
 戸浪はそう言って如月の目をじっと見た。このまま崩れ落ちてしまいそうなほどその姿は追いつめられている様な感じが如月にはした。
「もう一度戸浪からそうやって呼んで貰えるとは思わなかったよ……」
 如月はそう言い、戸浪の頭に頬を寄せるような格好で自分の腕の中に抱き込んだ。
 邦彦……か……
 懐かしいな……
 久しぶりにお前からそう呼ばれたような気がする……
「頼む……」
 目を涙で曇らせた戸浪は切羽詰まったものがあった。
「……戸浪……本気か?」
 お前の本心は私に抱かれたいなどと思っていないはずだ。
 そんなにお前は今、祐馬を忘れたいのか?
 以前、お前は無理矢理お前を抱こうとした私を拒否しただろう?
 さっき来た祐馬は結局何をしに来たんだ?
 連れ帰りに来たのではないのか?
 気にはなっているのだが、戸浪にその事を聞くことが如月には出来なかった。戸浪から話してこないと言うことは、聞いて欲しくないと思っているからだ。
 それを無理矢理聞くことは出来ないだろう。
「……本気だ……」
 仕方ない……な。
 如月は戸浪をそっとベットに倒して、その上に馬乗りになった。
「後悔するぞ……」
 組み敷いた戸浪を見下ろしながら如月はそう言った。。
「……しない……」
 戸浪はそう言って、如月が身体を支える為にベットに延ばしている腕に手を掛け、力を込めて掴んだ。こちらに向ける瞳は必死に訴えている。
 抱いて欲しいと……。
 慰めて欲しいと……。
 だがそれは如月だからそう訴えているわけではない。ただ辛い今の自分をどうにかしたいが為に、それを忘れられる行為を求めているだけであった。
 その先に、祐馬を必死に求める想いが見える。
 戸浪はもう祐馬のことしか考えていないのだ。
 その事を既に如月は知っていた。だから戸浪とのことを過去に出来たのだ。
「馬鹿だな……戸浪……」
 笑いながら如月は枕に肘をかけて横向きになった。
「……お前まで……私を……」
 落胆混じりの怒りの表情がこちらに向けられた。
「添い寝くらいしてやるぞ……」
 苦笑した顔で如月は言った。
「……お前も……酷い奴だっ!どうして……こんなに頼んでいるのに……抱いてくれないんだ……」
 そう言いながら戸浪が涙を滲ませる。その涙を如月は指で掬い取った。
「なあ……お前の心の中は祐馬のことで一杯だぞ……そんな戸浪を私が抱けると思うのか?だろ?私はお前を愛しているのに、お前は別な男のことで一杯一杯だ。それなのに私に抱けという方が酷いんじゃないのか?」
 宥めるようにそう言って如月は、戸浪の額にかかる髪を撫で上げた。
「……あ……」
 ようやく自分が誰を求めているのか分かったような表情で戸浪は小さく声を上げた。
「……う……あ……」
 次に嗚咽と共に涙が落ちる。そんな戸浪を如月は又抱きしめた。
「戸浪が本当に……私の方を少しでも向いてくれていたら……抱けただろう。……でも今、お前は私のことなど見ていない……。だったら……戸浪が正気に戻ったときに後悔するのが分かっていて……抱いたりなんか出来ない……。今は感情だけでお前はそんな風に言っているが、必ず後でお前が後悔するのが目に見えている。怒鳴られるならまだしも……私はお前を好きで抱くのに……それに対してお前が後から落ち込んだり、後悔されたら、それこそこっちが立ち直れないぞ……だろ?どうなんだ?」
 如月の言葉に戸浪は頷きながらも声を押し殺し涙を落としていた。
 そんな風に泣かなくても良いんだ……
 余計に辛いぞ……
「泣きたいときは……大声で泣くもんだ……我慢しなくていいんだよ……」
 そう如月が言うと、戸浪は目を見開き、次に涙を一気に溢れさせた。
「あっ……あっ……うわああっ……」
 ぎゅっうっと如月の胸にしがみついた戸浪は、声を上げて泣き出した。戸浪をこんな風に泣かせることが出来るのもきっと祐馬だけなのだと如月は思った。
「……お前はどうしようもないほど……祐馬を愛しているんだな……悔しいが……こればかりは仕方ない……」
 子供のように泣き続ける戸浪の頭を撫でながら如月は目を閉じた。
 明日になれば落ち着くだろう……
 そうなればきっと今日のことを思い出して戸浪は恥ずかしい思いをするに違いない……
 どんな顔をするか見物だな……
 楽しげな気持ちに如月はなりながらそのまま朝まで戸浪を抱きしめていた。

 翌朝、如月が目を覚ますと、戸浪の方は泣き疲れた顔でまだ眠っていた。その寝顔は何時もクールな表情からは想像できないほど幼く見える。
 なんだ……
 こんな顔もあったんだな……
 今初めて見たような幼い顔は、よくよく思い出すと、昔に何度も見た記憶が如月に蘇ってきた。
 このお前の表情を、当時忘れていなかったら……
 今も一緒にいたのかもしれないな……
 そんなことを思いながら、腕枕をしていた手を抜こうとするとその動きに戸浪の目が覚めた。
「あ……」
 腫らした目をこちらに向け、戸浪は急に顔を赤らめた。昨晩の醜態を思い出しているのだろう。
 可哀相だな……
 出ていってやるか……
「起きたか……。じゃあ何か作ってくる。私も腹が減ってね」
 如月は戸浪の方を見ずに身体を起こすと、ベットから降りた。
「あの……」
「良いからお前はゴロゴロしているといいんだ……」
 後ろでまだ恥ずかしい思いをしている戸浪を振り向くことはせずに如月は部屋から出た。
 どんな顔をしているか想像が付くだけに、なんだか面白いな……
 如月はそんなことを考えながら、まず玄関に新聞を取りに出た。するとシューズボックスの上に何故か自分のうちのキーが乗っている。
 え……?
 こんな所に置き忘れたのか?
 いや……
 如月が持っているものはキーホルダーにぶら下げている。あと予備は管理人と、宇都木にあげた合い鍵だけだ。
 宇都木……?
 来たのか?
 シューズボックスの上からキーを取り、それを手の平に載せてじっと見つめた。
 何時来たんだ?
 来たならどうして声をかけない?
 それとも声を掛けられないような状況でも見たのか?
 如月は昨晩のことを思い出しながら、どの状況で宇都木が来たとしても、なにやら誤解して帰ったような気がした。
 誤解したから……
 キーを置いて帰ったのか?
 まさか……?
 私はお前を愛していると言ったんだぞ。
 だから一緒に暮らしていた。
 それなのに……どうして誤解するんだ?
 まだ私が戸浪を愛していると思っているのか?
 短かったとはいえ、一緒に暮らしていたのだ。何度も宇都木とは抱き合った。愛していると何度言ったか覚えていないほどだ。
 いや……
 例えそうであっても昨晩の事を見るか聞くかをしていたら誤解しているかもしれない……。
 ポケットにキーをつっこむと如月はキッチンに向かい、そこで宇都木に電話をかけた。
 居るんだろうな……
 暫くコールし、留守だと如月が思い電話を切ろうとすると、受話器の上げられる音が聞こえた。
「宇都木です」
 いつもの宇都木の平静な声であった。
「……あ、私だ……」
 動揺しているのではないかと思った如月の方が、肩すかしを食らったことで慌てた口調になった。
「ええ……分かっております……。何か御用ですか?」
 淡々と宇都木は言った。 
「何かって……お前、昨日の晩うちに来なかったか?シューズボックスの上に、お前にあげたはずのキーが乗っていたんだが……」
「ああ、そのことですか……。キーは、お返しします」
 他には何も言わず、宇都木は淡々とそう言った。
「返す……って?どう言うことだ?」
 如月は驚いていた。
「私には必要が無くなっただけです……。他に用事が?」
 益々事務的になるその宇都木の声が、如月を突き放しているように聞こえた。
「……そうか、分かったよ」
 如月にはそれだけ言って電話を切った。
 ……
 なんだか……
 良く分からんが……
 私は結局一人だと言うことなんだな……
 キッチンの椅子に座り、小さく溜息を如月はついた。
 宇都木が一体何を考えているのか分からない……
 先程ポケットにしまったキーを取りだし、それを眺めながら如月は宇都木のことを考えた。
 私を……
 愛していると言ったのは……
 嘘だったのか?
 それとも……
 一緒に暮らして……
 嫌な面でも見えたのかもしれないな……
 ただ見ていただけの頃と、一緒に暮らしてから見える部分は違う。戸浪とも一緒に暮らし始めてからすれ違いを起こしたのだ。
 過去は繰り返すか……
 私は……一緒に暮らすに耐えられない男なのだろう……
 なら……
 そう言えば良いんだろうが……
 何が必要ない……だっ!
 手を握りしめ、次に手の中のキーを如月は床に叩きつけた。
 ……もういい……
 小さく溜息を付き、乱れた髪をかき上げた如月は、ようやく気を落ち着け、朝食の用意を整えることに専念した。そうして準備が済むと、如月はまた戸浪のいる客間に戻った。すると戸浪はベランダから部屋に入ってくる途中であった。
 窓に立った戸浪の表情は、何か吹っ切れたような顔をしていた。
「何だ……随分元気になったんだな……」
 如月は目を見張りながらそう言った。
「……世話になって悪い……感謝してる……」
 やや顔を赤らめて戸浪は言った。
「いいよ。幾らでも頼ってくれて……ただし、その気もないのに迫って欲しくはないな……。今度はその気になってから迫ってくれ。それなら何時だって良いぞ」
 如月はそう言って笑った。
「……あれは……確かに……思い出すと私も恥ずかしい……」
 こほんと咳払いをして戸浪は言った。
「ああ、朝食の用意が出来ているが……先に着替えるか?適当に衣服を買っておいたんだが……」
 言いながら如月は部屋にある腰くらいまでのタンスを指さした。それは宇都木に頼み、買ってきてもらったものだった。
「後で請求してくれ……助かるよ……」
「ゼロを一つ多めに書いて請求してやる。じゃあ、着替えたら部屋を出てキッチンに来ると良い。そっちに今日は朝食の用意をしてあるから……」
 如月はそう言うと部屋から出た。
 ふと、戸浪に如月は、「……一緒に暮らすと耐えられない何かが、私にあるのか?」と問いかけたい欲求に駆られたが、その気持ちを抑えた。
 所詮、戸浪に聞いたところでどうにもならないことだったからだ。
 
「……」
 電話を終えた宇都木は、受話器を置くとその場に暫く佇んだ。
 簡単に終わるものだ……
 一晩散々泣いた所為で、宇都木はようやく気が落ち着いていた。
 ……明日からは……
 普通に仕事をすればいい……
 何時も通りに……
 何も変わらずに……
 ただ側にいるのだ。
 仕事上では必要としてくれている筈だからだ。
「……今日こそは何か食べないと……」
 ようやく身体を動かし、宇都木はキッチンに立った。
 ここしばらく宇都木はほとんど食事を摂っていない。食欲がまず無い。それが一番の問題だった。
 食べ物を粗末にすることが出来ない宇都木は、昨日結局食べなかったハムエッグとサラダと捨ててしまった。それに酷く罪悪感を感じており、余計に食欲が減退していたのだ。
 過去の事があり、食べる物を粗末に出来ない性格は、少しでも残すという行為に酷く罪悪感を持ってしまう。
 だから自炊は自分が食べきれる範囲でしか作らない。米を炊くと、食べきれない為余り炊く機会がない。一人分の総菜を買ったりするのが日常になっているのだ。
 如月のうちに居たときは違った。どうも如月はあれで色々作るのが好きなようなのだ。だから食事時になると自ら料理する。そうであるから宇都木より料理は上手い。
 あの人の作る料理は美味しかった……
 ふっとそんな事を考え、それらを振り払うように冷蔵庫を開ける。だが暫く自分のうちに帰っていなかったのもあり、冷蔵庫には殆ど食材は入っていなかった。
 仕方なしに宇都木は冷凍庫を開け、また食パンを取り出した。
 今から買い物に出るのが億劫であった為、宇都木はパンを焼くことにしたのだ。
 明日帰りに何か買って帰れば良い……。
 そう思いながらトースターに凍ったパンを二枚入れ、メモリを合わせると、また椅子に座った。
 はあ……
 身体が怠い……
 余り食べない所為なのは分かっているのだが、ここまで来るとどうでも良くなっている自分が居る。
 しっかりしないと……
 明日からは又仕事が忙しくなる……
 私に残されたのは……もうそれだけしかない……
 だから……
 あの人を失望させるような事など絶対出来ない……
 チンとトースターがパンが焼けたことを知らせ、宇都木はまた立ち上がってパンを取り出すと皿に乗せた。次にお湯を入れるだけで出来上がるコンソメスープを入れ、何とか二枚のパンを食べることが出来た。
 ……何だか気持ち悪い……
 急に空っぽの胃に入った食物は、急激な収縮に痛みを訴えた。
 ああもう……
 よろよろとリビングに向かい、ソファーに横になった。
 胃が痛い……
 胃の辺りを自分で撫でながら宇都木は目を閉じた。
 すると外から子供達のはしゃぐ声が聞こえてきた。
 確か……
 マンションの下に公園があった……
 遊んで居るんだ……
 羨ましい……
 そんな事を思いながら睡魔が襲ってきた。
 昨晩から今朝にかけて殆ど眠っていなかったのだ。当然、身体は睡眠を欲しがっている。
 少し……眠ろう……
 ソファーに身体を伸ばした宇都木はそのまま横向きに丸くなった。
 まだ日曜は始まったばかりであるのに、宇都木には何もする事がなかった。 



 朝、インターフォンが鳴らされ、宇都木が迎えに来たことを知らせた。
「じゃあ戸浪、これを渡しておくよ」
 既にスーツに着替えた如月は、宇都木が置いていったキーを戸浪に渡した。
「これは……?」
 戸浪が困ったような顔でそう言いながら、如月が渡したキーを手に取った。
「暫くここに居るんだろう?出かけたいときもあるはずだ。このマンションの鍵を開けたまま出て行かれると困るからな。だから渡しておく」
 玄関で靴を履きながら如月はそう言った。
「ああ……ありがとう。そうだ如月……、何処か私が住めるような賃貸物件を探して置いてくれないか?何処でも良いから……」
 そう言って戸浪は項垂れた。
「分かった。今は暫くぼーっとしてるんだな。じゃあ行ってくる……」
 如月はそう言って玄関を出たが、戸浪は「行ってらっしゃい」とは言ってくれなかった。そんな言葉を期待した自分が何だか滑稽に思えた如月は、思わず顔がほころんだ。その表情は駐車場で宇都木に会うまで如月の表情に浮かんでいたようであった。それが分かるように、こちらの姿を見た宇都木の顔が一瞬驚いたような表情になった。
「おはよう宇都木……」
 如月は貼り付いていた笑みを振り払うようにそう言った。すると宇都木の表情はすぐに平静なものへと変わった。
「おはようございます……」
 言って宇都木は前を向く。如月は呆れたように後部座席に乗り込んだ。
 ついこの間まで一緒に住んでいた相手にそんな顔をするのか……
 切り替えが早すぎないか?
 何となくムッとしながらシートに如月は深くもたれた。
「本日の予定表を渡して置きます」
 言って宇都木がこちらに予定表の紙を渡してきたと同時に携帯の鳴る音が鳴った。それは宇都木の携帯のようであった。
「済みません……」
「いいよ……これに目を通しているから……」
 如月は宇都木の方は見ずに渡された紙を見てそう言った。
「はい……宇都木ですが……」
 こんな朝早く誰が宇都木にかけてきたのだと思いながら如月は紙から目を逸らさなかった。
「……あ……」
 小さくそう言って宇都木がミラーでこちらを見たのが、如月には気配で分かった。
 なんだ……
 一体誰だ?
 こっちを窺うと言うことは、私が知っている人間だな?
「……ええ……構いませんよ。じゃあ……そうですね……明日の夕方からなら……また時間はご連絡します」
 それだけ早口で宇都木は言って携帯を切った。
「済みません……。じゃあ……車を出しますね」
 誰と話していたかは言わずに、宇都木は車を出した。そんな宇都木の事が妙に如月には気になった。
 私が知っていて、私に言えない相手か?
 そんな相手は……
 鳴瀬か?
「はあ……」
 小さく溜息を付いて如月は、予定表の紙を畳んだ。
 呆れてものも言えん……
 あんな目に合わされた相手に又会うのか?
 いや……
 鳴瀬と決まったわけでも無いし……
「宇都木……。今のは?」
 結局気になった如月は宇都木にそう聞いた。
「私用です……済みませんでした……」
 宇都木はそう言っただけで、会社に着くまでもう何も言わなかった。
 ……
 仕事以外はもうつき合いたくないのか……
 宇都木は会社に出社してからも、秘書としての顔でしか如月に接さなかった。口調も同じく事務的だ。それも今まで以上だ。
 それはいい……
 仕事をしてくれるなら……
 だが……
 何処か悪いのか?
 酷く顔色が悪い……
「おい、宇都木。お前、顔色が悪いぞ」
 書類を整理している宇都木にそう如月が言うと、チラリとこちらを向いたが、また手元の書類に視線を戻した。
「いえ……大丈夫です……」
「何でも良いが……そろそろ昼時だな……。何か食いに出るか?」
 そう言って如月が窓際の席から立つと、宇都木がびっくりしたような顔をした。
 何故そういちいち驚くんだ?
 私がそう言う風に言うのも気に入らないのか?
 如月には今の宇都木が全く分からないのだ。
「おい、どうするんだ?私は行くぞ」
 仕方無しにそう言うと、宇都木は小さく頷いて如月の後を付いてきた。
 
 どんな顔をしていいのか分からない……
 会社のすぐ側にあるうどん屋に、宇都木は如月に付いて入ったのは良いのだが、宇都木はどんな顔をして良いのか分からなかった。
 普通に接そうとしているのだが、以前出来た表情が作られないのだ。
 強ばってるに違いない……
 どうしよう……
 普通にしたいのに……
 窓際にある二人席に向かい合わせに座ったのは良いが、先程から如月の方を向くことが出来ずに、宇都木の視線は両手で挟んでいる湯飲みから動かなかった。
「お前何にする?私は本日の定食にするが……」
 メニューを見ていた如月がそう言った。
「同じので……構わないです……」
「じゃあ……二つ頼むぞ。本当に良いのか?お前が食べたいものを食べたら良いんだぞ。別に合わせなくても……」
「いえ……本日の定食で……」
 相変わらず下を向いたまま宇都木はそう言った。
 こうやって向き合い食事を摂れるのが宇都木には嬉しかった。
 戸浪とどういう関係で今あろうと、普通に接してくれている如月に感謝をしていたのだ。だが宇都木自身はそれにどう応え、どんな顔で居たらいいのか分からない。
 笑えばいいのだろうか……
 それとも……
 分からない……
 以前はどうしていたのだろう……
 二人で暮らしていたときは自然に出来た表情が、今は酷く強ばっているのだ。 自分でもそれが分かるのだから、如月がそれに気が付かないわけなど無い。
 変だと思われたら……
 嫌だ……
 まだ如月を想っていると知られると、疎ましく思われるに違いないと宇都木は考えていた。
 恋愛問題でこじれると、仕事に差し支える……。
 それはオフィスで恋愛をした人間が良く言う言葉だった。だからこそ、確かに一度は同じベットで朝を迎え、二人で睦言を囁きあう関係だったとしても、もうそれが終わってしまったのだから、引きずるわけには行かないのだ。
 引きずってしまうと全てが終わってしまう……
 だからこそ宇都木はいつも通りに振る舞おうと、日曜散々考えてこれからの身の振りを決めたのだ。だが、決めたは良いが、上手く出来ないのだ。
 どうしよう……
 今自分がどんな顔をしているのかも分からない……
 そんな事をぐるぐると考えていると、本日の定食が自分の前に置かれた。
「おい、食うぞ」
 やや呆れたように聞こえる如月の声が、自分の態度が失敗しているのを物語っていた。
 普通に……
 普通にしていたらいいんだ……
 宇都木は必死に自分にそう言い聞かせ、割り箸を袋から出すと、「頂きます」と小さな声で言った。
「ああ……しっかり食うんだな……」
 言って如月も割り箸を割っている音が聞こえる。
 一緒に食事は摂れるんだ……
 こうやって会社では一緒に居られる……
 嬉しい……
 何だか胸が一杯になった宇都木は思わず箸が止まった。
 駄目だ……
 普通に食べないと……
 宇都木は止まった手を動かして、小さな煮物を掴むと口に運んだ。だが胸が一杯になっている宇都木にはその煮物を呑み込むのも大変だった。
 暫くそんな調子で食べていると、如月が言った。
「宇都木……」
「はい……」
 そろそろと顔を上げると、如月の表情はやや怒った顔をしていた。
「嫌なら……そういえ」
 言って如月は自分の分を半分残したまま立ち上がった。同時に伝票もその手に持っていた。
「え?あの……」
 何があったのか宇都木には全く分からなかった。
「お前、自分がどれだけ嫌そうな顔をして食事を食べているのか分かってるのか?私と一緒に居るのが嫌ならそう言えば良いんだ」
 言って如月は、急ぎ足で会計に向かって歩いていった。その間こちらを振り向くこともしなかった。
 ……嫌?
 そんな事なんか無い……
 嬉しいのに……
 如月の台詞に呆然としながら、宇都木は横にある窓硝子に映った自分を見た。
 そこには酷く苦しそうな表情の宇都木の顔が映っていた。
 ああ……
 そうか……
 私はこんな顔をあの人に見せていたのだ……
 それが分かった瞬間に自分の顔が更に歪んだ。
 これではそう言われても仕方ない……
 硝子から視線を手元に移して宇都木は暫く項垂れたまま、動くことが出来なかった。
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