Angel Sugar

「黄昏感懐」 第24章

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 会社に着いてからの宇都木は、一応時間を見つけては如月が言ったように引継書なるものを作成していた。
 気にすること無い……
 普通の事だ……
 そう思いながら宇都木はパソコンのキーを叩いた。如月の方は別段変わった様子もなく、何時も通りだ。
 やはり形式だけのものなのだろう……
 そんなことを思いながら、普段通り宇都木も振る舞うことにした。
「宇都木……ちょっと出てくる。隣の皆川さんが私に話しがあるらしい。そうだな……三十分ほどで帰ってくるよ。何かあったら携帯に電話を入れてくれ。表の茶店にいるから……」
 そう言って如月はスーツの上着を羽織った。
「分かりました。何かありましたら携帯の方へ連絡します」
 宇都木が言うと、如月は「じゃあ行ってくる……」と言って部屋を出ていった。
 ……今朝のあの抱擁は一体何だったのだろう……
 宇都木は如月が出ていった扉の方を見ながら、朝の出来事を思い出した。いきなり抱きしめられ、まるで恋人に対するような仕草で頭を撫でられたのだ。
 それを思い出すだけで、宇都木はここが会社でありながら身体が火照りそうであった。
 もうあんな風に抱きしめられる事など無いと思っていた。が、どうして如月があのような行動をとったのか宇都木には分からないでいた。
 そんなに私は……
 ひ弱に見えたのだろうか?
 支えてやらなければならないほど、酷い顔色をしていたのか?
 倒れそうに見え、如月は抱きしめてやろうと思ったのだろうか?
 そう考え、宇都木は席を立ち、如月の机の隣りに設置してあるハンガーに付いている鏡を覗き込んだ。そこには、確かに疲れた顔をした自分が映っていた。
 はあ……
 昨日、遅かったし……
 それで睡眠不足なんですよ……
 ただそれだけなんです……
 身体が悪い訳じゃない……
 誰も居ない部屋で、宇都木は一人そうごちた。
 暫く鏡を眺め、急に戸浪を思いだした宇都木は、鏡から視線を逸らせた。
 あんな綺麗な男だったら……
 あの人も……私を選んでくれたのだろうか……
 戸浪は確かに綺麗だった。
 あの色素の薄い茶色の瞳と、サラサラとした髪は、同じ男と思えないほどだったのだ。なにより綺麗なのだが、女っぽくはない。その絶妙な容姿は男から見ても羨ましいほどだ。
 私は……?
 私はどうなのだろう……
 自分で自分のことを宇都木は考えたことはない。だが、どちらかというと身体は痩せてギスギスしており、顔も綺麗などと言えたものではない。
 髪はサラサラと言うよりぱさぱさしている。その色も戸浪の様な薄い茶色ではなく、ごく一般的な黒髪だ。柔らかい感じでも固い感じでもない。瞳も大きいわけでも可愛いわけでもない。
 要するにそのへんに居る男と何等区別を付ける事が出来ない平凡なタイプだった。
 スーツの上から腕を触り、余り抱き心地の良さそうな身体じゃないな……と宇都木は思い一人顔を赤らめた。
 何を一人で考えて居るんだろう……
 馬鹿だ……
 戸浪と較べたところで、自分は自分だ。それをどうにかすることなど出来ない。もって生まれた資質なり、顔かたちを変えることなど出来ないのだ。だがもし、戸浪のようなタイプであったのなら、如月も自分を選んでくれたのではないかと思うと、そのどうにもならないことで宇都木は思い悩むのだ。
 戸浪は昨日どうしたのだろうか?
 祐馬と仲直りして、いまはもう如月の家にはいないのだろうか?
 それともあれからまた帰ってきたのだろうか?
 どうなのだろう……
 はあ……
 駄目だ……仕事しよう……
 宇都木は席に戻ると、またパソコンのキーを叩きだした。
 仕事は山のようにある。だからといって又遅くまで仕事をすると如月に怒鳴られるだろう。昨日の如月の剣幕は心底恐いと宇都木は思った。あんな風に二度と怒鳴られたく無かった。
 パチパチとキーを打つ音だけが部屋に響く、そんな中、宇都木は重大なことを思い出した。
 もし……
 戸浪と祐馬が元の鞘に戻って……
 祐馬さんに私が力を貸していたとあの人が知ったら……
 どうなる?
 如月が戸浪とようやくよりを戻し、毎日幸せに暮らしていたはずだ。それを直接的ではないが、宇都木が邪魔をしたことになる。
 でもあれは……
 仕方のない事だった……
 相談を受けた為、話しを聞くしかなかった。宇都木には選択の余地は無かったのだ。
 だがもし、如月がその事を知るとどう思うだろう?宇都木が嫉妬心からそんなことをしたとは思わないだろうか?
 確かにこれで祐馬とよりが戻れば良いと宇都木は思ったことは確かだ。如月の住まいから戸浪が出ていってくれたら……そう何度も思った。
 だが、如月が幸せならそれで良いとも思っていた。そんな気持ちをどう説明したら分かって貰えるのだろう?
 宇都木は如月の想いを数年間見続けてきた。想う相手はこそ違うが、その気持ちは自分と同じものだと知っていた。だから、如月のマンションのキーも返した。別れたくないなどと駄々をこねることもしなかった。
 ……ばれたら……
 本当にこの場所を失ってしまう……
 宇都木はパソコンのキーを打つ手が震えていることに気が付かなかった。



 如月が夜帰って来るとまだ戸浪は帰っていなかった。本日は会社に行くと言っていたので、多分に行ったのだろう。
 ずっと休んでいたが……
 行く気になったのか……。
 祐馬と何があり、あんな風に戸浪がボロボロになったのか未だに如月は聞くことをしなかった。言いたくないことを無理矢理聞く気も無いからだ。何より、先日聞いた話では、戸浪は祐馬と今まで抱き合ったことが無かったという事実を聞き、不審に思ったのだ。
 うちに来たときは……
 胸元にかなりのキスマークの跡があったはずだ……
 祐馬では無かったとしたら誰だ?
 それが原因か?
 色々考えることはしたが、如月はやはり聞くことではないと思った。戸浪自身から話すなら相談に乗ってやろう。だが話したくなければ無理に言わせることはないのだ……と。
 如月がキッチンに向かうと、戸浪が拾ってきた黒い子猫がじいっと自分の餌の入れ物の前に座っているのがみえた。
 腹が減ってるのか……
 可哀相に思った如月は空になった餌入れに、パラパラと煮干しを入れてやったのだが、黒い子猫はそれを食べようとはしなかった。
 煮干しは……嫌いなのか?
 変だな……昨日戸浪が上げていたときは食べていたぞ……
「おい、食え。折角入れてやったんだから……」
 そう言って如月が餌の入れ物を持ち、子猫に突きつけると、いきなり爪が飛んできた。
 ふーーーっ!
 その上毛も逆立てている。
「な……なんだ?お前……その態度はなんだ?」
 驚いた顔で如月がそう言うのだが、猫相手に通じるわけなど無い。分かっていてもあまりの態度に如月はムッとした。
 ……でも……まあ捨て猫だから……
 警戒心があるのかもしれない……
 優しくしてやったら良いんだろう……
 今度そう思った如月が手を伸ばし、黒い頭を撫でようとすると、いきなりその手に噛みついてきた。
「うわあっ!お前一体どういうつもりだっ!」
 延ばした手を引っ込め、如月はそう怒鳴ったのだが、黒い子猫は黄金の瞳をぎらぎらとさせてこちらを睨んでいるだけだった。
 無視だ……
 こういう動物は苦手だ。 
 戸浪が何とかするだろう……
 無視して夕飯を作るか……。
 そんなことを考え、睨んでいる黒い猫を無視し、如月は夕飯の支度を始めた。

 夕飯の支度が終わる頃、玄関の開閉する音が聞こえた。
 戸浪が帰ってきたか……
 如月はキッチンから出ると玄関に向かった。
「なんだ……いちいち迎えてくれなくても良い……」
 折角出迎えてやった如月に戸浪が靴を脱ぎながら迷惑気に言った。
「あの馬鹿猫……なんとかしろ……」
 溜息をついて如月は言った。
「なんだ?ユウマがなにかやったのか?」
 ユウマ……だと?
 あの猫にそんな名前をお前は真面目に付けたのか?
 如月には信じられなかった。
「は?お前……あのくそ猫にそんなふざけた名前を付けたのか?」
 驚いた風に如月が言っていると、ユウマが走ってきた。
「にゃ~」
 可愛げに鳴きながら戸浪の足下に絡みつくユウマは、先程如月に見せた好戦的な態度などこれっぽっちも無かった。
「……どうしてお前にはこんなに愛想がいいんだ……信じられない猫だ……」
 この態度の差はなんだ?
 ユウマと言う名前がこんな性格にさせたのではないかと真剣に如月は思った。
「何かしたのか?」
 スリッパを履いた戸浪がそう言った。
「こいつ……私が餌をやっても食わない。その上、頭を撫でてやろうとすると思いっきり噛みついてきた」
 ムッとした顔で如月は言った。 
「お前……私がいない間に苛めたんじゃないのか?」
 ユウマを抱き上げ、その黒い身体を撫でながら戸浪がそう言った。
「……あのなあ……私が動物虐待するわけ無いだろう……。私は可愛がってやろうとしたんだ。それがこれだ……」
 そう言って如月は先程爪を立てられた手を見せた。その手首や手の甲には引っかかれた跡と、噛みつかれた跡が付いていたからだ。それを見た戸浪は急に笑い出した。
「笑い事じゃない……」
 溜息をついて如月は言った。
「笑い事だ……はは」
 久しぶりに笑った戸浪を見た……
 それが酷く如月には嬉しかった。
「……久しぶりに笑ったな……」
 如月はそう言い、戸浪の頬に手を掛けようとすると、又ユウマが爪を立てた。
「うわっ!」
「おい、ユウマっ!」
 ぽこんと軽くユウマの頭を戸浪が叩いたが、逆立てた毛は戻る様子は無かった。
「フーーーッ!」
 その上相変わらずユウマは如月に向かって威嚇していた。
「戸浪……お前が妙な名前を付けるからこんな事になったんじゃないのか?」
 本気で如月はそう言った。
「……さ、さあ……」
 はははと笑いながら戸浪はユウマを抱いたまま、自分にあてがわれた寝室に向かった。それを見送り、如月は又溜息をついて、キッチンに引き返した。
 全く……
 あんな名前を付けるからだ……
 それにしても……
 戸浪はどうするつもりなのだろうか?
 如月はこの間戸浪が祐馬の家に向かった段階でもう戻ってこないと思っていたのだ。
 まだ何かお互い引っかかっているのか?
 まあ……昔から戸浪は言いたいことを言わないタイプだったからな……
 その辺りで引っかかっているのかもしれない……
 夕食の準備をしながら如月がそんなことを考えていると戸浪が着替えてキッチンに入ってきた。
「如月……随分迷惑をかけて……悪いと思ってる。だから、今度からそう言うことはしなくて良いから……」
「道楽だよ……気にするな……」
 そう言って如月はキッチンテーブルにみそ汁を入れた碗を置いた。他に焼き魚とほうれん草のお浸しを入れた皿を机に置く。
「……お前ってこんな色々作れたか?」
 冷蔵庫から缶ビールを取り出している如月に戸浪は驚いた風に言った。だがそれに対して如月は笑うだけにとどめた。
 なんだか男の癖に料理が出来ると褒められても余り嬉しいと思わなかったからだ。そんなことを思い何も言わないでいると戸浪は続けて言った。
「ま……ありがたく御馳走になるよ……」
 戸浪は頂きますと手を合わせ、如月の作った夕食を食べ始めた。ユウマの方はそれに合わせるかのように、自分の皿に入っていた餌を食べだした。
「変な猫だな……」
 ビールを飲みながら如月はそう言った。
「……猫だし……」
 そういった戸浪の言葉に如月は思わずビールを吹き出しそうになった。
 こういうところは天然なのだろう。
「で、明日、何時に行くんだ?」
 気を取り直し如月はそう戸浪に聞いた。
「あ、ああ。お前が都合悪いのだったら一人で行ってくるつもりなんだが……」
 戸浪は何か引っかかったようにそう言った。
「いや、大丈夫だ。付いていけるよ」
 如月がそう言うと、戸浪は嬉しそうな顔ではなく、残念そうな表情になった。
 一人で行きたいと言えばいいのにな……
 全く……
「そうか……悪いな……」
「……本当は一人で行きたいんじゃないのか?」
 如月がそう言うと、戸浪は驚いた顔で言った。
「……え?」
「行きたかったら行ってくるといい」
 ビールをもう一度飲んで如月は言った。その言葉で戸浪の箸が止まる。
「なあ……戸浪……」
「なんだ……」
「自分に正直になれよ……」
「……」
「お前はいつだってそうだった。本当に自分が望むことを、口に出さずにいつも心の中に秘めていた……。それは美徳かもしれんが……時には自分から相手に吐き出すのも良いんじゃないのか?」
 それが昔、私達が駄目になった理由だろう?
 私はそう思う……
 あの時私はその事に気が付いてやれなかった。
 そこでお互いすれ違ったんだ……。
 違うか?
 お前はどう思うんだ?
「……別に……何も……」
「私から見ていると……お前は祐馬のうちに帰りたくて仕方ない……そんな目をしてるぞ。嫌がられても押し掛けるくらいの気持ちが無いのか?好きなんだろう?」
 嫌いで一晩やりまくるなんて戸浪の性格では出来ない。
 好きだから出来たはずだ。
「終わったんだ……」
 小さく戸浪はそう言った。
「そのくせ、自分で夜這いをかけたじゃないか。どうもお前はやることが極端すぎるんだな……」
 くすくすと笑いながら如月は言った。
「……別に……」
「なあ……お前が時計を拾って……祐馬のうちの玄関で、開けてくれと言っていたあのくらいの気持ちがどうして今無いんだ?」
 あんな戸浪は初めて見た……
 そして思った。
 お前は祐馬に心底惚れているってな。
「……」
「あのな……今頃ばらしても仕方ないんだが……。お前が気を失った後すぐに祐馬があの扉を開けて出てきた。それもな、頭から水でもかぶったんじゃないかと言うくらい濡れて出てきたんだ。お前達に何があの時あったかは分からない。だけど……祐馬も頭を冷やそうとしていたのは、びしょ濡れのあいつを見て分かったよ。祐馬は昔から、勢いでつっこむところがあるから……お前に酷いことを言ったのかもしれない……だが、悪い奴じゃないぞ……」
「……どうして……お前が祐馬を弁護して居るんだ」
「さあな……。一度騙してみせたことに対する罪滅ぼしなんだろう」
 そう言って如月はクスリと笑った。
「もう……終わったんだ……」
「自分が終わったと思わない限りなんだって終わりにはならない。仕事でも私生活でもな。終わったと言うのは本当にどうにもならなくなったときだ。でも、お前達はこの間やりまくったんだろ?遊びやその時の雰囲気で出来る性格の二人じゃなだろうが……」
 困ったような顔で如月は言った。
「祐馬は……まだ……」
 戸浪は顔を上げて如月にそう言った。だが言葉の途中が切れ、先は無かった。
「好きなんだろ。あいつは好きでない相手を抱くことなんて出来ないぞ。それも男をな……」
 祐馬は……
 そういう男だよ……
 私が保障しても良い……
 まだまだガキだが……
「……如月……」
「私は好きだが、お前はどうだ?と祐馬に聞けばそれで済むことだろう。何をうじうじ二人でやってるんだ。見ていてイライラする」
 ムッとした顔で如月は言った。
「お前は……どうしてそんなに優しいんだ……」
 じわりと戸浪の瞳は涙で滲んだ。
「別に優しくなんか無い。何をやってもこっちを見てくれないんだったら、いい人になるしか、これから先お前ともう会えないだろう?」
 そう……
 良い友人として……
 これからは会ってみたいと思っているんだ。
 そして幸せそうにしているお前達に、私の恋人を紹介してやる……
 そんな事を考えて如月は思わず笑いそうになった。
「明日は……一人で行けるな?」
 如月はもう一度そう言った。
「……ああ。一人で行ってくる……」
 戸浪は目を擦りながらようやくそう言った。
「ちゃんと祐馬と話をしてくる」
 続けてそう言った戸浪は、何か吹っ切った顔をしていた。
 明日行ったら……
 もう帰ってこないな……
 それでいいさ……
 私も安心だ。
 戸浪とつき合い、別れた時から随分時間が経った。そして今、お互い想う相手は違う。だが、不思議とこれで良かったのだと如月は思えた。
 私には宇都木が居る……
 今、大切なのは宇都木だ。
 そんなことを考えながら如月は夕食を食べた。
 来週からは宇都木にこんな風に食事を作ってやらないとな……と、如月は思った。
 翌日戸浪が出ていくと、如月はさっさと戸浪の荷物をダンボールに詰めた。時間をおいて運んでやればいいのだ。二度手間になるのは困る。
 その帰りに宇都木のマンションに寄るつもりで如月は居たのだ。
 金曜の晩は早く帰ったのを見たが……
 やはり余り調子良さそうに思えなかった。
 そんな風に色々考えながら如月は戸浪の荷物をダンボール一箱に、スポーツバックを玄関に置くと、最後の荷物を捕まえた。
 ふぎゃーーっ……
 ユウマはものすごい形相で睨みながら抵抗したが、首根っこを捕まえ籠に押し込んだ。
 全く……とんでもない猫だ……
 引っかかれた手を振りながら如月は駐車場に向かい荷物を車に積んだ。
 さてと……
 そろそろ頃合いかもな……
 思いながら、如月は車に乗ると祐馬のマンションに向かった。

 祐馬のマンションに着き、インターフォンを散々鳴らし、ようやく扉が開かれた。
「戸浪はいるか?」
 そう言うと祐馬は真っ赤な顔をして廊下を走っていき、暫くすると戸浪を連れて玄関まで戻ってきた。
「おい、上手くいったんならちゃんと報告しろ」
 如月は苦笑しながらそう言った。
 どう見ても仲直りした顔で二人が居たからだ。
「……帰ってから……と思ったんだ……」
 戸浪はそう言って視線を逸らせた。
「帰ってこなくていいぞ。お前の荷物は持ってきてやった。どうせこうなるだろうと思っていたからな……」
 言って如月は戸浪が持ってきたスポーツバックを玄関に置き、その上に、猫をいれたかごを置いた。
「私とは馬が合わないもんでね。お前が拾ったんだからお前が面倒見ろ」
 猫の入った籠を見ながら如月はそう言った。
「戸浪ちゃん猫拾ったの?」
 横で様子を見ていた祐馬が驚いた顔でそう言った。
「まあな……飼って……いいか?」
「それは構わないけど……ここ、ペットオッケーの買い取りマンションだし……。でも戸浪ちゃんが動物飼うなんて……意外だ……」
 かごに入った猫を見ながら祐馬は不思議そうにそう言う。そんな二人に如月は呆れながらも、まあ……これで良いのだと思った。
「後の荷物は段ボールに一つくらいだ。祐馬……お前が取ってこい。私の車は分かるな」
 言って祐馬に車のキーを投げた。祐馬はそれを受け取ると、戸浪と如月を交互に見て「取ってくる……」と言い、靴を履いて玄関から出ていった。
「あいつ……あれで気を使ってるつもりなんだろう……はは。私とお前に何かあったと思ってるに違いない……。それも仕方ないって顔で出ていったからな……ははは」
 玄関に座って如月は笑いながら言った。
「何を言ってるんだ……お前とは何も無いのに、ようやく落ち着いた関係を、またぶち壊すような事は言ってくれるなよ……」
 また……か。
 もうそんなことはしないさ……
「よく言うよ……こんなに力を貸してやったのに……一晩くらいご褒美貰っても良いはずだろ……」
 ニヤと口元で笑い如月はそう言った。
「馬鹿言うな……だが……お前には本当に感謝してる……」
 戸浪は心底感謝しているという表情をこちらに見せた。
「いや……良いんだ……」
 如月がそう言って戸浪に近づこうとした瞬間に祐馬が走り込んできた。
「はあはあ……取ってきた……も、もういいよ。ありがとう如月さんっ!」
 ぜえぜえ言いながら祐馬はそう言って、段ボール箱を置くと、ぐいぐいと如月を玄関から追い出した。
「おい、祐馬……お茶くらい出してくれないのか?」
 居座る気は無いのだが、社交辞令的に如月はそう言った。
「また今度ね……あ、こっちの家には来なくて良いから……」
 そう言う祐馬に爆笑しながら如月は祐馬のマンションを後にした。
 これでいいんだな……
 如月はスッキリした気分で宇都木の携帯に電話を掛けた。だがコールはするのだが電話は繋がらなかった。
 変だな……
 今日は居る筈なんだが……
 出かけたのか?
 そう思いながらも如月は宇都木のマンションに車を向かわせた。

 金曜の夕方頃から気分が酷く悪かった。何とか誤魔化しながらうちに帰ったのは良かったのだが、うちにたどり着いて玄関で一度座り込んでしまった。
 数十分気分がましになるのを待ち、宇都木はそのまま寝室に向かうと倒れ込むようにベットに沈み込んだ。
 次に意識がはっきりしたのは翌日だった。
 ベットに横になりながら身体を動かすのも怠く、冷や汗が背を伝うのを感じた。
 気分が悪い……
 身体を動かすのもままならない状態であったのだが、とりあえず着ているものを脱ぎ、パジャマに着替えた。食欲は全くなく、吐き気と頭痛が宇都木を悩ませた。
 風邪……
 風邪だろう……
 何度もそう思いながら宇都木は毛布に潜り込み、眠ろうとした。だが妙に神経が立っており、身体は睡眠を欲しているのだが、眠ることが出来なかった。
 気持ち悪い……
 胃の中に何も入っていないにも関わらず、吐き気が絶え間なく襲う。その上、身体が熱っぽく、まるで力が入らなかった。
 恐い……
 恐くて寂しい……
 独りぼっちでベットに丸くなっている自分が、とても孤独に宇都木は思えた。
 シンとした部屋で、宇都木はなんだか泣きたくなった。いや既に目には涙が浮かんでいた。
 身体が言うことをきいてくれない状態が、余計に不安にさせるのだ。 
 そんな時携帯が鳴っているのが聞こえた。宇都木は脱いだスーツの上着からようやく携帯を取りだし表示を見ると如月からだった。
 ……
 どうしよう……
 こんな状態を気付かれたら……
 絶対怒られる……
 怒られるだけならいい。
 仕事を辞めさせられるのが恐い……
 そう思った宇都木は、電話を取りたいと思いながらも、携帯の電源を切った。
 済みません……
 私……どうしても……
 最後に残った場所だけは守りたいんです……
 目に涙を一杯溜めながら宇都木は毛布を握りしめた。
 どうしてこんなに身体が言うことをきかないのかが逆に宇都木には腹立たしかった。何とか食事も摂ったはずだ。出来るだけ早く寝るようにもしていた。だが日々蓄積される疲労は、宇都木を追いつめるだけであった。
 身体……
 熱い……
 熱が出ているのだろう。それは宇都木にも分かった。せめて頭を冷やさなければと宇都木は何とかベットから降り、キッチンに向かった。
 冷凍庫にアイスノンが入っているからだ。
 あれで頭を冷やしたら……
 少しは眠られるかもしれない……
 眠らないと……
 疲れているだけなんだから……
 フラフラと頼りない足下で歩き、宇都木はキッチンに入った。目眩が頻繁に宇都木を襲うのだが、それを何とか耐え、冷凍庫からアイスノンを取り出した。
 この間……
 あの人が私にこれをあてがってくれたのだ……
 あんなのは……
 もうして貰えない……
 タオルを巻かず持ったアイスノンはいつもなら冷たすぎて持っていられない。だが今日は違った。その直に感じる冷たさが酷く心地良いのだ。
 宇都木はアイスノンを持ち、またよろよろとキッチンを出ると、廊下を歩いて寝室に戻ろうとした。だが玄関がいきなり開く音がし、驚いて振り返ると如月が立っていた。
「……え……」
 如月の顔を見た瞬間に、宇都木はホッと気が抜けてその場に座り込んでしまった。
「宇都木っ!」
 そんな宇都木に驚いた如月が走り寄ってきた。
「か……鍵……は?」
 身体を支えられ、宇都木はそう言った。
「開いてたぞ。お前不用心だな……そうじゃなくて……どうした?」
 言って如月が額に手を伸ばしてくるのを宇都木は押し返した。
「何でも……何でも無いんです。ちょっと疲れて……」
 宇都木はそう言ったが、如月は酷く強ばった表情になった。
「身体が酷く熱い……。宇都木、医者に行こう……な?連れて行ってやるから……」
 宥めるような口調で如月が言った。
「……え、大丈夫です……その……本当に……私……」
「いい加減にしろっ!一度くらい私の言うことを聞けっ!」
 その怒鳴り声に宇都木は身体を竦めた。
「いいな……今から連れて行ってやるから……。本当にお前は……こんな状態で何を言ってるんだっ!」
 いきなり抱き上げられ、宇都木の身体は宙に浮いた。
「……済みません……」
 もう宇都木はどうして良いか分からなかった。
「何時もお前は……謝るばっかりだッ!いい加減……そういうお前の態度に頭に来ていたんだっ!」
 嫌われた……
 嫌われたんだ……
 私は……ただ……
 今の場所を守りたかった……
 ただ……それだけだった……
 宇都木の意識はそこで途切れた。

 目が覚めると、病院のベットらしき所に自分の身体は横たえられていた。そして腕には点滴の針が刺され、頭には氷枕が敷かれていた。
 気分は随分ましになっており、吐き気も収まっていた。ただまだ頭痛だけは酷かった。
 宇都木は上半身を起こし、キョロキョロと回りを見回すのだが、ベットの回りを囲むカーテンが邪魔をして周囲がどうなっているのか分からなかった。
 するとカーテンがそっと引かれ、如月の顔が覗いた。
「……気が付いたか?」
「あの……私は……」
 おろおろとそう宇都木が言うと、如月はカーテンを先程引いたよりももう少し引き、脇にあったパイプ椅子に座った。
「お前なあ……水くらい飲め」
 はあと溜息を付き、如月はそう言った。
「え?」
「脱水症状を起こしてたんだ。それとな、過労だ。だから言っただろう……無理をするなと……」
 そう言われ、宇都木は恥ずかしさの余り顔が赤くなった。
「……す……済みません……」
「暫く静養した方がいい。血液検査じゃあどの数値も一般男性の数値を半分割っていたんだそうだ。医者が言うには、良くこれで立ってましたねえ……だと」
 困惑したような顔で如月は言った。
「……」
「とにかく二日は入院だ。いいな?暫く点滴をとっかえひっかえするそうだから……」
 二日……
 二日くらいなら仕事に差し支えはしないだろう……
 宇都木はそう考えてホッとした。
「はい……」
「それと……来週から会社に来なくて良い。暫く休め」
「……え……来なくて良いって……」
 今の如月の言葉がどうにも信じられなくて宇都木は言った。
「言葉通りだ。引継書は出来ているだろう?なら誰にでも出来るさ。今のお前じゃあいつまた倒れるか分からない。そんな身体で会社に来られてもみんなに迷惑をかけるだけだろう……だから、もういいんだ」
 もう良いって……
 じゃあ……
 私は……
 私の場所は?
 宇都木は如月の言葉に呆然となった。
「だ、大丈夫ですから……すぐ……すぐに治ります……だから……」
 嫌だ……
 そんなのは……
 絶対嫌だ……
 宇都木は思わず涙がこぼれ落ちた。
「泣いても駄目だ。秘書の代わりはいくらでも居る。だから、もうこの話は終わりだ」
 私の代わりは……
 いくらでも居るのだ……
 だから……
 私が必死に守りたかった場所は……
 この人にとって誰にでも明け渡せるものだったのだ……
「如月さん……ちょっと保険のことで……」
 看護婦が如月を呼びに来た。
「あ、はい……宇都木、大人しくしてろよ。ちょっと行ってくる」
 如月はにこやかにそう言い、呼びに来た看護婦に付いて病室を出ていった。
 私は……
 一体何だったのだろう……
 私の場所がこれで何処にも無くなってしまった。
 最後の最後まで守りたかった所も……
 なのにあの人は笑って……
 私を切り捨てたのだ。
 誰でも良かったから……
 私でなくても良かったから……
 笑えたのだ。
 宇都木は止まらない涙を拭うこともせず、ぼんやりと何処か遠くを見つめて泣き続けた。
 みんな……
 失った……
 恋人としてのあの人も……
 秘書としての立場も……
 もう……
 あの人の側に私の場所は無いのだ。
 何もかも……
 失った……
 じゃあ……
 私は何処で息をして生きていけば良いんだろう……
 止めどもなく涙を落としながら宇都木はただ思った。
 元々何処にも自分の居場所は無かったのだ……と。

 如月が戻ってくると、居るはずの宇都木の姿はなかった。
「宇都木?」
 ベットの上には引き抜かれた点滴の注射針だけがぽつんと置かれていた。
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