「黄昏感懐」 第17章
一体…あいつは……
何をやってるんだ!
車内から視線を外に向けてぼんやりと景色を眺めていた如月であったが、祐馬のマンションが目に入り、何となくそちら方向を見ていたのだ。
すると誰かがこの雨の中駐車場で四つん這いになっているのが見えた。
こんな雨の中、誰が何をやっているのだろうと、思いながらその人物を見て驚いた。
戸浪だったのだ。
それが分かった瞬間に、如月は宇都木に車を停めるように言うと、すぐさま車外に飛び出した。
雨が降りしきる中、戸浪に近づくと、必死に何かを拾っていた。こちらが側に立っているにも関わらず、戸浪には見えないのか、ただ必死にコンクリの上に散らばっているものを集めていた。
その姿は靴も履かず、もちろん傘も差していない所為でずぶぬれで、濡れた髪が頬にぺたりとくっついている。何より、何を拾って居るのか如月には分からなかったが、拾い集めている手からは血が滴り落ちているのだ。それは雨に流され、周囲のアスファルトを染めていた。
だが戸浪の方は、そんなことなど全く気にならないようであった。
「戸浪……?」
如月がそう声を掛けると、ゆるゆると戸浪はこちらを向いた。
その顔には血の気が無く、瞳は虚ろだった。
何が……
あった?
あまりの戸浪の姿に茫然となり、声が直ぐに出なかった。
暫くこちらを見ていた戸浪であったが、また視線をアアスファルトの上に戻し、何かを拾い始めた。
「何をしてるんだ?」
如月は四つん這いになって何かを探す戸浪の上から傘をかけてやった。
「え、ああ……時計を……」
ようやく開いた戸浪の口から出た言葉は妙におちついていた。
「時計?お前……時計を握ってるのか?」
驚いた如月が戸浪の手首を掴もうとすると、その手を払われた。
「これは……私のものだ……」
濡れたコンクリに座り込み、両手の中に持っているものをギュッと力を込めて握りしめる戸浪は、一種悲壮であった。
そんな風に握りしめたら……
血が……
そう如月は思うのだが、戸浪の様子からそれを取り上げられないことが分かった。酷く大切なものなのだ。
「分かった……取ったりしないよ。だが、お前……手から血が出ているの分かってるのか?」
「血……?」
戸浪はそう言い、次にぼんやりとした視線を下に向け、自分の握りしめている手を眺めたのだが、不思議なものを見ているような……そんな奇妙な表情をしていた。
状況が分かっていないのか?
何があったんだ?
「ああ……痛くないから大丈夫だ……」
そう言って何故か戸浪は笑った。
あれだけ血が出ていると痛くないはずは無いのだ。
一体……
何があったのだろうか?
「どうした?」
祐馬と何かあったのか?
喧嘩でもしたのだろうか?
「それより……又日本に帰ってきたのか?」
言いながらも戸浪の手は、砕けた時計の破片を探して、またコンクリートの上を彷徨っていた。
「……ああ、今度こっちで働くことになってね……ここは通勤路だ。だから私のことはいい、お前は靴も履かずに何をやってるんだ……」
止めさせないと……
手からは益々血が流れている……
病院に連れて行かないと……
いや……
それは私がしてはいけないことなんだが……
祐馬だっ!
祐馬は何をやっているんだっ!
自分の恋人がこんな事をしているのをあいつは知らないのか?
それとも……
何か……
とてつもないことでもあったのか?
「……大切なものを……拾ってる……」
自分の手を休ませることなく、戸浪はそう言った。
「……祐馬と何かあったのか?」
その言葉に戸浪の身体が震えた。
やはり何かあったのだ。
「何も……何もないよ……心配してくれなくても良い」
その戸浪の声は酷く掠れていた。
「戸浪……手を治療しないと血が止まらないぞ……」
宥めるように如月はそう言った。だが、戸浪はチラと自分の手を見ただけで、また血まみれの手でアスファルトの上を撫で回した。
「大丈夫だ……大したことはないよ……」
「駄目だ……もう止せ……」
如月は戸浪の手首を無理矢理掴み、その雨に濡れた身体を引き寄せた。
「全部っ……集めないとっ!修理に出すんだっ!如月っ……離せっ!」
戸浪は如月に引き寄せられたことよりも、自分のしていることを止められた所為で暴れ出した。
こんな……
こんな戸浪は見たことが無い……
「後はもう小さな硝子の破片だ……そんなものは持っていってもどうにもならない。今、お前が持っているもので充分だよ……」
そう如月が言うと、戸浪は大人しくなり、ぼんやりと視線をこちらに向けた。
「……そうか?」
「ああ……充分だ……」
「良かった……そうか……もう充分か……。じゃあ……帰るよ」
言って戸浪は如月から離れると、裸足で歩き出した。その後ろから如月は傘を差して戸浪に付き添った。
「何だ……?お前が付いてくると、又ややこしいから来るな……」
戸浪は振り返って如月にそう言った。
「祐馬には顔を見せないよ。お前が心配だからな。玄関まで送ってやるよ……」
如月は何とか平静を保とうと、笑い顔を作りながらそう戸浪に言った。
「……そうか……なら……顔を見せるなよ……」
如月はただ頷いた。
先に戸浪がエレベータに乗ると如月も傘を畳んで同じように乗った。そんな如月に戸浪はジロリと睨み付けながらも、こちらを追い返すことはしなかった。
そうしてお互い会話無く、十階まであがり、祐馬の住む部屋の玄関近くまで如月は戸浪の後を追った。
だが戸浪が玄関前までくると、こちらを振り返って言った。
「ここでいい……」
「入るのを見届けてからな……」
数メートル離れた所から如月は言った。
余程祐馬には会わせたくないのだろう……
まあ……その原因は分かっているが……
だが……
今のこのお前の状態は一体なんなんだ?
説明して欲しいのだが、それを聞けるような雰囲気では無いことも如月に分かっていた。
多分……祐馬と何かあったのだ。
だがこれは二人の問題なのだろう。そうであるから如月には何も言えない。逆に聞くこともできない
「……近づくなよ……」
「はは……分かってる」
戸浪はその如月の言葉にようやくホッとした顔をし、ノブを回して扉を開けようとしたが、開けられなかった。その様子から、戸浪は鍵を持って出るのを忘れたようであった。
「祐馬……開けてくれ……鍵を……忘れたんだ……」
インターフォンに戸浪はそう話しかけるのだが、返答は無かった。
「祐馬……開けてくれ……」
戸浪はもう一度そう言った。その目元に涙が溢れている。
「……祐まあ……」
何があったらこんな風になるんだ?
どういう喧嘩をしたのだ?
一体……
この二人に何があったんだ?
如月は、戸浪のあまりの姿に胸が痛かった。まずこんな戸浪を一度も見たことなど無かったからだ。
「済まない……私を……許してくれ……中に入れてくれ……」
戸浪は額を扉につけたままそう言った。その姿はあまりにも痛々しく如月には感じられた。
祐馬……
何をやってるんだっ!
さっさとあけてやれ!
「私を……信じてくれ……」
もう……
止めてくれ……
そんな姿は見たくない……
「……ゆ……まあ……」
頼むから……
戸浪……
私の方が泣きそうだ……。
「戸浪……止してくれっ!」
如月は戸浪に駆け寄りそう言った。もう見ていられなかったのだ。
「如月……なんだ……まだいたのか?」
だが戸浪は、如月にぼんやりとそう言った。
駄目だ……
ここには置いておけない……
戸浪が壊れそうだ……。
「もう……止せ……あいつはいないんだろう……」
如月は戸浪の肩を掴かみ、扉から引き剥がした。
「……ああ……そうかな……。会社に行く時間だから……行ったのかも……」
戸浪は何とか作ったような笑顔を如月に向けてそう言った。だが戸浪の頬には涙が伝い、止まることがない。
笑顔を必死に作りながら、涙を落としている戸浪は、自分が泣いていることにこれっぽっちも気が付いていない。
だから如月に普通に話そうとしているのだろう。
自分達に構われたくないから……
また邪魔されたくないから……
いや……
そんなことを今戸浪がこの状況で考えているとは如月には思えなかった。もう戸浪自身、今何を言っているのかも分かっていないのかもしれない。
昔……
私がお前を捨てたときも……
こんな風になったのか?
私の時も……
こんな風に泣いてくれたのだろうか?
一度も見たことがないお前のこんな姿が……
私は……
「……戸浪っ……もう……いい」
如月はそう言って戸浪を抱きしめた。腕の中にいる戸浪は抵抗することは無く、ただ身を任せているような様子である。ずぶぬれの身体は冷たく冷え切っていた。
だが当の戸浪は、やはりぼんやりとしていた。
私のことが誰か分かっているのだろうか?
虚ろな戸浪の瞳が如月を不安にさせた。
「ああ……じゃあ……ここで待ってる……。夜には帰ってくるし……最近は遅いんだけど……な……。帰ってきて家に明かりが灯っているのは……とても安心できるだろう?何時も私がして貰っていたから……今度は……私がしてやらないと……」
ぽつりと戸浪はそう言った。
「戸浪……何も言うな……。泣きたいだけ泣いたらいい。だからそんな辛い台詞は言うな……もう……言うなっ!」
ギュッと戸浪を抱きしめ如月は胸が詰まった。
どうしてやれば良いんだ…
「……私は……大丈夫だ……泣いてなんかない……」
戸浪は口元だけで微笑むと、如月にそう言った。
ああ……
そうだ……
そうだな……
泣いてなんか無いよ……
もう大丈夫だからな……
「……如月……お前も……会社に行かなきゃ……」
そう言って戸浪の身体の力が抜けた。
「戸浪?」
腕の中にいる戸浪を覗き込むと、意識を失ったのか、ぐったりとして返答はなかった。
「もう大丈夫だ……辛かったな……」
精一杯如月に意地を張って見せたのだろう。
ちょっとした喧嘩に見せたかったのだろう……
自分と祐馬は幸せだと……
馬鹿だな……
もう邪魔などしてなかっただろう?
また邪魔されると思ったか?
如月は戸浪の血の気のない頬をそっと撫でた。
「馬鹿だ……お前は……」
ギュッと戸浪を抱きしめ、如月はそう呻くように言った。そうして何度も濡れた髪をかき上げてやる。
如月は見たこともない戸浪の姿に胸が締め付けられてどうしようもなかった。
「安心しろ……辛いところからは連れて帰ってやるから……。だが……先に病院に行った方がいいな……ああ、こんな早い時間だとまだ開いてないか……」
戸浪の身体を抱き上げた瞬間、先程まで戸浪がへばりついていた扉が開く音が聞こえた。
「なんだ……?今頃扉を開けても返す気は無いぞ……」
扉から出てきた祐馬にまず如月はそう言った。
「なに……どうして如月さんがいるんだ……」
呆然とこちらの姿を見ながら祐馬は言った。
お前は何処を見ている?
私がここに居る事など、どうでもいい。
戸浪は見えていないのか?
どんな姿なのか分からないのか?
お前の恋人だろう?
私にどうあっても返せないと言い張った、大切な恋人だろうが……
それなのに……
何故私が問題なんだ?
「下でな、偶然見つけたんだ……。戸浪は雨の中、靴も履かずに壊れた時計のかけらを這いずり回って探していた……」
そう言って如月は目を細めた。その瞳から祐馬は目を逸らせた。
「……俺……」
このガキっ!
何が俺だっ!
他にも言うことがあるだろう?
お前が戸浪をここまで追いつめたのだろう?
「戸浪の……手を見て見ろ……っ!」
そう如月が怒鳴ると祐馬は視線を上げ、戸浪のだらりと下ろされた血塗れの手を見た。
「なっ……どうして……血が……っ!」
そう言って祐馬がこちらに駆け寄ろうとしたところを如月は足で払った。祐馬はその拍子に床に尻餅をついた。
「……戸浪に近づくことを私が許すと思ってるのか?こんな目に合わせて……それでも許すとでも思っているのか?思っているならお前は本当の馬鹿だ」
相変わらず祐馬は如月の方を向くことをせず、床を見ているだけであった。
「誰にも……奪われないように……戸浪は壊れた時計をしっかり握りしめていたんだ。だから手が血塗れなんだ……。これはお前に返してやるよ……どうせ、こんな事をしたのはお前だろうが……」
言って如月は戸浪が握りしめている拳を緩め、手の中のものを床に落とした。すると壊れた時計二つと、細かいガラスの破片が辺りに散らばる。
それは血塗れだった。
「……あ……」
床に散らばった残骸を祐馬は見つめながら、見る見る血の気を無くしていった。
「私はこれから戸浪を医者に連れていくよ……手のひらにはガラスが突き刺さっているからな……。戸浪が開けてくれと言ったとき、お前が扉を開けてあげたのなら……私は黙って帰るつもりだった」
これはお前達の問題だと……
そう割りきるつもりで居た……
だが……
お前は開けてやらなかった……
そんなお前に戸浪を自分のものだという資格など無い。
「俺……頭冷やしてて……気が付かなかったんだ……」
遅いよ……
祐馬……
お前は戸浪が望んでいた時に扉を開けてやらなかったんだから……
「どんな理由があってもお前はあそこで扉を開けてあげなければならなかったんだ……」
そう言って如月は戸浪を腕に抱いたまま、きびすを返した。
「待ってくれよっ!俺……俺が悪かったんだ。だから……」
「だから?返してくれ……か?」
チラリと後ろを振り返り冷えた視線を祐馬に向け、如月は言った。すると祐馬の足が止まった。
「俺は……」
「こんな……こんな戸浪は見たことがないよ……祐馬……。こんなに傷ついて……あんな風に泣くなんて……想像も出来なかったほどだ。そこまで追いつめたお前に戸浪を返すつもりは無い」
淡々とそう言って如月はもう振り向かずに歩いていった。祐馬の言葉はもう無かった。
如月は、戸浪を抱えて帰って来ると、そのまま後部座席に戸浪を横にさせた。そうして如月も後ろに乗り込み、上着を脱ぐと、戸浪の身体に掛ける。その様子を宇都木はミラーでじっと見ていることしか出来なかった。かける言葉を失っていたのだ。
どうなっているのだろう……
どうして戸浪を抱えて帰ってくるのだ?
何があったというのだろう……
宇都木は混乱していた。
……
「宇都木……悪いが……」
「……」
「宇都木っ!」
「あ、はいっ……」
如月に怒鳴られた宇都木はようやく我に返った。
「悪いが……一旦、うちに引き返してくれないか?」
如月はこちらを見ずにそう言った。視線はずっと戸浪に注がれているのだ。そんな姿を見るに耐えない宇都木はミラーから目を逸らせた。
「……ええ……」
何とかそう言って宇都木は車を出した。
車が走行している間だ、如月は無言だった。宇都木もそんな如月に声などかけられなかった。
混乱した気持ちだけが宙に浮いている。何がどうなっているのか宇都木には分からない。このまま如月のうちに戸浪を連れ帰り、どうする気でいるのだろうか?
……祐馬と……
何かあったのだろうか?
多分そうなのだろう。
宇都木は自分の車を停めた場所から、如月と戸浪の姿を見ていた。妙な緊張感がそこから感じられた。
何か如月が話していたのだが、何を話していたかまでは分からなかった。
ずぶ濡れの戸浪……
手を真っ赤に染めていた……
怪我をしているのだろうか?
どうして?
聞けずに宇都木は結局如月のマンションに着いた。
「ああ……宇都木、悪いが会社に行って今日の仕事を適当に切り盛りして置いてくれ」
車から戸浪を抱き上げて降りた如月はそう言った。
「……ですが……今日の会議は……」
宇都木も車の外に出てそう言った。向かい側に居るはずの如月が酷く遠く見える。
「分かってる。だが……こんな戸浪を放って置けないんだ……」
言って如月は抱き上げている戸浪の顔に視線を移した。その表情は愛おしげに宇都木には見えた。
……
そう……
そうですね……
「分かりました。何か必要なものはありますか?」
言いたくもない台詞を宇都木は言った。
「悪いが……戸浪が着られるような服をいくつかそろえて置いてくれないか?一応着替えさせてから病院に連れて行く気では居るんだが……」
やはりこちらを見ずに如月は言った。
「……はい」
宇都木のその言葉を聞いた如月は、戸浪を大事そうに抱えて歩いていった。その後ろ姿を宇都木は複雑な気持ちで見送った。
祐馬と何があったのか宇都木には見当もつかなかったが、あの戸浪の様子からそれが普通では無いことが分かった。
もしかして……
あの二人は駄目になったのか?
だから……
如月は戸浪を連れ帰ったのだろうか?
戸浪を追って如月がマンションに入っていったのを宇都木は見ていたのだ。上で何か話し合いでもあったのだろうか?
では……
祐馬と戸浪は……
まさか……
今更?
もしそうなら……
如月の気持ちは今どうなっているのだろう……
ずっと取り戻したかった相手が、今戻ってきたのだ。その戸浪を如月はどうするつもりなのだろう?
愛していると如月は何度も言ってくれた。
だが……
この状態でもそう言ってくれるのだろうか?
戸浪が戻ってきたとしても……
それでも私を選んでくれる?
そんな事を考えた宇都木は、項垂れながら車に乗り込んだ。
選ぶわけなどない。
こうなると如月が誰を選ぶかは明白だった。
大事そうに抱えていた戸浪を見るあの如月の瞳は、普通ではなかった。決してあんな瞳で宇都木を見ることなどないだろう。
思い知らされた……
そう宇都木は先程の如月を見て思ったのだ。
思い知らされた……
愛情の差を……
決して冷めることのない想いを如月の瞳の奥に見たのだ。
車のハンドルを握りしめた手が小刻みに震えていた。
失いたくない愛をこの手の中に握りしめているにはどうしたらいいのだろう……
震える手を胸の前で広げ、次にギュッと握りしめる。
それでも零れてしまう見えないものを宇都木は拾い集めることは出来ない。
このまま……
かけらも残らずに失われていくのだろう……
宇都木はハンドルに突っ伏し、暫くそこから動けなかった。