「黄昏感懐」 第18章
考え込んでいた頭を上げた宇都木は、車を出して、会社に向かった。とにかく本日の如月の予定を全部変更しなければならないのだ。
まず……
それを何とかしないと……
戸浪のことは気になる。
気になって仕方がない。
本当は如月に戸浪をうちに入れて欲しくないと言いたかった。
だが宇都木にはそんなことなど言えないのだ。
……
私は……
あとどれくらいの間……
あの人の恋人で居られるんだろう……
数日だろうか?
それとも……
もう……
考えたくない最悪の結果を宇都木は想像して、気分が悪くなった。
駄目だ……
今はそんなことを考えている場合じゃない……。
ようやく着いた職場のあるビルの地下駐車場に車を入れると宇都木は車から降り、エレベーターを使って上の階へと上がった。
そうして、如月にあてられた部屋に入るともうすぐ始まる会議の纏め役である、常務の秘書である内田に連絡を取った。
「おはようございます。宇都木です。本日如月さんが体調を崩されて急遽お休みを取られました。申し訳ないのですが、朝の会議を欠席させていただきたいと常務にお伝え願えますか?」
「あら……そうなんですか……。じゃあ常務に伝えておきますね。でも如月さん、お風邪でもひかれたのですか?」
常務の秘書は宇都木より年上の女性である。常務が若い女性秘書を置くと回りから何を言われるか分からないと言って、年輩の女性を選んだのだ。
「そうなんです。来週には大丈夫だと思います」
本日は金曜だ。もう一日遅かったら良かったのに……
宇都木はふとそんなことを考えた。
「あ、宇都木さん。急ぎの決済の書類如月さんの所に今日持っていく予定だったんだけど……。どうしましょう……」
「他にもそのような書類がありますので、纏めて昼頃一度如月さんのお宅にお伺いする予定にしていますので、頂けたら一緒に私が持っていきますが……」
肩に電話を挟み、如月のインのボックスを見ると、本日どうしても廻さないといけない書類がいくつか入っていた。昨日までの分は既に処理していたので、本日早くに廻ってきたのだろう。
「良かった。じゃあ後で持っていくわね」
内田はホッとしたような声でそう言った。
「ただ、十時には一旦どうしても直接お断りしなくてはならないお客様が居ますので、外出致します。それまでにお持ち下さいますか?」
そう言いながらも宇都木はボックスの中身を確認しながら急ぎの分を分けていた。
「じゃあもう少ししたらそちらに伺いますわ」
「ええ、お待ちしています」
言って内線を切ると、宇都木は分けた書類を封筒に詰め、自分の鞄に入れた。如月は印鑑を社内に置かず何時も持ち歩いているため、代行で押せないのだ。
こういう時は困る……
そう思うのだが、今の仕事を嫌だと言う割に如月はその辺りはきっちりしている。
「……あと……来客を……」
予定表を確認し、アポの客に予定変更の電話を入れているところに内田が書類を小脇に抱えてやってきた。宇都木の状況を見た内田は、ジェスチャーで書類の入った袋を指さすとそれを机に置く。次に内田はポケットからコーヒーの缶を取り出すと、同じように机に置いて、部屋を出ていった。
ああ……
良くできた人だ……
等と感心しながら、宇都木は暫く仕事に忙殺された。
二時過ぎ頃ようやく落ち着いた宇都木は、如月に頼まれていたものを買いそろえ袋に詰めると、本日決済しなければならない書類を入れた鞄も一緒に持ち、如月のマンションに向かった。
どうして私がこんなものを買わなければならないんだろう……
理不尽に思うのだが、あんな戸浪を放り出すわけにもいかないだろう。
そうして如月のマンションに着くと宇都木は車を駐車場に停める。次に車から降りエレベーターに乗ると十三階まで上がった。
荷物を持っている手とは逆の手には車のキーを持っているのだが、如月から貰った合い鍵がそれにはついていた。
これが……
手の中にあるうちは安心して良いのかもしれない……
いや……安心していたいのだ。
ギュッとキーを握りしめて宇都木はそう思った。
如月の家まで来ると、一応インターフォンを鳴らした。すると扉は直ぐに開けられた。
「ああ、私も今さっき帰った所なんだ」
そう言って如月は宇都木が入るのを見届けて、扉を閉めた。
「今……ですか?」
靴を脱ぎながら宇都木はそう言った。
「ああ、手の処置を外科でして貰って……次に内科に廻った所為で時間がかかった。ああ、今、客間の方に寝かせている」
このマンションは3LDKで、全部洋室だ。客間に当たる一室はシングルの小さなベットが置かれていた。アメリカから友達が来たときの為にと和室を避けたのだ。
「……何かあったのですか?」
言ってしまってから余計なことを聞いてしまったと宇都木は思ったが、意外に如月は普通に答えた。
「……さあな……良く私も分からないが……。祐馬と何かあったんだろう……。会社の方は何とかなりそうか?」
「今日決済をつけないと問題になる書類をお持ちしました。目を通して印鑑を押してください。それと頼まれていたものです……」
と言って、如月に書類をまず渡し、次に買ってきた衣服などの入った紙袋を渡した。すると如月は「悪かった……」と言って受け取った。
……
靴は脱いだけど……
うちに入って良いのだろうか……
立ち話している様な形で、玄関から動けずに宇都木は思った。如月が中に案内してくれると良いのだが、そんな言葉がないのだ。
どうしよう……
書類は後から貰いに来るといった方が良いのだろうか?
私は……
邪魔なのかもしれない……
「あの……」
「え?」
今気が付いたように如月の瞳がこちらを向いた。何か考え事をしていたようだった。
「じゃあ……私はこれで……。書類の方はまた取りに伺います」
仕方無しに宇都木はそう言った。ずっと互いに沈黙したままこんな所で突っ立っているのが辛かったからだ。
「あ、まて……書類は直ぐに目を通して捺印する。待っていてくれたらいいから……そうだな……リビングの方でするか……」
そう言って如月はこちらに背を向けてリビングの方へ歩き出した。宇都木もそれについて歩く。
何となく気まずい雰囲気なのが宇都木にも分かる。
……
なんだか……
嫌な気分だ……
歩きながらふと客間の扉を見た。ピッタリ閉められている扉の向こうに戸浪が眠っているのだろう。
まだ、奥の寝室に寝かされていなくて良かったのだ。あの場所は如月と宇都木が何時も抱き合う場所だからだった。そんな所に平気で戸浪を寝かせていたのなら、如月の神経を疑っていたに違いない。
「宇都木?」
「あ、はい……」
「お前も座れ。何をぼんやりしているんだ?」
リビングの入り口で立ちすくんでいると、既にソファーに座った如月がこちらを呆れ顔でそう言った。
「済みません……」
宇都木は如月に促されるまま、前のソファーに座った。すると目の前に座る如月が書類を読んでいた。
青い瞳が一字一句を拾っているのが分かる。無意識に手が頬を触っているのは如月の癖であった。何か考えているときに良くする癖だ。
書類の内容を検討しているんだろう……
足を組み、片手には書類を持った如月は、宇都木にドキリとした気持ちを起こさせる。
この姿の如月が宇都木は好きだった。
仕事に熱中する如月はとても魅力的だからだ。
……
なんだか……
夢が覚める前のようだ……
「……あ、何か飲物でも入れましょうか?」
そう宇都木が言うと、如月はチラリと目線だけをこちらに寄越して「頼むよ」と言った。宇都木は立ち上がり、キッチンに向かうと急須に茶の葉を入れて、お湯を注いだ。
如月は夏でも熱い御茶を好んで飲む。熱い御茶が一番美味しいらしいのだ。夏に熱い御茶など余計熱くなりそうな気がするのだが、宇都木も如月に合わせて最近熱い御茶を飲むようになった。
慣れてしまうと、意外に熱い御茶はどんなときでも美味しい。特に気持ちが動揺しているときに飲むと、ホッと身体の力が抜けるのだ。
そうして御茶を湯飲みに注ぐと、宇都木はお盆に乗せてリビングに戻った。
「はい……御茶です」
「悪いな……」
書類を一旦机に置いた如月は、差しだした湯飲みを宇都木から取ると、一口飲んだ。
「はあ……気持ちがようやく落ち着いたよ。朝からバタバタしたからな……」
そう言って如月は湯飲みを机に置いた。
「……そうですね……」
どう返事をして良いのか分からない宇都木は、そう言って言葉を濁した。
「……宇都木……」
「はい?」
「気になって居るんだろう?」
困ったような顔で如月は言った。
「……いえ……」
困っていると言えば良いのだろうか?
どうして何も見ない振りをさせて貰えないのか?
嫌なのだ……
その事を考えるのが……
例え如月が戸浪を選んだとしても……
それまで何も知らなかった事にして、宇都木は如月の恋人でありたいのだ。
駄目なのだろうか……
少しでも幸せな時間を引き延ばしたいと思ってはいけないのだろうか?
「気にするな……」
ぽつりと如月はそう言ってまた書類に目を通し始めた。
気にするな……
それはどういう意味なのだろう……
分からない……
「……あの……」
「それとな……悪いんだが……暫くは自分のマンションに帰ってくれないか?戸浪に私達の事を知らせるわけにはいかないからな……」
自分と如月の関係は、戸浪に知られたくないと言っているのだ。
私達は……
その言葉通りの関係なんだと初めて宇都木は知った。
本当に戸浪を過去の恋人だと割りきっているなら……
紹介してくれとは言えないが、戸浪にはっきり恋人の存在を話すはずだ。それが出来ないのは、如月にとって宇都木は恋人ではないと言っているようなものだ。
「……ええ……分かってます……」
分かっている……
結局はそうなのだ。
何時だって戸浪が優先なのだ。
気持ちも分かる。
宇都木にしても、長年如月のことを想ってきた。一度は突き放されたが、それでも宇都木は如月を想ってきた。心の中に隠して……だ。
それと同じように如月は長年戸浪を想ってきたのだ。一度は諦めただろう。だが如月はそれでも戸浪を想ってきた……。
同じだ……
だから……
私は……
貴方がここで彼を選んだとしても……
何も言わない……
また今まで通りに……
想いを秘めて日々を暮らすだけなのだ。
日々……
一緒に仕事をするだけだ……
「宇都木……終わったよ……」
言って如月は捺印の済んだ書類を袋に入れていた。
「じゃあ、それを頂いて、私は今から会社に帰ります。来週の月曜日は普通に出社して頂きますね。お迎えに上がりますから……」
ようやく作った笑顔で宇都木はそう言った。
「え、ああ……来週な……」
如月のその声は一瞬何か言いたげなものであったが、結局それだけに終わった。宇都木は「じゃあ……帰ります」と言って如月のマンションを後にした。
マンションの一階まで降りた宇都木は、如月の部屋を見上げ、小さく息を吐いた。すると何かが自分の胸の中から抜けていくような気が宇都木にした。
まだ眠っているのだろうか……
戸浪を金曜日自分の家に連れ帰ったのだが、それからずっと眠ったままなのだ。熱があったため如月は一晩、ずっと側に付いて額のタオルを替えてやった。
朝には熱も下がったのだが、相変わらず戸浪は眠っている。意識のない間に打たれた熱冷ましの注射の所為だろうか……と如月は思うのだが、本当の所は分からない。
一応戸浪の食事も作り終え、時計を見るともうすぐ昼になるところであった。
ちょっと様子を見に行くか……
如月はキッチンを出ると客間に向かった。まだ眠っているのなら、そろそろ起こしてやった方が良いと思い扉を開けると、戸浪は窓のカーテンを掴み、ようやくの様子で立っていた。
「戸浪……何をしているんだ?寝てないと駄目だろう……」
驚いた如月がそう戸浪に言うと、カーテンにぶら下がっている戸浪の瞳がこちらを向いた。次に薄茶の瞳が驚きに見開かれた。
「……如月……?」
確かめるようなその戸浪の言葉は、如月がここまで連れてきたことも、病院に連れて行ったことも何も覚えていないのが分かる。
全く……
「記憶でも抜け落ちてるのか?それよりもう昼だ。何か食べるか?お腹空いただろう……」
如月はそう言って、戸浪のふらつく身体を支えると、ベットに座らせた。戸浪の方は自分の足下が頼りない所為か、如月の助けの手を拒むことはしなかった。
「あの……ここは……お前のうちか?」
困惑した表情で戸浪は言った。
「なんだ……お前、ほとんど覚えてないようだな。お前がマンションの扉の前で倒れたから仕方無しにうちに連れて帰ってきたんだよ。と言っても先に医者に連れて行ったがね……」
如月はそう言いながら、脇にある椅子を引き寄せて座った。
「……そうか……。で、医者?」
「お前のその傷だらけの手には硝子の破片が一杯刺さっていたんだ。先に服を着替えさせたかったがね……。それに、酷い熱だったから、外科と内科を廻ったんだ。その間に服を着替えさせた」
そう言如月が言うと戸浪は顔を赤らめた。
ああ……
身体に付いているキスマークを見られたと思って恥ずかしいんだな……
戸浪を着替えさせたのは実は如月であったが、その事で戸浪が嫌な思いをするなら嘘でもつくしかないと思い、続けて言った。
「ああ、お前が診察を受けている間に着替えを用意したから、私は知らないよ。看護婦さんに感謝しろ」
戸浪はその言葉にホッとしたように表情になった。
「……迷惑を……かけた」
「気にするな……」
「……如月……それで……私の持っていた時計なんだが……」
二つあったな……
もしかして、祐馬とお揃いだったのか……
まあ……
だったらだったで、あんなもの忘れる方が良いだろう……
「……あれな……修理に持っていくとお前が散々言っていたから……私が持っていってやったんだが……」
如月は戸浪にそう言った。
「……それで?どの位日数がかかると言われたんだ?」
「買った方が早いだと。あれは酷く壊れすぎて修理が出来ないそうだ……」
戸浪は如月からそれを聞くと、薄茶の瞳から涙が零れた。
「……っ……あ、そうか……駄目か……うん。分かった」
たかが時計の事でそれほど辛いなんて……
祐馬と余程酷い喧嘩でもしたのか?
それとも……
別れたのか?
「戸浪……もう泣くな……」
座っていた椅子から離れた如月は、戸浪が座る真横に腰を下ろすと、細い肩に手を回した。
「放って置いてくれ……」
如月の廻した手をはね除けることはせずに、戸浪はただそう言った。だが、如月はその言葉を無視してそのまま手を回していた。そうでもしてやらないと戸浪が今にも壊れそうに思えたのだ。
「何か食べた方が良い……丸一日お前は眠っていたからな」
「……今は……何もいらない……」
言って戸浪は項垂れた。
こんな戸浪は見たことが無い……
戸浪はこんなに弱かっただろうか?
如月の知っている戸浪はもっと強いはずだったのだ。
「そう言うな……ほら、もう横になっていた方が良い」
「……私は……帰らないと……」
そう言って戸浪は、頼りない身体で又立ち上がろうとする。そんな戸浪を如月は引き留めるように言った。
「何処に帰るんだ?」
「祐馬の……家に帰るんだ……あそこが私のうちなんだ……」
「玄関から閉め出されたのに?」
「……違う……あれは……」
又涙を落としそうな表情で戸浪は言った。
「現実は……時々辛いが……ちゃんと見ないとな……」
そう言って如月は戸浪の頭を撫でた。
「ちゃんと見てる……」
どこが?
あんな風に閉め出されてか?
お前をこんな風にした相手をどうみていると言うんだ?
「見ていないよ……お前も分かってるんだろう?」
「分からない……私はうちに帰る」
言って戸浪は立ち上がったが、身体がぐらりと傾いた。その戸浪の身体を如月は受け止めた。
「帰っても良い……だからもう少しまともに歩けるようになってからにしろ……。それとも祐馬に迎えに来て貰うか?」
お前が望むならそうしてやるよ……
それでお前が幸せなら……
「いや……連絡しなくていい……自分で帰る」
如月に身体を支えられながら戸浪は頭を振った。
こういう意地っ張りな所は昔のままだと如月は思い、苦笑が漏れた。
「じゃあ……何かまず食べろ。体力を付けるんだろう?」
そう言って如月はようやく戸浪をベットに戻した。
「……そうだな……そうする……」
チラとこちらを見て、戸浪は諦めたように、枕を背にしてベットに座った。
「ああ、雑炊か、粥を持ってくるよ。待ってろよ」
そう言って如月が部屋から出ようとすると、戸浪は声を掛けてきた。
「如月……時計の修理は出来ないのは分かった。それで……その壊れた時計は?」
「捨てたよ……」
振り向くことはせず、如月はそう言って部屋を出た。
戸浪は……
あれ程までに悩む男だっただろうか……
初めて見た戸浪の姿に、如月は動揺すら覚えたのだ。何より如月と別れた当時は、何も言わずにただ頷いただけで終わった。
その後自分が知らないだけで、あんな風になっていたのだろうか?
それとも……
祐馬だから……
祐馬だからあんな風になったのだろうか?
人目も気にせず時計を拾い……
雨の中傘もささず、靴も履かず……
失いたくないものを必死にかき集めていた……
あんな姿を私の為に見せてくれるとは思えない。
如月はキッチンで雑炊を温め直しながらそう思った。
祐馬だから……
戸浪はあんな目に合っても帰ろうと思うのだ。
何より如月の事は追うことなどしなかった戸浪だった。だが祐馬の事は必死に失いたくないと戸浪は喘いでいる。そんな戸浪が愛しいと如月は思った。
宇都木は……
何とも思っていないようだった……
普通なら……嫌なはずだ……
私は……
ある意味恵まれていないのだろうか?
祐馬に必死になる戸浪を見て如月はそう思ったのだ。これがもし宇都木ならどうしてくれるのだろうかと……。だが宇都木は戸浪のことなど何とも思っていない様子だった。普通なら自分の恋人の家に過去の男を住まわせるなど、許せないことではないのか?
だが宇都木は何も言わなかった。
気になるか?と言う問いに返ってきたのは「……いえ……」という素っ気ない言葉だった。更に暫くは自分のマンションに帰ってくれないか、戸浪に私達の事を知らせるわけにはいかないからなと言う台詞にも宇都木は無表情に「……ええ……分かってます……」と言っただけだった。
確かに宇都木を試すような台詞を言った如月の方が悪いのだろう。だが如月とて自身があるわけではないのだ。
良いのか?
二人きりにして……
あんな戸浪の状態を見て何かあるかもしれないと思わないのか?
私は信用されているのだろうか?
それとも……
温まった雑炊を皿に移し替え如月は溜息をつき、戸浪のいる客間に戻った。
雑炊の載せた盆を脇机に載せ、如月は言った。
「自分で食べられるか?何なら食べさせてやるが……」
すると戸浪は驚いたような顔をし、次にムッとしたような表情で「自分で食べる」と答えた。
「残念だな……」
ムッとした戸浪の表情が可笑しいのだが、それを堪えて如月は言った。
「……今日は……何曜日だ?」
戸浪は膝にお盆を乗せ、その上に乗せられている雑炊をスプーンで掬って少しずつ口に運んでいた。
「今日は土曜だ。昨日、お前を連れて帰った後、丸一日眠っていたからな。一日分記憶が無いのはその所為だ」
「……土曜……か……」
言って戸浪はレンゲを持ったまま、何処か遠くを見た。
土曜という言葉に本日は会社が休みで、祐馬がうちに居るとでも思ったのだろう。
「さっき電話したが……祐馬はいないぞ」
如月は先手を打ってそう言った。
「え……」
スプーンを持っていた手が下がった。
「ほら、そんなことよりちゃんと食べるんだ」
如月がそう言うと戸浪は、止めていた手を又動かした。そうして、茶碗一杯分を何とか食べ終えた。
「あと、薬な」
如月はそう言って、医者から貰った薬の袋から錠剤を幾つか取り出した。
「手を意外に深く切っていたから、化膿止めと、内科でビタミン剤やら色々薬が出ているからそれもだ」
五つの錠剤を如月は戸浪の包帯が巻かれた手にそっと乗せた。
「……ああ……ありがとう……」
薬を飲み干し戸浪がベットに横になったのを見届け、如月は布団を整えた。
今の戸浪は放っておけない弱々しさがあったのだ。
「……如月……」
「何だ?」
「どうしてこんなに良くしてくれるんだ?」
「馬鹿だな……お前は……。好きだからに決まっているだろう……」
昔も今もな……
お前は大事な元恋人だ……
「それは……」
「別れたところで……そんなに直ぐ気持ちを切り替えらるものなら苦労はしない……。そんなことはどうでもいいから、さっさと寝ろ」
薄く開いていたカーテンを閉めて、如月は部屋を出てた。その扉に持たれながら如月は思った。
あんな戸浪に……
私は今は幸せだと何故言える?
不幸を演じてやる方が安心できるはずだ。
今は……
誰かに頼らせてやらないと……
本当に戸浪は駄目になってしまう……
如月が戸浪に宇都木のことを話せない理由はそこにあったのだ。
まあ……
多少宇都木が誤解したとしても……
大丈夫だろう……
どんなことがあっても宇都木は自分を見てくれているという過信が、如月にはあった。それが後に後悔することになると、今の時点では気が付かなかった。