「黄昏感懐」 第19章
金曜の晩、宇都木は眠ることが出来なかった。その為、結局朝までまんじりと過ごした。
「……この位食べないと…………」
キッチンテーブルに自ら用意したハムエッグとサラダが手つかずにテーブルに乗っている。昨日ほとんど食べ物を口にすることをしなかった為、無理にでも何か口に入れないと身体がもたないと宇都木は思ったのだ。
だが朝から気の進まないまま用意した料理は、当然の如く食べたいという欲求などこれっぽっちも起こしてくれない。
「……はあ……」
フォークでサラダをつつきながら宇都木は溜息をついた。
気にしないようにはしているのだがやはり戸浪の事が気になるのだ。もし一度も如月から愛している等と囁かれることが無かったら、こんな風に悩まなかったのかもしれないと宇都木は思った。
一度でも聞いてしまうと、次に甘い期待をしてしまうのは仕方ないだろう。
昔は期待することなどしなかった。期待して手に入ったものなど無かったからだ。
だが、如月は宇都木に「愛している……」と囁いてくれたのだ。その上、暫くは一緒に暮らしていた。
そんな日々を例え数日でも過ごしたとすると、どんなに前向きではない人間でも、期待する気持ちを持ってしまうのは仕方ないだろう。
このまま……
ずっと幸せに居られると思ったのに……
それは儚い夢だったのだ……
以前の、期待などしない自分に戻れば良いのだと思うが、それも出来そうにない。
チラリと窓の外を見て宇都木は頬杖を付いた。
食欲など全く無い。既に冷たくなったハムエッグと、熱かった筈の御茶がぽつんと自分の前に置かれているだけだ。
あの人は……
戸浪を抱くのだろうか……
そんなことを考えて身を切られるような痛みが身体を走る。
今、宇都木は何度もこれは仕方ない事なのだと自分に言い聞かせ、ようやく平静を保っていた。
少しだけ……
楽しい夢を見られたのだ。
暫く一緒に暮らした僅かな日々が、私にとって一生分の幸せだったのかもしれない……
そんな風に思い宇都木は頭を垂れた。
あの一家は呪われている……
そんな事を近所の人達に言われて過ごした幼少時が今だ宇都木の心に深い傷を作っている。
先に亡くなったのは母親だ。
次に亡くなったのは父親だ。
父親は死ぬ間際まで、宇都木を殴りそして蹴った。それは宇都木があまりのひもじさに、冷蔵庫を漁り、そこに食べ物が無くなると、今度は一人外に出かけてゴミ箱を漁りに行ったからだ。
食べなくては死ぬ……
幼いながらも宇都木にはそれだけははっきりと分かっていた。だが頭のおかしい考えに取り憑かれた父親は、それを許してはくれなかった。
日々やせ衰えていく父親と母親に何とか食べ物を口にして貰おうと、宇都木は必死になっていた記憶がある。
だが二人とも何時の間にか死んでいた。
何時死んだのか……宇都木には覚えが無い。
あの時の記憶が今ではかなりあやふやになっているのだ。
呪われている……
気味が悪いと思われても仕方のない事だろう。未だに両親が何故あんな奇妙な宗教を自分で作り上げたのか、宇都木には理解できないで居る。
ただあの時から自分は幸せになれないと宇都木は思ってきた。それは両親を死に至らしめてしまった罪悪感がそうさせるのかもしれない。自分が何とか説得し、食べ物を食べさせることが出来たら両親は死なずに済んだのだ。
だが宇都木には出来なかった。
両親が宇都木に望んだように、奇妙な宗教を信じることも出来なかった。
お前は親不孝者だ……
父親がまだ言葉を話せていた頃はそんなことを言い、宇都木を責めた。母親は何も言わず宇都木を庇うようにその胸に抱き寄せてくれた。
それは父親からの暴力から守るためであって、両親が信じていた宗教から守る為ではなかった。
母親も何処か狂っていたのだろう。
そして父親は完全に壊れていた。
そんな奴は幸せになどなれんっ!
罵声に近い声でよく父親に宇都木はそう言われた。
その言葉に今も縛られている様な気が宇都木にはするのだ。
幼い頃の記憶はどんどん霞がかかったように、あやふやで細部は思い出せなくなってきている。だが心に深く傷ついた言葉だけが、今も鮮明に思い出せるのだ。
多分これからも先、例え、あの時の事をほとんど忘れたとしても、そうやって傷ついた事は一生忘れないだろう。
私は……
両親の言葉に縛られているのだ……
そして……
父親が宇都木に対して望んだように……
幸せになどなれないのだ。
幾ら周囲があれはもう終わったことだから気にしなくて良いと話してくれたとしても、周囲には見えないのだ。
両親の手は何時も宇都木の足を掴んでいる。
気が付くと何か引っ張られているような気がするのだ。
お前も堕ちてこいと……
そう言う父親の声が時折聞こえる。
だが如月と一緒に居るとそんな声はしない。誰も引っ張るものは居ない。だから安心できるのだ。
誰かに尽くすことで……今は如月に尽くすことで宇都木は自分自身の存在価値を見いだしてきた。それが今度は如月に愛されている事で自分自身を強くしていた。
一つずつ叶い……
今度は一つずつ失い……
最後に全て失うのだろうか……
そんなことを考えていると電話が鳴った。
ハッと我に返った宇都木が時間を確認すると、十時を過ぎる頃だった。
私は一体……
何時間ぼんやりしていたのだ……
驚きながらも、鳴っている電話を取ると真下からであった。
「おはようございます……」
「おはよう宇都木……。悪いが昼からでもこっちに来てくれないか?何か用事があるなら仕方ないんだが……」
真下はそう言った。
「ええ、別に用事はありませんので……お伺いします。何かありましたか?」
宇都木がそう言うと真下は困ったように言った。
「問題がね……話しは後で……」
「分かりました……じゃあ……支度をしたら直ぐにこちらを出ます」
どうせ一人で居るとろくな事しか考えない宇都木はそう言った。
「待ってるよ」
言って真下は電話を切った。
何だろう……
今度は何があったのだろう……
もしかして……
祐馬さんの事だろうか?
色々考えるのだが宇都木は既に東の秘書を辞めていた為、今の状況が分からないのだ。
とにかく……
支度をして出よう……
宇都木は直ぐに着替え、結局朝食をそのままにし、東の屋敷に向かった。
屋敷に付き、真下の自室に入ると、いつものように真下は書類に埋もれていた。
「宇都木……久しぶりだね」
机の上の書類を両手で書き分け、適当に重ね合わせると真下は立ち上がった。
「いえ、どうせ暇にしてましたから……」
笑みを浮かべて宇都木は言った。
「……なんだ……ああ、そうだな。まあいい、ソファーに座ってくれ」
言いながら真下は部屋の真ん中に設置されているソファーに腰を掛けた。それに促されるように宇都木も真下の前のソファーに座った。
「……何かありましたか?」
心配そうに宇都木が聞くと、真下は「そうなんだよ……」と苦笑して言った。
「祐馬さんの事だ……」
やはり……
「……何があったのですか?」
「それはお前が一番良く分かってるんじゃないのか?」
チラとこちらを見て真下は言った。
「……いえ、何があったのかは存じません……」
視線を避けるように宇都木は膝で握った手を見ながらそう言った。
「……そうか……まあ私の方にも何が原因なのかは報告が入っていないから分からないんだがね。何より恋愛問題は二人の話だろうから、そんな内情を知ることなどなかなか出来ないものだろう……」
言って真下は溜息を付いた。
「ただ……邦彦のうちに何故戸浪がいるんだ?お前いいのか?」
良いのかと言われても……
良いわけなど無いが……
言えない……
「……それは……別に私は何も……」
「おいおい、宇都木は邦彦の何だ?恋人じゃないのか?」
呆れたように真下はそう言った。
知られてるかもしれないと思ったが、一緒に暮らしていたことを真下は知っていたようだった。
「……いえ……私は……ただの秘書ですから……」
なんだか情けない言い方だと思いながらも、宇都木にはそんな風にしか言えなかった。
「……宇都木の悪いところはね。自分の気持ちに正直にならない所だ。まあ……鳴瀬ほどがむしゃらになれとは言わないがね……」
言いながら真下は足を組み直した。
鳴瀬の事も……
知っているのか?
「……真下さん……何を御存知なのです?」
「いや……別に……。鳴瀬はお前を好きで追いかけ回していただろう?だからな。そのくらい気持ちをぶつけても良いだろうと思っただけだよ。何かあったのか?」
不思議そうにそう問いかけてくる真下の表情からは、宇都木と鳴瀬の間にあったことを知っているようには見えなかった。
だが宇都木がそう思ったことが、本当なのかどうかまでは真下の顔からは分からない。
知られていたとしても……
別に……
もう済んだことだ……
「いえ……」
「ならいいが……。鳴瀬、誰と喧嘩をしたのかしらんが、ボコボコにされた顔で帰ってきたな……今部屋に閉じこもってる。それで、帰りに寄ってやってくれないか?何か酷く後悔している」
……
私にどうしろと……
何を話せと言うんだろう……
「……そのつもりで私を呼ばれたのですか?」
チラリと真下の方へ視線を向けたが、相変わらず苦笑した顔であった。
「まあ……それもあるが……。祐馬さんがお前に連絡をしてきたら相談に乗ってやってくれないか?宇都木の今の仕事も忙しいはずだろうが……」
「……それは構いません。祐馬さんのお力になれるのなら、何でも……」
どうにかして……
祐馬には戸浪を引き取って貰いたいのだ。
如月のうちから戸浪を連れ帰って欲しい……
だからこそ宇都木は祐馬が頼むことなら出来る限り力になってやろうと思っていた。
「鳴瀬はね……宇都木……君に母親を重ねて居るんだよ。あの子は小さい頃、病弱な母親に暴力を振るう父親を刺した事があってね。父親は死にはしなかったが、結局母親は病気が悪化して亡くなった。それを父親の所為に未だにしている。そんなわけで、どことなく母親に似ている宇都木が、邦彦に苦しめられているのを黙って見ていられなかったのだろうな。何をされても耐えていた母親と、いつも耐えているお前が重なったんだ。そんな鳴瀬がお前に対する気持ちを恋愛だと誤解しても仕方ないことだろう。なにより鳴瀬の母親も、一度だって父親を非難したりしなかったそうだ。そういうところも宇都木に似ているだろう?」
言って真下は笑った。
「そうですか?」
宇都木は何の感慨も無い口調でそう言った。
人の過去に興味などない……
宇都木は人の過去を聞くのが苦手なのだ。それは自分の過去を話したくないという部分から来るのかもしれない。お互いの過去を話し合い、その傷を舐めあうような事をしたくないからだ。
一番問題なのは……
両親が普通ではなかったからだ。
宇都木は自分の両親が何故死んだかなど、人に話したことはない。話したくもない。思い出したくないのだ。
聞いた人間が、自分にどんな目を向けるのかを想像すると怖いからだった。
自ら餓死した両親の血を宇都木は引いているのだと思われるのを恐れている。
いつも……
いつもだった。
「じゃあ……悪いが、鳴瀬の部屋を少しででいいから訪ねてから帰ってくれないか?」
「……ええ……」
もう会いたくは無かったのだが、真下がここまで言ったからには、少しは顔を出さなければならないだろう。
宇都木は立ち上がると、真下の部屋を後にし、一旦屋敷を出ると左側に建てられている二階建ての家を目指した。
そこは東の個人秘書が使っている家だ。つい最近までは宇都木もここに暮らしていた。だが収入が増え、一人の空間が欲しくてマンションを買ったのだ。
東に引き取られた子供達は、ここにみな住んだのだ。今は建て直しされて綺麗な洋館づくりになっている。
玄関に入り、宇都木は二階に上がるスロープ式の階段を上がった。鳴瀬の部屋はその一番奥にあるのだ。
「鳴瀬さん……入って良いですか?」
言いながらも宇都木は既に扉を開けていた。だが部屋に入っても鳴瀬の返事はなかった。
「……鳴瀬さん?」
十二畳の部屋は余り飾り気が無く、窓のカーテンが引かれている為に部屋は薄暗かった。それが宇都木にもの寂しく感じさせた。
……
開けた扉を閉め、宇都木は窓側に置かれたベットに近づいた。鳴瀬が潜っているのが分かるように、毛布が盛り上がっていた。
宇都木はベットの脇に置かれた椅子に腰をかけて再度言った。
「鳴瀬さん?眠って居るんですか?」
そう宇都木が言い、暫くすると鳴瀬が言った。
「俺……あわせる顔がない……」
盛り上がった毛布が小刻みに震えた。
泣いているのだろう……
「……もう……いいんですよ……」
言ったところで済んでしまったことはどうしようもない。宇都木はそう思ってあのことを忘れようと思っていたのだ。
「……済みません……本当に……俺……」
「いくら言ったところで……済んでしまったことでしょう?貴方に望むのはもう二度と私の前に姿を見せないで居てくれることです。きついかもしれませんが、その約束をしていただかないと私は安心して毎日を暮らせないんです」
正直に宇都木はそう言った。
自分のマンションに暫く帰られなかったのはそれもあったのだ。
また扉の前に立たれていたら……
また何処かで様子を伺われていたら……
そう思うと本当に怖かったのだ。
鳴瀬は嫌いではない。だが時に暴走する感情が怖いのだ。それは自分が持ち得ないものであるからそう思うのかもしれない。
怖いと思いながら、そんな鳴瀬が羨ましく思うのも宇都木の本音だ。理想とまではいかないが、自分も鳴瀬のように感情を吐き出してしまいたいと本当に思うことがある。ただそれが自分に出来ないだけであった。
羨ましいと思いながら、それに対して妬む気持ちが何処か自分の中にある。そんな事を思う自分が腹立たしく、そして情けない。
だから鳴瀬には近づいて欲しくないのだ。
「分かってます……。もう……俺、二度と宇都木さんの前に姿を見せませんから……。だから許して下さい」
涙声で鳴瀬はそう言った。
「ええ……もうお互い忘れましょう……。じゃあ……」
気の利いた言葉など宇都木には言えなかった。また何か期待させたら……そう思うと優しい言葉などかけられなかった。
「……さよなら……」
小さな声で鳴瀬がそう言った。その声を聞きながら宇都木は立ち上がり、今度は何も言わず、鳴瀬の部屋を後にした。
宇都木が自分のマンションに戻ったのは夕方であった。
キッチンに戻ると、朝用意したサラダとハムエッグがまだそこにあった。
ああ……
また食べてない……
何か食べないと……
そう思いながら、きちんとしたものを作ろうとキッチンに立ったと同時に携帯が鳴った。
「もしもし……あ、舞さん……どうされました?」
祐馬の姉の舞だった。
「お久しぶりね宇都木。さっきね、祐馬が、邦彦さんが今どこに住んでいるか聞いてきたんだけど……貴方知らないかしら……私の方にはまだ連絡が無いから分からないのよ……。ただあの子酷く焦っていて……どうしても知りたいようなの……」
祐馬は……
戸浪を捜しているのだ……
「分かりました。私の方から祐馬さんに連絡を取りますのでご心配なさらずに……。舞さんの方にも後程はがきでお知らせするように、邦彦さんに伝えておきますので……」
そう言った宇都木の表情は久しぶりに笑顔になっていた。
「じゃあ、おねがいするわね」
舞はそう言って電話を切った。そのすぐ後に宇都木は祐馬の携帯に電話を入れた。
「もしもし……宇都木ですが……。祐馬さん、舞さんから如月さんのお住まいを調べられていると伺って連絡をさせていただきました……」
そう宇都木が言うと、祐馬は酷く喜んだ声になった。
やはり探していたのだ……
宇都木は祐馬に如月の自宅マンションの場所を言うとすぐに電話を切った。
これで……
祐馬さんが戸浪さんを連れて帰ってくれる……
それでまた元の生活に私も戻れるのだ……
期待しないと必死に思っていた気持ちは今、宇都木の何処にも無かった。
すぐに祐馬が現れるだろうと思い、宇都木は先回りして如月のマンションに向かったが、遅かった。既に駐車場には祐馬の愛車が停められていたのだ。
鉢合わせはまずい……
そう思った宇都木は車から降りずに、身体を屈めると暫く時間が経つのを待った。その間何度か顔を上げ、祐馬の車を伺う。すると祐馬が青い顔して自分の車に乗り込む姿を見た。
戸浪は?
彼はどうしたのだ?
一緒ではないのか?
どうして?
祐馬は一人で車を運転して帰って行ったのだ。
一体どういうことなのだろう……
では戸浪はまだ如月と一緒なのだろうか?
心臓がドキドキしながらも、宇都木は車から降り、如月の自宅前まで足早に向かった。そうして扉の前まで来ると、持っていたスペアキーを取り出して、扉をそっと開けた。
心の何処かで止めた方がいいという警告が聞こえていたが、どうあっても確かめたかったのだ。
何故祐馬は戸浪を連れ帰らなかったのか……
どうして、戸浪は祐馬について行かなかったのか……
自分でもこそこそと馬鹿げたことをしていると思うのだが確かめずには居られなかったのだ。
宇都木は玄関に入ると靴をそっと脱ぎ、そろそろと部屋に入った。廊下から見えるキッチンには誰もいない。リビングにもだ。
客間……
客間に……居るのだろうか……
戸浪はそこに居るはずだった。
宇都木は足音をたてずにそろそろと廊下を歩き、客間の扉の前までようやく近寄った。その扉はしっかりと閉ざされてはいたが、中から声が聞こえてきた。
「私は……もう……駄目だ……身体がバラバラになりそうなんだ……」
まず聞こえたのは戸浪の声だった。掠れたような声だった。
「私が側にいる……大丈夫だ……」
優しい如月の声が、戸浪を宥めているのが宇都木には分かった。
「そんなに私は汚れているか?私は……お情けでも抱けない存在になったのか?」
また戸浪の声だった。
何がどう汚れているのだ?
あんなに綺麗な男の何処が?
私の様な過去など無いくせに……
暖かい家庭で何の苦労もなく育ったくせに……
何故あんな風にいうのだ?
それとも……
もしかして……
あの人を誘う為にそう言っているのだろうか?
祐馬が居ながら……
ギュッと胸の前で手を握りしめて、宇都木はその場から離れられなくなった。
「そんなこと無いぞ……誰がそんなことを言ったんだ……」
そう言う如月は聞いたこともない優しい口調だった。
あれは……
戸浪だけに聞かせる声なのだろう……
私には……
あんな声で一度だって……
「そんな風に言うなら……頼む……身体が壊れそうなんだ……」
誘って居るんだ……
戸浪はあの人を……
断れないと分かっていて……
なんて酷い……
あの人は……断ってくれるだろうか?
私のことを一瞬でも考えてくれるだろうか?
「何でも聞いてやるよ……」
……何でも……聞いてやる……?
「邦彦……私を抱いてくれ……」
……やはり誘ってるんだ……
あの人が断れないことをちゃんと知っている……
「もう一度戸浪からそうやって呼んで貰えるとは思わなかったよ……」
……もう……
「頼む……」
駄目だ……
「……戸浪……本気か?」
聞いていられない……
「……本気だ……」
何故?
「後悔するぞ……」
どうして?
「……しない……」
あの人は断ってくれないんだろう……?
そこまで聞いて宇都木はその場から逃げ出した。玄関までようやく逃げ、宇都木は後ろを振り返った。
客間の扉は宇都木を拒むように閉まっている。
あの中で二人はこれから愛し合うのだ。
昔を取り戻して……
恋人同士として……
ギュウッと宇都木は手を握りしめて、客間から視線を反らせた。
終わったんだ……
何もかも……
恋人としての日はもう終わった。
短かった……だけど……
幸せだった……
手を広げ、その中にしっかり持った合い鍵を見て宇都木は涙を落とした。
これは……
もう私のものじゃない……
そう思った宇都木は今まで大事にしてきた合い鍵を、キーホルダーから外すとシューズボックスの上にそっと置いた。
これを貰ったときは……
本当に嬉しかった……
涙がハラハラとこぼれ落ち、宇都木のシャツを濡らした。
私はこれからはただの秘書だ……
もう……
夢は覚めたのだ……
一生分の夢を私は暫くの間、見ていたのだろう……
これで使い果たしたのだ……
でも……
それでも……
本当に幸せだった……
宇都木は靴を履き、もう後ろを振り返らずに如月のマンションを後にした。