「黄昏感懐」 第12章
「鳴瀬さん……」
では、鳴瀬は如月が来ることを知っていて、こんな事をしたのだろうか？
「どうしてあんな男に惚れてるんです？俺はそれが分からないっ！ずっと貴方を玩具にしてきた男なのに……大体どうしてそんな男の側にまだ居たいなんて思えるんですかっ！」
鳴瀬は酷い剣幕でそう言った。
「……貴方にそんな事を言われる筋合いはありません……」
宇都木はようやくそう言った。
「貴方は良いようにこき使われているだけじゃないか……。それで何が楽しいんです？それとも又あいつの欲求不満にもつきあってやるんですか？」
バシッ！
宇都木の平手が鳴瀬の頬に飛んだ。周囲にその乾いた音だけが響く。
「一体どういうつもりです？貴方とは一度寝ただけでしょう？それでどうして私の決めたことに口を出せる関係になれると言うんです？一度寝たら私は貴方のものになるのですか？ばかばかしい……」
宇都木は呆れた風にそう言った。
「……宇都木さん……」
鳴瀬は泣きそうな顔をしていた。だが泣きたいのは宇都木の方だったのだ。
「言って置きますが、貴方と寝たのは私にとって遊びのようなものでした。それ以上でもそれ以下でも無い……もう構わないでくださいっ！」
最後は叫ぶようにそう言い、宇都木はその場から逃げるように車に乗り込んだ。これ以上話しを出来る心境ではなかったのだ。
今は誰の話も聞きたくなかった。
何時の間に……
あいつら出来てたんだろうな……
如月はそんなことを考えながら真下の自室に向かう廊下を歩いた。それを追いかけるように手の中で弄んでいる車のキーがチャラチャラと音を立てている。
ああ……そうだな……
随分時間が経っている……
宇都木からの告白を受け、それを拒否した日から随分と経っていた。だから宇都木も他に目を向けたのだろう。
だが何故あのガキだ？
如月は昔から鳴瀬が気に入らなかったのだ。
まあ……人の好みをとやかく言う資格はないんだが……
それでも鳴瀬はやはり気に入らない。
うだうだとそんなことを考えていると、真下の自室に着いた。ノックをして声を掛けると、「ああ、入ってくれ……」と真下の声が聞こえた。
「失礼します……」
如月はそう言って扉を開けると、相変わらず書類に埋もれている筈の真下は、本日はソファーに腰を掛け、深く座り込んでいた。その机の端には、コーヒー用のポット、そして使い捨ての出来る紙コップと砂糖、クリーミングがそれぞれ小さな籠に入ってそろえられて居た。
「ああ、邦彦くん、座ってくれて良いよ……」
背をソファーの背もたれから離した真下はそう言った。だがその目は眠そうだった。
随分眠そうだな……と思いながらもその理由を聞くことなど如月には出来ない。
「あ、はい……」
促されるまま如月は真下の前に座った。真下の方は机の端に置かれているポットからコーヒーを自ら入れ、こちらに差しだした。
「悪いね……いちいちコーヒーを頼むのも申し訳なくて……。今日はポットを置いて貰ったんだ。君の分くらい、できたての美味いものを頼んでやっても良かったんだが……。ああ、砂糖なんかは適当にその籠からとって使ってくれたらいい」
眼鏡を直しながら真下はそう言って苦笑し、自分の分を紙コップに注いでいた。
「いえ……私は何も入れませんので……」
如月がそう言うと、真下は目をまん丸にして驚いた。
「ほう……ブラックかい？私は駄目だね。ミルクはたっぷり入れないと飲めないんだ。砂糖はそれほどいらないんだが……」
笑いながら言い、真下はミルクを二つ開けて入れていた。
「……書類をお持ちしました。済みません、色々ご迷惑を掛けて……」
もってきた書類を渡すと、真下はニッコリと笑いながら受け取った。
一見、人の良さそうに見える真下なのだが得体の知れないところがあるのだ。何より、東が全面的に信用している数少ない男だ。そうであるだけに得体が知れないのも仕方ないだろう。
「ああ……これが欲しかったんだ……」
中身を確認して真下はホッと息を吐いた。
「ところで……、宇都木は良くやっているようだな……」
チラリと意味ありげな目をこちらに向けて真下は続けて言った。
「ええ……助かっています」
如月は笑みを浮かべてそう言った。
「うちとしても……宇都木を出す気は無かったんだがね……。実は君に宇都木を薦めたとき断るだろうと思っていたんだよ……」
「……」
確かにどうするか悩んだが、一番側にいて信頼できるのは宇都木だと如月は思った。だからあえて宇都木を選んだのだ。
「下世話な話しだが……。私はこう考えたんだよ。君が断ったら、本当に宇都木の事を考えている、もしくは側に置くなどとんでもなく嫌だと……。逆に断らなかったら、宇都木のあの献身的な性格を仕事に利用しようとしている……か……」
そこまで言って真下はコーヒーを一口飲んだ。
「……か？」
「君も心の何処かで宇都木の事が気になっていると考えた。どうなんだ？」
紙コップを机に置いて真下はじっとこちらを見つめた。
「仕事で有能な人間と使いたいと思うのは当然だと思いますが……」
如月はそう言って組んでいる手を見つめた。
本当はどうなのだろう……
自分でも己の気持ちが分からないのだ。
仕事を一緒にするなら宇都木は側にいて楽なのだ。何より本当に仕事が出来る。その分安心して任せられる。
如月しか見ないあの宇都木の瞳は、絶対裏切らないと信用できる。その瞳の奥には如月に対する想いがあった。
そんな宇都木の気持ちを自分は仕事に利用しようとしたのだろうか？
宇都木が如月に好意を抱いているのを知りながらその想いは踏みにじり、反面仕事では有能であるから側に置こうとしている……。
そんなつもりだったのか？
「なあ……私はね……宇都木が君をずっと見ていたのを知っている。一番最初にそのことに気が付いたのも私だろうと思うがね……」
真下は感慨深げにそう言った。
「だから？私にどうしろと？」
仲人のつもりだろうか？
宇都木の事も知っている変わりに、こちらの事も知っているはずなのだ。
それら全部を含めて、如月に宇都木を何とかしてやってくれと真下は言っているのか？
余計なお世話だ……
「……いや……ただね……宇都木は誰よりも献身的な男だ。相手に尽くすことで喜びを感じることの出来る男でね。まあ……うちの秘書はみんなそんな所があるが、それには事情がある。私もそうだが、東様の個人秘書は全て東様が引き取った子供なんだよ。分かるかな……。親が居ない、もしくは酷い目に合わされて親と引き離されたような子供ばかりなんだよ。だから助けて貰った恩が、そうさせるんだろう……」
如月はそんな話しを初めて聞いた。
「宇都木は変わっていてね。大体ここに連れてこられて充分な教育を受けさせて貰うだろう……そして大人になり、一度はみな好きな仕事に就かせて貰える。それで帰ってこない子供も居るよ。別に東様は子供が幸せならそれで良いという考え方だから無理矢理、これをしろ、あれをしろとは言わない方でね……。そんな中、宇都木だけは最初から最後までここから出ることを拒んだんだ……。何でも、したいことが無かったからだと言う話しだったが……それが、君の為なら簡単に出られるのだからたいしたものだよ……」
何がたいしたものか如月には分からないのだが、そう言って真下は笑った。
「それほどまでして出た宇都木なのだから、私に面倒を見ろとでも言うのですか？」
ムッとしながら如月は言った。
「私はそう言いたいな。まあ……宇都木にはそういう気は無いだろうが……。悲しいことに君に足蹴にされても、文句を言わない男だ。宇都木は今の状態で充分満足なんだろう……。本当に……小さな事で満足できる男なんだ……」
溜息をついて真下は言った。
「宇都木の事で何を言われても……私にはどうしようもないんですが……。彼の気持ちは分かりますが……それに彼にはもう……」
そうだ、宇都木は鳴瀬と……
「ああ……もう君も、過去を引きずるのは大概にした方がいい。ああいう問題は困る。何より向こうにその気が無いのに、何を血迷ってるのだと思ったね……。それに彼にはもうとは？あの宇都木が君以外を視界に入れると思ってるのか？」
馬鹿にしたように聞こえた如月は机を叩いた。
「だから？なんです。私が誰をどう思おうと貴方には関係が無いでしょうっ！それに宇都木には鳴瀬がいる。私のことは関係が無いはずだ」
全く関係のない真下に言われる筋合いは無いのだ。
「君が余計な事をするからこっちは板挟みだ。だがもっと板挟みだったのは宇都木だぞ。知らないのか君は……。私に東様を説得するように散々訴えていたのはあの男だ。惚れた相手が他を見てるというのにな……。全く……。あの時、お前に処分が無かったのはそう言うことだ。下手すれば何処か飛ばされていたぞ。あの時……宇都木は本当に馬鹿だと思ったよ。だが……哀れだった……。それで私も色々手を貸したんだが……。そんな男が鳴瀬とか？鳴瀬が勝手に想っているんだろう……全く話にならない」
「今頃何をおっしゃってるんです……私のことは……もう終わったはずです……」
如月はそう言って、座り直した。何故あの時の事を蒸し返されるのか分からないのだ。
「……まあ……蒸し返す気は無いんだが……。少しは宇都木の方も見られるような余裕が出来たのじゃないかと思ってね。お節介だったかもしれんが……私は宇都木には幸せでいて欲しいんだよ……。宇都木は特別なんだ……。君が嫌だというなら直ぐに返して欲しい人材だしな……」
もしかして……
真下は宇都木のことが気になっているのだろうか？
如月は思わずそんなことを考えた。
だからこれほど肩入れをするのだろう……
なんだ……
そう言うことか……
「宇都木が気になるなら……そうおっしゃれば良いんですよ……」
如月が言うと真下は、一瞬こちらを見、そして笑いだした。
「きっ……君は……私が宇都木に惚れているからこんな事を言っているとでも思ってるのか？そ、それは面白いな……いや……はは、済まない……」
お腹を押さえながら真下は本気で笑っていた。そんな真下にどういう態度を取って良いか如月は分からなかった。
「……」
「いや……済まないな……。宇都木をそんな目で一度も見たことが無かったものだから……可笑しくてな……。まあ、確かに宇都木に関しては私も肩入れする事が多いから、そう思われても仕方ないのだろうが……。多分生い立ちを知っている所為だ。それで、宇都木にはもっと自由に、生きて貰いたいと思うんだろう。なのに、結果として辛い選択ばかりする宇都木にイライラするんだ。それほど宇都木は自己犠牲の精神が強い。私だったら君みたいな計算ばかりする男に惚れたりはしないんだが……宇都木には君が余程素晴らしい男だと映ったんだろう……理由はしらないがね」
さらりと如月批判が入るところに真下の言葉の巧みさを感じた。だが確かに否定できない部分を持っている為、反論が出来無かった。
「……宇都木を……そちらにお返しした方が良いのでしょうか？」
ここまで言われて、側に置ける筈など無いだろう……
如月はそう思い、真下にそう言った。
「君がそう言ったら……宇都木は何も言わずにこちらに帰ってくるだろう……。だがその時はもう仕事など出来ない男になっているはずだ……。君に惚れているからね……その君に追いだされたら、君に仕事が出来ない男だと評価されたと勘違いして、使い物にならない男になってしまうだろう。そんな人間を引き取る気はうちもない。君が欲しがったのだから、最後まで面倒は見て貰わないと……。恋人として……等と私も言わない。ただ仕事のパートナーとして大事にしてくれたら、宇都木はそれに応えるために、見返りなど求めず、必死に君の力になってくれるだろう…」
その言い方には棘があった。
真下の口調にすると珍しい。
「……」
「君にとって都合の良い男を手に入れて満足だろう……。せいぜい利用するといい、逆に嫌なら放っておけばいい……我が儘を言わない男だから扱いやすい筈だ……」
クスリと笑って真下は更に言った。だが如月はその言葉で又腹が立ってきた。
「そんなつもりで私は……っ……」
「じゃあどんなつもりだったんだ？馬鹿だな……取り繕ったところで、君がどう思って宇都木を自分のパートナーに選んだかなどお見通しだ。それを認めない君は最低な男だと思うよ……。自分の気持ちを上手く正当化しているんだからね。まだ利用しているとはっきり言われた方がどれだけスッキリするか……。なにより本当に宇都木のことを考えたとしたら、最初に宇都木の話が出たときに断っていたはずだ。違うか？」
別に利用をしようと企んだ訳は無かった。だが心の深い部分で、そんな都合の良いことを考えていたかもしれないと如月は思った。
いや……
幾らなんでも、宇都木を利用しようと思ったわけではないのだ。
その筈だった。
ただ……
宇都木なら安心できると思った……
あの男となら毎日顔を合わせても五月蠅くならないと……
仕事も出来る……
一緒にいて気負わずおれる唯一の男なのだ。
それは自分の良心が作った言い訳なのだろうか？
分からない……
「宇都木はね……」
ぽつりと真下は話し出した。
「宇都木は……これは聞いた話なんだが……。丁度七歳の頃ここに引き取られてきた。というより東様が所用で出られたときに連れて帰ってこられたそうなんだがね……。執事の正永さんが言っていたが……ボロボロの服を着てどう見ても浮浪者さながらだったそうだ。髪はぼさぼさ、身体は痩せて小枝みたいだった」
「……それは……」
如月はそんな話を初めて聞いた。
「東様が舞さんを公園で遊ばせているときに、宇都木はゴミ箱をあさっていたそうだ。その姿が酷く哀れで、また自分の孫と比べたんだろうな……それで可哀想になって、正永さんに言ってお弁当を宇都木にあげたらしい。浮浪者然としているのに、ちゃんとお礼を言ったそうだ。気になった東様が、正永さんとその男の子の後を付けた。すると、一軒の家に着いたそうなんだが、又これが荒れた場所だったんだ。で、お弁当を胸に抱きしめて男の子はその家に入っていった。玄関から入るのも躊躇われて、正永さんが窓から様子を伺ったら、一人の女性らしい人間が布団でがりがりにやせ細って死んでいたよ。その横の壁に同じ様な男らしい人間が保たれて死んでたらしい。やはりがりがりでね。どう見ても餓死だな。死という概念が分からないのか、その横で宇都木がな「お母さん、お父さん、食べないと死んじゃうよ……」って何度も言って死体を揺すっていたんだ。回りには宇都木が集めてきた残飯が山ほど散らかっていたらしい。もう二人ともその姿が可哀想で堪らなくなって、そのままその子をうちに連れ帰ったんだ。それが今の宇都木さ……」
そこまで言って真下は又コーヒーを飲んだ。
「……両親は一体……？」
如月は掠れた声でそう聞いた。余りにも現実離れした事であったため、逆にどんな言葉が良いのか判断できない。
「ああ、宇都木を連れ帰った後、調べたらしいんだが、どうも妙な宗教を自分達で始めたらしい。で、それが人間は空気だけで生きていけるとか訳の分からない内容でな……近所付き合いも無かった所為で誰も気が付かなかったんだ。親戚も妙な宗教を始めた段階で、誰も近寄らなくなった。それで分からなかったんだ」
ふうと溜息を付いて真下は言った。
「……そうなんですか……」
あの宇都木にそんな過去があったとは如月は夢にも思わなかったのだ。
何より、過去の話など一度も宇都木はしたことがなかった。随分前に小さい頃、何になりたかったか聞いたことがあったが、その答えはなかった。
それは生い立ちの所為だったのだ。
「その所為かな……数年は笑うことがなかった。ただ、真面目で一つの事を言えば一生懸命それを達成しようとする子供だったそうだ。何も欲しがらない。いつも人の顔色を伺って、極力争いを避けるような子でね。誰かにこの子は賢い子だ、良い子だと言われて満足する子供だった。怖いんだろう……やっかいに思われることがな……。賢いとか、良い子だと周囲から言われてようやく自分の存在を認められると思っているんだ……と、正永さんが言っていたよ。そんな宇都木が可哀想だって……。テストで満点取れなかったらそれだけでどうして良いか分からない子供だったんだと。別に気にすることはないって言っても受け付けなくてね。何とか子供らしく育てようとはしたらしいんだが……駄目だったそうだ。勉強なんかどうでも良いから、好きなことをしても良いんだよと言うと、とたんに不安になるタイプでね。仕方がないから、無理にその性格を変えようとはしなかったそうだ」
だから……
そんな事を私に聞かせてどうしたいんだ？
同情してやれと言っているのか？
優しくしてやれか？
それとも愛してやれとでも言うのか？
聞かされたところで如月にはどうしようもないのだ。
「……だから……どうしろと？」
如月は真下をじっと見つめてそう言った。
「君は馬鹿か？そう言う生い立ちの所為で、ああいう性格だから、扱いを間違えるなと言ってるんだ。何を一体聞いていたんだ。私は宇都木に同情しろなどとは言っていない。哀れんでやれとも言ってないぞ。ただな、そういう過去で、見ていて可哀想なほど相手に尽くす男だから、ないがしろにだけはしてくれるなと言ってるんだ。君が仕事上で使うのも良いだろう。だが感情に任せて、イライラを宇都木にぶつけたりはしてくれるなと言ってるんだ。君が悪い事でも、宇都木は自分を責める。そうなると、宇都木は脆いんだ。分かるな？恋愛問題など今話している訳じゃない。君にいくら愛してやれと言っても、与えてやれないものを何とかしてやれと頼んでいるわけでもない。ただな、君は仕事が出来る。それは評価しているよ。それでも、まだ感情をコントロールする所にかけている。それをそのまま宇都木にはぶつけるなと言ってるんだ」
呆れたように真下は言った。
「……」
「返事は？どうなんだ？お前にそれは出来ないか？いつまでもガキでいるつもりか？」
真下の口調はかなり厳しかった。
「分かりました……」
「分かってくれたら良いんだ……。全く……話はそれだけだよ。帰ってくれていい」
真下はそう言って又ポットを掴むと、既に空になっている紙コップにコーヒーを注いだ。
真下と話を終え、如月は戸浪と約束をした喫茶店に向かった。約束の時間までまだあったが、暫く考えたいことが多すぎて、早めに来たのだ。
喫茶店は三階建て、窓になる側面が全部ガラス張りになっており、如月はその二階に上がると、窓側の席に腰をかけた。
宇都木は脆いか……
分かるような気がする……
確かに宇都木は如月の手紙を投函せずに捨てた。その事を何度も責めてきた。怒りにまかせて酷いこともした。
如月が自分がしたことを後悔し、宇都木のマンションを訊ねたことがあったが、あの時目の前で倒れたのだ。
自分を責める……か……
私とは反対かもしれないな……
そんな事を考えていると戸浪の姿が見えた。向こうもこちらに気が付いたのか、顔を上げてこちらを見ている。そんな戸浪に、手を振った。
暫くすると戸浪も二階に上がってきた。
「久しぶりだな……」
先程考えていたことを振り払いながら、如月は言った。
「……で、何なんだ……」
迷惑な顔でそう言った戸浪に苦笑が漏れた。
「まあそう構えるな。座れ……」
如月の前の席に戸浪が腰をかけると、ウエイトレスがさっとやってくる。
「アメリカン……」
戸浪はウエイトレスが何か言う前にそう言った。そうして、ウエイトレスが注文したアメリカンを戸浪の前に置くまで、如月は何も言わずに肘を机に置き、外の景色を眺めた。
ふっと気が付くと……
宇都木のことを考えてしまうのだ。
昼間、真下に聞かされた事が余りにも衝撃的で、その事から気持ちを逸らせることが出来ないでいる。
駄目だ……
今はそんな事を考えている場合じゃない。
如月は頭を振って戸浪の方を見ると、こちらをじっと見つめる薄茶の瞳と視線が合った。
「惚れ直したのか？」
「……まさか……」
驚いた顔で戸浪はそう言った。
明らかにその態度は、如月の事などもう何とも思っていないものだった。
随分と……離れてしまったな……
そんな風に如月は心の中で思った。
「お前が祐馬より私の方が良いと言うのなら、いつでもよりを戻しても良いぞ」
「あのな、その話はもう終わっている。そんなことを又言うのだったら帰るが……」
そう言って戸浪が席を立つのを、如月は言葉で引き留めた。
「お前達の家に、女の子が居座ってるだろう……。それで困ってると聞いてるが……」
戸浪はそれを聞いて、浮いた腰をまた椅子に下ろした。
「まあな……で、お前は何を知ってるんだ？」
「面白い話をしてやろう……。あの子は祐馬のお姉さんに頼まれて、お前達の邪魔をしに居座ってるんだ」
「え？」
「この間、祐馬の姉さん……私にとったら義理の姉なんだが……に会ってね。それでそんな話を聞いたんだ」
「……もちろん……反対だからだな……」
戸浪は形の良い小さな口元から溜息を漏らした。その口元に何度口づけしたか分からないほどだ。
「ま、普通は反対するに決まっているだろう……。自分の弟が、男とつき合ってるなんて姉として許せないのだろうな……。それで従姉妹に頼んだわけだ。報酬を奮発すると言うことで話は決まったらしいが……」
言って如月は温くなったコーヒーに口を付けた。
「……金？金を貰ったからって、普通男同士の住む家に居座れるのか？何かあったらどうしようなどと考えないのか？」
相変わらず……
戸浪はぼけているな……
男同士でつき合っているところに行ってどう間違いがあるんだ……。
まあ……あったとしても、それはそれであの姉は喜ぶんだろうが……
そんな事を考えながら如月は思わず笑いそうになった。戸浪が相変わらずだからだ。きっと、普通の家庭で育ったんだろう。だからそういう企みに疎いのだ。
宇都木とは雲泥の差だ……
等とまた宇都木のことを考えている如月は自分でもその事に気が付いていなかった。
「あのな、今時の子が無料奉仕するとでも思ってるのか？あの鈴香って子は結構その辺りの計算は高いぞ。なんでも自分のヨットが欲しいらしい。だから身体売る意外の金になることは何でもするだろうよ」
クスクスと笑いながら如月は言った。
「……ヨット……か。確かに随分日焼けした感じがしたが、それは海でヨットをしている所為か……」
「なあ、戸浪……ヨットはどうでもいいんだが……」
呆れたように如月は言った。
何かずれているぞ……戸浪……
思わず笑いそうになったのを如月はぐっと堪えた。
「えっ、あ、そうだったな……」
「というわけでだ、多分お前達が引っかき回されているだろうと思って、ご忠告まで……だ。鈴香が邪魔なら、祐馬の姉を持ち出して、全部ばれてるとでも言えば、こそこそと逃げ出すだろうからな……」
「どうして祐馬のお姉さんは、そんなめんどくさいことをするんだ？」
何も知らないからな……
「表向きは姉さんの方から祐馬に手を出せないんだよ」
「なんだか妙な言い方だな……」
「戸浪、お前祐馬から婆さんの話聞いたこと無いか？」
如月がそう言うと、戸浪の視線が彷徨った。何か祐馬から聞いている様な感じであった。
「……ああ。ある。それが？」
思い出したのか、戸浪はそう言って、視線を如月の方へと戻した。
「東都っていうのはすごいグループでな。爺さんが東一郎太、婆さんが都っていうので東都なんだが、身内の男連中を束ねてるのが爺さんで、女連中を束ねてるのが婆さんなんだ。で、爺さんは婆さんには頭が上がらないんだ。あんなすごい爺さんがね。で、祐馬って言うのはその爺さんと婆さんに可愛がられてる唯一の孫なんだよ。あの性格を見て分かると思うが、欲が無いのが気に入られて居るんだろう。まあ親戚連中も目の色代えて爺さんと婆さんに媚びてるからな。そう言う中で、祐馬だけが特異な存在なんだ。それが小さい頃からあんな感じだったらしくて、何かを欲しがったりしない、あれを買って欲しいとねだったことも無いんだと。逆に二人からすればそんな孫が可愛いんだろうな。その孫が初めてつき合ってるから応援してくれと言ってきた……」
ニヤリと笑って如月は戸浪を見た。戸浪の方は驚いた顔をしている。
「私の事か？」
「そうだ。お前の事だよ。言って置くが、お前の事は全部調べられてるぞ。家族構成から親戚連中からな。それで、お前が祐馬を騙して居るわけではないと判断されて、とりあえず爺さんは納得したようだ。婆さんの方はそう言う時代なのねえ～で逆に喜んでるらしいがな。そう言う味方を祐馬が付けたものだから、他の連中が表立って反対できないんだと」
「……私は……複雑なんだが……」
まあ……
複雑だろう……
私もよく分からない……
心の中で如月は本音を漏らした。
「……そうだな……確かに一族の連中は変わっているよ。祐馬が一番まともに見える位だからな……」
「それで祐馬の姉が動けずに、従姉妹に頼んだと言うことなのか？」
「だろうな、だがそれすらばれたら大変な筈なんだがな。ただ、姉は祐馬を可愛がっているから、どうにかしたかったんだろう」
「……そうか……」
言って戸浪は黙り込んだ。祐馬の事を考えているのだろう。如月にはそれがよく分かった。
お前は祐馬に……
本当に惚れているんだな……
祐馬のことしか考えられないんだ……
羨ましいことだ……
「戸浪……」
「あ、済まない考え事をしていた……」
如月に呼ばれた、戸浪は顔を上げた。
「お前がそんな親戚共に疲れたら何時で私が慰めてやるぞ……」
その言葉が、何故か乾いたように響いた。自分で言った言葉であるのに、何故そう聞こえたのが如月には不思議であった。
変だな……
私は……
「……はあ……冗談も休み休み言え……」
言いながら戸浪は、ようやくコーヒーを口元に運んだ。
「冗談か……」
如月が、苦笑いした。
そこに戸浪の携帯が鳴った。
「もしも……あ、……」
戸浪はちらりと如月を見て、身体を横向きにすると小声で話し始めた。
なんだ……
祐馬か……
バレバレだぞ……戸浪……
「済まない……ちょっと人と話をしているんだ……後でかけ直すから……」
そんな風に話す方が……余計に変だと何故思わないんだろうな……
そういうところが可愛いんだが……
聞かないふりしてコーヒーを如月は飲んだ。
「分かった。適当に時間を潰す。心配するな……」
と、ボソボソと言っている戸浪に急に意地悪をしたくなった如月は、いきなり声を上げて言った。
「どうする戸浪～これからホテルでも行くか？お前時間がありそうだしな……」
「お、おいっ！何を一体言い出すんだっ！」
慌てる戸浪が酷く無邪気に見えた。
「今更～何言ってるんだ？私とお前の仲だろう？」
更に如月がそういうと、戸浪は視線をこちらに向けたり、携帯に戻したりを繰り返した。その仕草で、祐馬が怒っているのが如月の目に浮かび、思わずくすくすと笑った。
「あ、な、何でも無いっ、切るぞっ！」
戸浪はこちらを睨み付けながら携帯を切った。
「如月～っ！」
「いや、こっちは情報を提供したのに、報酬はないからな。少しくらいの悪戯は大目に見ろ」
「お前が言うと悪戯にならないっ！ようやく落ち着いたんだから余計なことは言うな」
言って戸浪はレシートを持って立ち上がった。それにつられるように如月も腰を上げたのだが、戸浪がそれを止めた。
「一緒にはここを出たくない。何処で誰が見ているか分からないからな。ここでの事は祐馬にいくらでも話せるが、間違っても一緒に歩いている所は見られたくないんだ……。時間をずらして帰ってくれないか？」
「……はあ……そう来たか……」
溜息をついて如月は浮かせた腰を再度椅子に下ろした。
「済まない……。教えて貰って感謝はしているんだ……」
だが、誤解されるようなことはしたくないか……
そうだな……
分かるよ……
お前が今一番大切にしているのは祐馬なんだからな……
「言葉だけの感謝を貰っても、嬉しくとも何ともないな……」
如月が意味ありげに言った所為か、戸浪は机に手を伸ばし、こちらをじっと見た。もう少しで唇が触れそうな距離だ。
「じゃあ、ここのコーヒー代は払ってやる」
ピッと如月の分のレシートを取ると戸浪は身体を起こし、その場を後にした。
なんだ……
感謝の行動は無しか……
当然だな……
くすくすと笑いながら如月は窓の外を眺めた。
戸浪と宇都木……
全く性格が違うな……
戸浪は本当に良い家庭で育ったのが分かる。あの弟の大地を見ても分かることだった。二人とも何処か抜けているのは、大らかな雰囲気の中育ったからだろう。
だが宇都木はどうだ？
そう言えば……本当の所あいつは鳴瀬とつき合っているのだろうか……
如月は又、宇都木のことを考えていた。