Angel Sugar

「黄昏感懐」 第16章

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 今……
 何を言ったのだろう……
 宇都木にはあまりにも信じられない言葉を耳にした所為で、如月の言葉の意味が理解できなかった。
「…………え?」
「……あ~。こんな時にいう台詞ではなかったな……」
 如月はそう言って苦笑した。
「……よく……意味が分からないのですが……」
 愛していると……聞こえた……
 だがそんな言葉が自分に向けられるなど……
 何かの間違いだ……
「そうだな……私もはっきりと自覚したのは、今この瞬間だ……。だが……なんというか……」
 如月は言いにくそうにそう言った。
「私が、どうして早く帰ってきたと思う……?」
 その言葉を聞き宇都木は視線をまた落とした。
 何故そんなことを私に聞くのだ……
 まだ忘れられない人の為なのだろう……
 それを何故私に聞くのだ?
 だが、こちらの答えを待っているような雰囲気の如月に宇都木は仕方無しに言った。
「……戸浪さんの……事ですか?」
「……あ、まあ……そう思うのも……仕方ないか……。いや、戸浪のことは関係ない。ただ私は……自分の気持ちを確かめたくて帰ってきた」
 如月は宇都木の俯く頬を持ち上げ、そう言った。
「……貴方の……気持ち?ですか?」
 じっと見つめる先にある、如月の青い瞳は、曇ることなく真っ直ぐとこちらを見据えていた。それは真摯なものであった。
「ああ……。ずっと心の中に燻っていた訳の分からない感情を見定めたいと思った。宇都木が居ない日々を送ると、何かが欠けているような気持ちにどうしてなるのか……その理由を私は、はっきりさせたかった」
「……それは一体……」
 何故か急に心臓の鼓動が早くなるのが宇都木に分かった。
 如月が言っていることに先に身体が反応しているのだ。だが宇都木自身、如月の言葉がやはりまだよく分からない。
 一体……
 何を言いたいのだろう……
 頭が混乱して……
 分からない……
「……お前が居ないと……どうも、こう落ち着かないのは……何故だろう……」
 ちょっと困ったような表情で如月は言った。
「……それは……」
 居ないと落ち着かない……
 落ち着かないって……?
「気が付くと……お前の事を考えているのは……何故だと思う?」
 私のことを……
 考えてくれている?
 どういう風に?
 何を?
「……」
「最初は分からなかった……何時もお前が側にいてくれたからな。気が付くと視界に居るのが自然な事で余り深く考えなかった……」
 それは慣れではないのか?
 今日まであったものが急に無くなったことで、気になるだけなのではないのか?
 それは別に恋愛でも何でもない……
 ただ慣れと習慣の問題の筈だ。
 何かを期待しては駄目だ……
 後が苦しくなるだけ……
 期待したら……駄目だっ!
 宇都木は必死に自分に言い聞かせ、手を握りしめた。
「……おい、宇都木。お前も何とか言え。私にばかり恥ずかしい事を言わせるな」
「貴方は……今、私がこんな風だから……慰めようと思っているのでしょう?そんな……そんな慰め方をされても……辛いだけです……。もう……構わないでください……」
 縛られて……
 強姦された……
 あんな所……
 見られたく無かった……
「ああもう……」
 言って如月は宇都木を抱き込み、そのままベットに倒れ込んだ。
「……く……邦彦さん……」
「慰めるために言ったんじゃない。私は……ただ自分の気持ちを伝えたくて帰ってきた。お前があんな目に合っていたのはその後の話しだ。本当なら……あのオフィスで合流して、飯を食って……その後……お前に話そうと思っていた事だった。鳴瀬との事は余計だったんだ……。それと私の告白とは何の関係もない」
 優しい笑みを浮かべながら、如月の手はこちらの額にかかる髪をかき上げた。
 本当なのだろうか……
 本当に私のことを?
 まさか……
 あれ程戸浪を愛している男が?
 未だに忘れられないと言っている男が?
 私を……?
「嘘……」
 宇都木にはその言葉しか出なかった。
「嘘……か……。だろうな……そう思われても仕方のないことばかりしてきたからな……」
「だって……貴方は……」
 戸浪を取り戻したいと言った。
 諦めたとはいえ、チャンスを狙っているのを知っている。
 それなのに……
 そんな男の言葉をどうして信じられるのだ?
「貴方は……」
 宇都木はウッと胸が詰まった。
 まだ嫌われている方がましだった。こんな惨めな自分を慰めるために嘘を付く如月の態度は残酷だと宇都木は思った。
 それを思うと、散々涙を落とした瞳から、又涙が滲みだした。
 こんな風に慰められたくなど無い……
 こんな……
 身代わりに抱かれることよりも……
 ただの欲望の処理の為に抱かれるよりも……
 愛していると嘘を付かれる方が辛い……
 どうしてそれを分かってくれないのだろう……。
 心の中で色々な思いが駆け回り、宇都木自身もどうして良いか分からないほど混乱していた。
「貴方はどうしてそんな……」
 ハラハラとこぼれ落ちる涙を拭うこともせず、宇都木は如月をじっと見つめた。その如月は困ったような顔に、笑みを浮かべている。
「宇都木……」
 そっと触れてくる如月の唇が、宇都木の口元に触れた。次に閉じていた隙間を如月は舌でこじ開け宇都木の口内に侵入した。 
「……ん……」
 涙目になった瞳を閉じ、宇都木は久しぶりの如月のキスを味わった。以前味わった甘い感触が宇都木の口内に広がった。
 如月とは数え切れないほどキスをし、そして抱き合ってきた。その時感じたものがここで少し宇都木の中に戻ってきた。
 丁寧に口内を愛撫するその舌は、こちらの落ち着かない気持ちを宥めるような動きをする。だが、宇都木はそんなキスに余計に気持ちが乱れるのだ。
 本当に……
 本当に私を……?
「宇都木……」
 口元を離した如月はいきなり宇都木に覆い被さり、身体を抱きしめた。苦しいほどの抱擁は、宇都木にとって何時も如月に求めていたものだ。
 苦しい……
 息が……
 でも……
 嬉しい……
 如月の胸板に頬をピッタリ密着させたまま、宇都木も自分から腕を伸ばし、如月に抱きついた。そして宇都木は巻き付けた手を上下させ、如月の背を、ここに本当にあるのかどうかを確認するように動かした。
 広い背中……
 温かい胸板……
 これは現実なんだろうか……
 夢かもしれない……
 もう……
 戻ってこないと思っていたのに……
 側にいるだけで良いと思ったのに……
 こんな事……
 望んじゃいけないと思って諦めたのに……
「……嘘です……こんなの……」
 首を左右に振って宇都木はそう言った。そんな宇都木の顔を覆い被さった如月が耳元で囁くように言った。
「嘘じゃない……嘘じゃないんだ宇都木……。でも……まだ私も自分の気持ちが整理し切れていない……。だがお前にはずっと側にいて貰いたいと思う……。そして愛してあげたい。お前も……私を愛して欲しい……そう思う。だから……急がずに……ゆっくり恋人同士にならないか?」
 ゆっくり……
 恋人同士に……?
「私……」
「それとも……もう私にそんな気持ちなど無いか?仕事だけの関係でしかお前は側に居てくれないのだろうか?私は……嫌だな……恋人としても側に居て欲しい……。何時までも……私だけを見ていて欲しい……それを望んではいけないか?」
 如月は一つ一つ言い聞かせるようにはっきりそう言った。その言葉に宇都木は驚きながらも言った。
「私は……何時だって、貴方のためなら……なんだってする。貴方の側に居られるのなら……。それで幸せだから……。何時だって……貴方しか見えないから……。そんなの……貴方が望まなくても……私がそうしたいから……私は……」
 自分で支離滅裂な言い方をしているのを宇都木には分かっていた。だが言葉が上手く繋がらないのだ。どんな風に言えば良いのか、どんな言葉を選べば良いのか、全く分からない。それでも自分の気持ちを伝えられる言葉を必死に探して、言葉にした。
「だって……私は……。貴方に嫌われても……貴方が誰を愛そうと……私の気持ちなど……例え受け取って貰えなくても良いから……貴方の側に居るだけで……幸せだったから……そんな私は馬鹿だと他人に思われても……私は幸せだったから……」
 羅列するだけの言葉に歯がみしながら宇都木はそう矢継ぎ早に言った。そんな宇都木に如月は笑いながら言った。
「一言でいいんだ……私に愛してると……聞かせてくれ……」
「あ……」
 言っても良いのだろうか?
 言ってまた拒否されないのだろうか?
 私は……
「なんだ……私の側には居てくれるが、愛してはくれないのか?」
 そんな如月の言葉に宇都木は顔を左右に振った。
 違うっ!
 愛してる……
 ずっとずっと愛してきた。
「私は……貴方を……愛してる……。愛しています……」
 ようやく出た言葉は何故か掠れていた。
「私もだよ……未来……」
 初めて名前を呼ばれた宇都木は目を見開いた。
「え?」
「こういう時は未来だな……良い名前だ……」
 言いながら如月は宇都木の耳たぶを噛んだ。
「……あ……」
 その名前で呼ばれるのは……
 嫌いだ……
 たった一人そう呼んでくれた母を思い出して泣きたくなる……
 だけど……
 この人になら呼ばれても良い……
 未来と……
「なあ……」
 首筋の辺りで如月がそう言うと、息がかかりくすぐったく感じた宇都木は身体を捩らせた。
「くすぐったい……」
「はは……そうか……この辺り敏感だからな……」
 笑いながら如月はそう言った。
「じゃなくてな……。いいか?」
「え?」
「いや……だからその……抱いてもいいか?」
 何度も抱き合ったはずなのに、今更何を言ってるのだろうと宇都木は思った。
 如月になら……
 鳴瀬のように抱かれても……
 多分、嬉しいはずなのだ。
 どんな風に扱われても、如月なら良いと思える。
 例えそれが欲望の処理だけであってもいい……
 愛があるのと無いのとではこれほどの差があるのだと宇都木はふと思った。鳴瀬に無理矢理身体を開かされたときの嫌悪感など今これっぽっちもない。
 ただ……今は……
 如月に愛されたいと切実に思っている。
 心も……身体も……
 全て如月のものにして欲しいと願っている。
 だが……
 あんな風に鳴瀬に汚された身体を、抱きしめて貰って良いのだろうか?宇都木はそれが心配だった。
 如月まで汚してしまいそうな気がするのだ。
「いえ……私は……そんな綺麗な身体じゃ……」
 と宇都木が言っている間に如月はこちらのバスローブの紐を解く。
「あ……あの……」 
 バスローブの下は素っ裸なのだ。はだけた胸元を隠すように宇都木はローブを掴んで前を合わせた。その手に如月の手が掛けられ、やんわりと離される。
「欲しい……今……欲しいんだ……」
 青い筈の瞳が熱っぽい熱さを持っていた。その瞳は決して嘘をついている様には宇都木には見えなかった。
 だが……
 本当に求められているのだろうか?
 良いのだろうか……?
 宇都木には決心が付きかねていた。だがそんな宇都木の鎖骨に如月は舌を滑らせた。
「あっ……でも……」
「別に……あんな事が合ったから慰めてやろうなどと考えている訳じゃない。私にはそんなボランティア精神は無い。ただ……お前が欲しい……それだけなんだ……。欲しくて堪らないんだ……」
 囁くようにそう言う声と一緒に吐き出される息が熱い。
 本当に……
 私が欲しいのだろうか?
 信じられない……
 何もかもが宇都木にとって夢の中にしか思えないのだ。
 ここは本当に現実の世界なのだろうか……
「未来……いいだろ?」
 その言葉に宇都木は頷いた。
 夢でも何でもいい……
 また抱いて貰えるのだ。
 それも……
 求められて……
 今までは宇都木が如月を誘っていた。
 それが……
 初めて求められ、如月に抱かれるのだ。
 これほど嬉しい事があるだろうか?
「……あっ……」
 宇都木の腰元をまさぐる如月の手に力が入り、身体のラインを撫でながら動かされる。その間も唇の愛撫は身体の隅々まで施され、鳴瀬によってつけられたキスマークを、如月のものとすり替えていく。
 痛いほどの吸い付きが、更に強くキスの跡をつけるのだが、その痛みすら宇都木には快感を呼び起こすだけのものでしかなかった。
「あっ……あああっ……」
 胸の突起を指先でゴリゴリと潰され、次に舌で舐められる。その刺激にぷっくりと立った乳首が赤くなった。
「男も……乳首って立つんだと……男を抱いて初めて知った……」
 くぐもった笑いと一緒に如月はそう言った。
「……や……」
 自分の胸元に注がれる青い瞳の視線に、胸元が焼けてしまいそうなほど宇都木は熱く感じた。
 ああ……
 見られるだけで……
 身体が変になりそう……
 どうしよう……
 なんだか変だ……
 今まで宇都木から誘い、ただ必死になって如月の欲望に応えられるよう努力してきた。だから何時もがむしゃらであったため、恥ずかしさなどを感じている余裕が無かったのだ。
 だが、今日は違う。如月の触れる手が熱く、青い瞳に見つめられるだけで身体の体温が上がるのだ。とにかく、言葉で表せないほど恥ずかしくて仕方がない。
 こんな気持ちを持ったのは宇都木は初めてだった。
 何度も数え切れないほど抱き合ってきた。そうであるのに、宇都木はまるで初めて抱かれているような気分になっていたのだ。
「あっ……」 
 茂みに手を伸ばされ、宇都木は声を上げた。その手が宇都木のモノの側面を指先で擦るとチリチリとした刺激が下半身から這い登ってくる。更に指先は側面からもう少し下にある二つのものも指先で撫でるのだ。時に強く指先で押さえつけてくるため、その度に痛みと快感を交互に身体に伝えてきた。
 だが決して嫌悪感はない。
 目の前に見えるのは如月だからだ。何度も求めて来た男が自分を自ら望んで愛そうとしてくれている。それが幸せで、宇都木はもうここで死んでも良いと思うほど嬉しかった。
「……あっ……そこはっ……」
 如月の指先が宇都木の身体の奥に繋がる部分の入り口を揉みほぐしている。その刺激は気持ち良いのだが、先程の事が思い出され、急に現実に戻ったような気がした。
「……ここ……柔らかくなってるな……」
 それは先程鳴瀬が穿った為、柔らかいと言いたいのだろうか?
 だがそんな風に言われると、責められているような気が宇都木にはした。
 他の奴をくわえ込んでいたから……
 柔らかいのだと……
 そう如月は思っているのだろう。
 嫌だ……
 そんなつもりはなかった……
 無かったのだ。
「…ごめんなさい……私……」
 急に罪悪感で一杯になった宇都木は、又泣いてしまいそうになった。
「ああ……変な意味に聞こえたか?違う……」
 言いながら如月は愛おしげな目を向けてきた。それは信じられないほど優しい。
「……あ……」
「嫌なことを思い出させたか?違う……私の指になじんでると言いたかったんだ……。ほら……こんな風に……」
 言ってグイと指を突き入れられ、宇都木の身体は刺激に顎が反った。
「ここは私が欲しいと言ってるな……」
 なんだか嬉しそうな口調で如月は言った。だがそんな声など宇都木には聞こえない。何度も指が奥を抉る所為で身体を快感が走るのだ。
「あっ……あっ……やあっ……」
 引き抜かれるたびに、奥にある襞は名残惜しそうに如月の指にまとわりついていく。その感触が、恥ずかしい部分から宇都木に分からせるのだ。
 恥ずかしい……
 こんな風に思ったことなど無かったのに……
 どうしてこんなに恥ずかしいのだろう……
「あっ……や……あっ……」
 嬌声を上げながら、宇都木は如月からもたらされる快感に喘いだ。指だけでこれだけ翻弄されるとは宇都木自身も信じられないことだ。
「ひっ……あーーっ……」
 いきなり如月のモノが最奥に突き入れられ、宇都木は息が止まりそうな程の圧迫感を感じた。熱い弾力性のあるモノが狭い中一杯に入っている。それが動き出すと、宇都木は更に声を上げた。
 擦り上げられる内部は快感に震え、襞はそれを逃さないようにと絡みつく。奥の一番敏感な部分が、如月の切っ先に焦らされ、疼くような快感と一緒に身体を支配した。
「未来……」
 額にうっすら汗を浮かび上がらせた如月が、囁くように言ってこちらを覗き込んでいる。そのこちらを見つめる青い瞳が優しげに細められた。
 愛されてる……
 私は……
 愛されているんだ……
 ようやくそんな気持ちが宇都木の中に生まれた。今までどれほど望んだか分からない、たった一つの……そして唯一の夢が叶おうとしているのだ。
「邦彦さん……」
 あまりの嬉しさに泣き出してしまいそうになる。
 何年……
 一体何年想い続けてきたのだろう……
 こんな日など来ないと諦めていたはずなのに……
 夢は叶うものでは無いと思ってきたのに……
 今……
 それが現実になっている。
「これからも……私だけを見ていてくれるか?」
 言いながら如月は激しく腰を揺らし始めた。その為、如月の言葉に答えることが出来ない。口から出るのは荒くなった息と、喘ぐような声だったからだ。
 見ている……
 見ているから……
 ずっと側にいて欲しい……
 ずっと……
 愛していると囁いて欲しい……
 いつか……
 それを失っても……
 この身体も……
 私の人生そのもの全て……
 貴方だけのもの……
 宇都木は快感の波に流され、そのまま一気に高みにまで連れて行かれた。その果てにあったものは、心の安らぎであった。



「全く……誰が役員だ……」
 毎朝同じ台詞をここのところ如月は言っていた。それに対して宇都木は思わず笑みが零れる。
 何度言ってももう決まったことなのに……
「私が決めたわけではありませんから……私に言われても困ります。それに一介の社員に秘書などつけますか?」
 毎日同じ台詞を宇都木は繰り返しながら、車を走らせていた。本日は役員会議で早朝から会議があるのだ。
 だが気が滅入るような雨が昨日の晩から降っており、朝早い会議といつやむのか分からない厚い雨雲の所為で余計に如月の気分を斜めにしているのだろう。
「まあ……あのオフィスで座って仕事をするのは、ちょっと嫌だったからな。お前も嫌だろうから、離れていて良かったんだろう」
 鳴瀬によって身体を拘束されたあのオフィスの前の部屋が如月にあてがわれた個室なのだ。
 鳴瀬はあれ以来姿を見せない。何より如月がまた何かあったら困ると言って、宇都木を自分のうちに住まわせていたのだ。
 もう大丈夫だと思うのですが……
 だが安心は出来ないのは宇都木自身にも分かっていた。
 それでも……
 私は今本当に幸せだ……
 日々の如月との暮らしに、暖かな安らぎを見つけた宇都木は本当に幸せだった。
「ああ……嫌な雨だ……嫌な雨と嫌な会議だ……」
 また如月はそう言って溜息をついていた。そんな如月にまた笑いが漏れそうになるのを宇都木は堪えた。既に新しい職場で約一ヶ月ほど仕事をしていることになるのだが、相変わらず如月は嫌だと言うのだ。以前とはやや異なる職種だからかもしれない。
 一応如月の役職は取締役だ。他にも数名同じように若い年齢の役員が居る。
 年齢が高くなると時代に取り残され、新しい発想が出来ない。その為東都グループとしては金と場所を提供するが、親会社に左右されない一つの独立した子会社を作ろうとしているのだ。
 その方法で、某自動車会社は生き残り、時代を読めない古い体質の会社はつぶれていく。東は東都が現在はまだそのような危機に直面しては居ないが、古い体質が残っている現状を打破するため、今のうちにと自分のグループ内にいくつもの若い人間ばかりを集めた子会社を作っているのだ。
 その役員の一人として如月が選ばれた。
 ただそれだけのことであった。
 だが本人は未だに役職にこだわっているようである。
「肩書きは年齢に与えられるものではないという時代なのでしょうね……」
 そう言うと、如月がいきなり「停めてくれ」と言った。
「どうしました?」
 言いながらも既に車を道路の脇に寄せ、宇都木はそう言った。
「ああ、ちょっと待っていてくれ……」
 如月は傘を持って車の外へ走り出した。
 宇都木は突然の如月の行動に驚いたが、もっと驚いたのはその車を停めた場所であった。
 ここは……
 祐馬さんの住むマンション……
 あれは……
 雨が降りしきる中、宇都木は戸浪を見つけた。そのまま宇都木は声を失う。
 宇都木の耳にはただひたすら降り続ける雨の音が聞こえていた。
 その雨は当分止みそうになかった。
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