「黄昏感懐」 第26章
その声宇都木の声を聞いた真下は、呆れた風に言った。
「宇都木は邦彦に腹を立てて居るんじゃないのか?あんな奴、放って置けば良いと思わないのかい?」
「どうして私が腹を立てるんですか?それより……座り込んで雨に濡れている人を真下さんは放って置けるんですか?」
信じられないとう声で宇都木は言い、ドアを開けて外に飛び出した。
先程まで自分の足で歩くとフラフラしていた。だが、如月の姿を見た瞬間、そんな自分のことなど何処かに飛んでいた。
「……邦彦さん……どうしてこんなところに座ってるんですか?風邪……ひきますよ……」
自らも雨に濡れながら、宇都木は座り込む如月の側に近づいて腰を落とし、そう言った。すると俯いていた如月の顔が上がった。
随分雨に濡れていたことが分かるように、如月の衣服はずぶ濡れであった。
「……ようやく会えたな……」
その意味が宇都木には分からなかった。
「え?」
「真下さんにお前に会わせて欲しいと頼んだんだが……断られてね……だから待ってた……」
如月はそう言って笑った。雨に濡れ、髪が額に張り付きながらも如月は何故か嬉しそうだった。
「……真下さんに?」
チラリと後ろで傘を差し掛けてくれている真下の方を向くと、宇都木と目が合った瞬間に、真下の視線は空に向けられた。
……
どう言うことなんだろう……
「……いや……私が悪いんだよ……良いんだ……ただ私は……宇都木と話しがしたかったんだ……」
「邦彦さん……先に……身体を拭いた方が……」
宇都木は濡れている如月が心配だったのだ。
「ああ……私は良いよ。身体はお前と違って頑丈に出来ているからな……」
言って如月はゆらりと立ち上がった。それにつられて宇都木も立ち上がる。
何時からここに居たのだろう……
あまりにも濡れた姿の如月に宇都木はそんなことを思った。
「駄目です……風邪をひきますから……」
そう言って如月の腕を掴むと、身体の芯まで凍えた冷たさが、掴んだ手から感じられた。
冷たい……
冷え切ってる……
「……何時から……ここに居るんですか?」
宇都木は恐る恐るそう如月に聞いた。
「……あ、昨日の晩にからだな……。こんなに早く会えると思わなかったが……」
「どうして……そんなことを?」
「だから……宇都木に会って話しがしたかった」
言ってこちらを見つめる如月の青い瞳は雨に濡れながらも曇ることはなかった。澄んだ瞳は真摯にこちらに向けられている。
「……そんなの……何時でも……こんな所で待たなくても……」
宇都木は震える声でそう言った。
私と?会って話しをするために……?
雨の中一晩ここにいた……?
何故……
どうして私のために?
分からない……
だけど……
「……真下さん……」
もう一度振り返って真下にそう言うと真下は薄く溜息を吐いた。
「仕方ないな……根負けだ。邦彦、仕方ないから屋敷に入ることを許してやるよ……。本当はここで突き放したいんだが……そんなことをすれば、宇都木も一緒にここに立っていそうで困る」
真下の言う通り、もしそうなっておれば宇都木は如月の側に居るつもりだった。
「済みません……」
宇都木がそう言うと如月はチラリと真下を見た。
「……ありがとうございます……」
言い終えると如月はぐらりと体勢を崩した。
「邦彦さんっ……」
体勢を崩した如月を宇都木は抱き留めたが、自分が抱き留めているのが本当に人間なのか分からない程、如月の身体は冷たかった。
「……嘘……こんなの……」
宇都木は涙が滲んだ。
「宇都木……私が邦彦を連れて行くから……傘を差してくれないか?宇都木には無理だよ……」
真下がそう言ってこちらに傘を差し出すのだが、宇都木は如月を両手で抱き留めたまま、ズルズルと地面に膝をついた。
「……嘘……」
滲んだ涙があふれ出して頬を伝う。
何て冷たい身体なんだろう……
一晩ここにいた?
どうしてこんなになるまでここに居たのだろう……
会いたいって……
私に?
それだけのためにここに居た?
何故?
答えがそこまで出ているにも関わらず、宇都木には分からなかった。
「宇都木……大丈夫だ……だから……ほら」
真下に腕を掴まれ引き離されそうになったのだが、宇都木は如月の頭を抱え込むようにしてしがみついた。
「……うっ……うっ……」
宇都木はただ泣けて仕方が無かったのだ。
真下に散々宥められ、如月から引き離されると屋敷に連れ戻された。如月の方は警備員に運ばれたのを宇都木は見たが、その後すぐ如月を抱き留めたことで濡れた服を宇都木は着替えさせられた。それが済むと、速攻ベットに戻された。
「……私……大丈夫です……だから……」
ベットに横になり、宇都木がそう言うと、真下がやや怒った顔で言った。
「熱が出ているそうだ……」
「邦彦さんですか?」
「違う、宇都木がだ。良いから、後できちんと会わせてあげるから、宇都木は一眠りするんだ。いいね?邦彦には今、板東先生が来て診察してくれているよ。ただの風邪だろう。邦彦のことはいいんだ。元々丈夫な男だからな。ああ、そういえば取ってきて欲しい物は一体なんだったんだ?後で人を遣る」
真下はそう言って、又溜息をついた。
随分真下に迷惑を掛けているのだ。それが宇都木には心苦しいことだった。自分だけではない、如月のことも含め、それら全て自分の責任だと宇都木は思った。
私の所為で……
真下さんに迷惑を掛けている……
「……本当に……済みません……迷惑ばかりかけて……」
目線を落とし、宇都木はそう言った。
「良いんだよ……それはね。まあ……邦彦のことは余計だが……」
苦笑しながら真下は言った。
「一晩……あそこに居たんですか?その事……真下さんは御存知だったのですか?」
宇都木がそう聞くと真下は頷いた。
「あの男には少し考える時間が必要だったからね。頭を冷やしながら考えるのに丁度良いだろうと思って放って置いたんだ」
知っていて……
真下はそんな事をする人間だったろうか?
宇都木は真下の言葉が信じられなかった。
考え込む宇都木に気が付いた真下は、話題を変えるように言った。
「それより……何を取ってきて欲しいんだ?」
「え……あの……」
宇都木は仕方無しに小さな声で言った。
「リンゴを……」
その言葉が出ると宇都木は余計熱が出たような気がした。
「は?リンゴ?」
真下も驚いたようであった。
「……済みません……冷蔵庫の野菜室に……リンゴが……一つ入ってるんですが……それを取ってきて欲しいんです。他には何も必要ありません……」
ベットに沈み込んだまま宇都木はそう言って、更に顔を赤らめた。
「……曰く有りのリンゴか……」
ふむと言って真下は分かったような顔で言った。その言葉に宇都木はただ頷いた。
「ここのうちにあるリンゴじゃ駄目なんだな……?」
苦笑した顔で真下がそう言った。やはり宇都木は頷いた。
「分かったよ……取ってきて貰うように言っておこう……。じゃあ……私は仕事に戻るよ」
手を振って真下はそう言った。
「あの……邦彦さんは……」
「ああ……彼のことは後でな。宇都木は昼まで少し睡眠を取るんだ。いいね。宇都木がきちんと自分の身体を労らないなら、いつまで経っても会わせられないぞ」
言って真下は部屋を出ていった。
……眠らないと……
少しでも……
宇都木はそう思いながら目を閉じた。だが暫く枕に顔を擦りつけたり、何度も寝方を変え宇都木は眠ろうと努力したのだが、如月の事が気になり全く眠ることが出来なかった。
どうしよう……
ちっとも眠くならない……
まんじりとベットに横になり、宇都木はとうとう、身体を起こすとベットから降りた。するとまた頭の芯が疼いたが、暫くじっとしているとその貧血に似た立ちくらみは収まった。
私より……
あの人が心配だ……
酷くなってないだろうか?
宇都木は自分のことは全く考えられなかった。
それより先程身体で感じた如月の冷たさをまだ生々しく思い出せるのだ。宇都木は両手を広げ、その時の感触を思い出した。
濡れた服から伝わる如月の体温は全く無かった。ただ冷たかった。身体の芯まで冷えていたからだ。
嫌だ……
妙なことを思い出してしまう……
両親が死んだときもあんな風に冷たかったのだ。
体温が無く、ただ冷たかった。あの時はそれが死だとは思わなかった。今だから良く分かる。それと同等の冷たさを如月に感じた宇都木はとても不安なのだ。
大丈夫なのは分かる……
だけど……
意味もなく恐い……
確かめないと……
自分の目で確かめないと安心できない……
不安が益々心の中で膨れ上がった宇都木は、パジャマ姿で扉の所まで来ると、ノブを回し扉を薄く開け、向こうの様子を伺った。
この部屋は、真下の仕事場を通らないと外の廊下には出られないのだ。
そろそろと覗くと、真下の姿が見えなかった。
……
何処か別の場所に行ったのだろうか?
薄く開いた扉から暫く様子を伺っていたが、真下が居ない事を確認した宇都木はもう少し扉を開けた。
……居ない……
真下さん何処に行ったのだろう……
だけど……
丁度良いかもしれない……
真下に見つかるとまたベットに戻されるのが宇都木には分かっていたのだ。その理由も宇都木は充分理解している。だが心で理解していることと、衝動的に起こる気持ちとは別物なのだ。
宇都木には今如月に会って、無事を確認する事しか頭に無かった。生きているのは分かっている。あの程度で死ぬわけなど無い。頭ではそれを分かっていながら、どうにもならない心の不安が今身体を支配しているのだ。
確かめないと……
宇都木はそんな気持ちに突き動かされながら、真下の仕事場を抜け、屋敷の廊下に出た。そこにも人は居なかった。ただ不気味なほど静かだった。
普段から静かだけど……
そんな風に思いながらよたよたと宇都木は裸足で廊下を歩いていると、正永がこちらを見つけて走ってきた。
「宇都木様っ!いけません……!」
よろけたところを正永に支えられながら、宇都木は言った。
「あ……正永さん……あの……如月さんが今どちらにいらっしゃるか御存知ですか?」
「そんなことは後にされて……身体を休めた方が宜しいですよ」
困ったような表情で正永は言った。
「……いえ……どうしても会いたくて……済みません……。ご存じないのなら私……自分で探しますから……」
やんわりと正永が掴む手を離し、宇都木はまた歩き出そうとした。だが正永は払われた手をまたこちらに延ばし、宇都木を支えた。
「客室専用間にいらっしゃいますのでご案内します。……ですが真下様に見つかったら怒られますよ……」
「良いんです……私、怒られても……今、どうしてもあの人に会いたいんです……」
そう宇都木が言うと、正永はもう何も言わず、付き添ってくれた。
そうして客間の廊下まで来ると正永は言った。
「奥から手前の一番小さい客間にいらっしゃいます。ご自分で行けますね?」
「ありがとう……正永さん」
宇都木はそう言うと正永は、きびすを返して去っていった。
それを見送り、宇都木はまた廊下を歩き目的の客間の扉にたどり着いた。
ドキドキしながら宇都木は扉に手を掛けた。この向こう側に如月が居るのだ。
もし……
起きていたら……
目を開けていたら……
何を言ったらいいのだろう……
でも……
会いたかったと言われた……
話しがしたいとも言っていた……
だから……
それがどういう事なのかを聞くだけなら……
別におかしいことではない……
そう……
普通に聞けばいいのだ。
ようやく宇都木は決心を付け、扉のノブを掴んでそっと開けた。すると、畳間に敷かれた布団に如月が眠っているのが見えた。
眠ってる?
額に濡れたタオルが置かれているのも見える。きっと熱があるのだ。そう思った宇都木はゆっくり如月の眠る布団に近づいた。
邦彦さん……
如月の眠る横に宇都木は座り、じっとその寝顔を見つめた。先程見た真っ青な唇は今は赤みが戻っている。だが乾ききらない髪が、水分を含み締め切られた和室の薄暗い中で光沢を放っていた。
暫く宇都木は如月の寝顔を見つめていたが、その顔に、カーテンから漏れた光が差しかかるのを見つけ立ち上がった。
閉めてあげないと……
眠られないですね……
音を立てずに窓際まで来ると、宇都木はカーテンをきっちりと重ね合わせた。すると部屋全体が一気に薄暗くなった。
これでいい……
そう思いつつ宇都木はまた如月の側に戻ってくると、そこに座った。
周囲の音は如月の規則的な呼吸の音だけが響く。
良かった……
大丈夫みたい……
じっと見つめていたのだが、そうやって座っているのも辛くなった宇都木は、自分も畳間に横になり、そのまま如月の顔から視線を外さなかった。
私に……
会いたかったんですか?
どうして?
聞きたい……
その事を聞きたくて宇都木は仕方がなかった。何かとても大切な事の様な気がしたからだ。だが答えてくれる筈の如月は、昏々と眠り続けている。その如月の頬に宇都木は手を伸ばし、そっと触れた。
好きです……
愛してる……
自分がどうしようもなくなるほど……
私はこの人を愛している。
海の色の瞳……
私はそれを見た日から貴方の事を一時も忘れられなくなった……
「……宇都木?」
「あっ……」
いきなり如月の瞳が開いたことで宇都木は延ばしていた手を引っ込めた。
「済みません……あの……」
横にしていた身体も起こし、宇都木は慌てて言った。
「いや……謝るのは私の方だから……」
言って如月は宇都木の手を取り、青白かった唇に引き寄せた。その如月の行動に宇都木は狼狽えながら、名前を呼んだ。
「……邦彦さん……」
「済まなかった……」
何が済まないのか宇都木には分からない。
「……どうして貴方が謝っているのか分からないのですが……。私は…その……貴方が望んだような立派な秘書になれなかったことを……謝らないといけない立場なのは分かって……」
と、そこまで言って宇都木は急に涙が落ちた。
思い出すとまだ辛いのだ。
自分はどうにも役立たずで、しかも仕事に使えない人間だと認めてしまった今でも、如月の為に何も出来ない自分がとても辛い。その所為で自分の居場所を失った事実もその涙に拍車をかけるのだ。
「違うっ……宇都木……それは違うぞ……」
言って如月は身体を起こした。
「……え……」
違うって……
何が?
「私は……お前が大切だったから……。そのお前が……日々弱っていくのを見ておられなかったから、暫く休めと言ったんだ。お前を愛しているから……大切にしたかったんだ」
そう言って如月は、退き気味の宇都木の身体を引き寄せた。
……
大切?
私が?
「済まない……言葉が足りなかった……。私は……お前がそれを知ってくれているとばかり思っていたんだ。自分一人で……もうお前は私の恋人だと決めつけて……だから私の心配する気持ちも分かってくれると……」
ギュッと力強く抱きしめられ宇都木は息が苦しかった。だがそこから逃れたいとは思わなかった。
「……恋人……私が?」
恋人だったのだろうか?
ずっと?
そう思ってくれていたのか?
「……ずっと……そう思っていたんだ。馬鹿みたいに……お前はもう私のものだ……恋人だと……思っていた。お前に伝わっていなかったが……そんなことも知らずに私は……一人でそう思っていた。だから……秘書のことも……自分の恋人を心配する私のことを宇都木が理解してくれていると思っていた。それが……お前には全く伝わっていなかった。それが酷く傷つけてしまう事になる等、少しも考えなかった……」
嘘……
本当なのか……
分からない……
この人は一体何を言ってるのだろう……
戸浪のことは?
如月の突然の言葉に宇都木は頭が回らなかった。
「私は……ただの……秘書で……貴方は……戸浪さんのことを……」
ろれつの回らない口で宇都木はようやくそう言った。
「済まない……誤解するような事ばかりしていた私が悪いんだな……。もう戸浪とのことは過去だ。今は……未来……私にはお前しか居ないんだ……。お前が側に居て欲しい……。心の底からそう思っている。それを言いたくて……お前が許してくれなくても良いから……会って、その事をきちんと話したいと思った。だから……あそこで待っていたんだ……。いつか……出てくるだろうと……そう思ったから……」
私しか居ない?
戸浪はもう過去なのか?
私は……それを……
信じて良いのだろうか?
こんな幸運を受け入れて大丈夫なのだろうか……
「わ……私……私は……」
恐い……
夢だったらどうしよう……
私が見たいと思っていた夢を今見ているのだとすると……
今のこの事が、私には現実かどうか分からない……
「未来……」
如月によって抱きしめられていた身体が少し離されると、青い瞳が真っ直ぐこちらを見ているのが分かった。
「……私……」
じっと見つめられ、宇都木は何を言って良いのか分からず、目を逸らせた。
「私がお前にきちんと伝えられなかったことを……許してくれないか?」
言って如月は逸らされた瞳を自分の方へ戻すように、宇都木の顎を掴んだ。
許す……
何を?
伝えられなかったこと……?
駄目だ……混乱してまともに言葉が考えられない……
半分パニックになっている宇都木を無視するように、口元を掬われた。
「……私……ん……」
熱っぽい舌がこちらに絡まり、忘れかけていた甘い刺激を宇都木に呼び起こした。
これは……
現実なのだろうか……
私は……
一体……
どんな夢を見ているんだろう……
宇都木は目を閉じ、暫く如月によって翻弄されるまま、自然に舌を絡めていた。
「未来……」
口元を離され、宇都木は閉じていた瞳をうっすらと開けた。
「……本当に……済まなかった……」
如月はそう言ってパタリと宇都木の膝の上に頭を落とした。
「……っ!邦彦さん!」
驚いた宇都木が如月の様子を窺うと、規則的な吐息が聞こえてきた。
眠った……?
眠ったんですか……??
宇都木は眠ってしまった如月の身体をそっと布団に横にさせると、その身体に毛布を掛け、額に何時の間にか落ちた濡れタオルを置いた。
……
一晩……
ずっと外にいて眠っていないのかもしれない……
宇都木は複雑な気持ちで立ち上がると、そろそろと和室の入り口にある扉まで来ると、後を振り返った。
眠っている如月は、とても満足そうな寝顔をしている。
……私は……
どう思えば良いのだろう……
これは……
本当のことなのだろうか?
信じて良いのだろうか?
一人で……考えたい……
少し……
考えたい……
宇都木は如月から顔を逸らせ、扉を開けて廊下に出た。するとそこには鳴瀬が立っていた。
「鳴瀬さん……」
そう宇都木が言うと、鳴瀬は視線を逸らせた。