Angel Sugar

「黄昏感懐」 第25章

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 何処へ行ったんだ?
 如月は、その引き抜かれた注射針を見て、宇都木が手洗いに行ったのではないことだけは分かった。
 だったら何処に行くんだ?
 あんな身体で……
 私は何か不味いことでも言ったのか?
 分からん……
 分からないが……
 探さないと……
 如月はきびすを返し、看護婦に宇都木が消えたことを伝え、病院一帯を探して貰ったが姿は無かった。
 仕方無しに如月は宇都木のマンションに行ったのだが、誰も居なかった。なによりこのうちの主が、帰った様子もない。次にまさかと思いながら、自分のマンションにも戻ってみたが、キーを持っていない宇都木がここに来るわけなど無いのだ。
「宇都木……」
 では宇都木はパジャマ姿のままうろうろと何処に行ってしまったのだろう? 
 それに金も持たずに?
 では、遠くには行けないはずだ……
 いや……まず警察に電話をした方が良いのだろうか?
 如月は散々悩んだ末に、東の屋敷に電話を入れることにした。あそこに戻っていないとは言い切れないからだ。
 金はなくても……
 どうにかして行ったかもしれない……
 電話を掛け、真下に繋いで貰った。
「どうしたんだ……慌てた感じだな……」
 真下はこちらの口調を敏感に感じ取ったのか、そう言った。
「そちらに……宇都木が戻っていませんか?」
「宇都木が?いや……何かあったのか?」
 心配そうに真下が言った。
「……宇都木が……病院から出ていってしまったんです……」
「病院?一体君は何を言ってるんだ?分かるように話しをしてくれないか」
 イライラと真下はそう言った。
 如月は真下にここ最近、宇都木の身体の調子が悪かったこと、そして宇都木が倒れたため、病院に連れて行ったことを話した。
「……分かった。こちらで探す。大体見当はついているからな……」
 小さく溜息をついて真下はそう言った。
「見当はついている?何処です?」
 真下には宇都木の行き先が分かっているのだ。如月はそれが何処だか知りたかった。
「悪いが……暫く宇都木と君を遠からず見守っていたが……どうも君には宇都木を大事に出来ない様だ。あれ程私が忠告したのにな。入院するほど酷くなるまで放って置くような男に、うちの宇都木を任せると思うか?まあ……もう使いものにはならないだろうが……。だがこうなったら仕方ない、返して貰うよ」
 返して?
 返してもらうだと?
 そんな言い方があるか?
「宇都木は……私の大事な秘書です。それは困ります」
 如月は腹立たしさを抑えながらそう言った。
「大事?大事にしていないからこんな事になったんだろう?もういい、君との話は終わった」
 真下はそう言っていきなり電話を切った。
「どういうつもりなんだっ!」
 如月は持っていた携帯を床に叩きつけてしまいたいほど頭に来ていた。
 だが……
 東の屋敷に行けば会えるんだな……
 行けば……
 宇都木に……
 如月はそのまま駐車場まで降りると、自分の車に乗り込んだ。

 緑の香りがする……
 うっすらと目を開けた宇都木は、草むらに丸くなっていた。
 そこはかつて自分の家が建っていた場所だった。だが随分昔に建物は壊され更地にされた。そして十数年経った今、雑草だけが茂っており、昔ここに人が住んでいたとは想像が付かないほどの場所になっていた。
 結局……
 ここに戻ってくる……
 うっすら開けた目を閉じて宇都木はそう思った。
 東の屋敷に引き取られ、ひたすら宇都木は居場所を求めてきた。
 何処でも良かった。暖かい場所が欲しかったのだ。
 家族の温もりが破錠してしまったあの日から、宇都木はただそれだけを求めてきたのだ。
 だがいつまで経っても暖かい場所は得られなかった。初めて本当に望んだ場所は既にもう無い。
 涙がまたこぼれ落ち、地面に吸い込まれていく。
 身体は既に言うことがきかない。ここまで来るのに残りの体力を全て使い果たしてしまったのだろう。
 裸足で歩いた所為で足はドロドロで酷く痛む。道行く人はパジャマ姿でフラフラと歩く人間に係わることを恐れて誰も近づかなかった。だがもう宇都木にそんな人達の事もどうでも良くなっていた。
 疲れた……
 何もかも……
 疲れた……
 何もしたくない……
 何も考えたくない……
 もう……
 ポロポロと涙を落とし、宇都木は地面に丸くなっていた。
「宇都木……!いるんだろ!」
 いきなり聞き覚えのある声が聞こえ、宇都木は顔を上げた。すると真下が草むらをかき分けて、こちらにやってきた。
「何だ……そんなところに居たのか……。宇都木は何時もここに逃げ込むんだな……」
 困ったような笑みを浮かべて真下は宇都木の側に寄ると、腰を屈め、膝を折った。そんな真下に宇都木はようやく上半身を起こし、地面に座り込んだまま真下を見つめた。
「……真下さん……私……も……う……」
 真下を見た瞬間、安堵感が身体を覆い、宇都木は先程よりも涙がこぼれ落ちた。
「一緒に帰ろうか?未来の家はここじゃないだろう?」
 久しぶりに未来と呼んだ真下は、宇都木の頭に手を伸ばし、宥めるように撫でた。
「私は……無能で……仕事……ちゃんと出来なかったんです……。だから……私は……もう……いいって……誰にでも出来る事だからもういいって……私の代わりはいくらでもいるって……」
 あの人の為に何かしたかった……
 あの人に必要な人間だと思われたかった……
 だけど……
 私は……もう必要ないのだ……
 何も出来ない無能な人間だから……
 私は……
「そんなことはないよ……いいから……帰ろう……な?」
 真下はそう言って、ひたすら泣いている宇都木の身体を抱き上げた。
「私……どうしてこんな……何も出来ない……人間なんですか……?もう……自分が嫌で……嫌で嫌で……」
 言いながら、宇都木はもう泣くことしかできなかった。
「……痩せたね……未来……。暫く休もうな……」
 優しげな真下の言葉に宇都木は声を上げて泣いた。
 
 真下に連れられ、宇都木はまた東の屋敷に戻ってきた。実際はその間、宇都木は気を失っており、目が覚めたのは夕方であった。
 ……あ……
 ここ……
 目を擦りながら宇都木は身体を起こさずに目だけを周囲に走らせた。
 病室ではなく、どうも誰かの部屋のようだった。
 屋敷横の洋館だろうか……
 元々洋館の方に宇都木の部屋があった。今もそのまま残されている筈なのだが、この場所は違う。上から下まである窓を覆う遮光性のカーテンは薄水色をしており、床には毛足の短いカーペットが敷き詰められ、部屋の壁はクローゼットになっていた。その対になる逆の壁は全て本棚になっており、かなりの本が並べられ、そこには、小さな書斎机に椅子がおかれている。
 誰の部屋だろう……
 真下さんの?
 宇都木は真下が迎えに来てくれたのは覚えていたが、車に乗せられた段階で記憶が途切れているのだ。
 視線を部屋の方から自分の手に向け、また点滴の針が刺されているのが見えた。
 点滴……
 又つけられてる……
 私はそれほど身体が弱かったのだろうか?
 宇都木は今までも随分無理してきた覚えもあったが、こんな事は初めてだったのだ。
 これから……
 どうしよう……
 私は何をすればいいのか分からない……
 また滲み出した涙が一筋頬を伝った。
「宇都木……起きたのか?」
 扉を開けて入ってきたのは真下だった。やはりここが真下の自室だろう。真下の自室は他の秘書と違い、東の屋敷内にあるのだ。ではこの隣の部屋が、何時も尋ねて行く真下の仕事場なのだ。
「……真下さん……」
 身体を起こそうとした宇都木に真下は手を伸ばし「いいから」と言った。そうして真下は細いフレームの眼鏡をかけ直すと、ベット側の椅子に腰を掛けた。
「宇都木が逃げ出した病院に事情を話して診察結果を聞いて、それからうちの主治医の板東さんに来て貰った。宇都木も良く知っているね?」
 言って真下はニコリと笑った。
「……あ……はい……」
 板東は東家の主治医だ。結構な年齢だが、まだまだ現役の医者だった。昔から東家で病人が出ると板東がやってくるのを宇都木は知っていた。
「まあ……暫く、羽を伸ばして、またここで仕事をすればいい」
 真下はそう言って宇都木の額にかかる髪をかき上げた。
「……私は……仕事は……出来ません……。きっと……またご迷惑を掛けてしまう……」
 今回のことで宇都木は思い知ったのだ。
 自分は仕事が出来ない人間だと……そうであるから秘書を続けていく自信などある訳が無いのだ。
 また迷惑を掛けてしまう……
 誰かに又……
 使えない男だと思われる……
 それは苦痛だったのだ。
「宇都木は良くできた秘書だよ。お前ほどきちんと仕事をする人間を私は自分以外に知らないね」
 ニヤと笑って真下は言った。
「……私……」
 ギュッと毛布を握りしめ、宇都木は言った。
「私は……もう……どうして良いか分からない……」
「今は、精神的にも疲れているから考える余裕がないんだよ……暫くは何も考えずにぼんやりしていると良い……」
 真下はことのほか優しい瞳を宇都木に向けてそう言った。
「真下さん……私……」
「なんだ?」
「ここに居ても……いいんですか?迷惑じゃ無いですか?迷惑だったら……追い出して下さい……私……」
 そう宇都木が言うと、真下は宇都木の頬を軽く叩いて言った。
「ここが宇都木の家だと言ったね?それを聞いていなかったのかい?全く……あんなもう誰も居ない場所に逃げるなら、ここに最初から逃げて来たら良かったんだよ。そうしたら私が慰めてやれるだろう?」
 やはりニコニコしながら真下は言った。
「……本当に……いいんですか?」
 窺うように宇都木は言った。
「馬鹿だね宇都木。私は確かに東様の許しを得て宇都木を外に出したが、宇都木に帰ってきて貰いたくて仕方がなかったんだよ。仕事がもう……無茶苦茶になっていて……へとへとだ。今までは宇都木がフォローしてくれていたから余計にそう思うよ。だから帰ってきてくれて私は嬉しい。本音だよ」
 ははと笑って真下は立ち上がった。
「何か欲しい物があったら、いつでも内線でお手伝いさんを呼ぶなり、執事の爺を呼ぶなりするといい。正永爺は宇都木に何があったんだとオロオロしていたぞ。あの人はお前を孫みたいに思ってるからな……また後で様子を見に来るとは言っていたが……」
 その真下の言葉を複雑な気持ちで宇都木は聞いていた。
 いま……
 私がこんな状態だから……
 本当の事が言えないのだ……
「宇都木、じゃあ私は仕事に戻るから……」
「はい……ありがとうございます……」
 ようやく宇都木はそれだけを言った。
 真下が出ていくと、宇都木は柔らかい枕に頭を更に沈め、瞳を閉じた。
 周囲はまるで時間が止まったように酷く静かだった。
 有能な人間にどうしたらなれたのだろう……
 分からない……
 出来るだけのことをしてきた。
 努力が足りなかったのだろうか?
 それとも……
 私が……祐馬さんの力になったことを知ったのだろうか……
 だから……
 疎ましくなった?
 ……
 止めよう……
 疲れた……
 もう今は何も考えられない……
 宇都木はようやく眠りについた。

 如月は東の屋敷に着いたのだが、玄関を通して貰えなかった。
「真下様に、如月様は当分出入り禁止だと伺っております。お帰り下さい」
 執事の正永は、言葉とは裏腹に笑顔を浮かべてそう言った。
 痩せた老人は身体にピッタリした黒いスーツを着ており、背筋を伸ばして立っている。正永家は代々この東家に仕え、次に執事の候補に上がっているのは、この老人の孫だと聞いていた。
「……こちらに……宇都木が来ている筈なんです……。少しで良いから会わせて欲しい……それもいけませんか?」
 食い下がるように如月がそう言った。
「宇都木様は来られてはおりません。如月様の勘違いではありませんか?」
 正永はそれが嘘か本当か分からない飄々とした雰囲気でそう言った。
「絶対……こちらに来てる筈なんです。お願いですから会わせてください」
 懇願するように如月は正永にそう言ったが、正永の方はいないの一点張りだった。
 どうする……
 ここに居るのは分かっている。
 何故会わせて貰えないんだ?
 どういう理由で?
 分からない……
 急にどうなって居るんだ?
「……どうして……会わせて貰えないんです?何故?理由は?」
「玄関で誰が騒いで居るんだ?ああ、邦彦だったのか……」
 いきなり聞こえた声は真下のものだった。
「真下さんっ!宇都木に……宇都木に会わせてください!」
 どうして……
 どうして病院から抜け出したのか知りたいのだ。
「正永さん……いいよ。私が話しをするから……」
 真下は如月の言葉を無視し、正永にそう言って下がらせた。
「で、玄関で騒がれると困る。私も忙しいんでね……。何の用だ」
 まるで東家の当主は私だという様な真下の態度は如月をムッとさせた。
「先程から……同じ事を繰り返して言っております。宇都木に会わせて下さい」
 そう如月が言うと、眼鏡のガラス向こうにある瞳が細くなった。
「……君は……何も分かっていない……。私が話して聞かせたことは全く君の耳に入らなかった言うわけだ……」
 やれやれという風に真下は言った。だが如月には何故宇都木が病院から逃げ出したのか理由が分からないのだ。そうであるから真下の言っている意味も分からないでいた。
「……」
「なんだ……どうして宇都木が病院から逃げ出したのかも分かっていない顔だな……呆れた男だ……」
 驚いた顔で真下は言った。
「……分からないから……伺いに来たんです……」
 如月は正直にそう言った。
「君は一体宇都木の何を見ていた?あの宇都木が感じていた不安を分かってあげていたのか?」
 腹立たしげに真下は言った。
「……不安?」
「そうだ。私は言ったね。君に惚れているから……その君に追いだされたら、君に仕事が出来ない男だと評価されたと勘違いして、使い物にならない男になってしまうだろうとね。仕事のパートナーとして大事にしてくれたら、宇都木はそれに応えるために、見返りなど求めず、必死に君の力になってくれるだろう……と。だが君はそれを知っていながら、今、宇都木が心の拠り所にしていた秘書という仕事を取り上げたんだろう?だから宇都木は逃げ出したんだよ。言っていたよ宇都木が……自分が無能だから、秘書を辞めさせられたと……そう言うことを言っていた。邦彦……君は言ってはいけないことを宇都木に言ってしまったんだよ。それが宇都木にとって今心の拠り所だったんだからな……」
 真下はまくし立てるようにそう言った。
「それは……あんな身体で、秘書など続けられたら……」
 身体の方が大事だと思ったから……
 私は……
「そうだね。でもあそこまでストレスを溜めたのは、誰が原因だ?そこらあたりをよく考えると良い……。まあ……あんなに尽くしてくれる男が居て、何を血迷って別の男を家にいれるんだろうな……それだけで充分、宇都木は傷ついていたと何故分かってやらない?君が誰を好きになろうが勝手だが……、宇都木を振りまわすのはもう止めて貰おう……。悪いが、どんなに頼まれても宇都木を二度とうちから出す気はないよ」
「私は……」
 何か反論しようとしたが、如月には言葉が出なかった。
 自分が一番悪いとようやく分かったからだ。
「まあ……傷ついた宇都木を私が慰めてあげたから、君はもう用無しだよ……」
 クスリと笑って真下は言った。
「……なっ……」
「あんなボロボロになった宇都木をどうして放っておける?君が悪いはずなのに、自分ばかり責めている宇都木を放っておける訳などないだろう?」
 それを言われ如月は視線を落とした。
 自分が悪いのだ……
 真下から宇都木がどういうタイプかを聞かされていた筈が、すっかり忘れていたのだ。
 何時も側に居てくれたから……
 どんなときでも宇都木は如月を見てくれていた……
 そして……
 今は恋人だと思っていたから……
 大丈夫、何があっても分かってくれると信じていたのだ。
 だがそれは、如月の自分勝手な思い込みであり、宇都木が本当はどう思っていたかを全く考えてやらなかったのが問題なのだ。
 本来なら一番大切にしてやらねばならない相手を蔑ろにしていたのは如月だった。
「……会わせて下さい……」
「……君は……馬鹿だね」
 真下は冷ややかにそう言った。
「……話しを……させて下さい……少しで良い……謝るだけでも良いですから……」
 如月はそう言って真下の瞳をじっと見つめた。だが軽蔑の籠もった瞳からはこちらが望むような返事が貰えるとは、とうてい思われなかった。
 それでも如月は食い下がった。
「謝るだけでいいんです。……それ以上は望みませんから……」
 如月がそう言うと、真下は暫くこちらを見つめ、そして視線を外すと溜息をついた。
「何も分からない男に会わせる気は無いと言っている。帰りなさい……」
「真下さんっ!」
「私がこれほど言っても君は何も分かろうとしない……。何が謝るだけだ?そんなもの宇都木が望んでいると本当に思っているのか?会うだけ?謝るだけだと?ふざけるのもいい加減にしろ。さっさと帰れ。不愉快だよ私は……。警備員に無理矢理外に追いだされたくなかったらさっさと出ていくんだな!」
 淡々とそう言った真下は、今まで見たことのない程の怒りを身体から発散させていた。如月はそんな真下を見たことで仕方なく、玄関を後にした。
 ……宇都木……
 私はどうしたら良いんだ?
 お前は何を望んでいる?
 分からない……
 ただ……
 私の望みはたった一つだ……
 宇都木……恋人として私の側に居て欲しい……
 いて欲しいんだ……
 なあ……
 お前は私に何を望んでいるんだ?
 それを聞きたいが……
 会えない……
 如月は既に日が暮れ、真っ暗になっている空を見つめてそう思った。
 だが、ここで退くと、本当に二度と宇都木には会わせて貰えない……
 それだけは分かっていた。
 見つめている夜空には星一つ輝いては居なかった。

 翌日、朝からずっと雨が降る音が聞こえていた。それは宇都木が朝食を摂らされた後も続いていた。
 耳を澄まさなくともパラパラと窓の硝子を叩く音が聞こえている。
 雨……
 ずっと雨が降ってる……
 ようやく上半身だけを起こした宇都木は枕を背中に置き、ぼんやりとしていた。酷く無気力で何かしたいという気にならないのだ。
 ……私は……
 このままどうなるんだろう……
 仕事をする自信がない。
 かといって何か出来るものがあるのかと問われればそれも思いつかない。
 何かしてみたい仕事があるかといえばそうでもない。
 今はただ、ぼんやりするのが精一杯だったのだ。
 身体は随分楽になっていた。目眩もしない。だが妙に怠かった。
 それは無気力な気持ちがそうさせるのだと宇都木は思った。
 消えたい……
 もう……
 こんな自分を消してしまいたい……
 じっと組んだ手を見ながら宇都木はそう思った。
 両親が死んだとき、自分も一緒に死ねば良かったのだ。そうすれば今こんなに辛い気持ちにならずに済んだ。
 この家に引き取られ、精一杯頑張ってきた。だがここに来て息切れしているのだろう。多分それは、努力した結果が何も残らなかったからだ。
 そんなことを考えながら、またうとうとしだした。飲まされている薬に精神安定剤も混ざっているらしく、やけに眠い。
 朝食をとった後、飲んだ薬が効いてきたのだ……
 眠くなってきた……
 又一眠りしようと思っていると真下が入ってきた。
「宇都木……何かマンションから取ってきて欲しいと思うものは無いのか?人を遣って取って来てもらうが……どうだ?」
 真下は小脇に書類を抱えてそう言った。
 相変わらず忙しいのだろう。だが真下はこの仕事をとても楽しんでいるのが分かる。だから続けられるのだ。何より真下の仕事は忙しすぎ、プライベート等取れない。だが真下はそれに文句を言ったことも、休みを欲しがる事も無かった。
 こんな風に仕事が出来たら……
 私も辞めさせられなかったのかも……
 ふとそう思った宇都木は首を左右に振って今考えたことを振り払った。そんな宇都木に真下は勘違いしたのか「ああ、無いならいいんだよ。さて……仕事に戻るか……」と言ってまた部屋を出ていった。
 何か私は……
 忘れてる……
 あっ……
「真下さん……私……マンションにどうしても取りに行きたいものがあるんです……」
 このままではあのリンゴを腐らせてしまう……
 宇都木は如月が持ってきてくれたリンゴの事を思い出したのだ。まだ冷蔵庫に残っている筈だった。
「ん?取ってきて貰うぞ……なんだ?」
 真下がそう言ってこちらをじっと見るのだが、リンゴを取ってきて欲しい等とは、恥ずかしくて宇都木には言えなかった。
「自分で……行きます……」
 視線を外して宇都木がそう言うと、真下は困ったような声で言った。
「宇都木は今一人で外には出せないよ」
「……私が……どうしても取りに行かないと……」
 小さな声で宇都木はそう言った。
「なんだ……下着か?それなら誰かに買ってきて貰うが……」
 違います真下さん……
 余計に恥ずかしくなった宇都木は顔が赤くなった。
「……仕方ないな……じゃあ……私が付いていくよ……」
 滅多にこの屋敷を出ない真下が溜息を付きつつそう言った。
「でも……真下さんのお仕事が……」
「行ってすぐに帰ってくるだけだろう……三十分ほどで済む筈だ。余程宇都木にとって大事なものらしいからな……気にしなくていい」
 言いながら真下は書斎机に持っていた書類を置き、次にクローゼットからジャケットを取り出すと、宇都木の身体に羽織らせた。
「済みません……」
「宇都木はね、滅多に我が儘を言わない。だから、たまに言う我が儘くらい聞いてやらないとね……ほら、暖かくして行かないと余計に身体にひびく。靴下もちゃんと掃くんだ」
 家族を心配するような真下の言葉がとても宇都木には暖かく思えた。
「はい……済みません……」
「謝らなくて良いんだ。宇都木は病人なんだからね……」
 くすくすと笑いながら真下は言った。
「こんなに良くして貰って……」
 冷たくなっていた心が少し温もったような気が宇都木にはした。
「気にするんじゃない……」
 優しげにそう言い、真下は次に内線で「あ、真下ですが……車を一台表に用意してください。ええ……三十分ほど出ます」と、言った。
「さて……そんな身体で宇都木が何を大事そうに持って帰ろうとしているのか楽しみだ……」
 嬉しそうに真下はそう言って宇都木を見た。だが宇都木はどうしてもリンゴのことは話せず、俯いたまま顔を赤らめるしかなかった。

 真下に支えられながら、玄関にくると正永が心配そうに言った。
「宇都木様……大丈夫ですか?」
「済みません……ご迷惑をかけてしまって……大丈夫です」
 そう言ってようやく作った笑顔を正永に向けた。
「宇都木……ほら、後に乗って……疲れたら横になるといい……」
 あくまで真下は宇都木を気遣いながらそう言った。
「ありがとうございます」
 浅く息をして、宇都木は車に乗り込んだ。
 まだ……
 辛い……
 息が苦しい……
 だけど……
 リンゴを腐らせたくない……
 少し我慢をすれば……
 行ってすぐに帰ってくればいいんだ……
 そう思いながら、重怠い身体を宇都木は何とかシートにもたれさせ、外の景色をぼんやりと眺めた。
 雨……
 まだ降ってる……
 サラサラと霧雨のような雨が、上がることなく周囲の木立を濡らしていた。
「車を出すよ……気分が悪くなったらすぐに言うんだ。いいね」
「はい……大丈夫です……」
 車が動き出し、門を出たところで宇都木は信じられない人物を見つけた。その人物は門にもたれて座っている。だが傘もささずにいる所為で、身体中濡れそぼっていた。
 邦彦さん?
 どうしてこんな所に?
「停めてっ……停めて下さい!」
 はっきり視界に如月を映した宇都木はそう叫んでいた。
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