Angel Sugar

「黄昏感懐」 第23章

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 宇都木が、なんだかこそこそしているような気がする……
 何をやってる?
 昨日は誰と会ってた?
 如月はチラリと宇都木を見ながらそんなことを思った。宇都木の方はこちらが何を考えているのかも知らずに、せわしなく書類の整理をしている。その所為か、如月がチラチラと気にしながら視線を向けていることなど気付かないようだ。
 全く……
 以前、誰かと昨日の夕方会う約束をしていたのを如月は覚えていたのだ。だから医者に行けと言ったわけではないのだが、自分の身体のことを放ってまで誰に会ったのかが気になっていた。
 何より如月をマンションに送り届けた後、宇都木はまた何処かに出かけたのだ。
 何処に?
 誰に会いに?
 聞けば良いのだろうが、それも躊躇われている自分があることを如月は自覚していた。
 宇都木がこれほど近くに居るにも関わらず、何を考えているのか分からない。ここが会社であるから仕方ないとはいえ、こちらから二人きりの時間を持とうと食事に誘っても宇都木は首を縦に振らないのだ。
 昨日の夕食は人と合うからと言って断られた……
 今日誘ったとしたら、又誰かと会うと言って断られるのだろうか?
 如月にしても自分のうちに戸浪がいるため、さっさと帰ってやらなければならないのだが、如月には恋人としての立場である宇都木が居るのだ。
 だから身体の調子が悪い宇都木が心配であり、そんな体調であっても誰かに遅くから会っている事が気になっていた。
「宇都木……」
 如月がそう宇都木を呼ぶと、書類を見ていた宇都木の顔が上がった。少し良くなったように見えた昨日の顔色は、また元に戻り、余り調子が良さそうに見えない。その事でどれだけこちらが気を揉んでいるのか宇都木は分かっていないのだろうかと思うほどだ。
 病院に今日は行くんだろうか……?
 強情というわけではないが、どうも宇都木は自分の身体より仕事を優先するきらいがある。それはありがたいのだが、心配で仕方ないのだ。時に宇都木の没頭の仕方は悲壮感が漂っているように見えるときがある。
 そんな仕事の仕方をする宇都木を見ると如月は辛い。
「はい……何か?」
「今日は病院に行け。なんなら二、三日休んでも良いんだぞ」
「え、いえ……休むほどではありませんので……」
 言って宇都木はまた下を向き、持っていた書類に目を通している。
「おい、病院には行くんだ。お前、自分がどれだけ調子が悪そうな顔をしているか分かっているのか?」
 やや口調がきつくなったのは否めないだろうと如月は思った。
「済みません……。何とか時間を作って……今日は行ってきます」
 申し訳なさそうに宇都木はそう言った。
 そうじゃなくて……
 お前が心配なんだ……
 だが幾らそう言ったところで、宇都木がその事を分かってくれるような気が如月にはしなかった。
 だが……
 余り宇都木の調子がこんな風に続くのなら、本気で何とかしないとな……
 如月はそう思い、もう暫く様子を見ることにした。



 結局、散々如月から病院に行けと言われながらも、宇都木は行けなかった。時間が出来ると、自分の身体より優先しなければならない用事がその都度出来たからだ。
 ふと顔を上げ、如月の居ない席の向こうに見える景色を眺めた。如月の席は窓を背にした形に配置されているのだ。
 ずっと会議で大変だ……
 立ち上がったばかりである所為か、日々会議ばかりに如月は走り回っている。それを思うと自分の仕事は楽だと宇都木は思うのだ。
 沢山の人間に混じって仕事をすることが苦手な宇都木は、こうやって閉鎖された中で仕事をする方が楽だった。
 私より……
 あの人の体調の方が心配だ……
 如月はどうも宇都木の心配ばかりするのだ。大丈夫だと言っても、信用してくれないのが宇都木には困ったことだった。
 毎朝顔を見るたびに、休めだの、病院に行けという如月の言葉に苦笑するしかなかった。
 こんなに元気なのに……
 日々充実した仕事をさせて貰っているし……
 不満も無い……
 確かに身体は怠いのだが、何とか食べるように努力した甲斐もあり、倒れるような目眩など起こさなかった。多少身体が怠いのはやはり慣れない仕事をしているからだ。これもペースを掴めば自然に身体の調子も戻ってくるはずだろう。
 これなら大丈夫……
 何より最近宇都木は楽しみにしていることがあった。夜帰ってから、如月が買ってきてくれたリンゴを食べることだった。
 冷蔵庫に入れた六つあったリンゴはあと三つある。日々減っていくリンゴを眺めては、寂しい思いをするのだが、だからといって腐らせる事など絶対出来ない。
 あの人が買ってくれたのだから……
 全部食べてしまわないと……
 かといって、一度に一個は幾ら宇都木でも食べられない。そんな時はジュースにして飲むようにしていた。
 このまま体調が悪かったら……
 また何か貰えるのだろうか……
 等と、馬鹿なことも実は宇都木は考えてしまった。
 いや……
 身体は治さないと……
 これ以上あの人に心配させられない……
 そう思う宇都木は、何とか自分で体調を整えようとこの数日、努力していたのだ。
 実は宇都木は病院が嫌いなのだ。東に引き取られた頃、散々検査をされた事も理由の一つだ。あれ以来、病院という所が嫌になった。
 少しくらいの体調の悪さは今まで何度と無くあった。別に今回が酷い状態というわけではない。
 大丈夫……
 私はがんばれる……
 毎日充実しているのだ。
 恋人として側におれない以上、一緒に過ごせるのはこの会社という組織の上だけの事だった。だからこそ、一分一秒でもその一緒に過ごせる時間を宇都木は大事にしたかったのだ。
 こうやって……
 あの人のために何かが出来るということは本当に幸せだ……
 と、宇都木が考えていると携帯が鳴った。丁度ここに如月が居なかった為、宇都木は自分の席で携帯を取った。
「もしもし……あ、真下さん……」
 相手は真下だった。
「ああ、宇都木。忙しいところ済まないな。今いいか?」
「ええ。大丈夫です。あの……祐馬さんの件ですね?」
 待っていた連絡だった。ここ数日連絡が無かったために、簡単に行かない事情が色々あるのではないかと宇都木は心配していたのだ。
「そうだよ。もう心配しなくて良い。適当に遠いところに二人とも飛んで貰った。どうやってと言うのは聞かないでくれよ」
 クスクスと笑う真下の声が同時に聞こえた。
「ありがとうございます……あ、祐馬さんには私からお話ししますので……」
 真下のその笑いに、宇都木は何故か嬉しくなり、自然に笑みが顔に浮かんだ。
「頼むよ。祐馬さんに本来なら私が言うべきなのだろうが……宇都木に相談してきたのだから宇都木から話してやるのが筋だろう。どうも私は祐馬さんに怖がられている様でね。私に相談事など今までしてきたことがない」
 う~んと唸っている真下の声が聞こえた。それが余計に宇都木には可笑しかった。
「祐馬さんは私と一緒に過ごした時期がありますので……、多分それで話しやすいのだと思います……別に真下さんが恐いとは……」
「……そうかな……そんなことは、まあいいが……。じゃあ宇都木……仕事中に悪かった」
 そう言って真下は電話を切った。
 ホッとしながら、如月が夕方客と会う為に外出する予定になっているのをスケジュールで確認した。
 この後、その客の接待が入っている……
 じゃあ、あの人は直帰だ……
 安心して夕方少し出られる……
 祐馬さんに会う時間を作った方がいいかも……
 今時間は三時を回ったところであった。今祐馬に電話をかけると邪魔になるかと思ったのだが、早いほうが良いと宇都木は判断した。
「もしもし……宇都木です。少しお時間宜しいですか?お忙しいのでしたら又後ほど致しますが……」
 宇都木は祐馬の携帯に電話を掛け、口早にそう言った。
「あ、うん……大丈夫だよ。俺今一人で営業回りで外歩いてたところだし……」
 そう言った祐馬のバックは、何処か車が頻繁に通る場所に居るのか、酷い雑音が一緒に入ってきた。
「今日夕方……そうですね……六時半頃……会えますか?」
 そう宇都木が言うと祐馬は「色々頼んでたこと分かったんだ?」と言った。場所を移動したのか、今度雑音は入らなかった。
「ええ……分かりました。そのお話をしましょう……」
「じゃあ……俺、車を取りに行きたいから……俺のマンションの駐車場に来て貰ってもいい?」
 妙な所で待ち合わせするのだと宇都木は思ったが、とりあえず「良いですよ」と答えた。こちらも車で向かえばいいのだ。
「じゃあ……俺……仕事あるし……あとで……」
 祐馬はそう言って電話を切った。
 なんだか……
 色々考えていそうな口調だ……
 大丈夫だろうか……
 そんな気持ちを僅かに持ちながら宇都木は溜息をついた。
 戸浪は……
 どうしているのだろうか?
 如月からは全く戸浪の事は聞かない。聞くことも出来ない。
 それでも、如月の仕事ぶりを見ると、私生活が充実しているのが分かる。
 それは多分戸浪と上手く行っているのだ。だからこちらのことまで心配できる余裕があるのだろう。
 それでもいい……
 余裕の部分で私を見てくれるだけでもいい……
 もう……
 そんなことでしか私は喜べないから……
 気分が落ち込むようなことを考えた宇都木は、ペシッと自分で自分の頬を叩いてそんな考えを追い払った。
 考えてもどうにもならないことで落ち込むことは止めようと思ったのだ。
 多くを求めてしまうと必ずしっぺ返しを食らう。だから今あるささやかなことで満足しておれば、決して失うことは無いだろう。 
 考えなければ幸せでいられる。
 それは宇都木がこの年までに学んだことだった。
 
 夕方、如月を送り出し、暫くすると宇都木は祐馬に会うために、自社の地下駐車場に入れてある自分の車に乗り込み祐馬のマンションへ向かった。
 そうしてマンションの駐車場に車を入れると、こちらが来たのが分かった祐馬が走ってきた。
「宇都木さんっ!」
 祐馬は宇都木が車から降りるのを待てないのか、扉の所でガラス越しに叫んだ。
「こんばんは祐馬さん……少し離れていただけます?車から降りますので……」
 そう宇都木が言うと、祐馬はハッと我に返った表情になり、扉から数歩後ろに下がった。そうしてようやく宇都木が車から降りると、祐馬が言った。
「あの……あいつらのこと分かった?」
「ええ……分かりましたよ……」
 そう言って宇都木が祐馬の様子を伺うと、何故か酷く興奮しているような感じがした。
 落ち着かせないと……
「少しお話ししましょうか?こんな所じゃなんですし……」
「あ、じゃあ……俺の車に乗ってくれる?宇都木さんにあいつらの居所を聞いたら……俺直ぐ車出す気だから……」
 祐馬はだからすぐに自分が動けるようにここを指定したのだ。宇都木はこの指定場所の意味が分かったのだが、とりあえず言われたまま、祐馬の車の助手席に座った。
「……それで……あの……あいつら何処にいるんだ?」
 祐馬はハンドルに両手を置いてそう言った。
「もう心配されなくても良いんですよ……祐馬さんが気にされている方々は、手の出せないところに飛んでいただきました。目の届くところから離れたら少しは気持ちが収まるでしょう?」
 宥めるように宇都木がそう言うと、祐馬はハンドルを思い切り両手で叩いた。
「じいちゃんに言ったんだっ!なんでそんなことするんだよっ!」
「いいえ……東様にはお話ししておりません……」
 実際は違うのだが、そう通すしかないだろうと宇都木は思ったのだ。
「だったら……どうしてそんな……飛ばすって……!」
 祐馬は宇都木の方を向き、怒ると言うより、酷く苦しそうな顔でそう言った。
「はっきり言いましょう……祐馬さんが手出しされると、東都という名前に傷が付くんです。貴方が幾ら関係ないとおっしゃっても、これは死ぬまで祐馬さんに付いて廻ります。もっと自覚してください……」
 やや冷たい口調で言うと、祐馬はじっとこちらを向き、そして又前を向いた。
「俺に……諦めろっていうんだ……」
 そう言ってハンドルを握る手が震えていた。
「ええ……諦めてください。それにもう手出しは出来ません。そんな近くには二人とも居ませんので……」
「……俺はっ!俺の償いはどうやったら良いんだよっ!疑った……酷いことを言ったっ!その……償いを何処で精算したら良いんだっ……俺だけ何もしないなんて……そんなの……」
 もう一度ハンドルを叩いた祐馬は、車から飛び出した。
「祐馬さんっ!」
 宇都木もそれを追って外に出た。
「何も出来なかったんだ……。責めるばっかりで……。そんな俺……最低だろ?だから俺……あんな事をした奴らに……せめて一発でも殴ってやりたいって……そう言う気持ち分かるだろ?宇都木さんだって分かるだろ?それなのに……どうして……」
「諦めた方がいいですよ……」
 すると祐馬が車のフロント部分を拳で叩く。
「俺は許せないものは、許せないんだっ!」
 こんなに興奮した祐馬をどうしたらいいのだろうか……
 言い淀んでいると、マンションの建物の方に戸浪を見つけた。
 あの男は……
 何をしているんだ?
 祐馬に会いに来たのだろうか?
 今はもうあの人と幸せなのではないのか?
 だったら……
 どうしてあそこにいる?
 こちらを伺っている様な戸浪の方を宇都木がじっと見つめると、こそこそと戸浪は柱に隠れようと歩き出した。
「祐馬さん……貴方の大切な人はあそこで貴方を見てますよ……。用事があるんじゃないのですか?」
 溜息をつきながら宇都木がそう、そのまま宇都木の視線の先に顔を向け祐馬はじっと戸浪を見つめていた。そして「戸浪ちゃんっ!」と言うと、もう宇都木のことなど忘れたように戸浪に向かって走り出した。
 馬鹿馬鹿しい……
 戸浪は一体どちらを自分の恋人にしたいのだ……
 ようやく私とあの人が穏やかに暮らせていたのに……
 散々あの人を誘っておいて……
 私からあの人を奪って……
 だけど……恨むなんて思わなかった……
 あの人がずっと想ってきた人だから……
 それは私も同じだったから……
 だから……
 諦めた。
 それなのに……
 あの戸浪は祐馬まで自分のものにしておきたいのか?
 腹を立てながら宇都木は自分の車に乗り込みその場を後にした。
 言葉で表せないほど腹が立っていた。
 だけど……
 これであの二人が元の鞘に収まったら……
 あの人は又……
 私に合い鍵をくれるだろうか?
 普通で考えるときっとこういう考えは受け入れられないだろう。向こうが駄目だからこっちに……という態度など、普通なら拒否して当然だ。
 だが宇都木はそれでも良いと思った。
 如月が戸浪を失い、また一人になり、寂しさの余り宇都木に声を掛けてきたとしても、良いと本当に思った。
 そう……
 元々私達の関係は、そう言う事情から始まったのだ……
 それが振り出しに戻るだけで、何も変わらないのだ……
 私は待ってる……
 それでもいいっ!
 これで戸浪と祐馬が元に戻れば、自分も元に戻れるのだ。
 戻りたい……
 あの人のうちに……
 あの場所に自分の居場所が欲しい……
 望めるのなら……
 例えどんな事情でそれが与えられたとしても……
 私は受け入れられる。
 宇都木はそんなことを何度も考えながら、会社に戻り残っている仕事を片づけることにした。今は、期待で一杯になりそうな気持ちを抑えるために、何かに夢中になっていないと自分がどうなってしまうか分からなかったからだ。
 まだ……
 まだ考えたら駄目だ……
 どうなるか分からないのだ。どういうつもりで戸浪が祐馬の所に来たのかも分からない現時点では、色々考えたところでそれが間違っていたとすると、後で又落ち込むだけなのだ。
 もう少し……
 様子を見るんだ……
 今以上に悪くなることなど無いんだから……
 後は……きっと……
 良くなるだけですよね……
 少しだけ胸の奥を温かくした宇都木はそう思った。

 如月が自宅マンションに戻ると戸浪の姿がなかった。何処へ行ったのだろうとキッチンに向かうと、テーブルの上に「今晩帰らないかもしれない……心配しないで欲しい」と書いた置き手紙があった。
 なんだ……
 ようやく重い腰をあげたか……
 メモを見ながら如月は口元に笑みが浮かんだ。
 戸浪は何時だって祐馬だから追いかけるのだ。それは如月の時には考えられないことだった。
 要するに……
 戸浪は祐馬しか駄目だって事だ……
 まあ……いいが……
 時間は、十二時を過ぎる。この時間に戻ってこないと言うのは、今晩戻らない気で居るからだろう。
 如月はネクタイを首から外しながらふと宇都木のことが気になった。
 起きてるか?
 そんなことを考えながら如月はポケットから携帯を取りだし、宇都木に電話を掛けた。
「ああ、私だ。まだ起きてたのか?」
 それを期待して掛けたのだが、如月はそう言った。
「え、はい……」
 と言った宇都木のバックでは何故か聞き慣れたレーザープリンタの音が聞こえた。
「お前……まさかまだ会社にいるのか?」
 信じられないという声で如月は言った。
「少し、残していた仕事がありまして……」
「馬鹿かお前は!もう帰れっ!」
 どうして宇都木はこうなんだ?
 どうしてやればいい?
「済みません……」
 そう言った宇都木が電話口でうつむいているのが如月には想像が付いた。
 いつだって……
 お前はいつだってそうなんだっ!
 謝るばかりで何も聞いていない!
「宇都木……お前には人を使う権限も与えてる。自分一人で何とか出来なかったら、うちの部署の女性を使えばいいだろう?何故それが出来ない。どうしていつも自分一人で背負い込もうとするんだ?そんな仕事の仕方をしろと私は言った覚えはないぞ」
 そう如月が言うと、宇都木は黙り込んでしまった。
「……いいから……もう帰れ。いいな?明日、いやもう今日だな。お前が酷い顔をして朝迎えに来たら速攻うちに帰すからな。わかったな」
「分かりました……申し訳ありませんでした……」
 それは泣きそうな程の声であった。
「宇都木……違うぞ……私は怒ってるんじゃない……いや怒ってるんだが……。お前の身体が心配なんだ。それは分かるな?仕事も大事だがお前の身体も大事なんだ。それなのに自分の身体の事を少しも考えない宇都木がいつか倒れそうで怖いんだ。それを分かってくれているか?」
 そう如月が言うと宇都木は何も言わずに電話を切った。
「……あいつ……」
 何を考えてるんだ……
 分からない……
 限界だ……
 毎日心配するのも限界だ。
「ったく……」
 如月は椅子に腰をかけ、両手で顔を洗うような仕草をすると、溜息を付いた。
 戸浪の件が片づいたら……
 暫く休みを取らせるか……
 その方がいい……
 このうちが空いたら、ここに来て貰おう……
 私も目が届いて安心できる……
 宇都木にとってもそれが一番良いと思いながら、如月はバスルームに向かった。

 翌朝早く、戸浪は帰ってきた。
「良い根性だな……朝帰りか?」
 何があったか予想が付くだけに如月は苦笑するしかなかった。
「まあな……たまには……。ああ、何かこいつが食べられるもの無いかな?」
 言って戸浪は胸元に入れていた小さな子猫を如月に見せた。
「猫か?」
 如月は驚きながらそう言った。
「それ以外に何に見える?」
 呆れたように戸浪はそう言い、勝手にキッチンへ向かうと冷蔵庫を開けて牛乳のパックを取り出した。それを平たい皿にそそいで、レンジで少し温めると、そこでようやく子猫を胸元から出して床に座らせた。
「お腹空いただろ?いいよ……飲んで……」
 戸浪がそう言うと、最初皿に入ったミルクを眺めていた子猫であったが、匂いで何か分かったようで、少しずつ小さな舌で舐め始めた。
「お前……動物好きだったか?」
 そんな話は聞いたことがないと如月は思った。どちらかというと戸浪は動物等好きではないと思っていたのだ。
「弟の大地は……犬を飼っていた事はあったけどな……私はあんまり動物は好きじゃないんだ。死んだとき可哀想だろう?……でもこいつが捨てられているのを見て放っておけなかったんだ」
「そうか……で、何処に行ってたんだ?」
「……もと恋人の家……」
 ぽつりと戸浪は言った。
「で、朝までやりまくってたか……」
 だろうなあと思いながら如月は言った。
「……そうだ……やりまくってた。今はやりすぎて死にそうな気分だ……」
 ミルクを全部飲んだ子猫は戸浪にすり寄る。そんな子猫の頭を戸浪は撫でながら言った。
「はあ……お前という男は……」
 余りにもはっきりと言われた為、如月は逆に呆れた。
「ああ……そんな男だ……」
 暫く猫を撫でながら沈黙し、又戸浪は口を開いた。
「如月……私と祐馬は今まで抱き合ったことが無かったんだ……変だろう?ずっと一緒に暮らしていたのにな……。そんな関係で無くなったとたんにあっさり抱き合えるなんて……変だと思わないか……」
「え?」
 それは本当の事か?
 おい、つき合って何ヶ月経ってるんだ?
 そう言いたかったのだが、如月は言わなかった。そんなことでからかえる様子では無かったからだ。
「……よっぽど呪われてるんじゃないかと思ったが……最初で最後……ようやく恋人らしい事が出来たよ……」
 戸浪はそう言いながら涙を落とした。そんな戸浪を如月は何も言わずに自分に引き寄せた。
「……でも……私は後悔していないぞ……。今本当に満足してる……幸せなんだ……とても……」
 そうか……
 ならいいさ……
 大丈夫……
 お前らは大丈夫だ……
 如月はそう思いながら暫く戸浪の頭を撫でさすっていた。

 宇都木が朝車を如月のマンションに向かわせたのだが、いつも待っている筈の如月は居なかった。
 寝坊……じゃ無いですよね……
 暫く思案し、仕方無しに玄関まで迎えに出ようと車から降りたところで如月が走ってきた。
「すまん……遅くなった」
「……いえ……私も今着いたところです……」
 言って宇都木はようやく笑顔を作ったつもりだった。
「……昨日のことだが……」
「も、もうあんな時間まで仕事はしませんから……済みません……あの……ちゃんと他の方にも手伝って貰います。だから……」
 辞めさせるさせるなんて……
 言わないで……
 お願いだから……
 最後の場所だから……
 この場所だけは私に……
 如月の腕を掴んで更に宇都木は言った。
「ちゃんと朝も食べてきましたから……お昼もちゃんと食べますから……」
 すると如月は宇都木の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「お前は真面目すぎるんだ。もう少し要領よく仕事しろ。いいな?」
 そう言った如月の瞳は酷く優しかった。
「……は……はいっ……」
 良かった……
 辞めさせられると思った……
 良かった……
 ホッとしていると、いきなり如月に身体を引き寄せられた。
「……」
「心配なんだよ……未来……。頼むから……無茶しないでくれ……」
 ギュッと息苦しいほど身体を拘束され、宇都木は驚きながらもその如月の行動に胸が一杯になった。
「はい……分かってます……分かってますから……」
 暖かい如月の体温が頬に伝わると、宇都木は夢心地になった。
 どうしよう……
 嬉しい……
「それでな……考えたんだが……」
「……はい?」
「今日は仕事はいいから……お前、早めに引継書を作って置くんだ。時間はかかっても良い。だがほら、お前が急に休みを取ることにでもなれば、私が困るだろう?だからな、もし何かあったときでも他の人間が分かるようにして置いて欲しいんだ」
 それは……
 どういうこと?
 宇都木は思わず顔を上げて如月が何を考えているのか、その表情から読みとろうとしたが、ただ優しげに微笑んでいる男の顔からは何も読みとれなかった。
「……あの……」
 困惑した表情で宇都木がそう言うと、如月は宇都木の額にかかる髪を掻きあげた。
「別に大したことじゃない……。もしもの時のことだ。それだけだよ」
 そうなのか?
 辞めろと言っている訳じゃない?
 ただ……
 これからのことを言っているのだろうか?
 確かに……
 秘書連中は皆、そういう引継書なるものを持っている。それは自分に何かあったときのためのものだ。それと同じ意味のものだろうか?
 多分……そう言う意味のものだ。辞めさせるつもりならこんな風に優しく微笑んだりしないはず……。
 そうですよね……
 ただの……
 しきたりみたいなもの……
 宇都木にそう決めつけ、今、嵐のように乱れている自分の気持ちを落ち着けた。
 ただのしきたりなのだ……
 そう思い込むことでようやく宇都木は地面に立っているような気がした。
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