Angel Sugar

「監禁愛5」 第3章

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 その週は日勤であったため、名執は夕方に自宅に戻った。するとエリックがマンションの入り口で待っていた。
 背にはリュックを、足元には毛布を丸めて包装してもらったと見られる荷物が置かれている。真新しいそれはどう見てもついさっき買ってきたようにしか見えない。
「どうしたのですか?」
 予想は何となく出来たのだが、名執はエリックに問いかけた。
「あの……迷惑だと思うのですが……日本に滞在している間、兄さんの所に泊まらせて貰おうと思って……。正直に話すと最初からそのつもりで日本に来たんです。ホテル代も馬鹿にならないし……。あ、毛布は買ってきました。駄目ですか?」
 そこまでエリックに言われて断ることは出来ないだろう。
「え、ええ……構いませんよ……」
 仕方無しに名執はエリックを自分のうちへと上げた。本当の気持ちを吐きだしてしまうと、とても部屋に上げられる心境ではなかったのだが、リーチも言っていたように、少しの間だけ普通の兄のように振る舞おうときめた。
 五DKのうち、寝室から一番遠い位置にある一室をエリックに使うように名執は言うと、毛布だけではどうにもならなかったため、敷き布団などを至急用意することにした。
 最後に残った問題は合い鍵の予備が無い為、リーチが持っているものを渡さなければならないことだ。
 自分のうちに泊まらせなくても、ホテル代を払ってやれば良かった。
 それに気がつくのも遅かった。
 既にエリックは自分にあてがわれた部屋から嬉しそうに外の景色を眺めているのだから今更追いだすことなど名執には出来そうに無い。のど元まで出かかった、本来なら一番良かったであろう提案を名執には言い出すことがどうしてもできなかった。
 肩を落としながらも、ようやく諦めた名執はエリックに暫く外に出ることを伝えてマンションの外にでた。
 目の前で電話を掛けると気を使わせそうな気がしたから。
「え、鍵ですか?」
 仕事中であるのか、リーチは利一として出た。
「済みません。色々事情がありまして……。その……エリックが家に滞在することになったのです。それで、合い鍵が余分にありませんのでリーチの持っている合い鍵を暫く貸していただきたいのですが……」
「いいですよ。ちょっと今手が離せませんが、今日中に管理人さんにお渡ししておきます」
 利一の時のリーチがどんな風に思っているのか、口調からでは分からない。それが余計に名執を不安にさせる。
「あの……家に寄って下さらないのですか?」
「済みません。事件がちょっと込み入ってまして、それほど時間が無いんです。なによりうちに上がると今度、下に降りられなくなりますから……。じゃ、そういうことですので……」
 リーチはそれだけ早口で言うと電話を切った。
 どう思ったのだろう……
 名執はそれを考えてため息が出る。
 合い鍵を今から作るとしても特殊な鍵の予備を作るには、雑多な手続きで二ヶ月はかかる。それまで待てないのだから、仕方がない……。と、思いながらも、これではリーチが名執のうちに来られなくなってしまう。
 エリックが滞在するということで、大抵が夜にしか来られないリーチは頻繁に尋ねることが出来なくなるだろう。今までは名執が在宅していなくてもリーチは日中、時間が空くと休憩に名執のマンションを訪れていたのだ。
 それも出来なくなる。
 まず、合い鍵がないとマンションに入られない。しかもエレベーターは鍵を使って動かすのだから鍵が無いことには本当にどうにもならないのだ。
 どうしよう……
 でももう言ってしまった……。
 急いで決めてしまったからこんな事になったのかもしれない。暫くエリックに待ってもらうように言って、考えをまとめてから話せば良かったのだ。
 しかし、決めてしまったことをこの時点ではもう覆すことは出来ないだろう。
 はあ……
 憂鬱な気持ちで名執は玄関に入ると、エリックが立っていた。
「あの……」
 こちらの顔色を窺っているのが分かる。その視線が痛い。
「あ、エリックさん。こっちの部屋は入らないで下さいね」
 そう言ってリーチ専用にしている部屋には分からないように鍵をかけた。アルバムなどもそこに片づけていたのでエリックに勘ぐられることも無いだろう。もちろんクローゼットには明らかに名執の物とは違う洋服が並んでいるが、勝手に見るとは思えない。
「はい。……さん付けは止めて下さい……なんだか他人行儀みたいで……」
 エリックには既に名執は兄なのだろうか。
 名執の方は相変わらず兄と呼ばれても空虚な物しか感じないのに。
「そうですね……そうしましょう……。キッチンやバスも自由に使って貰っても構いません。他に何か必要なものがあれば言って下されば買っておきますよ」
「兄さん……本当にありがとうございます……。僕、本当は期待していなかったんです。だって僕は愛人の子供だし……それなのにこんなに良くしてくれるなんて……」
 そう言ってエリックが涙ぐんだのを見た名執は胸が痛んだ。こちらはどちらかというと迷惑だと思っていたから。
 今も兄弟だと言われても痼りのようなものが心の奥にある。だが、エリックはそんなことも知らずに純粋な気持ちで慕ってくれるのだ。
 名執はこれぽっちもそんな風に思えない。それでもエリックが純粋に映ることで自分が酷く汚れて見え、疑わない瞳がこちらを見つめてくると、恥ずかしい気持ちになる。
 よそう……
 嫌だと思うのは……
 少しずつ慣れたらいい。
 折角慕ってくれるのだから。
 エリックの下心のない気持ちを知ると名執は出来ることは何でもしてやろうとようやく思えるようになった。
 それはまねごとでも良い。
 こんな風に喜んでくれるのなら。
「暫くお世話になります」
 エリックはそう言ってぺこりと頭を下る。名執は「こちらこそ」と言って本心から笑みを浮かべることに成功した。

 仕事に追われていたリーチであったが、夜の十二時近くに名執のマンションに寄り、たたき起こした管理人に鍵を渡すと、もちろん名執に自分が来たことも告げず早々に退散した。
 まだ捜査の渦中であり、今もやっと時間を作ってここまで来たからだ。
「な、トシ、お前、幾浦の家の鍵もってんだろ」
 道路脇に停めて置いた覆面パトカーに乗り込む。
『持ってるけど……どうしたの?』 
「当分ユキのところに行けなくなった……」
 気に入らないのだが協力してやるしかないだろう。
『喧嘩でもしたの?』
「いや、ほら言っただろ、ユキの弟が尋ねてきてるって。それで当分居候するらしい」
『ふーん……リーチよく納得したね』
「……するしかないだろ」
 とムッとしながらリーチはため息をつく。
『で、何で恭眞の話になるの?』
「お前……忘れたか?お前がデジカメの良いのが欲しいって言って買ったから、今月と来月、食費無いんだぜ。それだけじゃないのわかってるだろ」
 駄々をこねて買いたいと言い出したトシが悪いのだから、責任を取るのはトシだろう。しかもトシが取れない責任は当然幾浦が代わりに取るのが筋だ。
『……そうだった……』
「だから今月は幾浦んちに行くしかないだろ。お前の責任だからお前が話せよ」
 ブチブチとリーチが言うと、トシは妙にはしゃぎだした。何か勘違いしているようだ。
『じゃ、さ。今月全部プライベートくれるの?』
「駄目。俺だって自由な時間が欲しい」
 リーチのその台詞を聞いたトシが笑った。
『じゃ、ちょっと交替してよ。恭眞に連絡して置くから』
 トシがそう言うとリーチは交替した。
「もしもし……あ、恭眞。ごめんね遅くに……うん……あのねちょっとお願いがあるんだけど……。あのさ、リーチが今月雪久さんの所に行けないから、今月だけ二人の食事をそっちで摂って良い?え、違うよ。雪久さんの弟さんがマンションに滞在することになって……その話はリーチに詳しく聞いてよ。それで、ちょっと食費が無くて……。僕がデジカメ買っちゃって……。あ、そんなのいいよ……ご飯だけ食べさせて貰えたら……うん。ありがとう恭眞…」
『嫌がってなかった?』
「ううん。いいよって」
 トシは携帯をポケットに戻す。
『どうせお前に代われとか言ってたんだろ』
「そんなこと恭眞言ってないよ。だってリーチのプライベートだろ。プライベートの時しか食べたり、お風呂に入ったりの感覚が味わえないの恭眞はよく理解してくれてるよ。いつでも使ってくれて良いって。欲しいものがあったらテーブルにメモでも置いてくれてたら買ってきてくれるって言ってた」
 照れながらトシは嬉しそうだ。
『ふーん……』
「恭眞だってリーチのことよく分かってくれてるよ。はい交替しよ。捜査に戻らないといけないし」
『ああ』  
 リーチはほんの少しだけ幾浦を見直した。当然ほんの僅かだが。
「さて、捜査に戻ろうか」
『うん』
 リーチはエンジンをようやくかけて車を出した。



 何事も無く数日が過ぎた。
 共同生活も最初名執が心配したほど苦にはならないと感じたのは、エリック自身がかなり気を使っている所為だ。
 ただ名執の方が急患や大きなオペが続いていたので、帰宅は夜が遅かった。その為、エリックとはゆっくり話したり食事をする暇は無く、すれ違いも多かった。そのことで苦にならないと思ったのかもしれない。
 だがエリックは名執に不満を言うわけでもなく、反対に医者である名執を誇りに思っている様であった。そんな視線をエリックから送られると、照れくさいような、嬉しいような複雑な気持ちになる。
 上手くやれているのかもしれない。
 騙す……と言う言葉は不適当であるのだが、多少心の隅にそんな罪悪感が名執にはあったから。
 ただ、リーチから連絡が無い事が名執の気になることであった。捜査で走り回っているのは分かっていたが、音沙汰がないのが気にかかる。これがトシのプライベートならこれほど気になることも無いのだろうが、今週はリーチのプライベート。
 それも明日で最終だ。
 何度か病院から自宅であるコーポの方に電話をかけてみたものの、家主がいないのか誰も出ることはなかった。それらを考えると、今週はずっと警視庁に詰めているのだろう。
 彼らは随時捜査に入っているので、よほどの緊急以外はリーチ達の携帯に電話をすることがない。それは幾浦と名執に対して最初に守って欲しいと二人から約束させられたことだった。
 だから名執は携帯に電話をすることはしなかった。
 事件が一息つけば向こうから連絡をしてくれるにちがいない。
 リーチが仕事が忙しくこちらに連絡も出来ない程であるのは良いことかもしれない……と、名執は思うことにした。
「兄さん、幾浦さんって人から電話」
 エリックがそう言ってコードレスフォンを持ってくる。それを受け取って笑みを返すとエリックは照れた笑いを表情につくり、今来た廊下を戻っていった。
「済みません。もしもし」 
「ああ、幾浦だ。今のが弟か?」
「ええ。どうされました?」
 何か幾浦が言ったがバックで犬が吠えて騒がしく、向こうの声が名執には聞きとれなかった。
「すまん、ちょっと待ってくれ。リーチ!アルを苛めるのは止めろ!あーもう、何をやってるんだ……」
「幾浦さんのお宅にリーチがお邪魔しているのですか?」
 驚いた名執は思わず聞く。
「ああ、今月、食費がピンチだそうだ。それなのにお前の家に弟が居候しているだろう?だからこっちにたかりに来ている」
 幾浦は笑ていたが、その間も犬の吠える声が聞こえている。
「……そうなんですか……。リーチ達はてっきり仕事で忙しいのだとばかり……」
 自分の所ではなく、幾浦のうちにいる。
 今、エリックが滞在しているのだから、こちらに来られないリーチが幾浦のうちにいたところで別に構わないことだろう。
 だが名執はそれを聞いて寂しく思えて仕方がなかった。
「忙しいのは忙しいみたいだな。今日は早めに上がってきてたみたいだが、暫くしたら警視庁に戻ると言っていたぞ……。リーチ!だから大人しくしていろ!……全くあいつはどうもアルを苛めるのが気に入っているようだ。アルの方も苛められているのが分かっているのに構いにいくから困る……。ああ、そんなことはどうでも良いな。リーチが自分で電話を掛けて弟が出ると嫌だからと言って私に押しつけたんだ」
 と、言いながらも幾浦の機嫌は良さそうだ。
「色々気を使っていただいて……申し訳ありません……」
「いや、リーチ!名執だぞ」
 そう幾浦が言うと今度はリーチが電話に出た。
「ユキ、共同生活はどう?」
 いつもの明るい感じでリーチは言う。そこに会えないという不満は感じられない。
「何となく上手くいっていると思います」
 エリックが側にいないのを確認して名執は言った。
「良かったな。なんか心配事があったらいつでも相談に乗るよ」
「ありがとうございます」
 こっちは会えないことで色々気を揉んでいたというのに、リーチがいつも通りであったので名執は寂しい。
「あの、食費が足りないのでしたら、カードを使って下さいね」
「んーそうなんだけど、そういうことでお前から貸して貰っているカードは使わないとトシと決めているから……気持ちだけ貰っておくよ。それに幾浦ん家もまあまあ居心地いいし、たまに、あいつとご飯食べるのも楽しいぜ」
「ちょっと想像つきませんね……」
 会えばいつも言い合いになっている二人からは仲良く食事をしている姿は名執には想像ができなかった。一体どんな顔で向かい合っているのだろうか。
「だろうなー……俺も最初は気を使ったって」と、リーチが言う後ろから「誰が気をつかうだ……」という幾浦の声が入る。
 何故かとても楽しそうだ。
 自分だけが蚊帳の外。
「……リーチ……済みません」
「何で謝るんだよ」
「貴方の鍵でしたのに……」
「俺のじゃないよ。お前の家でお前の鍵だ。だから気にする事なんて無いからな」
 リーチは気を使ってそう言っている事を名執には分かっていたが、そんな言葉すら今は寂しさに拍車をかけるだけであった。
「そう言っていただけると気が楽になります……」
 心にもないことを名執は言った。
「たまにはこういうのもいいだろうしな……じゃ、切るよ。またな」
 電話は無情にも切れた。
 まだ話したいことがあったのだけれど、さりとて何を話して良いのか分からないのが名執だ。
 たまにはこういうのも良いというのは、気楽だと言いたかったのだろうか?
 自分の所に来るよりも?
 名執は思わず考えたことを振り払うように顔を左右に振った。
 エリックをうちに上げたのは他ならぬ自分なのだ。
 暫く自分もこの環境を楽しめばいい。
 名執はそう思うことにした。
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