Angel Sugar

「監禁愛5」 第15章

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「お前はそんなことで納得できるのか?」
 冷ややかにシャルが言った。だが、軽蔑をしているようではない。どちらかと言えばもの悲しいというような表情だ。
「……考えてもみてよ。兄さんは僕があんたの前に這い蹲っている間も幸せそうに生きてきたんだよ。この差は何?僕が愛人の子だから?僕の母さんが不倫をしたから?そんなの不公平だ」
 シャルにぶつけても仕方のない不満をエリックは吐き出した。誰にも言えない言葉だが、シャルはエリックの一番情けない姿も、狡さも全て知っている男だ。だからこそエリックも口に出来たのだろう。
 醜いのはお互い様だ。
 シャルは金を目の前にすれば何でも言うことを聞く、口の堅い玩具が欲しかった。そして、どんなことをしても、金が欲しかったのはエリックだ。互いがそうであったから、今更取り繕うことなどしなくていいのだ。
「気に入らないんだ……兄さんの全てが……。綺麗で、優しくて……決して本音を出さない大人なんだ。僕が煽っても、ちっとも乗ってこなかったよ。馬鹿みたい。それが大人で、理性のある人間だって思ってるんだよ。生きることに必死になったことが無いから……泥を掬うような経験なんてないからあんな風に、笑っていられる……」
 もし逆の人生を生きることが出来たら、自分もあんな風に優しげに笑えたに違いない。だが現実は違った。
「……望むなら、そうしてやってもいい。だが、今後一切私に逆らわせないが、聞けるのか?」
 シャルはエリックを見ずにそう言った。
 エリックはただ頷いた。



 結局リーチは名執がうちを出る時間までに帰宅せず、仕方なしに病院に出勤したが、かといって悪い気分ではなかった。
 一晩、名執は考えた。
 そしてどれほど大人げない行動を取っていたのかを知った。
 エリックに悪気など無い。誰だってリーチ達を、いや、利一に会えばああいう感情に囚われるに違いない。
 利一は争うこと避け、常に中立な立場をとる。もちろんそれは意図的に見せているのだが、秘密を抱えているからこそ目立たないように、彼らが生きるために選んだ性格だった。
 それが逆に目立っていることに彼らは気が付いていない
 昔はごくありきたりの性格だった。ただ、今、優しさや、謙虚さを、探す方が大変な時代であるから彼らの存在が浮いてしまうのだ。それはそれで、何となく荒んでいる社会が際立っているようにも名執には思えた。
 けれど、名執も昔は荒んでいたのだ。リーチに会えたから、今の名執が存在する。患者に笑いかけることも出来れば、命を救うことにも必死になれた。
 人は、誰かに愛されたとき、そんな風に変われるのかもしれない。
 独りぼっちではないと知る。
 未来は決して暗闇で作られているわけではないことを知る。
 それは、隣に愛している人がいて、愛されて、初めて理解できることなのだろう。
 では、エリックはどうなのだろうか。
 苦労してきたのが名執には分かっていた。愛人の子供で、しかも途中でうち切られた収入の糧を何処に求めていたのだろうか?
 当時の名執に知る術はなかった。それが免罪符には到底なり得ないのだろうが、本当に名執は何も知らなかったのだ。
 両親が何故あんな風に他界してしまったのかも、分からなかった子供だった。なにより、本当の父親が誰であったのかを知ったのも随分と後だ。
 愛人の子供として生きることと、名執のように、実は祖父が父親だったと知って生きることと、どちらが不幸なのだろうか。いや、どちらがましなのだろうか。
 こんなことをリーチに話すと、きっと、不幸自慢でもお互いにするのか?と言って笑うに違いない。名執にはすぐに想像できる、ちょっと苦笑した顔でリーチは答えるだろう。
 エリックに聞けばなんと答えるだろうか。
 名執のことは、多分、これから先、リーチ以外の人間に話せそうにもないと思うのは、愛人の子の方がまだましだと名執自身が思っているからだった。実際、どう考えても、祖父が本当の父親だと話せないだろう。
 だが、エリックは自分を愛人の子だとはっきりと言った。もしかするとエリックは自分の過去を名執に話したいと思ったのかもしれない。たとえ愛人の子であっても、血が繋がっているということは、この世で独りぼっちではないということだから。
 そんな話を突っ込んでしたことが名執にはなかった。父親に対する幻想をエリックという存在で砕かれたくなかったからだった。
 ある時から名執に対し、冷たくなってしまった父だったが、だからこそ、名執の父親が誰であったかを知らされる以前は、優しい父だったのだろうと思いこみたかった。
 勝手に作った父親の笑顔は、目も鼻もなく、口だけが笑っているというのっぺらぼうでしか浮かばない。それでも名執は父親が大好きだった。冷たく突き放されたのは、名執自身がいい子ではなかったからだと信じていた。だからこそ幼いながらも好かれようと努力していたのを覚えている。
「名執先生?」
 背後から田村の声が聞こえて、名執は現実に引き戻された。
「え、はい。なんでしょう?」
「今朝おっしゃていたカルテをお持ちしたのですが……。随分と考え込んでいらっしゃいましたね」
 くすくすと田村は丸い顔を震わせて笑った。
 田村には温かい家族があるのだろう。それは聞かなくても分かる笑顔だった。
 人に必要とされ、満たされているとこんな風に笑えるに違いない。エリックはどうだっただろうか?笑顔のエリックを見ることは多いが、心底から笑っているようには見受けられなかったような気が名執にはした。
 今度、小さいながらも自分の店を持つとエリックは名執に話してくれたが、資金をどうしたのか。遺産もなく、病気の母親をつい先頃まで抱えていたエリックが、どれほど苦労して開業資金を貯めたのかを思うと、名執は胸が痛んだ。
 お金に関してだけでいうと名執は苦労をしたことが無かった。笑うことの無くなった父親は遺産を全て名執に残すように手配していたのだ。それらと共に不安と期待を半分ずつ持って、名執は日本に渡った。
 干からびた肌を持つ祖父に手を引かれて……。
「先生って……」
「あ……はい。済みません……。カルテを頂きます」
「何か悩み事ですか?」
「悩み事と言うほどではないんですが……」
 差し出されたカルテを手にとって名執は笑みを浮かべた。
「恋の悩みでしたらご相談に乗りますよ。私、こう見えても学生時代はモテモテで、色々浮き名も流しましたね。きっと恋愛経験は先生より上だと思います」
 まん丸な身体を背筋良く伸ばして田村は言う。
「違いますよ」
 小さく笑って名執が言うと、田村もにこやかに微笑んだ。
「じゃあ……なんでしょう?」
 窺うようにこちらをじっと見つめて田村は問いかけてきた。
「……そうですね。田村さんのお子さんは仲がいいですか?」
「うちの息子ですか?」
 田村はどうして名執がそんなことを聞くのだろうかと訝しげな顔をしたが、それは一瞬のことで、すぐに元に戻った。
「ええ」
「喧嘩ばっかりですよ。ほら、うちは男の子ですから……。小さい頃は、まだ、右のおっぱいは僕の、左のおっぱいは弟の……って言って仲良くしていんたんですけどね……」
 ふうとため息をついて、田村はごく普通に言ったが、名執には『おっぱい』という言い方に新鮮さを感じていた。
「おっぱいですか……」
「あら……あらあら……。先生におっぱいだなんて……す、済みません」
 田村は真っ赤になった頬に手を当てて、照れていた。
「いえ。別に恥ずかしいことではありませんよ。それより、兄弟仲が良いのは素敵ですね。きっと素晴らしいご家庭なんでしょう」
「昔は……ですよ。弟が生まれる前のお兄ちゃんは、そりゃあ、もう、自分に弟が出来ることでわくわくしていたみたいなんですが、いざ弟が出来て意志の疎通が出来る年齢になると、今度はお互いが主張するんですよ。譲らないんですよねえ……。片方が女の子なら良かったんですけど……」
「そうなんですか……。兄弟は大きくなっても仲がいいと思っていたんですが……」
「もっと大きくなると良いんですが、うちは小学生と幼稚園でしょう?もう、お互いが競い合って、ちょっとしたことでも勝った負けたばっかり言い合ってますよ。これが勉強で競ってくれたらいいんですけど、親の思うようには競ってくれませんね」
「毎日大変でしょう?」
「ええもう、大変ですよ。お兄ちゃんの方がご飯が多いといって喧嘩したり、弟の服の方が格好いいってお兄ちゃんがふくれたり……。根本にあるのは愛情の独占でしょうけど」
「愛情の独占ですか?」
「子供はいつまで経っても親の関心を自分に一番向けられたいんです。だから気を引くようなことばかりするんでしょうね。そんなあの子達を見ていると可愛くて仕方ないんですが……。あら、これものろけになるんでしょうか?」
 急に我に返ったように田村が言った。
「田村さんのご家族のお話を聞くのはとても好きですよ。温かい家庭なのがよく分かります。きっと息子さん達も、親御さんの愛情を一杯受けてすくすく育っているんでしょうね。素晴らしいことだと思いますよ」
 もし望めたなら、名執も温かい家庭で育ちたかったと思う。特に田村の話を聞くといつも羨ましく思うのだ。
「……それで、このお話がどう、名執先生の悩みと繋がるんでしょう?もしかして好きな方と家庭を持って、子供を育てたいということでしょうか?」
 真剣に聞いてきた田村に笑いを堪えつつ、名執は首を左右に振った。少しばかり訊ねたいことはあったが、田村に相談に乗ってもらおうと真剣に考えていたわけではない。
 実は弟がいて……などと、話してしまうと、田村を困惑させるだけだろう。
 田村は実に人の良い看護婦で、面倒見も良い。その所為か、あまり病院ではプライベートなことを話さないが、田村にはふと話してみたいと思うことがあった。
 かといって名執が胸の内を明かすことはないが、普通に雑談をしているだけでも田村と話しているとホッとする。
 名執の母親が田村に似ているのではない。
 母と言うことで共通点があるのだ。
 田村から感じられる温かい、包み込むような母親独特のムードが名執が好きなだけだった。
「そうですか。まあ、私で良ければどういったことでもご相談に乗りますのでいつでも話してくださいね」
「その時はよろしくお願いします」
「じゃあ、私はこれで、失礼しますね」
 小さく会釈して、田村は名執の自室から出て行った。その姿を見送りながら、名執が手に持っていたカルテを広げたと同時に携帯が鳴った。
「もしも……エリック。え、ええ。昨晩は済みません。友人のうちに寄ったのですが、そのまま朝まで話し込んでしまって……」
 苦しい言い訳だと思いつつ名執には嘘を付くしかなかった。エリックの方は別に何とも思っていないような話し方で、明るく受け答えをする。その弾むような声を聞くと、名執は、先程感じた胸の痛みが増すような気がした。
『今晩は遅いんですか?』
『いえ。早めに帰るつもりです。何か美味しい料理でも作りますよ』
『え、嬉しいな。あ、僕が電話したのは、兄さんに聞きたいことがあったんだ』
『なんでしょう?』
『夕食に友達を呼んでも良いですか?沢山じゃなくて、一人なんですけど。偶然こっちで会って……。でも実はもう、招待しちゃったんです』
 申し訳なさそうにエリックは言う。名執の方も、一人くらいなら構わないという気持ちになった。二人きりで顔をつきあわせるより、エリックの友人を交えた方が、場が和むだろうと考えたのだ。
『それは構わないですよ。食材もこの間沢山買い込んできましたし……。足りないものがあったら買って帰りますが、何か希望はありますか?』
『もう、充分してもらってるから、気にしないでください。じゃあ、僕、兄さんの帰りを待っていますね』
 エリックはそれだけを早口で言うと携帯を切った。
 名執は今度こそ仕事に専念することにした。



 七時過ぎ、仕事を終えた名執は愛車に乗って帰路を急いだ。既に周囲は暗く、深く垂れ込めた雲が間近に迫ってきそうな程だった。もう少し帰る時間が遅くなっていたら雨が降っていたかもしれないと、名執は運転をしながら考えていた。
 そのうち、フロントガラスに霧で吹いたような細かな雨粒が降りかかり、視界を更に悪化させる。振りは強くないが、仰げば気が滅入りそうな天候に、ウンザリしながらも名執は自宅マンションの地下駐車場に車を停めた。
「お帰りなさい。今日は早いですね」
 地下にいる警備員が名執に声を掛けてきた。このマンションの良いところはあちこちに警備員の姿が見られることだ。それだけで名執はホッと安心することが出来る。毎月これにかかる支出は大きいが、安全を買っているのだと思えば安いものだった。
「ええ。お仕事ご苦労様です」
 名執が笑顔で言うと、警備員の中年の男は照れたように帽子を被り直した。そんな姿に苦笑しながら名執はエレベーターに乗って、側面に背をもたれさせて一つため息をつく。
 エリックのことを考えるとやはり気が重いのは仕方がないだろう。リーチが何とかしてくれると話してくれたが、今日明日にでもというわけにはいかない。今週はトシのプライベートでリーチが自由に動けるのは来週だからだ。
 しかも、事件が立て込むと、例えリーチのプライベートの週であっても名執には構っていられないはずだった。
 それは名執も良く理解していた。だから無理を言うつもりはない。ただ、リーチが本心から告げてくれた言葉に名執は心を温めたのだ。今はそれで充分だった。
 エレベーターが止まり、音もなく左右に扉が開かれる。煌々と照らされた通路は真昼のようにも感じられた。
 エリックの友人はもう来ているのだろうか……。
 早足で通路を歩き、ようやく名執は自分のうちの前にたどり着くと、ポケットからキーを取り出して重厚な扉を開けた。
 玄関にはエリックのではない、しかも名執の足のサイズよりも大きな靴がきちんと揃えて置かれていた。しっかり磨かれた革靴は泥の一つも付着していない。廊下の明かりすら映し出しそうな程だ。
 名執は自分の靴を脱ぎ、廊下を歩いてとりあえずリビングに向かった。普通、友人が訪れているのであれば、話し声や笑い声が聞こえても良いはずなのに、そんな楽しそうな会話は聞こえてこなかった。
 不審に思いながら、リビングの戸を開けると、エリックとその友人らしき人物がソファーに向かい合わせに座っていて、無言でコーヒーを飲んでいるのが目に入った。
『あ、兄さん。お帰りなさい……』
 エリックが立ち上がると、向かい側の男もこちらに視線を向けてきた。だが、何を驚いているのか、名執の方をじっと見据えたまま、微動だにしなかった。
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