「監禁愛5」 最終章
暫く二人とも無言でいたが、沈黙に耐えられなくなったリーチの方が、名執の肩に手を回してくるのを、パチンと叩いて払う。どうしてこう、場所を弁えないのだろうかと、ジロリとリーチの方を名執は睨んでみるものの、問題の男は素知らぬ顔で天井を眺めていた。
どうしましょう……。
名執はリーチに対してここにいると言ったものの、だから、なにをするために待っているのか自分でも分からないのだ。エリックの病室へ戻っていったシャルが、ここに再び舞い戻ってくるとは考えられない。
やはり、何事も無かったように帰り、いつも通りの日々を取り戻せばいいのだろうか。エリックの荷物はあとで送り返せば良いのだ。関係を全て断ち切ってしまうことは簡単だった。名執もその方が安心できる。
とはいえ、心に引っかかったなにかが名執を引き留めていた。
「……あ」
小さな声を上げた名執に、リーチは怪訝な表情を向けてきた。
「どうした?」
「え……いえ。何でもありません」
ふと思いついたことだが、それはもう一度エリックと話す機会があれば、口にしてみようと名執は考えた。良いことなのか、悪いことなのか、名執にも判断がつかない。逆にエリックを更に追いつめる可能性もあるだろう。
どうしようかと考えあぐねていると、シャルがまた廊下に出てくるのが見えた。シャルはチラリとこちらに視線を向け、カツカツと靴をならして近づいてくる。
『なんでしょう?』
名執よりも先にリーチがシャルに声をかけた。
『……エリックが話がしたいと……』
シャルの視線は名執に注がれている。
『……私は構いません。エリックに……一つだけ話がありましたので……』
名執が立ち上がると、リーチも無言で立ち上がった。表情はどことなく不機嫌ではあったが、利一の仮面は被っているようだ。名執はそんなリーチに安堵しながら、歩き出すシャルの後ろをついて歩いた。
名執から見えるシャルの背は先程と違い、すっきりと伸びているような気がした。上手く話ができたのかどうか、聞いてみたい気持ちにかられたものの、二人の個人的なことにこれ以上口を挟むべきではないと名執は判断した。
言いたいことは全てリーチが話してくれたのだ。もう、これ以上の言葉は必要ないだろう。
音を立てずに病室の扉が引かれる。病室のカーテンが下ろされて薄暗くなっているだろうと名執は考えていたが、意外なことにカーテンは左右に引かれて、朝日が燦々と病室に差し込んでいた。エリックは体を起こし、外の景色を眺めている。腕にはビタミン剤と輸血の点滴が左右に刺されていた。青白い顔をしているのだが、名執にはエリックの表情が穏やかに見えた。
『エリック。呼んできたぞ』
シャルの言葉よりも先にエリックはこちらに視線を寄越していた。
青い瞳が父親の面影を思わせ、名執は胸が痛む。父の面影など一つも受け継がれていない名執からすると、エリックが羨ましく思えるのだ。そんな気持ちが名執にあるなどエリックには分からないに違いない。いや、理由を話せないと言った方が良いだろう。
『ああ、座って下さい……』
ベッド脇にあるパイプ椅子を指さし、シャルの方はそのまま窓際に立って、背を向けた。会話に入る気はないという意思表示なのだ。
名執は促された椅子に腰をかけて、エリックの方を向いた。その後ろにリーチが立って名執の肩に手をそっと置く。伝わる手の平の温もりが、名執を落ち着かせた。
『エリック……話があるそうですね』
名執の言葉に、エリックの青い瞳が伏せられた。
初めて会ったときよりエリックは一回り痩せたことに名執は気が付いた。色々ありすぎて相手をじっくり観察する余裕が無かったから気が付かなかったのだろう。きっと、エリックも随分と苦しんだにちがいない。
名執が苦しんだ同じだけ、エリックも辛かったのだ。それを思うと名執は急に熱いものが込み上げてくる。
『……来てくれないと思った』
ぽつりとエリックは言った。
『……正直に話すと、迷ったことは確かです』
名執は嘘を付くことをしなかった。会いたかったと言ったところでエリックは信用しないはずだ。今は、もう言葉を飾る必要はどこにもない。
『だろうね……うん。分かるよ……。一晩、考えた。色々なこと……』
エリックは両手を合わせて何度も何度も交差させていた。そうすることで落ち着こうとしているように名執には見えた。
『ねえ、兄さん。知ってる?人間死にそうになったら、本当に色々なことを思い出すんだよ。僕……初めて体験した……』
悲しげであるのに、どこか嬉しそうにエリックは言う。
『……そうですね。私にも……経験がありますよ』
名執の言葉にエリックは一瞬だけ目を大きく見開いて、また伏せる。
『……僕だけ辛かった訳じゃないの……なんとなく分かった』
泣き出すのではないかと思われるほど、エリックは顔を歪ませたが、涙はこぼれ落ちなかった。目の周りが腫れているところを見ると、随分と泣いたに違いない。だからこそ、もう泣けないのだろう。
『……ええ』
『……ごめんなさい。僕、羨ましかったんだ。本当に……兄さんが羨ましかった。初めて兄さん会ったとき、こんな綺麗な兄さんがいたんだと、誇らしく思ったのに……。嬉しくて仕方なかったのに……。兄さんが自立して、立派なマンションに住んで、医者としても認められているのを知って……。僕の中にある、人を羨む気持ちが妬みになってしまったんだ。どうして同じ兄弟なのにこんなに差があるんだって……。なぜ自分だけが不幸なんだろうって……。ずっとそう思い続けてきたから、本当の事がなにも見えなかったんだ。僕さえもう少し周りに目を向けていたら……シャルのことも分かったのに……』
窓際に立つシャルの方をチラリと見て、またエリックは視線を組んだ両手に戻す。
『エリック。私は立派では……』
名執の否定する言葉にエリックは顔を左右に振った。
『立派だよ。人を妬んだりしない分、僕より立派だと思う……僕は……』
うっすらと瞳が涙で曇るエリックの姿が、横から見て取れた。
『……僕は馬鹿だよね……』
ぽとんと涙を組んでいる手に落とし、エリックは見られたことが恥ずかしいのか、すぐさま手で擦って涙の跡を消す。
『……エリック。貴方に話しておきたいことがあります』
先程ふと思いついたことを名執は口にした。
『……なんでも言ってくれて良いよ。僕、兄さんに怒鳴られるの……覚悟してたから』
右の指先で左の人差し指を意味もなく掻き、エリックは俯いたままだった。
『私が相続した、貴方にとっての父親からの遺産は全て貴方にお渡しします。手続きなどは弁護士に頼みますので心配しないでください』
『……え?』
エリックは本当に驚いた顔を名執に向けた。
『もっと早くにそうすべきだったのでしょう。父が亡くなったときに、貴方のことを知っていたら……。私の方も当時まだ子供でしたので、手続きの詳しいことは私の母方の祖父が全て行いましたので……』
『でも、それは兄さんの……』
信じられないという表情でエリックは名執を見つめ続けていた。
『いいえ。私の方は母方の祖父からの遺産を……頂いています。だから、貴方に父からの全てをお渡しします。これはエリックの正当な権利なので、受け取ってください。決して貴方に施しを与えようという意味合いのものではないんです。本来は兄弟で等分に分けて相続するものですから……』
誤解されないように名執は言葉を選んでエリックに聞かせた。
『全部なんて……そんなのいらない。兄さんと等分に分けてほしい』
『申し上げたはずです。私は母方の祖父からの遺産を全て相続しています。それで……充分です』
名執はきっぱりとそう言った。下手に言い淀むと、金を惜しんでいるように取られるかも知れないと名執は危惧したのだ。
『……僕は……』
エリックが答えに窮しているとシャルが背を向けたまま言った。
『もらっておけ。お前のものだろう』
『……シャル。だけど……』
『エリック。本当に気兼ねせず受け取ってください。良いですね。貴方の正当な権利です。本来なら貴方が弁護士を立てて、請求しても良かったことだったのです……』
笑みをエリックに向けて、名執はやんわりと言った。するとエリックは無言で何度も目元を拭って顔をくしゃくしゃにしていく。ようやく目元から手を離すと、本来の子供らしさが残った、あどけない笑みを浮かべているエリックがいた。
病院を後にしてリーチと共に車に乗り込むと、名執はシートに深く身体を沈ませた。疲れたような、それでいてなにかすっきりした気分だった。
「……遺産って……どのくらいあるんだ?」
エンジンをかけながらリーチが興味深げに聞いてくる。
「そうですね。税金などを精算して……約、三億くらいでしょうか?」
あっさりと名執が言うとリーチは口をあんぐりと開けたまま暫く唖然としていた。
「なっ!なんでそんなに金があるんだ?」
「……三人分の保険金と、元々あった貯金。自宅から土地から全て売り払った合計金額ですから……」
家族の命が一度に失われてしまったのだ。名執は金よりも、例え偽りの家族であったとしても、生きていて欲しかった。
「……そ、そうか。そういうことか……でも……いや。いいけど」
車を駐車場から出し、リーチは前を向いたまま未だに動揺している。その姿に名執は笑みが浮かんだ。何事にも動揺しないリーチが、どうしてか金に関することにはこんな風に慌てるのだ。そんなリーチが不思議で、妙に可愛らしく名執に感じられる。
「お金はいくらあっても……本当に欲しいものはなかなか手に入らない。失われた命も……お金では買えないんです」
名執の言葉にリーチは小さく頷く。
「そういや、あいつ、絶対にまた来るぜ。いいのか?」
別れ際にエリックが言ったのだ。
「いつか、また遊びに行ってもいい?」……と
名執は頷いた。それが一番良いことだと思ったからだ。
「そうですね。来ると思いますよ」
「うちには上げるなよ。俺はあいつを信用してないからな。どうせまたガキ臭くわがまま言い出すに違いないぜ」
ブツブツと小言でも言うようにリーチは呟く。
「でも、今度はきっとシャルさんと一緒に来るはずですよ。きっと仲良く手でも繋いでくるのでは無いでしょうか?」
名執が小さく笑うと、リーチは面白くなさそうに「ふん」と鼻を鳴らした。
シートにもたれ空を眺めると、どこまでも青く晴れ渡っていて、珍しく雲一つ浮かんでいない。名執はそんな空を見つめながら、自分の心も同じように晴れやかなものになっていることに気が付いた。
いつか、エリックが再び訪れたとき、今度こそ兄として会いたいと、名執は心の底で密かに誓った。