Angel Sugar

「監禁愛5」 第26章

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 通路の端まにある長いすまでリーチはシャルを引っ張り、座らせた。リーチ本人はシャルが渋々座る姿を眺めつつ、隣に腰を下ろし、名執はもちろんリーチ側に腰掛ける。
 朝が早いために一般の見舞い客がウロウロとしているわけでは無いが、それでも入院患者に付き添っている人達が時折通路に出てくる。このような場所でリーチが喧嘩をするつもりだとは名執にも考えられないが、切れるとなにをしでかすか名執にも予想がつかない。
 とはいえ、ここは大声を出していい場所ではない。もし、リーチが怒鳴り声でも上げそうな雰囲気になったら名執は止めようと決めていた。
『文句が言いたいのなら、勝手に言ってくれて良い……』
 シャルは膝で手を組んで、床に映った蛍光灯の明かりを眺めている。
『言いたいことは山のようにありますが、それはもう良いんです。ここでぶちまけてしまったら、私、切れます』
 利一の時に使う穏やかな口調でリーチは言った。だが、表情は冷めている。
『そうか……仕方ないと思っているが。彼の名誉のために言い訳をしておくが、私と彼はなにも無かった』
 チラリと名執の方を見て、すぐに視線を逸らせてシャルは小さく息を吐く。
『もし、何かあった後、脅迫されたからしたんだと言い訳されたとしても、私は許しませんが。それより、人がせっかくきっかけを作ってやっているのに、貴方はなにを馬鹿みたいにぼんやりしているんですか?』
 最後の方はややきつい口調になっている。リーチからすると随分抑えているのだけは名執には分かった。本当なら怒鳴りつけたかったに違いない。
『いや……その……だな……』
 シャルは言いにくそうに言葉を選んでいるようであった。名執には言い含められている言葉の意味は分からなかったが、シャルは心当たりがあるに違いない。
『何か、言い訳でもされるつもりですか?』
 リーチはそう言うとシャルは小さく咳をした。
『エリックは……君のことを好きだそうだ』
『はあ……』 
 リーチが困惑した顔をするとシャルの方も困ったような顔になる。一番困ったのは名執の方だ。
『彼は……あれでとてもいい子だ……。少々、拗ねているだけでね。その、エリックのことを君に頼みたいと思ってな……』
 また、名執の方をチラリと見て、シャルは視線を逸らせた。名執が誰と付き合っているのか分かっていてよくそんな言葉が出てくるものだと呆れつつも、シャルにとってはそれが本音なのかもしれない。
『私はあんなに大きな子供の面倒は見ることはできません』
 リーチはシャルの言葉の意味を理解しながらもとぼけて見せていた。
『そういう意味ではなくて……』
 言いにくそうにシャルは言葉を濁した。
『何でしょう?』
『彼を泣かせることはしないと約束して欲しい……』
 絞り出すようにシャルは言った。自分が好きな相手をどうして人に任せようとするのか名執には唖然とするほか無かった。
『ああ、分かりました。貴方は自分がエリックさんに飽きたから私に押しつけようとしているのですね。それは困りますよ。私にはここにちゃんと恋人がいます。まあ、適当に遊んでやってくれとおっしゃるのなら、構いませんが』
 リーチがそう言うとシャルは酷く怒った顔で言った。
『駄目だ。あの子を悲しませるのは許せない。それでなくともあの子は傷ついてきている。これ以上は……』
『どうしてエリックさんに愛していると告白してあげないのです?そのきっかけを私は貴方に差し上げたはずですよ』
 リーチは穏やかな笑みを向け、シャルの方は目を見開いて言葉を失っている。
『分からないと思ってるのですか?端から見ていると滑稽なほど貴方はエリックさんに振り回されている。それにこんな所まで追っかけて来られた。誰が見ても分かりますよ。分かっていないのはエリックさんだけです。一番分かって欲しい相手が一番分かっていないんです。ならはっきり言うしかないでしょう……』
 苛立ちを少し見せてリーチは言う。だが、シャルの方は相変わらず床を眺めていた。
『……そんな気持ちなど私にはない』
 左右に顔を僅かに振ってシャルは諦めているような様子だ。
『それは告白できないと言ってるんですか?』
『いや、誰かを……あ、愛しているなど……私にはそんな言葉すら無い』
 疲れたようにシャルはそう言った。
『貴方がそうおっしゃるのならそうなんでしょう。私はこう考えます。自分の気持ちを偽ったら……。偽りだらけのこの世界に何が残るのか……と』
 シャルはそれを聞いて沈黙した。
『エリックさんは、誰かに愛されたいんです。誰でもいいわけではないと思いますが、自分を認めて貰える誰かに愛されたがっている。自分だけを見てくれる相手が欲しい。そんな人間が自分にはただの一人もいないのだと思いこんでいるから滅茶苦茶なことばかりするんですよ。大人だとはいえ、精神年齢が子供なんです。きっと愛情に飢えて大きくなってしまったんでしょうね。可哀想に、エリックさんの側には求めている相手がずっといたはずなのに、年上の貴方までもそうだから、すれ違っているんですよ。こういう場合、年齢が上である貴方がまず、自分のことをエリックさんに話すべきだと思いますが?』
 シャルに言い聞かせるようにひと言一言はっきりとした口調でリーチは言う。ただ、苛々していることは、膝に置いたリーチの手がもぞもぞ動いていることで分かる。ここが病院でなければリーチはシャルを捕まえて殴っていたかもしれない。
 もちろん安心はできないが、とりあえずリーチも滅多なことはしないだろうと思うことで名執は落ち着こうとした。だが、シャルがリーチの言葉に返答せず、沈黙が続いたことで、膝に置いていたはずの手が瞬時に動いてシャルの胸ぐらを掴んでいた。
「リーチ……お願いです。ここでは止めてください」
 シャルの胸ぐらを掴んでいる手を名執は押さえると、囁くように言った。
『あんたな。いい加減にしろよ。俺は場所を弁えずになにしでかすか分からないぜ。あんたがそんな調子なら、俺がエリックの病室に怒鳴り込んでいって、ぼこぼこにしてもいいのか?俺があの程度で奴のしでかしたことを許すと思ってるのか?だってそうだろう。あんたがエリックの面倒を見るつもりがないというなら、あいつはまた俺達にちょっかいをかけてくる。一度目はあんたの顔を立てて許してやったが、二度目はねえぜ。次は死体になってるかもしれない。それでもいいのか?あ?』
 どこにそんな力があるのだろうと思われるほど、リーチの手はギュウギュウとシャルの胸ぐらを絞り上げていく。名執が止めようとしてシャルから引き離そうとリーチを掴んでいる己の手など、何の役にも立たない。
『……わ……分かった。離してくれないか……』
 顔を真っ赤にさせてシャルは呻きながら言った。
『自分の気持ちをエリックに話せるな?照れくさがってる場合じゃねえぞ。俺はやると言ったらやる。こいつが止めても、俺はやる。いいな?』
 リーチの瞳に狂気のようなものが揺れるのは、こういうときだ。名執も何度か見たことがあった。自分に向けられたことはないが、何故かこのリーチの瞳を見ると、名執は胸が高まる。
『……ああ』
 くうと喉を鳴らし、シャルが答えるとようやくリーチの手が離される。シャルの方はリーチの手が離されるとすぐさま自分の手で喉元を押さえて咳き込んでいた。
『……あんたは今まで自分のことをさらけ出すきっかけが無かったんだろ。俺が押してやってるんだから、すっきりして来いよ。それでエリックが拒否するなら、仕方ないと思うけどな。あ、拒否されても俺はあいつの面倒を見る気はねえぜ。こいつで手一杯だ』
 名執の肩を引き寄せてリーチはニンマリと笑う。だが名執はそんなリーチを無理矢理手で押した。今のところ長いすに座っている男性三人が注目を浴びることはなかったが、場所を弁えて欲しいと本気で思ったのだ。
「……まあいいですけど」
 急に利一に戻りリーチはしらけた顔になった。
『シャルさん……お願いですからエリックを突き放すようなことをおっしゃらないで下さい。私は……とても複雑なのですが、エリックを憎むことはできません。同情ではない哀れさが感じられるんです。私も……境遇は違いますが、エリックとよく似ています。考え方も、育ち方も違うのに……どこか自分ととても重なるんです。だから分かる。エリックは寂しくてもがいているんです。自分の今ある場所から逃げたくて仕方ない……。だから受け止めてやって欲しいんです』
 名執はシャルの方を見ずに、俯いたまま言った。
 これが名執の正直な気持ちだ。
 シャルからなにか発せられるかと名執は身構えていたが、暫くすると椅子が僅かに振動し、ここから立ち去っていくように靴音だけが耳に響いた。
「シャルさんは……」
 ぽつりと名執はリーチに聞く。
「ああ、戻っていったな。どうする?」
「もう少しここにいます……」
 名執の言葉にリーチがこちらに聞こえるようなため息をついた。
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