Angel Sugar

「監禁愛5」 第27章

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 シャルが出ていくと、エリックは外を眺めた。
 窓から見える、どこまでも青く澄んでいる空は、エリックの心と対極だ。いつも他人を羨み、自分が満たされないことを人のせいにしてきたような気がする。誰とは言わない。誰でもなかった。にもかかわらず名執に会い、それら全てを吐き出す先を見つけたのだろう。
 自分は死ぬだろうと思っていた。
 死んで良いと思った。
 いつも苦しいなにかが心にあって、重くのし掛かっていたのだ。だが、死ぬかも知れないというギリギリのところで思い出したのは、父や母の暖かい笑顔だった。父親が生きていたとき、確かに幸せだった。母親は、もちろん不倫という世間では誰も認めてくれない関係を続けていたのに、愚痴一つこぼさなかった。
 父親にとって本当の妻がどういう人物であったか、エリックは後に見つけた写真でしか判断ができないのだが、どこか儚げで、名執とそっくりの顔をしていた。いや、名執が似ているのだ。
 透き通るような肌に、瞳は潤んでいて、口元は小さく形が整い、ほっそりした身体に着た薄いピンク色のワンピースが印象的だった。髪は肩まであり、真っ黒で、あんな日本人をエリックは見たことがないと驚くほど、清潔で美しい人だった。
 そんな女性に兄の名執はそっくりだった。ハーフであるから、髪は黒くは無かったが、瞳の輝きといい、ほっそりした体型に整った顔立ち。初めて見たとき、女性に見まがうほど名執は産みの母親にそっくりだったのだ。
 綺麗な瞳。
 どこまでも澄んだうす茶色の瞳に見つめられると、自分の生き方が恥ずかしくなったほど、エリックは落ち込んだ。
 名執に対する嫉妬は、彼の持つ財産そのものではなく、多分、あまりにもエリックとは違うその容貌に対してだったのかもしれない。エリックは背が低く、そばかすもある。兄弟なのだから少しくらい似ているだろうと思っていたにもかかわらず、名執との共通点など見つけられなかった。
 母親が違うだけでこれほど差が出るとはエリックも思ってもみなかった。
 驚くほどの容姿に、恵まれた環境。恵まれた生活。そして優しい恋人。嫉妬しない方がおかしい。だが、名執は肝心なことをエリックには話さなかったようだが、なにか辛いことがあったに違いない。口を閉ざしていた名執の瞳には、そんな影が時折ちらついていたのをエリックはようやく分かったのだ。
 名執は口にしないだけなのだ。
 エリックにはできなかったこと。
 自分の中で押さえ込むことができなかった不平不満が、そのまま口をついて出てしまった。そんな、言われてもどうしようもなかっただろう言葉を、エリックは名執に対してぶつけてしまった。名執からするとエリックの言動は二十歳を過ぎた大人の行動とはとても思えなかったに違いない。
 僕は子供だったんだ……
 ううん。未熟なんだ。
 空に一羽の鳩が飛んでいるのを見つめて、エリックは腕を自分の視線のところまで引き上げた。手首に巻かれた包帯が、うっすらと血で滲んでいるのが見える。痛みは感じなかった。胸の苦しみを解き放つことができなくて、一番簡単に楽になれる方法を選んだだけだ。
 死にたいと思ったエリックだったが、今こうしてまだ空の青さを眺められることが、何故か嬉しかった。
 不思議な気分だった。
 深呼吸して、まだ息ができることを確認する。心臓は規則正しく鼓動して、痺れてはいるが身体も動かせる。こんな簡単な、いつものことがエリックには嬉しかった。
 チラリと、先程までシャルが座っていた椅子を眺めて、エリックはふと寂しい思いに駆られた。昨日意識が途切れる寸前、なにか大切な言葉を聞いたような気がするのだ。だが、エリックが目を覚ませたときには、既にシャルは沈黙を守っていた。聞くことも躊躇われて最低限の会話しかしていない。
 あれほど毛嫌いしていたシャルの存在が、何故かエリックは気になって仕方ないのだ。自分でもそれが一体どうしてなのか分からない。
 シャルとの出会いは大聖堂だ。
 本当にお金が無く、アルバイトをして学費を作り、ギリギリの生活をしていた。未成年だったので、割のいい働き口など無いのに、病気がちの母を抱えていた。母親は少し元気になるとすぐに働こうとして、更に病気を悪化させていた。何度そのことに対してエリックが止めてくれと頼んでも、学校に出かけている間に母は重い身体を起こして働き口を探すと、こっそりと小銭を稼いでいたのだ。
 あのとき、ゆっくりと養生させてやれば、今も元気にしていたのかもしれない。エリックの後悔がいつまでもそこに舞い戻る。
 母親が動けなくなると、初めてエリックは神に祈った。神など信じなかったが、母になにもしてやれないことを、懺悔するため、少しでも元気になってもらうために、エリックの足は大聖堂に向かったのだ。十字架にかけられたキリストはなにも話してくれなかったし、天使も降りてこなかった。神などいないとエリックはそのとき思ったが、母親は違った。本心から神を信じ、自分の病気を癒すこともしてくれない神に毎日祈っていたのだ。
 エリックの健康と将来のことを……。
 母親が、自分のことを頼むことは無かった。それが、エリックの重荷だった。母親が倒れてから更に重荷は重量を増して、エリックを苛んだ。
 だから、エリックも信じたことのない神に祈っていたのかも知れない。
 そこで、エリックはシャルと出会ったのだ。シャルは黒いトレンチコートを着て、祈りを捧げているエリックの隣に腰をかけて、暫く座っていた。
 沢山席は空いていたにもかかわらず、どうして隣に座ったのか、エリックは不思議だった。チラリとシャルの方を見ると、視線があい、思わず俯いたことをよく覚えている。あのときシャルがなにを口にしたのか、エリックはあまり覚えていない。ただ気が付くと、シャルのマンションに連れられて、朝にはお互い裸で毛布にくるまっていた。
 何よりショックだったのは、味わったことのないふわふわの枕に頭を沈ませて、ふと目を覚ませると、枕元に金が置かれていたことだ。
 自分が身体を売ったのだとエリックはようやく理解した瞬間だった。
 そこまで自分が堕ちてしまった情けなさと、どうせ誰も止めてくれる相手もいないのだから、行き着くところまで行ってやれと自暴自棄になったのもあれからだ。
 カラリと扉が引かれる音がして、エリックが顔を向けるとシャルが入ってきた。仕事の電話を終えて帰ってきたのだろう。
 シャルは相変わらず無言で、ベッド脇にある椅子に腰掛ける。なにも言わないつもりなら、そこに座らないで欲しいのだが、シャルはチラチラとエリックを窺うだけでなにも言わなかった。
『シャル……。僕、シャルとのこと……精算して良いかな……』
 一からやり直そうという固い決心はない。ただ、なにもかも一度真っ白にして、もう一度自分にできることを精一杯やりながら生きていこうと考えただけだった。
 だが、シャルは口を開こうとしない。
『……都合の良いことを僕が言ってるって分かってる。でもさ……色々考えたんだけど……僕、ものすごく嫌な奴だったと思うんだ……。情けないけど……少しだけ、それが分かった……。シャルにも一杯迷惑かけたとよね。ごめん……』
 自分が口にした言葉でエリックは涙がうっすらと瞳を覆った。
『エリック……私は……』
 じっとこちらを見つめるシャルはなにか言いたげな表情を向けてきた。
『……なに?』
『……昨日の晩、私がお前に対して言った言葉は……ずっとお前に言いたかった言葉だった』
 向けていた視線を逸らせて、シャルは膝で組んでいる手を見つめた。
『それ、本当に悪いんだけど……。思い出せないんだ。朝から聞きたかったんだけど……聞いて良いのか分からなかったし……』
 エリックの言葉にシャルの顔が上がる。
『私は……』
『うん』
『……エリックのことを……愛しているんだよ』
 真摯な瞳がエリックを見つめていた。嘘だと否定してしまうのは簡単だったが、エリックにはとても冗談には聞こえなかった。
『い……いつから?』
『……そうだな。大聖堂で初めて会ったときからかもしれない。あのとき、私は色々なことに疲れていてね。神など信じたことがない私が、ふと通りに見えた教会に気まぐれに足を踏み入れた。そこで、一生懸命なにかを祈っているお前を見つけたんだ。天使に見えたよ……』
 シャルは、どこか疲れたような表情でポツポツと話した。
『……誰が天使なの?』
『エリックだ。どうしてそう見えたのか私もしらん』
 不機嫌そうに視線をまた逸らせてシャルは自分の手を見つめる。
『みすぼらしかったと思うんだけど……』
 あのときの身なりを思い出せなかったが、エリックは綺麗な格好をしていたとはとても思えないのだ。
『だからっ!……いや。私にも分からない』
『……本当にそんな風に見えたんだったら……きっとシャルはあの大聖堂の煌びやかなステンドグラスに目が眩んだんだよ。僕は……天使みたいに綺麗じゃない……』
 俯いてエリックはそう言った。
『……私は……不器用だ。自分でも分かっている。言葉が足りない自分も自覚している。だが……大切にしたい相手にどう接して良いのか分からない。誰もそんなことを私に教えてくれなかったからな……』
 シャルの言葉にエリックは驚きの目を向けた。
『シャル……』
『お前が望むことを叶えてやれば……私を見てくれると勘違いしていたんだろう。そう。お前が毛嫌いしていた金でしか表現できなかった。私が与えてやれるものは、そんなものしか無かったからだ。駄目だな……私は……』
 シャルはため息をついて、自嘲気味に笑った。
『……嘘だよね。こんな……こんな僕のこと、ずっと……想っていてくれたなんて……嘘だよね?だって……だってシャルはいつだって僕のこと……無理矢理……っ』
 抑えていた涙が頬を伝い、拭うことも忘れてエリックは続けた。
『……母さんが亡くなったときだって……シャルは……僕を……』
『私には慰め方が分からなかった。お前は自暴自棄になっていただろう。人生が終わってしまったように口走るお前を止めてやれる方法を……私は言葉としてもっていなかった』
 告白された言葉は、エリックの固く凍っていたなにかを一気に溶かした。弄ばれていたわけではなかったのだ。ずっとそう信じていた。いや、そう思いこんでいたのだろう。
 いつも側にいてくれたのはシャルだ。
 道を踏み外さないように、見守っていてくれたのもシャルだ。
 ただ、エリックはシャルから施しを受けているのだと勘違いしていたから……そんな惨めな自分を誤魔化すために、シャルを憎んできたのだろう。
『……シャル……僕は……』
『いや。いい。私がお前を手放したくなかったばかりに、無茶をしすぎたのだとようやく分かった。精算してしまいたいのならそうしよう。ただ……お願いだから、私の見えるところにいてくれないか?私にとっての安らぎは……エリック。お前だけなんだ……』
 シャルの言葉にエリックは、涙が止まらなくなった。
『……駄目なら……諦める』
 エリックはシャルの手を掴み、ギュッと握りしめて、ようやく一言だけ口にすることができた。
『いやだ……これからも……側にいて欲しい……』
 シャルは、その言葉に応えるようにエリックの手を逆に握り返した。
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