Angel Sugar

「監禁愛5」 第16章

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『はじめまして。名執雪久と申します』
 何故か固まっている男に向かって手を差し出すと、相手も手を出して名執の手を握った。リーチよりも大きな手は肌が汗ばんでいて、不快感を感じたが、顔に出さずに名執はすぐに手を引いた。
『シャルと呼んでください』
 シャルと言った男は、にこやかな笑みを浮かべて名執に言う。それにしてもエリックの友人として考えると年齢がかなり離れているように名執には見受けられた。
『あの……エリックとはどういう……』
『兄さん、突っ立ってないで座ったら?僕、兄さんの分のコーヒーを入れてくるから、シャルと少し話していてくれないかな……』
 早口でエリックは言い、名執が止めるまもなくリビングに走っていった。それを見送り名執は、仕方なしに今までエリックが座っていた隣に腰を下ろす。するとシャルの視線がこちらをじっと見据えていることに気が付いた。
『本当にエリックとは兄弟ですか?』
 それは明らかに疑っている口調だった。
 確かにエリックと名執が並んで、兄弟だとはなかなか思えないだろう。それほど雰囲気や顔立ちが違うのだ。もっとも、名執の母親は日本人であるから、そちらの方の血が濃く引き継がれているために、そう見えるに違いない。
 ただし名執の場合、フランス人の血と日本人の血が絶妙に混ざった結果、透き通るような肌と、母親とそっくりな顔立ちでありながら、生粋の日本人に見えない、薄い茶色の瞳と柔らかい髪を持ち得たのだ。できることなら男らしい体つきと、健康的な褐色の肌を持って生まれていたら、また違った人生を歩めただろうと思うが、遺伝であるのだからどうにもならないの。
 その点、エリックは生粋のフランス人そのものだった。
 色は白いが、名執のような透き通る感じはない。瞳は真っ青で、ちょっとこまっしゃくれたような口元が愛らしく、若者らしい活発さと、これから未来を自分で切り開くのだというパワーが身体から満ちあふれているように思える。
 名執は昔からそんな物は持っていなかった。今もそうだ。リーチと二人で穏やかに過ごせたらそれで良いから。それ以上を求める気もないし、こうしたいという希望もない。己の力で切り開く未来など、ただ、空虚で耐え難いほど退屈な考えだった。
 姿形、性格からもエリックと名執はまるで対照的だ。
 このように、どれ一つとっても二人の間に共通点を見つけることなど出来ないのだから、他人から見ると、兄弟と言われなければ気付かないはずだ。とはいえ、実際、エリックは知らないが、名執の父親はエリックの父親とおなじではない。
 これで似ていたとしたら奇跡だ。
『私は日本人である母の血を濃く受け継いだようです』
 シャルの視線を避けるように瞳を伏せて名執は答えた。
『そうですか……。察するにとてもお美しいお母様だったのでしょうね』
『さあ……どうでしょう……。ところで、エリックとはどのようなご関係で?』
 顔を上げ、シャルの方に向き直って名執は聞いた。すると最初見せていた動揺に似たものがシャルから消えて、今度はとってつけたような笑顔を顔に張り付かせているのに名執は気が付いた。
 シャルは年齢を感じさせないがっちりした体つきをしているが、目尻に刻まれている皺は隠せない。いくつくらいだろうかと想像してみるが、外人の年齢はなかなかその外見からは判断できないのだ。
『……そうですね。友人としておきましょう』
 意味ありげにシャルは言い、身体をやや前に傾けてきた。テーブルを挟んでいるにもかかわらず、妙に迫られているような気がした名執は逆に身体を引く。
 見知らぬ人間とこんな風に面と向かって話すのが苦手なのだ。エリックの友人であるからこそまだここに座っていられるが、実のところさっさと帰ってもらいたいというのが本音だった。
 リーチ以外の人間がいた気配や、匂いをあまり残したくない。彼らが帰った後、リーチは必ずこの気配を感じ取るに違いないからだ。もっともリーチは顔に出さないだろうが、あまり快く思わないのは聞かなくても名執には分かることだった。
 弟だというエリックであるから許してくれているだけで、実際、友人を呼んでも良いと言ったところでそれがリーチの本心ではあり得ない。
 ここはリーチの住処であり、テリトリーだから。
 例え、名執が所有者であっても、事実はそうなのだから、ここがむやみやたらに荒らされるような事にでもなればリーチは烈火のごとく怒り狂うに違いない。それほどこのうちをリーチは大切にしていて、自分のうちよりも安心できる場所として思ってくれているのだから、名執もその気持ちを大事にしたかった。
『しておきましょう……ということは、一体どういう意味でしょうか?』
『エリックが、母親を失ってからことのほか面倒を見てきましたので』
 何か言い含めているのだろうかと勘ぐるものの、名執にはシャルが言わんとしていることが分からなかった。
『そうですか。エリックも苦労をしてきたと思います。その力添えをしてくださったのですね。本来なら私の方がなにか手をさしのべなければならなかったときに、お世話してくださってありがたいと思っています。もし、エリックに何かまだ借金のようなものがありましたら、私が肩代わりさせていただいても構わないのですが……』
 本心から名執は切り出した。
 本来なら遺産は二分されるはずだったのだ。今頃と言われても仕方のない話だが、弟の存在を知ったのもついこの間だった。だったら今からでも遅くはないと名執は考えた。
 エリックが相続するに値するものを名執が支払っても別におかしくはない。逆に、エリックが苦労した分、お金でしか返せないのが申し訳ないのだろうが、形式だけは成り立つだろう。
 だが、名執の言葉にシャルは何故か可笑しそうに笑った。
『笑われるようなお話をしたつもりはありませんが……』
『失礼……。いえ、貴方は本当に男性とは思えないほど美しい容姿をお持ちだ。しかも心根も顔と同じくとても綺麗だとも言える』
 シャルの言い様はどことなく馬鹿にしているような口調を伴っていた。
『……それはどういう意味でしょう?』
『苦労されていない方だと申し上げただけですよ』
『……そうですか』
 何を見てそう思えるのか。
 名執の容姿がそう見せているのだろうか。このマンションに住んでいることが苦労していないと思われる原因になっているのか。
 名執にはシャルの考えなど見当も付かない。
 だが、人間は、苦労してきましたという顔で生きなければ、そう見て貰えないのだろうか?別に自分が一番不幸だとは思わないが、リーチ達を見て名執は外見からは想像が付かないほどの重荷を背負っている事を知った。きっと誰もが辛いことや悲しいことを経験して、未だに重荷として抱えて生きている人もいるはずだ。それを顔に出し、口にして、これほど不幸だと言う人間がはたしているだろうか。
 口に出さなくても、人は誰しも人には言えない辛い経験を乗り越えて、生きているのだとどうしてこの男には分からないのだ。笑っている影に隠されている事実を無理矢理掘り起こし、耳にしなければ相手を理解できないのだろうか。
『兄さん、コーヒーが入ったよ』
 エリックがいつの間にか隣に座り、名執の方へコーヒーカップを置いた。カップの中には真っ黒なコーヒーが部屋の明かりを歪ませて映っていた。
『ありがとうございます』
 一息つこうと名執はコーヒーを口にした。妙に口の中で苦く感じたのは砂糖が入っていないからだろう。
『何を話してたの?』
 名執とシャルを交互に見て、エリックは問いかけてきた。先に答えたのはシャルの方だった。
『名執さんはとても綺麗で、エリックとは似ていないと言う話をしていたよ』
『……そうだよね。似てないと思う。初めて見たとき、本当に血が繋がってるのかと、僕も一瞬思ったくらい。だけど、兄さんはきっと日本人のお母さんに似たんだよ……』
 こんな風に名執は言われたくなかった。
 誰が父親なのか彼らは知らないのだろうが、実は知っていて知らない振りをされているような気がしてならないからだ。
 祖父のことは思い出したくない。どちら側の祖父もだ。それらを思い出すような事柄は避けて通りたかった。こればかりはどうあっても乗り越えることが出来ない名執の過去の痛みだった。
『ああ、そういう話をしていた』
『夕食ですが、外に出ませんか?うちではたいしたおかまいが出来ませんので……』
 名執はようやくそう言った。
 これ以上彼らにこのうちにいてもらいたくないと本当に思ったからだ。
『私は構わないが……』
『僕も良いけど……。じゃあ、シャルが借りてるレンタカーでこの間のレストランに行きましょう。ね、兄さん』
 ニコリと笑うエリックが妙にはしゃいでいるように見える。きっと友人にも会えて気持ちが高揚しているのだろう。
『ええ。そうしましょう』
 名執は立ち上がったが、妙に足元が頼りない事に気が付いた。だがこの時点ではどうしてそんな状態になっているのか自分でも分からず、彼らの言うままに部屋を出て、エレベーターに乗ると、シャルが回してきた車に乗り込んだ。
 妙だと気が付いたのは車が走り出してからだった。目眩がひどく、息が浅い。気分が悪いと言うわけではなく、普通では考えられない睡魔が襲った。
『……ねえ、兄さん……』
 助手席に座るエリックがバックミラー越しにこちらを見ている瞳が見えた。
『……済みません。戻ってくださいませんか?……なんだか……私……』
『眠い?』
『……ええ……。エリック。ひどく眠いんです』
 何度も目を擦り、目を覚まそうとするのだが、重くなってきた瞼は言うことを聞いてくれない。これはどう考えてもおかしい。
 あのときのコーヒーに何か入っていた?
 気付いたときには既に遅く、名執はそのままシートに倒れ込んだ。
 遠くからエリックの声が聞こえたような気がしたが、それは意識の遠くに追いやられていた。



 目が覚めると、身体が怠く起こすことが困難であった。目線だけを彷徨わせるとここが何処かのホテルの一室であることが分かった。
 とはいえ、何故名執は自分がここに身体を伸ばしているのか分からず、理由を探すようにもう一度見回すと、窓際に向かって置かれたソファーに座る男が居ることに気が付いた。
 煙草の煙が辺りに漂い、上着を脱いだシャルがこちらを向く。どことなく寂しげな瞳に見えたのは間違いかもしれない。
 思わず名執は自分の身体に手を伸ばし、衣服を脱がされていないことを確認して、ようやく動かせた手をまたベッドに下ろした。
『どういうことでしょう……』
 天井を眺めながら名執はまるで人ごとのように言った。まだ意識がはっきりとせず、ぼんやりしていて、身体が鉛のように重くて動かせないのだ。
『……私は、エリックを自分のものにしたくてね……』
 立ち上がったシャルは、名執を見下ろしてそう言った。
 だが、エリックを自分のものにしたいという言葉と、名執の今の状況はどうあっても繋がらない。ならば、名執ではなく、エリックをここに連れてくるはずだろう。それがどうして自分であるのかが、名執には分からなかったのだ。
『そうおっしゃるのなら……どうして……エリックがここにいないんですか?』
『……さあ。よく分からないな。あの子が何を求めているのかも……』
 煙草を灰皿に押しつけ、シャルはベッドに腰を掛けた。
『分からないって……。私は一体……何故ここに連れてこられているんです?』
『エリックが望んだことだ。君には不本意だろうが……』
 言いながらシャルは自分のネクタイを解いた。その行動に名執は重い身体を後退させた。
『……エリックが何を貴方に望んだのでしょう……』
 じりじりと移動し、ヘッドボードに背が当たる。これ以上後ろには下がれないことが名執の心に絶望のひと文字を浮かばせた。
『兄である君を滅茶苦茶にすること……だと』
 ギシリとスプリングを軋ませて、シャルは益々近づいてきた。何故エリックがそんなことを望んだのか……と言うことの方が気になった。
『何故……です?私は……エリックのことを弟だと思ってなんとか受け入れようとっ……!』
 いきなり顎を掴まれて名執は身体を竦ませた。
『こんな日本人がいるんだと驚いたよ。綺麗な顔だ……』
 じっと見つめるシャルの瞳には荒々しさも、最初感じた寂しさも見られなかった。まるで絵画でも眺めているような視線を名執に向けた。
『止めてくださいっ!』
 ピシャリとシャルの手を払い、名執はヘッドボードにへばりつくように身体を縮ませる。
そんな名執の姿を見てシャルはさもおかしそうに笑った。
『汚れを知らない男は、人の気持ちなど理解できないのだろうな。全てが綺麗で、世の中も良い人間しかいないと思っているだろう』
『そんなことを貴方と議論するつもりはありません。思いたければそう思えば良い。人を外見だけで判断するような人に何を言ってもどうせ耳を貸すことなどないでしょうから』
 睨み付けるような瞳をシャルに向けると、いきなり足首を掴まれてベッドの中央に引き寄せられた。
『気は強いらしい……が、ここから出すわけにはいかない』
 腰の辺りに座り込まれ、名執は益々身動きが取れなくなった。
『何を……貴方は……っ!』
 シャツを無理矢理引き剥がされ、耐えられなかったボタンがベッドの上に転がり、床に落ちる。カツンという音が静かな部屋で嫌に大きな音を響かせた。
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