Angel Sugar

「監禁愛5」 第19章

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『リーチ……気をつけてね』
『分かってる』
 壁に背をぴったりと張り付け、リーチは浅く息を吐いた。人の足音がこちらに向かってひたひたと聞こえてくる。そのままこちらに向かってくるかと思えば、途中、他の部屋に入ったのか、足音が消えた。
 暫く沈黙が続き、廊下を歩く音が響く。
 今度はギシギシと聞こえて少しずつ大きくなってリーチの目と鼻の先で止まった。
 近い……
 呼吸を止め、相手の気配を五感全部を使って察知しようとリーチは身体の神経を張りつめさせた。被疑者が何をしているのか分からないが、出口より数歩離れたところで立ち止まっているのだ。
 さっさと、出てこい……
 カチッと小さな音が聞こえ、不意に被疑者が出口から顔を出した。口元には煙草がくわえられ、真横にいるリーチに気がつかずに通り抜けようとしたのだが、リーチは待ってましたとばかりに被疑者の腕を掴んで後ろで拘束すると地面に叩き付けて手錠をはめた。
 それは一瞬の出来事であった。
「な……なんだ?」
 被疑者は突然のことに、一体どうして自分が地面に転がっているのか分からず、口元から煙草を落としてその火で己の頬を焼いた。
「あつっ……け、刑事か?」
「被疑者確保しました」
 リーチは背にまたがって片手で被疑者を押さえたまま、篠原に携帯をかけた。篠原の方はもう、小声では話さずに玄関の方からリーチ達のいる場所に駆け込んでくる。その表情は驚き半分と、怒り半分の奇妙なものだった。
「お前っ!無茶すんなって言っただろうがっ!」
「え、あ。済みません。鉢合わせしてしまったんです」 
 一応、申し訳なさそうに言って、リーチは被疑者の手錠部分についている鎖を引っ張って立ち上がらせる。すると篠原は分かったように被疑者の身体検査を行い、腰元に差していた銃を奪った。
「銃刀法違反並びに殺人容疑で逮捕する。あ、逮捕状はもうすぐ届きますから観念してくださいね。暴れてもどうにもなりませんから。権利の方はパトカーの中ででも聞いてください。良いですね」
 リーチはにっこりと笑って被疑者に言う。だが、被疑者の方は鳩が豆鉄砲でも食らったような表情をしたままで、相変わらず事態が飲み込めていない様子だ。
「あ~。隠岐が被疑者を既に確保しました。逮捕状をよろしくお願いします」
 篠原はこちらに向かっている捜査員に連絡をして、携帯をまたポケットに入れると肩を竦めた。
「篠原さん。済みません」
「……別に怒っちゃいないけどさあ。何かあったらってお前はいつも考えないから怖いんだって。そりゃ、お前は悪運が強いことで有名だし、腕っ節も立つから大丈夫だとは思うんだけど……」
 二人で被疑者を引き連れて、覆面パトカーまで戻ってくると、道の向こうから仲間の乗るパトカーがやってくるのが見えた。あとは被疑者を向こうに引き渡せば、リーチの役目も終わる。さっさと終わらせたいのだが、最後まで気が抜けない。状況を把握した被疑者が突然暴れ出すことも考えられるからだった。
 一瞬の気のゆるみで取り返しのつかない事態になることがある。それを良くリーチは知っていた。
「隠岐っ!お前、また無茶をしたのか!」
 係長の里中が車から降りて走ってきた。後ろを他の捜査員が追いかけてくる。
「あの……別に無茶はしていません。ただ、見張ろうとしていたら鉢合わせしてしまったので、仕方なしに確保したんです」
 仲間の捜査員に被疑者を渡し、里中にリーチは一応説明して見せたが、鉢合わせで確保したというのは嘘だろうという表情を里中は浮かべた。だが、いつものようにそのことには触れずに「ご苦労様」とだけ言った。
 里中は多分、分かっているのだろう。
「捜査本部に戻ろうか?」
 連れられていく被疑者を見つめながら、篠原はリーチに言った。
「ちょっと野暮用ができちゃって、それが済んでからでも良いでしょうか?」
 言いにくそうにリーチは言った。
「あ~と。外人さん関係?さっきの電話か?」
「……はあ……まあ。そう言うところです」
 篠原とこういう会話をしている時間も無いのだが、振り切ってしまうと、後でまた何を言われるか分からない。詳しい説明などもちろん出来ないが、いい加減にあしらうことは出来ない相手だ。
「懐かれてるんだなあ……はは。行って来いよ」
 言葉としては当たっているのだろうが、篠原の考えている懐かれ方とは少々異なる。それがリーチの今の問題だった。
「ありがとうございます。あの……係長には……」
「適当に言っておくよ。隠岐は腹の具合が悪いから長いトイレに行ってますとでも言えば良いだろうし……」
 篠原の考えた言い訳はどう考えても不自然だが、かといって他に良い言い訳も思いつかず、リーチは一つ頷いて、先程まで乗っていた車に乗り込んだ。
「あと、頼みます。すぐに戻りますから……」
 サイドミラーを下ろしてリーチは篠原に声を掛けてから車を出した。向かった先はもちろん名執のマンションだ。今頃エリックがほくそ笑んでいるのではないかと想像するだけでも怒りで頭が沸騰しそうだった。
『リーチ……僕はスリープした方が良い?』
「悪いな。頼むよ」
『本当に、本当に後で説明してよ?分かってる?』
「分かってる。ちゃんと説明するから、今はスリープしてくれ。ごたごたにお前を巻き込むわけにはいかないんだよ」
 苛々とした口調でリーチが言うと、トシはようやくスリープした。ちょっと後ろめたい気はあったが、今は余裕がない。後からであってもトシには本当のことを話せないとリーチは考えていた。
 トシにはあまりどろどろした話をしたくないと言うのが本当の所だった。リーチからするとトシはいつまでも純粋でいて欲しい。あまり人間の汚い部分を見せたくなかった。刑事として働いているのだから、ある意味、人間の裏の部分を見ている仕事についていて、そんな考えはおかしいのだろうが、リーチはいつだってトシに対しては、そういう気持ちを抱いていた。
 エリックの事はトシはどちらかと言えば好意的に見ていたのだ。愛人の子として辛い目にあったけれども一生懸命頑張っている。そんな、トシの見方を変えたくないのだろう。え、本当はそんな人だったの?と、いうトシの落胆した声などリーチは聞きたくない。人は見かけに寄らないんだとあまり深く考え込まれたくないのだ。
 そういう人間の嫌な部分はリーチが引き受けると勝手に決めてきた。名執からリーチはトシに対して過保護だと言われるのはこういう事からだ。現実にはドロドロとした人間関係も多い。トシも多分、リーチの知らないところで色々と経験はしているだろう。とはいえ、リーチが目を配っている間は、出来るだけ見えないようにしてやりたい。
 刑事という職業はリーチが選んだ。毎日嫌な人間を追いかけている。日々、人間は一体どうしてこんな事が出来るのだという事態に直面する。だけどそれは事件として扱っているからこそ目を逸らさずにいられるだけで、日常ではあまり関わらせたくないのだ。
 なによりも、リーチ自身が一番、トシから軽蔑されるような事をしてきているのだから、トシの知り得ないリーチという人間の本性を見せてしまう事を避けたいというのが本音なのかもしれない。
 話せないと言う一番の理由はそこにあった。
 多分、リーチは名執のために人を殺したことも、あの研究所で何があったのかも、トシにうち明けることは無いだろう。決して互いが離れることの出来ない関係だからこそ、話さない方が良いこともあるのだ。
 色々と考えているうちにようやく名執のマンションまで来たリーチは、一階のエントランスにあるインターフォンを使ってエリックに自分が着たことを告げた。
『すぐに下りていきます。やっぱり来てくれたんだ~』
 心躍るような声でエリックは言い、インターフォンは切れた。
 リーチがぶち殺してやりたいと考えていることなど、エリックは知らないだろう。この場では問題を起こせないが、部屋に入ったらどうしてやろうかと、不穏なことばかりリーチは考えていた。
 苛々と待っていると、エリックがエレベーターから下りてくるのが見えた。手には元々リーチのものであったキーがしっかりと握られている。それすらむかつきの対象なのだ。あれを名執に返さずに、嫌だと言えば良かった。そうすれば、我が物顔でエリックが居座ることも無かったのだろう。
 今更後悔しても遅いことなのだが、リーチは心の底から思った。
 あれさえ、渡さなければ、名執が苦しむことも涙することも無かった。つい先日、自分の後ろを歩く名執が声を殺して泣いていたのを思い出し、リーチは胸が痛んだ。あんな風に泣かせてしまった原因はリーチにあったから。
 泣かせたくないといつも思っている。
 いつも微笑んでいてもらいたいのだ。
 それなのに、苦しむ原因を作ったのはリーチだった。暫く耐えろ、エリックに良くしてやれと言ったのは他ならぬリーチだ。それが名執の為だと思ったから。
『今晩は。隠岐さん』
『今晩は』
 作った笑みを見せて、リーチは言った。ここで警戒されると困るからだった。全ては部屋に入って誰も間に入られないところで問いつめるのが一番だ。
『部屋に上がります?』
『お話を伺いに来たので、もちろん上がらせていただきます』
 リーチが言うとエリックは笑みを見せた。その笑みには嘘偽りは見えない。とはいえ、名執にとって良くない事をこのエリックが企んだのだ。例え、笑みを見せられたとしても許せないことだった。
 エレベーターに二人で乗り込むと、エリックは何故か顔を赤らめたままこちらに視線をチラチラと寄せてくる。そのはにかんだような笑顔がリーチには鬱陶しい。感情をおおっぴらに見せるタイプがリーチは大嫌いなのだ。
 だから子供が嫌いなのだろう。
『隠岐さんとこうやって一緒にいると僕、ドキドキする』
 二人きりの空間にいることでエリックは言った。
『そうですか?』
 リーチは淡々と答えた。
『僕には、魅力は無いですか?』
『私、誰からも魅力を感じたこと無いんですよ。先生は別ですが』
『……それって、ちょっぴり悔しいなあ……』
 今ここで、後頭部を掴んでエレベーターの側面に顔をぶつけてやろうかとリーチは本気で考えたが、エレベーター内もモニターが設置されていてそれが出来ない。このマンションで唯一プライベートが保てる場所は各自の部屋だけなのだ。何かあればすぐに警備員が飛んでくる。このマンションの警備システムは最高クラスだった。
 いくらなんでも刑事であるリーチが監視の多い場所で無茶は出来ない。
『他を当たってください』
 焦る気持ちを抑えながらリーチが言う。
『隠岐さんが良い。僕は隠岐さんが好きだから……』
 子供が駄々をこねるようにエリックは片足をブラブラとさせて口を尖らせていた。
『私は、先生が好きなんです。そう言いましたね?』
『人の気持ちなんて簡単に変わるよ……』
 そう言ったエリックの表情からは笑みが消えていた。
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