Angel Sugar

「監禁愛5」 第11章

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 何をエリックは考えているのだろう……
 名執は仕事場である病院の自室でカルテを眺めながら小さく息を吐いた。朝からずっとこの調子で、今日中に終わらせなければならない仕事に手が着かない。
 エリックがリーチに対して本気なのは分かった。ただ、エリックが見ているのはリーチではなくて利一であるから名執が心配することなど無いのだろう。
 いくらエリックが本気であると言ったところで、リーチにはその気などさらさら無いのだから間違っても問題が起こるとは思えない。
 単に、名執の気持ちの問題だった。
 気にしなければいい……
 そう思いつつ、どうしてもエリックのことが頭から離れないのだ。これから顔を合わせるたびにエリックは利一の話題を振ってきそうで憂鬱だった。色々問いかけられても答えに窮することばかりエリックは話題にするのだからどうしようもない。名執にしても表面上は利一と友人なのだから、無下に扱う事は出来ないだろう。
 いっそのこと話してしまった方が良いのだろうか。
 話してエリックが納得するかどうかまで分からないが、名執の気持ちは収まる。知らせてしまえばエリックも、名執が不愉快になるようなことを話題として出さないだろう。
 だが、もし、そこで諦めなかったらどうなる?
 名執に話さなくなるどころか、こそこそと自分の知らない場所で利一にアタックをかけるかもしれないのだ。リーチの性格からすると、エリックの行動を名執に話してくれるとは思えない。
 それも嫌だった。
 リーチを信じている。だから適当にあしらってくれるのだろうと思う。知るのも気分が悪いことだが、知らない事も耐えられない。
 エリックと名執は全く似ていないのだ。本来の父親が違うのだから仕方ないのだろう。似すぎているのも辛いが、全く似ていないのもなんとなく比べられるのではないかと不安になる。
 こんな風に考え込んでしまうと自分では抜け出せない。いつまで経っても不安が心の中で渦を巻いていても立ってもいられなくなる。
 動じない性格になるのだと名執は強く自分に言い聞かせている。リーチが裏切ることなど絶対にないから。
 だが、この世に絶対が無いことも名執は良く知っていた。今まで失ってきたものが沢山ありすぎて、ようやく手に入れた安らぎを、また奪われるのではないかと、強迫観念に似たものが名執の心には深く居座っているのだ。
 こんな自分をどうにかしたいが、元々の性格なのだから仕方ない。頭では考えないようにしても、堂々巡りをしてしまう。
 出ていってもらおう……
 それしか名執には解決方法がなかった。
 エリックの姿を見るのも嫌になっているのだ。二人きりになると、その空間で息が出来なくなりそうなほど苦しい。酷い兄だと思われるかもしれないが、どうせエリックは自分の国に帰って行くのだから構わない。
 どう思われたところで、これから先ずっと一緒にいるわけではないのだから、それこそ少しの間我慢すれば良いのだ。
 リーチはどう思うだろうか。
 名執のことを嫌な性格だと感じるだろうか。
 それとも、お前がこんな奴だとは思わなかったとでも言うだろうか。
 知らないだけだ。
 名執はリーチのことになると嫌な人間になれるし、薄情にだってなれる。
 リーチを奪われるくらいなら、何だって出来るに違いない。名執にとってリーチが一番大切で、何を失おうと最後にリーチが残ってくれたら良いと思うほど絶対に手放せない人になっていた。
「……」
 持っていたカルテを机に置き、名執は手を組んで更に考え込んだ。もし、本当に名執がこんな考えで一杯になっていることを知ったらリーチも嫌気が差すに違いない。
 やはりエリックを追い出せないのだ。
 そんなことを本当にしてしまったら、軽蔑されるかもしれない。
 リーチは何故かエリックに同情的だからだ。
 確かに可愛らしい。
 自分とは違う、魅力をエリックは持っている。
 嫌だ……
 こんな事ばかり考えている自分が名執は吐き気がするほど嫌になっていた。慕ってくれるエリックに良くもこんな考えを持てるものだと、自分で考えていることなのに呆れてしまうほどだった。
 エリックにとって名執は最後の血のつながりのある人間だ。実際は違うが、エリックは信じていた。
 利一の話が出ただけでこんな大人げのない態度を取ってはならないのだ。リーチのことは大丈夫なのだから心配しなくていいだろう。エリックも単にあこがれているだけだ。
 時間が経てば、利一がエリックにとって気にならない存在になっているに違いない。
 仕事しないと……
 気持ちを切り替えるように名執は組んでいた手を解き、ポケットから携帯を取りだした。
 名執は中華料理店の席を予約するとエリックにそのことを伝える簡単な電話をかけた。昼間、随分思い悩んだせいか、何処か言葉に刺があったような気がしてならなかったが、仕方ないだろう。
 電話向こうのエリックは嬉しそうに受け答えしていたから、平静を保つことに成功したのだ。
 エリックが滞在する、しばらくの間だけ兄として振る舞うのだ。
 リーチとも約束をしたのだから、本当に少しだけ我慢すれば良い。
 帰ってしまえばいつも通りの生活に戻れるのだから。



 仕事を終え、名執は予約した中華料理店を目指して車を走らせた。
 日が暮れた周囲はいつもより暗く澱んで見える。空に低く垂れ込めた雲間から、パラパラと小さな雨粒が落ちてきて、フロントガラスに水滴をいくつも作っていた。
 嫌な天気……
 チラリと空を眺めると、あちらこちらで光線が閃いて、ごろごろと低い音を響かせていた。まるで何か予兆めいたものがあったが、これ以上色々なことを考える余裕は名執には無い。
 店に着くと、車を駐車場に止めて、ぱらつく雨を避けながら入り口に入った。
「いらっしゃいませ……お一人ですか?」
 カウンターにいたボーイが名執にそう言った。
「いえ……名執で予約を取っているのですが……」
 店内を見回し、先に来ているであろうエリックを探すと、窓側にある席に座っているのを見つけた。ただ、エリックの隣に何故か利一が座っているのを同時に視界に入れた名執は言葉がすぐに出なかった。
「お連れ様は先に来られていますね」
「え、あ、はい……分かります……」
 ぎくしゃくとした動きで名執はエリックが座る席に向かって歩き出したが、混乱していて自分が歩いていることすら分からない。
『あ、来た来た……。兄さん、お仕事ご苦労様』
 エリックは名執を見つけて笑顔でそう言った。
『え、ええ……』
 チラリとリーチの方に視線を向けると、やや苦笑したような顔をしている。
『兄さん、突っ立ってないで座ったらどうです?』
『あ、そうですね……』
 無理矢理作った笑みを、強張った顔に浮かべて名執は促されるまま椅子に座った。
 円卓になっている席なのだが、どう見ても、エリックとリーチとの距離が近い。自分だけが遠い位置に座らされているような気がして、嫌な気分になった。
 問題は何故リーチがここにいるかだ。名執は夕食に誘ってはいないのだから、エリックが電話をしたのだろうか。
 自宅に掛けたところでリーチが掴まることはまず無い。だから携帯に掛けたのだろう。そうすると、エリックはいつリーチの携帯番号を知ったのか。
『今晩は』
 リーチはこちらが考えていることなど全く分からない表情で名執に声を掛けてきた。
『え……あ……今晩は。あの……どうして隠岐さんがいらっしゃるのですか?』
『エリックさんから連絡を頂いたんです。美味しいものが食べられそうだったのでつい来てしまったんですが、兄弟水入らずのところに、ご迷惑でしたか?』
 利一の表情でリーチはそう言った。
『いえ……別に……』
 名執は急に喉が詰まったような状態になり、言葉が告げなくなってしまった。何か言おうとするのだけれど、頭の中が真っ白で言葉が浮かばないのだ。
『兄さん。あの……もういくつか注文したんですが、良かったかな……』
 顔色を窺うようにやや頭を傾けてエリックはこちらを見る。その視線を何とか受け止めて名執は、ただ頷いた。
『隠岐さんの話、今まで聞いていたんですけど、本当に楽しい話ばっかりするんです。僕、さっきから笑ってばっかりだった』
 エリックは本当に嬉しそうな笑顔をリーチに向けている。何処か媚びるように見えるのは名執の思い過ごしなのだろうか。
『笑いを取ろうと思ったわけではないんですけどね……』
 苦笑するリーチはエリックではなく、名執の様子を窺っている。名執は自分の醜い部分を悟られたくなくて、必死に笑顔を作った。
 だがそれは拷問だ。
 この場から駆けだして逃げ出したくて仕方がないのだ。リーチに笑顔を向けるエリックなど見たくない。かといって、本当に逃げ出すことは出来ないだろう。
『あ、兄さんが食べたいものを追加で頼みましょうか?』
 この場を取り仕切るようにエリックに尋ねられ、差し出されたメニューをとりあえず手に取ったものの、中を見て選ぶという事が出来ずにいた。
 カラフルな写真と共に沢山の料理が説明されているのは分かるが、一つ一つの文字を追うことが出来なかったのだ。
『先生?まだ風邪が充分治っていないのではないのですか?』
 心配するリーチの声が聞こえるが、名執は押し黙ったまま、それでも笑みを張り付かせた顔で左右に顔を振る。
 言葉が出ないのだ。
 何か話さなければ不審に思われる。
 そんな気持ちだけが膨らんで、文字が浮かばない。今まで普通に会話を出来ていた筈なのに、自分の中から言葉が欠落してしまったように、声にならなかった。
『……先生?』
『き……気にしないでください……だい……大丈夫ですから』
 絞り出すようにようやくそれだけ言うと、名執はまた口を閉ざした。
『でも……』
 リーチが更に何かを言おうとすると同時に料理が運ばれてきて、丸いテーブルに並べられた。ボーイが次から次へと湯気の立つ料理を並べたせいか、リーチは言いかけた言葉を止める。
 名前の知らない料理から立ちのぼる湯気で名執は気分が悪くなりそうだった。いや、実際は既に気分が悪かったのだから、更に悪くなったと言った方が正しい。
『食べて良いですか?』
 エリックは名執と、そしてリーチを交互に見て言った。
『良いと思いますよ。ね、先生?』
 名執は小さく頷いて、とりあえず手前に置かれた箸を手に取った。
 無理矢理にでも美味しそうに、楽しい顔をして食べなければならない。苦痛であるが、数時間我慢しなければならないだろう。
 エリックとこうしていることがどれだけ辛くても、リーチに名執の気持ちを気取られる訳にはいかないのだ。
 約束したから。
 暫く兄の振りをすると……。
 だから、どれほど苦痛でも耐えなければならない。
 名執はどうにか春巻きを箸で掴み、自分の皿に入れたのだが、鼻につく独特の香りに吐き気がした。もしかすると手が震えているかもしれない。
 耳に入ってくるエリックの楽しげな声すら煩わしい。受け答えするリーチの声も聞きたくなかった。単なる社交辞令だと分かっていても割り切れないのだ。
 リーチがこれほど側にいながら、苦しい。喉元に何か巻かれているような息苦しさも同時に感じる。
 良い兄を演じることがこれほど苦痛だとは思いも寄らなかった。
『あの……済みません』
 耐えきれなくなった名執は箸を置き、腰を上げた。二人とも名執に視線を注いで不思議そうな顔をしている。
『兄さん。どうしたんですか?』
『……仕事を……忘れていた仕事を思い出して……どうしても今日中に仕上げてしまわなければいけないことを思い出したんです。二人で夕食を摂って貰えますか?多分、私は戻って来られません』
 一気に吐き出すように言葉を出して、名執は二人の言葉を待たずに店を出た。リーチは追いかけてきてくれるだろうかと一瞬考えたが、そこで言い訳する自分が情けなく思い、つかまれられる前に車に乗り込み、苦しい空間から逃げ出した。
 何処に行けば良いんだろう……
 バックミラーを見ることなく、名執はぼんやりと考えた。マンションに帰ると、いずれエリックが戻ってくる。
 リーチと楽しそうに話しながら。
 そんな二人を見るのも、声を聞くのも嫌だった。
 リーチが帰った後は、またエリックと二人きりになり、どれだけ楽しい時間を過ごしたかを聞かされるに違いない。
 嫌だ……
 家に帰りたくない……
 自分の家であるにもかかわらず、名執はどうしても帰宅することが出来ずに同じ所をグルグル車を走らせる。割り切ろうとしても割り切れない思いが、自分を責めているのだ。
 心が狭い。
 なんて冷たい人間なのだろう。
 頼ってきた弟に対して、酷いことばかり考えている自分が名執は情けなかった。かといってそれをどう納めて良いのか分からない。
 帰りたくない……
 名執は幾浦の家に向けて車を走らせることにした。
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