「監禁愛5」 第8章
後かたづけが終わったエリックは寝室の扉をそっと開けて名執の様子を窺った。
名執は気持ちよさそうに眠っているのが見える。風邪はどうも酷くならずに済んだのだ。
ホッとしてエリックは元通りに寝室の扉を閉めて居間に戻るとソファーに横になって、何をするわけでもなくぼんやりとした。
想像していた兄とは違い、名執はとても優しく美しい人であった。最初、エリックは自分が愛人の子供だと言うことで拒絶されるのではないかと内心怯えながら日本へとやってきたのだ。だが、予想とは違い名執は最初とまどいを見せたものの、今は優しく迎えてくれている。今まで会ったことのない赤の他人であるエリックを家に上げてくれたのだ。
高級マンションに住めるだけの財産と、医者としての地位、会えば誰もが友人になって欲しいと思うような利一と名執は親友であった。
何て恵まれた人なのだろうとエリックは羨ましく思う。
自分の手には何もないのに、名執には抱えきれないほどのものがある。どうしてこんなに差があるのだろうか。
母親が妻子ある男性を好きになってしまったことがそもそも悪いのだろうか。
だからといって、そんな母の元に生まれてしまったエリックが、その罪を背負わなければならないのだろうか。
それは理不尽だとエリックは思う。
小さい頃は良かった。
父を父だと思えたから。
優しい笑顔をいつも向けて、抱き上げてくれた事をエリックは覚えていた。だがそれらは全て偽りで、決して世間で胸を張って生きられない立場であると知ったとき、どれほどショックを受けたか。
初めて父親が憎いと思った。
その頃には父は祖父を殺し、エリックの母ではなく本来の妻と一緒に車に乗って波間に消えた。残された名執は優しい親戚に引き取られ、苦労することなく、温かい人達の中でぬくぬくと育ったに違いない。
……
筋違いだと分かっていても、胸の内でとぐろを巻いている嫉妬を名執に向けてしまう。
どろどろとした汚らしい感情。
そんな自分を嫌だと思いながらも、何者にも汚されたことのない、綺麗で優しい兄が憎いのだ。
優しくしてもらっているのに……
どうして僕はこんな風に思うんだろう。
俯いていた顔を上げ、エリックは息を吐いた。
細く、長く。
名執が微笑みを向けると、エリックは全てを壊したくなる。
恵まれた環境を、そして多分、つき合っているのであろう利一との関係を。
昨晩の二人はおかしかった。時折聞こえる押さえたようなうめき声と、今朝の利一の態度。親友と聞かされてはいるが、それ以上の関係であることをエリックは知ってしまったのだ。
考えてみればおかしいことだらけだった。
一人住まいにしては広いマンションに、ダブルベット、客用の布団はないのに、セットものの茶碗やグラスはある。これではどう考えても恋人がいるのだろうと誰でも分かる。
最初、相手が利一とはエリックも考えなかった。抱き合っている二人を見たことは無かったから。だが二人が一緒にいるときの感じはとても親密なのだ。名執が利一に向ける瞳は、信頼していなければ漂わない雰囲気があった。
言葉はなくとも、見つめる先の人物を愛していると名執は目線や、態度で告白していたに等しい。
別に男同士を否定するほどエリックもうぶでは無い。だがその事ですら余計に名執を羨ましいと思うのだ。不満もなく満たされた日々を送る自分の兄が本当に羨ましかった。それに比べると自分は一体なんと価値のない人間だろうと思い知らされる。
父親がいないこと、愛人の子であること、それらは小さい頃からエリックが苛められる理由として十分であった。まだ父親が生きていたときは養育費などを送って貰えたが、父親が自殺したことでそれが途絶えた。
財産分与を期待したが、父親は死ぬ前にそれら相続を全て名執に残せるよう、様々な方法を使って手を打っていた為、愛人の子には財産分与はなかった。
当然、エリックの母親が分け前を主張したが、どさくさに紛れて名執は母方の親戚に引き取られ、結局うやむやとなってしまった。
それから母親の苦労が始まった。
ただでさえそれほど身体の強い方でなかった母親が息子のためにどんな仕事でも文句を言わずに引き受けていた。身体を売ることは無かったが本当にそうであったのかは、当時幼かったエリックには分からない。だが、エリックは大学に行くことを断念して家計を助けるために働いた。そんな中、いくつかあった働き先でコックにならないかと持ちかけられたのだ。
学のないエリックにすれば自分の力で生き抜くには手に職をつけるしかなかった。だから申し出を受けた。
しかし落とし穴もあった。
有名なフレンチのお店であったが、そこのオーナーはエリックの腕を気に入ったわけでなく身体を気に入ったのだ。だが身体を差し出すことで援助を受けられるのならと、屈辱を受け入れたのだった。
自分の人生はなんだろうと考えた。
苦労したら幸せが待っているというのは嘘だ。
最悪な人生を送る人間は何もかも見放されて一生を終えるのだ。人間は生まれたときから既にレールを引かれているに違いない。エリックにとってその終着駅はのたれ死にという名の駅なのだろう。
エリックは涙が出そうになったがぐっとそれを堪えた。負けるものかと強く思った。何年もコツコツと貯めたお金で何とか、小さな店を買うことが出来たのだ。苦しくても、たとえどんな嫌な目にあったとしても耐えてきた。それはいつか幸せがこちらを向いてくれると信じたからだ。エリックは先程から暗く考えていた事を必死に否定した。
借金だらけの出発になるだろうが、これからは自分の人生を考えることにすればいい。自分で切り開き、必ず母親の墓前で胸を張って報告出来るように必死に頑張ろう。
本気で今までそう心に誓ってきた。
それが名執を見るたびに、自分がいかにみすぼらしいかを思い知らされてしまう。
違う世界に住む兄なのだと何度自分に言い聞かせても、僅かなお金で四苦八苦している自分が惨めで仕方がない。
もし、財産分与があったなら、こんな人生を歩む必要など無かった。もちろん、名執ほどの恵まれた生活は出来なかったとしても、身体を売るという屈辱くらいは回避できたに違いない。
「堂々巡り……」
何度もエリックは自分の中にある良心を総動員して、名執を恨まないように納得させようとしても、結局こんな風に相手を羨み、自分ではもう、どうしようもない憎しみが沸いてくる。
どうもがいたところで、エリックは名執にはなれないのだ。
だったら……
名執の大事なものを一つだけ自分のものにすればこんな気持ちも少しは収まるのかもしれない。
そう。それが一番良い。
一つくらいなら自分のものにしても、元々沢山持っているのだから構わないだろう。
そう。一つだけ。
エリックは利一が欲しいと思った。
夕方近くに目を覚ました名執はエリックが出かけているのを知って、洗濯物を取り込もうとしたが、既に取り込まれていて、それらはリビングのソファーに畳まれていた。
夕食をエリックがどうするかは分からなかったが、冷蔵庫に余り食料が無いのに気が付いた名執は、まだ体調がそれほど良いわけでもないのに、エリックがコックであることを知った為、そんな彼に材料くらいは沢山用意して置いてやろうと考えて買い物に出かける事にしたのだ。
汗ばんだ身体をすっきりさせるため、シャワーを軽く浴びたが、多少立ちくらみに似た目眩がしたが、何とか服を着替え、車を走らる。
そうして近くのショッピング街まで出て、適当に買い物をしたが、気が付くと一人で持ちきれないほど買い込んでしまった。
名執は買ったものを引きずるようにして駐車場まで荷物を運んで車に乗せると家路に急いだ。
明日は休むことは出来ないと考えながら車を走らせているとエリックらしき人物を見つけた。エリックは誰かと話をしていた。
遠くにいるのでこちらからは何を話しているかは分からなかったが余り嬉しそうな表情ではないように見える。どうしたのだろうと考えているうちに信号が青になり名執は車を出さなければならない状況になった。
きっと見間違えでしょう……
名執は確認することが出来ず、仕方無しにその場を去った。
「隠岐、渋谷交番から電話入ってるぜ。三番な」
篠原がそう言って電話を廻してきた。
「済みません。隠岐ですが……え?今からですか?はい……ええ大丈夫だと思いますので伺います」
受話器を置いたトシは篠原に言った。
「ちょっと渋谷まで行ってきます」
「どうしたんだよ」
篠原が報告書から顔を上げて言った。
「なんだか分からないのですが、拘束している人物が私を呼んでいるそうです」
「誰だよそれ」
「名前を言わないから向こうでも分からないそうですよ。あ、もし、事件があったら現場に直で向かいますので携帯に電話して貰えますか?」
そうトシが言うと篠原は「いいよ」と言った。
トシは警視庁を後にして交番に向かった。
「お久しぶりです隠岐さん」
松野巡査部長が嬉しそうに言って迎えてくれた。
「その節はお世話になりました。その問題の二人は何処に?」
「一緒にするとどうなるか分からないので別々に取り調べてますがね。事件にしていいのかどうか分からないのですよ。なにぶん言葉も通じませんし……」
困ったように松野は言う。
「ここに連れてこられるような何をしたのですか?」
「通りで喧嘩をしている外国人がいるのを警邏中に見つけましてね。それで背の高い方の年長者の方がこちらにくってかかったもので公務執行妨害で逮捕したんです。ただ英語なら何とかなるんですがフランス語でしょう……色々相手が言うのですが分からないのです。で、小さい方の外国人が隠岐刑事を知ってるようなことを言うので、そう言えば隠岐さんはフランス語も使えることを思い出しまして、連絡したのです」
取調室に入るとそこにはエリックが身体を丸めるように小さくなって椅子に座っていたが、こちらに気が付き、怯えたような目に涙を浮かべた。
「エリックさん……一体どうしたのですか?」
トシはリーチから聞いていたが初めて見るエリックを驚いた目で見た。
背後ではリーチが代われ代われとうるさかったが、エリックは混乱しているのかフランス語でしか話さない。
フランス語を話せるのはトシであったので、リーチは仕方なしに沈黙した。
『何があったか聞いてくれよ』
トシが主導権を持っていれば、フランス語やドイツ語をわざわざ訳してリーチに話さなくても会話の内容がリーチにも伝わる。
この理由は未だに二人も分からない。
「大丈夫ですか?何があったのです?」
膝の上で拳を作っているエリックの手を包むようにトシは自分の手を置いた。
「あいつ……追いかけてきた……」
「追いかけてきた?」
「もう僕はあいつとはなんの関係も無いのに……あいつは僕を解放してくれない……」
「エリックさん。あいつとはもう一人こちらに連れてきた男性ですか?」
そう言うとエリックは縦に首を振った。
「……詳しいことは後で聞きます。それよりまず、これを事件として扱ってもいいですか?」
エリックは驚いた顔で「ノン!」と言った。
「相手は友人で、ちょっとした言い合いになっただけですね?」
「友達なんかじゃない!あいつは……あいつは……」
立ち上がってエリックは口をわなわなと震わせる。
「そうとでも言わない限りここの警官はあなた達二人を解放しませんよ」
「…………」
「大丈夫。ちゃんと私が貴方に付き添います。それから、相手にも事情を説明してもらうために、隣の部屋に行って来ますが、宜しいですか?」
そう言うとエリックは不安な瞳を向ける。
「あちらの言い分も聞かないとここの人達も納得しません。だから聞きに行くんです。大丈夫。心配しないで下さい。それと、ここの人達は英語は分かります。ですから話したくなければフランス語だけ使って下さい。私が適当に彼らに話しますから……いいですね。ちゃんとここから連れ出して上げますから、少しだけ待っていてくれますか?」
にっこりと笑ってトシは言った。その言葉にホッとしたのか最初真っ青だったエリックの表情に赤みが戻ってきた。
「待ってます……」
それを聞くとトシは松野に振り返り「もう一人に会わせて下さい」と言った。松野は頷いてトシを隣の取調室に案内した。
「名前は?」
そうトシが不服そうに座っている男に聞いた。
男は胡散臭そうな目をこちらに向ける。
深い青色の目は品定めするようにトシを上から下、下から上へ視線を動かした。やや褐色がかった金髪は綺麗に手入れされている。頬骨がやや出ているが、悪い印象は無かった。
年齢は三十後半から四十初めくらいで、目の下に少しそばかすがあった。
「もう一度お聞きしますが、お名前はなんというのですか?それとも写真を撮って本国に照会しないと駄目でしょうか?」
トシは穏やかに問いかける。すると男は「シャル」と言った。
「ではシャルさん。お尋ねしますが、人の多い通りでどうしてエリックさんと喧嘩になったのですか?」
「喧嘩?」
何を言ってるんだという顔をして、こちらから視線を逸らせる。
「きちんと話していただけないのなら、事件として立件します」
「立件だって?私が何をしたって言うんだ。恋人と言い合いになるだけでこの国では逮捕されなければならないのかっ!」
シャルはまくし立てるように怒鳴る。
「言い合いになるだけならいいんですが、警官に暴力を振るった所為でここに連れてこられたと聞いていますが?」
「暴力だと?ただ私は掴まれた手を払っただけだぞ」
「それは互いの見解の違いですよ。貴方は払っただけだとおっしゃいますが、こちらの警官は手を殴られたと取ったのかもしれません。ですがそう言う誤解をきちんと解決しないと貴方にとって不利になるのではありませんか?」
「まあ……そうだな」
ちらりとこちらをみてシャルは椅子に座り直した。トシの印象では態度ほど悪い人間ではないと感じる。
「どうして喧嘩になったのですか?」
シャルの前にある椅子に腰を下ろしてトシは聞いた。