Angel Sugar

「監禁愛5」 第12章

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 マンションを訪ねると、幾浦はパジャマ姿で迎えてくれた。表情は当然、驚いた顔をしていて、何故うちにくるんだ?という疑問すら窺い知れるほどの困惑したものであった。
 真後ろには以前見た、毛足の長い犬がじろじろとこちらを威嚇していて低く呻いたが、吠えるほどではない。そんな愛犬に幾浦は瞳で牽制する。
「アル。静かにしてろよ。名執を追い出したら、後でトシにしかられるのはお前だ。いいな」
 説得するように言い、幾浦は続けて言った。
「リーチと一緒じゃないのか?」
「……ええ……」
 ここまで勢いで来てしまったが、さりとて名執はどう説明して良いのか分からず、俯いたまま、玄関から続く廊下を見つめていた。本来なら本日はトシの日であり、同じ身体を共有するリーチが名執の傍らにいないことが幾浦には気になっているはずだ。だから名執が一人でここに来たことに不審を抱いているのだろう。
「何かあったか?」
 腰を屈め、スリッパを名執の見える位置にそろえて置くと、幾浦は顔を上げる。
「いえ……大したことでは……その……」
「お茶でも飲んでいくか?私は暇だから、構わないぞ。まあ、ちょっと機嫌を傾かせた犬がいるが気にしなくて良い。まだ他の人間に比べて、これでも友好的なんだ」
 唸ってはいないが、歯をむき出したまま「アル」と、呼ばれた犬はこちらを見ている。鋭い牙を見せて名執を威嚇しているのだ。
 これが友好的なら、普通はどうなのだろうと想像してみるものの、名執は動物を飼ったことが無いために分からない。番犬として犬を飼う家庭が多いことを考えると、初めて見る相手に対して威嚇するのも仕方のない事だ。
 名執は幾浦が自分のためにそろえてくれたスリッパを履いて、案内されるままリビングに入った。床には毛足の長い絨毯が敷かれ、革張りの立派なソファーがオーク材で作られたテーブルに対になって置かれていた。夜景が見えるはずの窓は既に薄水色のカーテンが下ろされていて、クリーム色の壁紙が名執をホッとさせる。
「何処にでも座ってくれたらいい。コーヒーが良いか?それとも私の酒につき合ってくれるのか?」
 穏やかな笑みを浮かべて幾浦は名執に聞く。
「飲みたい気分です……」
 ソファーに腰を下ろして名執は呟くように答えた。
「そうだな。ワインでも開けるか……」
 独り言のように言って、幾浦はリビングから繋がるキッチンの方へと消えていった。後に残ったのは名執の前に座って、相変わらず歯をむき出しているアルだ。
「……こ、今晩は……。あの……一度お会いしましたよね?」
 何故犬にかしこまっているのか自分でも分からないが、相手が歯をむき出しているせいで、思わず名執はそう言っていた。
 下手に話すとがぶりと噛みつかれるかもしれないからだ。
「ほら……ここの地下駐車場で……勇敢な姿を見せてくれたでしょう?」
 以前アルは蘭と呼ばれた男が銃を構えている腕に噛みついた。あのとき、アルは前足の骨を折られたはずだった。
「前足……折られたでしょう?もう……その……大丈夫ですか?」
 更に名執が話すと、アルはようやくむき出していた牙を納めて、顔を斜めに傾かせる。
 少しは分かってくれたのだろうか?
 それともやはり動物相手に話しかける事自体、滑稽だったろうか。
「……その……私、感謝してるんですよ……あの……」
 アルの黒い瞳がじっと名執を見つめている。その姿は人の言葉を理解しようと聞き入っているようにも見えた。
「名執……アル相手に何を話してるんだ……」
「え……あ……いえ……」
 幾浦は苦笑しながら、テーブルにワイングラスを置いて、ボトルからワインを注いだ。ほのかに鼻につく芳醇な香りが、まだ口にしていないワインの味覚を不思議と感じさせた。
「こいつは、人間の言葉が分かる犬だからな。会話は出来ないだろうが、聞き役にはなってくれるぞ」
 アルの隣に座り、豊かな毛並みを撫でながら、自慢するように幾浦は言った。愛犬を見つめる瞳は優しく、そして信頼に満ちている。その様子から、聞かなくても幾浦はアルを大事にしていることが名執にも分かった。
「動物が家にいるとまた、雰囲気が違いますね。私は飼っていませんが、幾浦さんの姿を見ていると飼ってみたいと思ってしまいます」
「なんなら、子犬をプレゼントしてやるが?」
「いえ……私は不規則な仕事ですから……とても動物を飼える余裕は無いので……」
 理由はそれだけではないが、飼えない理由の一つだった。
「まあ、でっかい動物がお前の家には居座っているからな。奴の面倒だけでも手に余るだろう。で、その動物と喧嘩でもしたのか?珍しい……」
 グラスを手にとって、左右に揺らしながら幾浦は言った。
「……リーチですか?」 
「リーチしかいないだろう」
 今度は名執が苦笑する番だった。
「それより、どうしてリーチがお前の側にいないんだ?トシを上手く丸め込んでプライベートをことごとく奪っていることに私は腹を立てているんだがな……」
 腹を立てると言いながら、幾浦は笑っていた。
 名執にはまねの出来ないことだろう。もちろん、トシと幾浦に何か問題があって、プライベートをリーチが譲ることは納得しなければならないのだろうが、やはり残念で寂しい気持ちは誤魔化せないからだ。
 そんな気持ちを隠すことの出来る幾浦の方が大人なのだろう。
「……私はどうして良いか分からないんです……」
「喧嘩か?」
 幾浦の言葉に名執は顔を左右に振った。
 喧嘩ではない。名執がこだわっているだけ。分かっていても自分の気持ちを抑えられないのだ。
「じゃあ、例のお前の弟が問題か?」
「どうしてそのことを……」
「詳しいことは知らないが、トシが今日のプライベートを譲る理由にそんなことを話してくれたからな。私は納得できなかったが、まあ……私にも弟がいて、振り回されていることを考えると、お前にはリーチが側にいた方が良いだろうと考えたから、仕方なしに譲ったんだ。言って置くが、穴埋めはしてもらうからな」
 ニヤリと口元を歪ませて幾浦は、少々意地悪い表情になった。
「もちろんそれは……リーチにも話しておきます。トシさんにご迷惑ばかりかけてしまって……幾浦さんにも申し訳なく思ってるんです……」
 名執は項垂れて真っ直ぐ前を向くことが出来ないでいた。
 二週間のうち、一週間しか互いの恋人を独占できないのだ。しかも恋人は刑事で、あっていても突然の仕事で出かけてしまったり、数日会えないこともしばしばある。だからこそ、会える日は名執がそうであるように幾浦もたとえ僅かな時間であっても二人で過ごせる時を大切にしているに違いない。
「まあ、気にするな。それより、リーチはどうしたんだ。私が知りたいのはそのことなんだが……」
「ええ……今リーチにエリックの……あ、弟の名前がエリックと言うのですが……相手をしてもらっています」
 名執がボソボソと小さな声で言うと、幾浦が覗き込むような瞳を向けてきた。
「相手って……どういう事だ?」
「恥ずかしいことに……その……義理の弟がいる事を今まで知らなかったんです。出生証明書など見せていただいたので、嘘ではないことは分かったのですが……色々と私の方が複雑なのです……」
「義理なのか?」
 幾浦は愛人の子であることは聞かされていないようだ。
「父の……愛人の子になります」
「はあ?名執、お前はそんな男を家に上げたのか?リーチがふてくされる訳だ」
 幾浦は本当に驚いた声を上げた。その様子に幾浦の膝に頭を乗せていたアルの顔も上がる。
「……ええ。ホテルに泊まるとお金が足りないとかで……」
「金で済むなら金を払ってやれば良かったんだろう。私ならそうするが……」
「そのことに後で気が付いたので……今更、出ていってくださいとも言えなくなってしまったんです……」
「まあ……多少気まずい部分があるかもしれないが……名執が二人を置いて私の家に逃げてきたのは、また違う問題があるからじゃないのか?」
 心配そうに幾浦は問いかけてきた。名執の様子にただならぬ気配を感じたのかもしれない。
「エリックが……」
 話してしまって良いのかどうか、一瞬悩んだが、利一という特殊な人間とつき合っているのは名執と幾浦だけであり、相談できるのも互いの恋人がどういう人間か知っている相手だけなのだ。
 とはいえ、話すと言うことは名執の醜さを幾浦に知られてしまうことになる。それに気が付いた名執は言葉が途切れて、続きを話すことが出来なかった。
「おい、義理の弟がどうしたっていうんだ。私に話したところで上手い解決策は出てこないだろうが、ここまで来たのだから話してしまったらどうだ?楽になるぞ」
 優しい口調で幾浦が言う。
 チラリと名執は目線だけを上げて幾浦の方を向き、同じようにこちらを見ているアルを次に見て、また俯いた。
 二人分の視線がチクチクして居心地が悪い。
「私も一度相談に乗ってもらっているだろう?あの後随分楽になった。自分が気にしなくても良いことで悩んでいたのだと、お前と話して分かったんだ」
「……私は……」
「どうせ今晩は帰らないつもりだろう?だから家に来た。そうだな?」
 小さく名執は頷いた。
 今、とても自宅に帰る気分にならないのだ。
 エリックと一緒にいる空間すら、息苦しい。
 例えエリックが何も話さなかったとしても、今の名執には耐えられないだろう。
 だから幾浦の家に逃げ込んだのだ。
 ここなら安心できると思ったから。
「実は……」
 話してしまおうと決心をつけて顔を上げると、アルはまた頭を下げて幾浦の膝の上で目を閉じた。



 名執が早々に帰ってしまったことでリーチは酷く心配になった。一番気になったのは、自分の姿を見つけた瞬間に名執が真っ青になったことだ。どういう理由で、リーチの顔を見て青くなるのだろうか。
 折角の料理は二人で食べ切るにはあまりにも多く、エリックだけが嬉しそうに話している姿にもうんざりしそうだ。名執がいるからリーチはトシを丸め込んで、今日のプライベートを奪ったのだ。なのに目的の人間がいない場所で利一を演じることはめんどくさいことであり、退屈だった。
 心配だな……
 携帯に電話してみるか……
『エリックさん。済みません。ちょっと電話が入ったみたいなので、外で取ってきますね』
 胸ポケットに手を入れて、いかにも電話がかかってきたという振りをして、リーチは立ち上がった。
『はい。どうぞ。あの……でも……すぐに帰ってきてくださいね』
『ええ……すぐに戻ります』
 一瞬、このまま置いて帰ってやろうかと思ったが、利一がそれをすると不味いだろうと判断したリーチは、笑みをエリックに残して店の外に出ると、名執の携帯に電話を掛けた。
「……あ?」
 携帯は電源が切られているのかつながらない。仕方なしに、リーチは自宅の方へともかけてみるものの、こちらも呼び出し音が空しくなるばかりで繋がらない。
 居留守でも使ってるのか?
 ていうか、居留守使うほどあいつ、なんかあったのか?
 益々リーチは不安になってきた。
 名執は妙に我慢強いところがあるのだ。辛くてもギリギリまで自分一人で耐えようとする。リーチはそのことを痛いほど良く分かっていた。
 頼れというのに、なかなか頼ってこない。
 話せというのに、ぎりぎりまで話さない。
 リーチを信用していないからではなく、強くなろうと無理をしているのだ。
 名執は強さの意味を間違えていた。そのことについて、何度か話してみたが、本人は良く理解できないようだった。そんな名執が可愛くて、いじらしく、心配なのだ。
 小さな事でもいつの間にか問題を大きくして悩むのが名執だった。一人で考えることが多い人間にありがちな事だ。
 うちに帰るか……
 悩み出した名執を放っておけば、どういう間違った結論に達しているか、想像が付かない。こういうときは問いつめるしかなかった。
 ユキって本当に可愛いよなあ……
 まあ……
 お邪魔虫のエリックがいるのは、少々困ったことなのだが、ならば名執を外に連れ出せば良い。赤の他人と毎日顔をつきあわせている状態が、そろそろ限界にきているのかもしれないのだ。
 何処に連れ出してやろうと色々思案しながら席に戻り、数十分エリックの話し相手をしてやってから、リーチは帰ろうと切り出した。
『はい。僕ももう、お腹一杯だし……』
 子供のようにはしゃぐエリックも可愛いのだけれど、リーチは疲れる。もちろん利一であることを仕事以外でも継続しているから余計だった。
 確かにこれだと名執もきついはず。
 名執はどちらかというと静かな場所や、雰囲気を好むのだ。多分、病院でせわしなく働いている所為で、喧噪とは無縁の場所が好きなのだろう。
 それはリーチも同じだった。
 静かなホテルにでも誘ってみるとか?
 それもいいか……
 心中ではニヤニヤとしながら、利一の表情には一切出さずに、リーチは精算を終えて、エリックと共にタクシーでマンションまで帰った。
 しかし、マンションに家主の姿はなかった。
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