「空の監禁、僕らの奔走」 第1章
「リーチ……こんなところで駄目です……」
浅くなった息から漏れる声は濡れている。理性では駄目だと分かっているのに、本能は抱きしめる腕の熱さを欲していた。
「こんなことなら、離れる前に一度やっておけば良かった……」
残念そうに耳元で囁くリーチの声は、名執の心に溶けて甘い一時を彩っていた。まさぐる手は荒々しく胸元を這っている。乱れたシャツは己の欲望そのものだ。
「駄目です……リーチ」
言葉だけの拒否をして、名執はリーチにしがみついた。あとすこしで、しばらくこの身体と、この温もりと分かれなくてはならない。ようやく実感できた所有感を手放すことが、名執にはどうしてもできないでいる。触れ合った時間が少なすぎたのだ。
「リーチ」
熱くなった吐息を漏らし、しなやかな両脚をリーチの腰に巻き付けた。揺れる腰の動きをとめられない。羞恥心はあるのだが、誰も見ていないことが分かっている小さな空間が、名執を大胆にさせているのだろう。いや、もしかすると満たされない欲望が堰を切ってあふれ出しているのかもしれない。
「ユキ……俺のユキ……」
リーチは熱に浮かされたようにそう言い、名執の胸の尖りを何度も舐め上げ、あちこちにキスの痕をつけていく。ピンク色をした小さな花びらの痕は、目にしなくてもどこにあるのか分かる。チクリと痛む小さな感覚が、鮮やかに名執の脳裏に描き出されていくからだ。
「挿れて下さい。そうしてくれないと……私、日本まで耐えられない」
身体の内部についた火はこのままでは収まりそうにない。うす茶色の瞳を涙で濡らし、名執は黒目がちの瞳に訴えた。
「幾浦に……殺されそうだな」
小さく笑い、リーチはうっすら汗の滲む額を、名執の頬に擦りつけてきた。肌の接触部分が熱く感じられ、名執は押し殺した呻きを上げる。
「いい……ばれても……いいから」
しがみついているシャツを引き裂いてしまいそうなほど、指先に力を入れて名執は呟いた。身体が小刻みに震えて、触れられているだけでは、愛撫されているだけでは、耐えられなくなっていたのだ。
それはもう、何日もずっと抱えてきた名執の飢えだ。正確にはもっと長い間、名執がここに来てからだった。身体のことを心配するリーチに対し、恨みすら抱いてしまいそうになっていた身体。自分ではもてあますだけで、決して楽になれないのは、リーチの雄を自らの内部で感じたいと欲していたからだった。
「掃除中の札を下ろしてるから、ここには誰も来ないことが分かってるけどな。一度やったら俺がお前を離せなくなる」
「一便遅らせてもいいの……だから……あっ」
己の雄がティッシュで覆われ、ギュッと力が込められた。身体が引き絞られていくような快感が腰骨から背骨に伝わって、快感を解放させようとする。だが名執は一人で達したくなかった。
「幾浦の仕事上、無理らしいぜ。あいつ、もうちょっと余裕を持って仕事しろよな……たくよ。無粋な奴だ」
「私だけなんて……嫌です。あっ」
「我慢は駄目だ。いいな?俺は帰ってからゆっくり味わうからいい。気にするな」
さらにきつく絞り上げられて名執はリーチの手の中で欲望を弾けさせた。
「……あ……ん……うっ……」
濡れた雄を丁寧に拭いつつ、リーチの舌は名執の口内を犯していた。イかされたはずなのに、内部で渦巻く欲望は全く収まってくれない。逆にますます肥大しているように思える。
「ユキ……マジで色っぽいな」
唇を離し、リーチは感嘆に似た声を発した。
「足りないです……」
首に絡みついている名執を引き離すことなく、リーチは衣服を整えてくれる。一番欲望を解放したいだろうリーチは、忍耐強さを見せてくれているのだ。名執にとって一番見たくないリーチの姿で、今の状況を憎く思えて仕方ない。
「ああ、そうだな。俺もだ……ユキ。さあて、行こうか」
名執をしっかりと立たせ、リーチはトイレの扉を開けた。リーチの言うとおり誰の姿も見られない。本来なら熱が冷めたあとで、リーチに対し悪態の一つもつくのだが、今は違う。リーチが欲しくて欲しくて堪らない感情を自分で抑え込むことができないのだ。逆にそんな自分に嫌悪感がわいて、申し訳なさでいっぱいになる。
「ごめんなさい……リーチ」
リーチのスーツの裾を掴み、名執は項垂れた。
「俺が欲しかった。気にするな。それより、まだふらついてるけど大丈夫か?」
「ええ、貴方から元気をもらいましたから、大丈夫です」
足元が頼りないのは、決して先程の行為からではない。まだ体力が戻っていない現れだ。ようやく真っ直ぐ歩けるようになったとはいえ、ハンガーストライキを自ら起こしていた名執は、以前にも増して痩せている。なのに美貌に磨きがかかり、恐ろしいほどの色気を纏っていた。もしかすると、満たされない欲望が、オーラのように立ちのぼっているからかもしれない。
そんな、綺麗という言葉だけでは表せない名執の容貌に、すれ違う人は必ず一度は振りかえる。
「幾浦には充分頼んであるけど、変な奴に絡まれるなよ……。やばいと思ったら股間を蹴り上げて逃げるんだぜ。分かってるか?」
朝から何度も聞かされた言葉をリーチは言った。そんなことできるわけなどないのに、まるで娘を持った親のように、あれもこれも気を付けろと並べ立てて名執を苦笑させていた。
「大丈夫です。私の方は眠っている間に成田に到着しています。でも……」
レストルームから出ようとするリーチの足を止めさせて、名執は呟いた。
「でも?」
「リーチの方が遅いのですよね?」
「俺は輸送機に乗せてもらうことになってるからな。横浜の方に着く予定だし。着いたらすぐにお前のマンションに行くから、心配するなよ。離れてるのは少しだけだ」
名執の頭を優しく撫で上げて、リーチは言う。
「そう……ですね。一緒の飛行機に乗れたら良かったのに……」
「俺、不法入国者だからなあ……それは無理だ。この話はここで終わり。どうにもならないことだからな。さて、行こうか」
渋々名執は扉を開けて外に出るリーチについて歩いた。が、人混みが一気に視界に入り、名執はまた立ちくらみを起こしそうになった。先程もこのせいで、リーチに介抱されていたのだ。といっても、介抱ではなかったが。
「飛行機に乗って、寝てるうちに家に着く。大丈夫だ」
背を支えられながら、名執はようやくふらつく足を立たせることができた。もしかすると長距離の移動はまだ早かったのかもしれない。だが、あの研究所にはもう一秒たりともいたくなかったのだ。
「はい。大丈夫です。すみません」
日本では決してできないが、名執はリーチと手を繋いで、幾浦の待つ待合い場所へ向かった。幾浦は苛々とした様子で椅子に座っている。多分、煙草が吸えないために苛ついているのだろう。
「名執、大丈夫か?」
二人が戻ってきたのを見つけた幾浦が声をかけてきた。
「ええ、ご心配をかけました」
リーチに促されるように名執は幾浦の隣に腰をかける。ようやく息をつくことができた名執はホッと息を吐いた。立っているのが辛い。歩くと息が切れる。それでも今日、帰ると決めたのだから、もう少し頑張るしかないのだろう。
「幾浦。ユキのこと頼んだぜ。こいつ、まだ体調は戻ってねえ」
二人の前に立ち、リーチは名執を心配そうに覗き込んでいる。その黒い瞳からは飢えが消え、どこか不安げな色合いを見せていた。
「ああ。分かってる」
「ていうか、なんでファーストクラスじゃないんだ?その程度の金、あるだろ?」
ブツブツとリーチは幾浦に文句を言い出した。
「私は出張で仕方なく飛行機に乗るが、実は嫌いなんだ」
ムッとした顔で幾浦は返す。
「は?」
「ファーストクラスの席は操縦席のコックピットより突き出た先端にある。もし堕ちたら助かる確率がほとんどない場所だ。そんな席はごめんだ」
「飛行機に乗るとき、お前はそんなこと考えてるのか?」
リーチは目を丸くさせ幾浦を見て、呆れるよな~という表情を名執に向ける。思わず名執は微笑した。
「ああ、危機管理は日頃から……というだろう。どんなときでも一番安全な場所を確保しておきたいんでね。そんなことより随分長いトイレだったと気になっていたんだが……悪いことをしていた訳じゃないだろうな?」
ジロリと幾浦に睨まれたリーチは、やれやれというふうに肩を竦めた。
「嫌だな、いつも頭の中をエロで詰めている奴は。ていうか、そろそろじゃねえのか?」
ははっと笑ってリーチは幾浦の言葉を交わしているが、ばれているのは明らかだ。名執は知らぬ振りをして遠くを眺めた。
「……いいからトシを起こせ。私も一言くらい挨拶させてくれてもいいだろう?」
「ま、ちょっとだけならな」
意地悪そうに言い、リーチはトシとほんとうに一瞬だけ主導権を切り替え、また幾浦に悪態をつかれていた。二人を見つめながら、名執は暫くの安らぎを味わっていた。