Angel Sugar

「空の監禁、僕らの奔走」 第3章

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 機内に入ると、旅行帰りの家族連れやビジネスマンがすでに座っていた。
 快適だと宣伝されている機内だが、名執からすると天井が低く感じ、シートの間が狭く、通路も広いと言い難い。人もすし詰めというほどではないが、すれ違う人の吐息まで感じられるような気がして、不快感があった。
 決して開かない窓は外の清涼な空気を機内に運ぶことなく、空気が淀んでいて、息苦しい。二重になっている窓は、外に広がる景色をいびつな感じに見せていた。
 ようやく日本に帰ることができると安堵しつつも、名執はなんとなく心を覆う不安から、席に着くとすぐに持ってきた水の入ったペットボトルと薬を鞄から取り出した。
「気分が悪いのか?」
 幾浦は上部に荷物を入れながら名執を見下ろしてくる。
「いえ……ただ、落ち着かなくて……」
「名執も飛行機が嫌いなのか?」
 微笑しながら幾浦は席に着く。
「あまり好んでは乗りませんが、嫌いと言うほどでもないんです。幾浦さんは苦手そうですね」
「海外の出張が多くて感覚的には電車のようなものなんだが……。以前な、隣の座った男が飛行機嫌いだったらしくて、十三時間、ずっと『夢で見たんだ、この飛行機は落ちる、落ちる』と震えていたんだ。場所も羽が見える位置で、飛行機の羽が少し震えただけで叫んでね。その日は天候が悪くてかなり飛行機が揺れたんだよ。その男のおかげで周囲にいる客は始終怯えることになった。私も困ったよ」
 苦笑いしながら幾浦は頭を掻いていた。
「それは……かなり困りますね。私もそういう方が隣に座られていたら、落ちなくても怖いです」
「だろう? それからだな、ファーストクラスは避けるのは。もっとも落方によって飛行機のどの部分が無事なのか私もよく分からないがね」
「ですが、本当に落ちたらまず助かりません。助かる方が奇跡ですから」
 名執の言葉に幾浦はしばらく考え込んで「確かに」と言って乾いた笑いを上げた。
「……気圧の変化で気分が悪くなるかもしれないから、名執は薬を飲んで置いた方がいいだろう」
「ええ、起きたら到着していた……というのが一番、理想なのですが」
 ペットボトルの口を開けて名執は水を含み、薬を飲んだ。苦い錠剤の味が舌を刺激して一瞬、顔をしかめてしまう。
「私はあまり薬を飲むのを勧めないんだが……仕方ないだろうな」
「リーチと同じことをおっしゃいますね」
 名執は思わず笑っていた。
「……なんだか嬉しくない言い方だな」
「あ、そうそう。幾浦さんにお返ししようと思っていたものが……」
 鞄から名執は小さな袋を取り出し、幾浦に手渡す。幾浦は中身を確認して驚いたように顔を上げた。
「なんだ? この金は……」
「……すみません。リーチが幾浦さんから借りたお金です。彼は出してもらった、おごってもらったとかいろいろ理由をつけていましたが……。申し訳ないのでお返ししようと思って」
「いや、あれはトシにあげたのだと思っているから、返す必要はないさ」
「でも……」
「いいから。じゃあ、こうしよう。金ではなくて他のもので返してくれ。それならいいか?」
「他のもの……ですか?」
 名執はすぐに思いつかなかった。幾浦が欲しがりそうなものなど思い浮かばないのだ。
「ああ」
「どういったものがよろしいでしょう?」
 かなりの金額を返すつもりでいた名執だ。同じくらいの品物となると、日用品にはない。
「日本に着くまでに名執が考えておいてくれ。それを考えていたら、少し暇を潰すことができるだろう?」
「壺や、絵画の趣味はお持ちでないですよね?」
 真面目に名執がそう口にすると、幾浦は一瞬目を見開いた後、楽しそうに笑った。するとシートベルトの着用を促すアナウンスが機内に流れた。
「ああ、そうだ。トシのプライベートをしばらく増やしてくれてもいいぞ」
 名執はシートベルトを締め、顔を上げた。
「……ええ。随分と私のために時間を頂きましたので、それはもともとリーチにお願いしようと思っていました。でも……あの、その……申し訳ないのですが、一ヶ月とか、二ヶ月の長期は許していただけませんか?」
 随分と名執のために本来トシのプライベートも借りて、リーチはここにやってきてくれた。だから当然の要求だろう。それを充分理解している名執だが、あまりにも長期に渡ってリーチに会えないのは、名執も耐えられない。
「そんな恐ろしいことは口が裂けても言えんよ……。くれるというのならもちろん頂くがね」
 幾浦は笑いを堪えるようにして言った。そこでようやく名執は自分がからかわれたのだと理解した。



 その日のフライトはいつもと変わりない始まりだった。
 ベテランパイロットの機長である狩谷貢と副機長の中路省吾、そして交代要員のパイロットが二名キャビンクルー・レストルームで待機していた。
「キャプテン、積載計算書をお持ちしました。乗員は全員搭乗しています」
 チーフ・パーサーの小柳が書類を差し出した。
「ありがとう」
 この書類には最終乗客人数、貨物室の積載量、燃料搭載量、離陸時と着陸時の最大重量、重量バランス配分など、飛行機が飛び立つための最終データが含まれていた。それを慎重に狩谷はチェックし、小さな変化がないかを確認する。またロード・シーターと呼ばれる積載計算書には責任者の署名がされていて、狩谷の承認の署名がここになされた段階で、機は飛び立つための準備が全て整ったことになる。
「さあ、準備は整った。成田に向かうぞ」
 狩谷の言葉に中路が管制塔にエンジン始動の許可を依頼した。
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