Angel Sugar

「空の監禁、僕らの奔走」 第5章

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 思わず立ち上がりそうになった名執の腕を幾浦が引っ張り、椅子に座らせる。名執が訊ねるような表情を向けると、幾浦は前を向いたまま「静かに……」と、言った。いきなり何が起こったのか、名執にはすぐに分からなかったが、肩を竦めて小さくなったまま、耳を澄ますと、英語で叫んでいる男たちの声が飛び込んできた。
「これは、玩具のように見えるが銃だっ!飛行機は貫通しないだろうが、人一人くらいは簡単に殺せることができる。いいな、よく聞けっ!抵抗する奴は有無をいわさず撃ち殺す。席から立ち上がるな、質問もするな、貝のように口を閉じておとなしくしていろっ!どうせ逃げだそうとしたところで、ここでは無理だからな」
 ざわついていた機内がいきなり静かになった。そろりと横の席を窺うと、模型を作っていた男の姿が消えて、男性二人は頭を抱えて小さくなり、端の女性は子供を抱きかかえて顔面蒼白だった。
 もしかして……ハイジャック?
 名執は身を竦めたままそう思い当たった。けれど、ハイジャックはリスクが大きく、たいていの場合、失敗に終わるか、飛行機が堕ちるかどちらかだ。しかも悪いことに彼らは顔を隠すことをしていなかったため、死を覚悟していると言うことだろう。
 どうしよう……。
 幾浦は名執の手をギュッと握りしめて、「大丈夫だ」と小さな声で言った。その声は聞こえず、名執は別の事を考えていた。ここで死ぬようなことになれば、リーチやトシ達にはもう会えないのだ。彼らの目的は分からないが顔を見た人質を無事に解放すると思えない。
 死ぬ……の?
 まさか……。
 名執は自分の置かれた状況や、これからのことをいろいろ考えてみるものの、まだそれが現実とは受け止められずに、この絶望的な状況に震えることはなかった。遠くの方から「ここを開けろっ!」という声が僅かながら聞こえる。コックピットに入るつもりなのだろう。たとえハイジャックが起こったとしても、確か規定ではコックピットには鍵が落とされて中にはることができないはずだ。すぐさま近くの空港に着陸するに違いない。
「開けなければ、開けるまで人質を一人ずつ殺すぞ!」
 コックピットはキャビン・アテンダント・シートを越えたところにあって、ここからは随分と遠い位置にある。けれど怒号がここまで聞こえると言うことはかなりの声を張り上げているのだ。
 銃を持った男が通路を歩いて来る。一瞬、息を止めて、名執は頭を抱えたまま目を閉じた。目を合うことで、張りつめているであろう犯人の注目を避けたかったのだ。目が合ったというだけで殺されることがある。それを名執はよく理解していた。
 こういう場合はどうしたらいいのだろうか。幾浦には悪いと思うが、名執はリーチがいなければ安心できない。危機的状況であっても必ずなんとかしてくれるという信頼がリーチにはあるのだ。
 けれどリーチはここにはいなかった。
 犯人の数すら分からない。一度に機内を制圧するとなると、エコノミークラスとファーストクラスに仲間がいなければ同時には動けないだろう。それにしても模型が銃に化けるとは名執も予想しなかった。そんなもので人を殺すことができるのだろうか。専門的なことなど分からない名執には、事実殺傷能力があるのかどうか、判断などつかないし、ただの脅し道具であるとわかったとしても行動にはとても移せそうになかった。
 遠くで銃の音が数発響いてきた。同時に悲鳴が上がる。誰かが撃たれて死んだのだろうか。きっと犯人は機長がコックピットを開けるまで人を殺すに違いない。それまで一体何人の客室乗務員が殺されるのだろう。
 名執はここにきて震えが身体を走った。これは現実で、夢ではないことを、途切れなく響く銃の音で体感したのだ。犯人は本気でこの機を乗っ取るつもりなのだ。その後どうなるか、名執にも分からなかった。
「おい、英語は分かるか?」
 男の声が落ちてきた。幾浦がそれに答えると、男は「立って、前の席に移動するんだ。手は頭の後ろに挙げて歩け。少しでも不審な行動を見せればその場で殺す。嫌ならおとなしく言われたとおりにするんだ。いいな?」と凄味を利かせて言う。
「名執、移動するぞ。歩けるか?」
 幾浦に手を掴まれて、名執はようやく顔を上げた。足に震えが来ているが、歩けないことはない。ただ、息苦しくて、吐き気が起こり、貧血に似た目眩が襲ってきた。けれど、ぐずぐずしている名執に犯人が逆上し、二人に発砲する可能性があった。ここはどれほど体調が悪くても、幾浦の足を引っ張ってはならない。
「……は、はい」
 幾浦に体重をかけて名執は立ち上がり、手を後頭部で組んだ。同じような体勢を取らされている他の客達が、すでに通路を数珠繋ぎで歩いて前へと移動していた。幾浦と名執もそれに倣い、列の間に入って歩く。足が重く感じられるが、確かにここは逃げ場がないし、名執は誰よりも体力的に劣っている。ただただ、自分の責任で幾浦を巻き込まないようにと願うほかなかった。
 数珠繋ぎになった客達は無言で歩いた。途中、広いフロアに出ると、一旦足止めをされた。ファーストクラスの客達が下の階から移動してきたのだ。彼らが先に前へと移動し、それが済むと名執達もキャビン・アテンダント・シートに入った。コックピットへ入る扉のところに、三名の客室乗務員が座り込んでいて、リーダーらしき男が銃を構えていた。リーダーは濃いサングラスをかけていて表情は分からなかったが、名執はすぐさま視線を逸らせた。けれど、一瞬見た血まみれの女性が頭から離れない。肩から出血しているところ見ると彼女たちが撃たれたのだ。すぐには死ぬことがないだろうが、止血しなければいずれ命を失ってしまう。医者としての使命感が恐怖よりも勝り、名執は思わず駆け出そうとしたが、幾浦にとめられた。肩越しに振り返ると、幾浦は『駄目だ』と強い意志を込めた瞳を向けていて、名執は仕方なしにそれに従った。
 ファーストクラスの人間が一番先頭の席から順に座らされ、それが済むとエコノミークラスの人間が座る。名執と幾浦は一番最後の席に座らされたが、後部で銃を持って見張る男の真横になり、緊張感が一気に高まった。けれど名執が気になるのは、撃たれた客室乗務員だ。殺されたと思っていたのだが、うめき声が聞こえるところを見ると、まだ今なら間に合う。ジリジリとした焦燥感が名執を襲い、自分の命の保身と、医者としての使命感が脳裏で戦いを繰り広げている。幾浦の言うことも分かるし、長時間になればいくら応急処置を施しても、無駄に終わるだろう。それを理解していてもなお、痛みに苦しむ彼女たちを放っておけない。
 どうしよう……っ!
 名執は頭を抱えていると、銃の甲高い音が響き、前方から悲鳴が上がった。
「強情な機長だな。まあいいが、どんどん死体が増えていくぞっ!お前達がここを開けようとしないからなっ!お前達の同僚じゃないのか?それとも同僚はよくて、客を殺せばここを開けてくれるのか?俺としてはどっちでもいいが、お前達は永遠に殺された奴らに恨まれることだろうよ」
 また銃の音が響いた。
 名執は吐き気が喉元まで上がってきた。医者は全力で人を救い、人々の命を繋げてきた。駄目だと思う相手に対しても、どうにかして救おうと力を尽くすのだ。なのに、こんなに簡単に人を殺す人間がいる。それが耐えられない。
 両膝に頭を埋めた形で耳を押さえていると、幾浦の手が背を撫でた。気分が悪くなったと思って、気遣ってくれているのだろう。伝わる幾浦の温もりが、名執をようやく落ち着かせてくれる。
「さっさと開けろって言ってるんだよっ!」
 銃の音が立て続けに響いたところで機長のアナウンスが入った。



 リーチ達が基地に着くと、バークの兄であるトーマス・ハウスマンが笑顔で迎えてくれた。茶褐色の金髪は短く刈られていて、がっしりとした身体にピッタリした渋めの緑のシャツ、茶色のズボンにブーツを穿いていた。日に焼けた顔は真っ黒で、小さな緑色の瞳が体つきに似合わず可愛らしい印象がある。
「ようこそ、私はトーマス・ハウスマン。ここに来てくれたことを心から歓迎するよ。バークからいろいろ噂を聞いているが、サムライボーイだそうだね」
 リーチより頭一つ分高いトーマスは手を握りしめて上下に振った。
 バークと同じく大らかで、どこか大げさな身振りをするのはハウスマン一家の特徴なのかもしれない。 
「あ、ありがとうございます」
 苦笑していたリーチだが、突然、基地内にサイレンが鳴り響いた。同時にトーマスが呼び出しの無線を取って「ハイジャック?」と呟く。嫌な予感がしたが、リーチは恐る恐る聞いた。
「ああ、なんでも成田行きのジャンボがハイジャックされたそうだ。アラートでF16が飛び立つ準備に入ったよ。しばらく待たせてしまうが、いいかね?」
「成田行き……?何便ですか?」
 トーマスから聞かされたジャンボは名執達が乗っている飛行機だった。
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