Angel Sugar

「空の監禁、僕らの奔走」 第15章

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 名執はハイジャックされたことを忘れるようと、目を閉じ耳を塞いでいたが、それでも入ってくる呻き声を無視することができなかった。
 撃たれた人の中でまだ生きている人がいるのだろうか。それとも今、飛行機が揺れたことで怪我をした乗客がいるのだろうか。
 名執は医者だ。
 なのに、助けを求めている怪我人を放置していいのだろうか。
 いや、このまま無視し続けることができるのか。
 チラリと横目で通路の方をうかがうと、犯人達が前の席から死んだと思われる人を引きずって一階と二階を繋ぐ通路へと運んでいく。どれほどの人がそこへ連れて行かれているのか分からないが、呻き声がすることから、まだ生きている人もいるのだ。
 どうしてこんな残酷なことができるのだろう。
 名執は今、恐怖より医者としての使命感が己の身を包んでいた。
 もちろん最初から名執は命を救うために医者を目指したわけではない。紆余曲折しながらこの道を最後に選んでいたのだ。けれど、命の大切さを知っている。助けられるかもしれない人を見て見ぬふりなどできないのだ。
「幾浦さん……」
「なんだ?」
「すみません」
「何がだ?」
 怪訝な表情を向けた幾浦を尻目に、名執は席を立った。幾浦は慌てて名執の腕を掴んだが、決心したことを曲げるわけにはいかなかった。
「すみません。私は医者です。怪我をした方の様態を見て、できれば応急処置をさせていただきたいのですが、いけませんか?」
 犯人達は一斉に後方を向いたが、医者としての責任感が名執を強くしていた。
「名執っ!」
「いいえ……私は医者です。許してください」
「ほう、医者か。専門は?」
 リーダーらしき男が近寄ってきて、銃を手の中で弄びながら名執に言った。
「心臓外科ですが、大抵のことはできます。せめて、応急処置をさせてください」
 許可してもらえるとは思わないが、名執は必死にそう言った。
「妙な考えを持ってるんじゃないだろうな?」
 サングラスの奥に潜む瞳は見えないが、犯人は顎を撫でて、思案していた。
「私はただ、怪我負った方を診て差し上げたいだけです」
「……リーダー」  
 迷っているリーダーの背後から部下らしき男がやってきて、小声で何かを話していた。
「分かった。俺たちの仲間の一人が頭を打って気を失っているんだ。そちらを先に診て、お前が本当に医者なのか判断した上で、考えることにする」
「分かりました。飛行機には医療キットがどこかに配備されているはずなのですが、それを用意して頂いて宜しいでしょうか?」
 名執は自分でも不思議なほどはっきりと言葉を紡ぐことができた。怪我をした人を助けたいという気持ちが恐怖に勝っているのが自分でも分かった。
 確かに怖い。銃を目にするだけで身体が竦みそうになる。応急処置をしても、無駄になることの方が多いかもしれない。けれど、それで助かる命もあるはずだ。
「おい、関係者で医療キットのありかを知ってる奴はいるか?」
 リーダーの声に恐る恐る客室乗務員の男が手を挙げた。客室乗務員の女性といえば恐怖から縮こまっていて手を頭に挙げたまま動くことすらできそうにない様子だ。すると側にいた犯人の一人が銃を突きつけ、この場から違うフロアへと出て行った。
「頭を打った方はどちらに?」
「こっちだ。何度も言うが、妙な真似をしたらその場で撃ち殺すから、そのつもりでいろ」
「はい」
 名執がリーダーについていこうとすると、幾浦が手を掴んだ。
「名執……」
「医者として……見過ごすことができません。許してください」
 幾浦は苦渋に満ちた表情をしながら、掴んでいた手をゆっくりと離した。名執は幾浦から視線を逸らせ、犯人の背を見ながら後を追った。すると先頭のコックピットの手前、パイロットのレストルームに一人の男が横たえられていた。
「こいつだ。急降下したときに体勢を崩して、倒れたんだが、気を失ったまま意識を取り戻さない」
 簡易ベッドで横になっている男の顔色は真っ青で、ピクリとも動かない。名執はゆっくりと近づいて、男の首筋に手を当てて、脈を調べ、次に胸に手を置いた。
「……心臓が止まってます」
 名執はそう言って、両手を組み合わせて拳を作ると、振りかぶるようにして男の心臓を叩いた。普通の男性ならこれほどの力はいらないのだろうが、名執自身、それほど力のある方ではない。また、体つきのがっしりした男は胸の筋肉も発達していて、強い力を必要とするのだ。
「……そうか」
「医療キットはまだですか?エピネフリンが必要です」
 心臓を叩き、口から息を吹き込み、また心臓を叩く。
 見る限り出血の痕がない。となれば、内出血を疑うしかないのだろう。
「やめとけ。最初から死んでいたんだ。生き返ることはないだろ」
「え?」
 振り上げた拳を解いて、名執は振り返った。
 最初から名執が本当に医者なのか確認するためだけに、この男の様態を診させたのだ。
「……ですが、もしかすると息を吹き返すかもしれません」
 名執はもう一度拳を作り、男の心臓を叩いた。
「俺たちもやった」
「このような状態になって何分経ちましたか?」
「二十分はゆうに経ってるだろうな」
「開腹をして心臓を直接マッサージできたら……ここではそれは無理でしょうね……」
 名執はそこで叩くことをやめ、手を下ろした。
 もっと早く処置できたらなんとかなったかもしれない。それが悔やまれてならない。たとえ、相手がハイジャックした人間であってもだ。
「それにしても遅いな……」
 医療キットを取りにいった部下が戻ってこないことで、リーダーは苛立ち始めていた。
「リーダー取ってきました」
 レストルームに先程乗務員をつれて出ていた男がスーツケースほどのバッグを差し出した。
「ああ。遅かったな」
「いえ、後ろの席で犬がうろついてます。それを追いかけていたんですが捕まえられなくて……」
「犬だと?」
 犬と言えば幾浦の飼っているアルのことだろうと名執はすぐに分かった。では、何らかの衝撃で檻が開き、貨物庫からここへ上がってきたのだろうか。
「さっきの衝撃で、貨物庫にいるはずの飼い犬が飛び出してきたんでしょうが……。かなりでかい犬でした」
「……捕まえるなんて面倒なことはせずに、撃ち殺してこい。まさか飛びかかってくるのが怖くて逃げてきたんじゃねえだろうな」
「そうしようと思ったんですが、窓際ばかりに立つわ、すばしっこいわで……。飛びかかってくる様子はありません。尻尾は振ってましたから」
「あの……その犬は……」
「余計なことは話すんじゃねえ」
 銃を向けられた名執は黙ることしかできなかった。
「……他の仲間を連れて行け。数名で捕まえてから、撃ち殺せ。間違っても機体に穴を開けるんじゃねえぞ」
「はい」
 去っていく男を名執は、青い顔で見送ることしか出来なかった。
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